銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
白い鳥 ―Белая птица―
───黒い。黒い。ああ、ここはなんて黒いのだ。
ヒュウヒュウと、頭がつかえそうな程に低く立ち込める灰色の雲の下。煤けた虚空を渡るの風音を聞きながら、ふと思う。かつては煌めき、輝いていたこの《世界》。しかし今は既に、煤けて、澱んでしまったこの《世界》。その北辺の雪は、更に黒く淀んでいる。
全ての元凶は、遠く排煙の柱を立ち上らせるチェルノブイリ
──ああ、思い出すな。あの日々を。忌まわしい、輝ける日々を。
薄暗く淀む大気に白い息を吐きながら、私は地上を睨む。この西亨には、否、あの《カダス》にすら。もうこの《世界》には、既に《我々》に生存の権利はないのだから。
──だから、ああ。
昔を懐かしんだところで。私は、私には、もう。
──視界の端に。
戻るべき場所も。迎えてくれる《仲間達》も。
──躍る、道化師が見える。
ありはしないのだから────
………………
…………
……
────白い鳥のおとぎ話。或いは、大いなる渦のおとぎ話。
かつて、世界は虹色に輝いていました。果てし無い青空、何処までも続く海原。どちらも清らかに、どちらも美しく。その狭間には、虹色の輝きが在って。
そこに、一羽の鳥が居ました。真っ白な鳥です。或いは、虹色の鳥です。まだ小さいですが、この天空の持主でした。
白い鳥は今日も、空を飛びます。何処までも、何処までも。邪魔をするものなんて、そこにはありません。鳥は、自由でした。
白い鳥は今日も、波に漂います。何処までも、何処までも。邪魔をするものなんて、そこにはありません。鳥は、自由でした。
大好きな空と、海の狭間で。黒から紫、青から緑、黄色から赤に代わり行く、輝きに照らされて。だから、白い鳥は、虹色の鳥です。
だけど。ああ、だけど。
いつからでしょう、その灰色が生まれたのは。最初は、仄かに煙る程度でした。だから、白い鳥は気にもしません。むしろ、新しい色に喜んでいて。
だから、気付いたのはずっと後。その灰色が、染み付いて取れないと知ったのは、ずっと後。
大好きな空と、海が。灰色に塗り潰されてしまってからで。取り返しがつかない、灰色の世界に成り果てた後で。
だから、鳥は────
決して、決して。この空を、この海を。灰色に汚した《人間たち》を────
………………
…………
……
本日のモスクワ大学碩学院……かつてはモスクワ帝営碩院と呼ばれた……の教科を終えて、ガガーリン君とオジモフ君を引き連れて繰り出したモスクワ市街、《
わたしは────アンナ・ザイツェヴァは、ライカカメラの部品を扱うカメラ屋を見ていて。
──レンズ、良いの入ってるなぁ……。
──うう、残念だけれど。今回は見送るしかないのかしら……。
なんて、ほう、と溜め息を溢しながら。わたしは、アンナ・ザイツェヴァは、カメラのレンズを諦めて。
「おーい、ザイツェヴァ! もういいのか?」
「あ、うん、ガガーリン君!」
呼び掛けられて、慌てて外に。これ以上、わたしの勝手は通せないと自重して。《ミュールとメリリズ》の入り口、即ち出口に集まって。
「────あら、アーニャ。お買い物はなし?」
「あ────リュダ」
立ちはだかるように、来るときには持っていなかった手荷物を抱えたリュダが。その時、感じた香気。それは、確かに。
「────フランソワ・コティ氏の、《ヴァニラ》……」
「あら、流石はアーニャね。ええ、そう。フランソワ・コティの《ヴァニラ》よ」
リュダが漂わせていた香気。《香気公》フランソワ・コティ氏の香水、《ヴァニラ》。特徴的な、甘い香りに誘われて、わたしは口にしていて。
「うふふ。アーニャも女の子の自覚はあったのね。まぁ、お気に入りが同じフランソワ・コティってのはご愛敬だけど。ユーリィもイサアークも、『甘い香りがする』くらいのもので呆れてたところよ」
「まあ、失礼なリュダですこと」
ふふん、と。なぜか勝ち誇った顔のリュダを、むう、と。上目使いでにらみ返して。
──《香気公》フランソワ・コティ氏の香水、名高き、《ヴァニラ》。このソヴィエトが、事実上の鎖国政策である、《鉄のカーテン》を敷く前に。かつてのロシア機関帝国であった頃に西欧諸国から輸入していた物の一つ。
──わたしのお気に入りの香水、《ヴァイオレット》と同じ。海外……内陸ではあるけれど……の、輸入品の一つ、で。
ふと、思い出す。今使っている《ヴァイオレット》の小瓶。節約して節約して使ってはいたけれど、もう、残り少なくなっているそれ。まだ、どこかで売っているかしら。それが気にかかって。
「へー、アンナも香水使ってんのか。知らなかったぜ」
「ふむ。パヴリチェンコからは良く匂うが、確かにザイツェヴァからは感じたことはないな」
「そりゃ、気付かないでしょうよ、あんたたちは。なにせアーニャが《ヴァイオレット》を使うのは、《愛しの騎士様》と逢瀬する安息日だけなんですから」
「にゃっ────なに言ってるのよ、リュダ!」
外していた帽子と手袋を着けながら、歩みでたモスクワ市街。温かい屋内と凍てつく外気との気温差に、肌や粘膜は痛みすら感じて。それでも今日は、どちらかと言えば温かい方。
灰色にくすむ雪を踏みながら、わたし達はそんな、いつもと変わらない日常を過ごす。
──ソヴィエト共産党の、ソヴィエト共産党第一書記長ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン同志の支配する。ユーラシア大陸最北に位置する、世界初の社会主義国家である、このソヴィエト機関連邦の首都モスクワで。
──死の国家法が敷かれたこの地で。僅かにでも
──《格差のない理想郷》となるはずだった、この国で。埋めようのない貧富の差を嘆き、機関工場製の工業用アルコホール混じりの粗悪な合成ウォッカと、
そんな、内心を押し隠して────
「え────?」
と、誰かの《声》を聞いた気がして。思わず見上げた、灰色雲に覆われた空。有り得ない、だって、他の国ならともかく。この国で。この、ソヴィエト機関連邦で。
空を、見上げるなんて。有り得ないから。何も、得なんて無い。降り落ちる煤煙混じりの灰色の雪に、目を潰されるだけだから。
「────ひゃっ、ふにゃ?!」
だから────驚きが先に立つ。真っ白な、それを眼前にして。顔をまるっと覆われて。
温かな、ふわふわした、
「ちょっ、あ、アーニャ?!」
「おい、大丈夫か、アンナ!?」
「ザイツェヴァ、大丈夫か?!」
驚いているのは、わたしだけじゃない。リュダも、ガガーリン君も、オジモフ君も、皆、同じように慌てふためいて、わたしに呼び掛けて。
「だ、大丈夫…………」
そして、わたしは身を起こす。実際、大した事はなかったから。精々、頭に一ブロックのお肉が乗ってきたくらい。驚いたくらい。
──なの、だけれど。うん、本当に。驚きはその程度だったけれど。
問題は、それじゃなくて。今、わたしの頭の上にある重さ。それは子猫くらいの大きさで、温かくて、ふんふんと、粗く呼吸している────
「……なんだけど、その」
その、割りと大きな、《生き物》を。感じて────
「────犬?」
「────猫?」
「────鳥?」
「ど、どれ?」
三人が三人とも、別々の生き物の名前を口にした。その、正体不明な存在がの、息遣いで────…………