銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
夢を、見ていた。酷い夢を。酷い、悪夢を。
黒い塊が蠢いている。まるで、蛆虫が蠕動するかのように。黒い塊が爆ぜている。まるで、
黒い雪と、黒い雲。その塊。酷く戯画化された人間のような、異様に長い腕と脚の、数十フィートはあろうかと言う現実離れした大きさの……でも、確かにそこに在る、悪意の塊。顔面に張り付くのは苦痛と恐怖の内に死したかのようなデスマスクを思わせる、アルファベットの『M』のように捩れた形の仮面────殺意の実存。
『──
『────
──そして、わたしは目を覚ます。
がばりと、ベッドから身を起こす。
『はやく、はやく、アンナ。アナスタシア』
寝ぼけ眼なんて置き去りに、突き動かされるように足は動く。頭の中にあるのは、このまま深夜の市街に、氷点下に凍えているだろうモスクワ市街に繰り出すことへの恐れではなくて。
『ポラリスが、きらめくまえに。ヒュプノスが、あざわらうまえに』
寝間着のまま、普段ならあり得ない姿のまま。ただ、このままでは、取り返しのつかないことになると。その恐れだけを胸に、わたしは、扉を開けた。
『いそいで、アンナ。アナスタシア』
………………
…………
……
──肩を貸していた男は、酷く酒臭かった。
「ですから~、分かりますか、隊長~。アンナはですね~、あの歳になってもまだ、男と付き合ったことなんてなくてですね~」
「…………ああ、その辺は何となく分かっている。そしてその話はもう、三度目だ」
「何度話してもいいじゃないですか~! あいつはねぇ、最近希に見る箱入り娘でしてね~ウプッ!」
既に三度以上は聞いたヴァシリの話と唐突な嘔吐にうんざりした表情で、溜め息混じりにハヤトは煙管を咥える。その先端に片手で刻み煙草を詰めると、脳内機関を励起し、指先から発した
本来なら、既に宿舎に帰っていてもおかしくはない時間。深夜帯は既に回り、もしも一般人なら、国家反逆容疑で《
「……
「へっへ、それほどでも……っていうか、多分死んでないと思うんですよねぇ、あの化け物は。どうも、先に肩を撃ち抜かれて……
「お前に化け物呼ばわりとは、流石は《白い死神》と言ったところか」
「ええ、もう二度と相手したくないっすよ」
《
──まあ、珠にはこんな夜も悪くない、か。
だが、そこまで悪い気はしない。先に、話題になり続けている少女に言ったように。騒がしさは彼が失った極東での昔日を思い返させ、心の底に僅かばかりとはいえ、人間らしさを取り戻させてくれる気がして。
ふう、と。肺腑全体で深く吸い込んでいた紫煙を、ゆっくりと吐き出す。それは、正に溜め息。
「全く────最後の最後でこれだ」
「隊長────」
「────分かっている」
そして、それを凍えさせる。感じた不穏な気配に、刹那の間も置かず、ハヤトは『人斬り』の顔を取り戻して。
同じく、先程までの酔いなど何処へやら。すっくと立ち上がった副官のヴァシリ・ザイツェフは、被り直した軍帽の鐔の下から鋭い眼光を放つ。
「
「分かっている。いけるな、ヴァシリ」
「当然です。おい、お前ら! 俺の
『『『
呼び掛けたのは、モスクワの暗がりだ。だが、そこには蠢く影、そして長銃を携えた鋼鉄の人影。鋼で構築された、猟犬どもが数尾。副首領たる《人狼》の咆哮に応えて現れ出る。
男は、《
「いつも通り、俺は遠距離から援護を。隊長は斬り込んでください」
「先程から、皆まで言うなと言っている。貴様らはヴァシリの援護を。俺は────死番だ」
『『『
瞬間、ハヤトは走り出す。辺りの全員を置き去りに。獲物を定めた狼のように、風のように。ただ一点、目的地へと向けて。
同時に、ヴァシリも近くのビルディングの
『────捉えました、隊長。ホテル・メトロポールの方角に、僅かに
ビルディングの屋上にて狙撃体勢を取り、覗き込んだスコープを巡らせること二秒。いや、一秒。それだけで彼の《鷹の目》は、モスクワ市街に潜む《違和感》を捉えて。
「
そして、既にその近辺まで駆け付けていたハヤトは、己の腰の得物に───
「……
『了解、聯隊長殿───《魔弾》を使います』
三本の内の、一振り。剛直な一振りに手を掛けながら、懐かしむように。
目前に捉えた《揺らぎ》に向けて、走りながら。
「───力、貸してくれ。
ヴァシリの放った《緑色の銃弾》と共に、抜き放つ───!
………………
…………
……
──夢とはなんだ。世界とはなんだ。ああ、煩い。煩わしい。黙れ黙れ黙れ。黙れ、視界の端で踊る道化師め。
まず、目にしたのは不貞。目を覆いたくなるような、そんな光景。だが、私はまだ良い。問題は、己の夫のこんな裏切りを目にした彼女の方で。
だから、私はまず彼女を案じる。同じ光景を見ている筈の、彼女を。
煩い。煩い。煩い。そんなことはどうでも良い。今、目の前の彼女が、私は────
「────仕方ない人」
「え────?」
私は、心配で。何より、■■■■■がある筈で。だと言うのに。
「仕方ない人ね、本当に」
「カー────チャ?」
だから、信じられない。目の前の、分かりきった裏切りを前にして。だと言うのに、笑う彼女が。あり得ない。あり得てはならない。誓った筈だろう、君達は。神の前で、当たり前のように!
だと言うのに、当たり前のように彼女は微笑んで。此方を振り返って。
「ねえ、イヴァン。私ね、時々思うの」
──何を?
聞くべきではない。聞いてはならない。そうは思っても、心はままならなくて。だって、期待している。その言葉を、聞けることを。
「もしも────」
──止めろ、止めてくれ。お願いだ、カーチャ。私を。
それが、破滅へと至る言葉であると知りながら。
「もしも、私が────」
──止めてくれ。私を、殺さないでくれ。
止めることも、できなくて────
そして、彼の世界は
………………
…………
……
「ハッ、ハッ、ハ────!」
逃げ惑う少年は、恐怖と困惑のままにモスクワの石畳を蹴る。白い息を吐きながらいくら逃げ惑おうとも、その先に待つ結末は一つだと知りようもなく。
「神、様────」
神の存在を、彼は信じている。救い主は居るのだ、と。敬愛するゾシマ長老の最期を看取り、
今も、今も。天上に御座す父なる神に向けて、胸元の八端十字架のロザリオを握り締めて。
『────何処だ、アリョーシャァァァァ!』
背後で聞こえる、全てを烏有と帰する声と一撃の音。たかが、腕の一振り。両方の
「ひ────」
その砕け散り、舞い落ちる残滓を浴びながら、塞ぎ混むようにへたりこんだ少年アリョーシャは────アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフは、背後の存在へと。
止せばいいのに、振り返ってしまった。ほんの僅かな希望、背後の彼の心変わりを信じて。
『────お前もか』
そこにいるのは、日頃敬愛する、神の不在を信じてやまない聡明な兄などではなく。
『────お前の中にも、やはり、悪は在るのか』
ただ、狂気に呑み込まれて荒れ狂う《白い狂気の仮面》を纏う男と。
『────お前のように純粋な人間の中にも、やはり悪は存在しているのか!』
その背後で蠢く影、鋼鉄の色彩を放ちながら。全身から生やした《右手》を蠢かせ続ける、《恐怖の形》の身で。
『────ならば、許せるわけがない! 許さぬ許さぬ許さぬ! 決して許さぬぞ、
理解できない言葉を吐きながら、兄であった筈の男は叫ぶ。血を吐くように、切実に。本心を吐露するように、切実に。
アレクセイではない、他の《誰か》を睨み、呪いながら。その《右手》を、振るうのだ。
『GRRRRRRRRRRRRrrrrrrrrr────!』
「ひっ、あ────」
「────アレクセイ君!」
その一振りに反応できず、立ち尽くしていた彼を押し倒すように突き飛ばした少女。白銀の髪を黒夜のモスクワ市街に煌めかせながら。
たった一瞬前にその二人がいた空間を、黒い《右手》が薙ぎ払った。風圧だけで石畳を削り、《黒い雪》を巻き上げる勢いで。
その雪の残滓を浴びながら、少女は見遣る。背後の存在へと、その、真紅の瞳を向けて。
「やめて、ください。先生……イヴァン先生!アレクセイ君は、あなたの弟じゃないですか!」
『邪魔をするな、ザイツェヴァァァァ! これは、私達カラマーゾフ家の問題だぁぁぁぁ!』
真正面から目にした、異形の影。白い狂気の仮面に顔を包み、咆哮する男の背後で蠢く、無数の《右手》を身体中から生やした、人形の。
絶望に歪みきった死体のように歪んだ白い仮面の下で、滂沱の血涙を流しているような影を。咽び過ぎて潰れた喉で血を吐きながら、それでも、絶叫し続けているかのような影を。
「退きません────」
『何───何故だ! お前には関係がないと言っただろう! お前は、早く帰って、明日の講義の準備をしていろ!』
そんな、怪物。まるでそう、昔、母親から聞いた《吸血鬼ウピル》を思い出す姿。寝物語に聞かされ、恐ろしさのあまり、一晩中、
──それでも。ええ、それでも、よ。
「あります───関係、あります! わたしは、先生に頼まれました! 『家族写真を撮ってくれ』って! だから!」
『家族───家族だと!?』
『家族』。その言葉に、一瞬。仮面の奥のイヴァン先生の瞳が理性の色を取り戻して。震えるように、怯えるように、此方を見る。
まるで、子供みたいに。悪戯をして、それが親にばれたときのような。そんな瞳が。
『───家族など居ない! どこにも居ない! 居ないものは撮れない! そうだ、そうだとも!』
「いいえ───居るわ、此処に。あなたの弟が、アレクセイ君が居ます!」
『居たとしてもォ! もう、遅い───遅いんだ、ザイツェヴァァァァ!』
だけど、それもすぐに狂気に塗り潰されて。濁り、狂った眼差しだけになって。
『この世界は───悪夢だ! レーニン閣下の言葉通りの共産主義なら、《
「イヴァン、先生───」
───そう、この世は不条理だ。不平等だ。何時でも、何処でも。富める者は更に肥え太り、貧しき者は更に痩せ細る。
血を吐くように述べられた言葉は、万国共通だろう。ほんの一握りの権力者のために、弱者はいつでも
それができなければ、死ぬだけだ。強く、守られている権力者に楯突けば。弱く、虐げられている弱者は。虫けらのように。
それを無くそうとしたのが、このソヴィエト機関連邦───その骨子たる《共産主義》だったはず。富を全員で均等に分け合い、誰もが贔屓されず、虐げられない世界となるはずだった。レーニン閣下の『楽園計画』通りなら、文字通りこの世の《楽園》となるはずだった、ソヴィエト機関連邦。
でも、でも。楽園となるはずだったこの国は、この世の地獄と成り果てた。一部の特権階級、連邦首脳部が富を占有し、国民は困窮し、今も凍えた大地に涙を溢し続けていて。
『地獄だよ、この世界は! だから、神は『居てはいけない』。
連動して、虚空に向けられていた視線、真紅に燃え上がるような
バラバラの方向を向いていたそれが、ぐるりぐるりとじれったい程に回転しながら、アレクセイの方へと。そして当然、わたしの方にも。
『そんな世界に、
生物の最小単位である、あらゆる細胞に速やかな
あと少しで腐り果てた黒い堆積物となり、この《黒い雪》に溶けて消える事になるだろう。ただ、アレクセイ君が救いを求める『神』の元へと────
──だから。
「───弱虫」
『なにぃ?!』
──だから、わたしは口を開く。ええ、何度でも言ってあげる。目の前のイヴァン先生と、《背後の白い彼》と、《視界の端で躍る道化師》にも、聞こえるように。
──わたしは、諦めない。絶対に。だって、わたしは───
「弱虫、卑怯者! 自分の弱さを世界のせいにして───貴方は、逃げる口実が欲しいだけじゃない!!」
『黙れ!』
絶叫と共に、視線の圧力が増す。でも、だから、何。知ったことじゃないわ、そんなもの。
「貴方が絶望してるのは、世界なんかじゃない! 貴方は───!」
『黙れェェェ!!!!』
わたしを、アレクセイ君を消し去ろうと、地獄の熱量を帯びる怪物の眼差し。あと二秒、いいえ、一秒で、わたし達はこの《黒い雪》の一部になるだろう。
そう、変える。それを可能とする《現象数式》を宿した、
──だけど。ええ、だけど。
──わたしは、決して。
──決して、瞳を逸らさない───!
降り注いで────
「────
それを阻んだのは、青く翻る外套────否、羽織。そして、《
それを見届けて、視界の端で躍る道化師が消える。役目は終わったとばかりに、後は、
「ソヴィエト赤衛軍の名の下、市民に仇為す貴様を野放しにはしない────」
三本の刀を携えて───
「潔く、縛に付け」
紅く煌めく、眼差しが二つ───