銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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回路 ―схема―

 

 

 遠い、遠い。果てしなく遠い。暗く、長い長い隧道(トンネル)、或いは天蓋付きのアーケード。その彼方に揺れるもの。いつからだろうか、多分、ずっと。目指して歩いている、あの『光』は。

 届かないものを思う。見た事はないけど、水鏡に煌めく満月であるとか、蒼穹に輝く太陽であるとか。

 

 

 そして、ふと、足元に目を向けた。

 

 

 隧道の天井から漏れる、僅かばかりの『光』を湛えた石畳に。そこに芽を出した、ほんの些細な命を。雑草と、一括りにされるもの達だ。だが、確かに命の輝きだ。

 一休みしよう、この命を眺めて。背後から吹く風に揺れる、小さな彼等を眺めて。

 

 

 辺りに佇む、セピア色の、皆と共に。

 

 

『──オブジェクト記録を参照:ロシア革命とは』

 

 

 その時、声が。声、声? いいや、違う。心を震わせる『思い』が、流れ込んできた。

 

 

『二十世紀の始まりと共に、ロシア帝国に吹き荒れた革命の機運。《真紅の男》ウラディーミル・イリイチ・レーニンの成し遂げた世界初の、共産主義革命である。十一月革命と二月革命の二回に渡り、遂には皇帝ニコライ二世を退位に追い込み、ロマノフ王朝に最期をもたらした。

 そして、囚われた皇帝ニコライ二世と皇后アレクサンドラ、オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシアの四人の皇女達は────亡国の王族として、例外には扱われることなく。イパチェフの館にて、従者達と共に凄惨な最期を遂げる事となった』

 

 

 見上げても、暗く霞んだ天井から吊り下げられた、仮面が口走る言葉。その全てを囁いて、色を失った仮面は霧のように消える。

 

 

『────チェルノブイリ皇帝機関(ツァーリ・ドヴィーガチリ)とは』

 

 

 次に、吊り下げられた左腕。鋼鉄の、機関義肢(エンジン・アーム)

 

 

『機関の恵みから見放された土地と揶揄されるロシアで、その恵みを逃さず得るために編み出された機関。幾つもの機関を連結、統合し、極冷のロシアの気候でも安定した蒸気の発生を望む事ができる。現在はサンクトペテルブルク、モスクワ等の大都市に位置し、全部で四基が稼働している。

 ……噂では。あくまで、噂では。それは実は、世界を対象にした隠蔽工作を行う装置だとも。或いは、モスクワの一基は事故に因り機能は失われており、その内部は灼熱と極寒が入り乱れた地獄となっているとも。その内部は、既に此の世ならざる者達の巣窟になっているとも。あくまで、噂では。誰が囁いたのかも分からない、噂では』

 

 

 そして、消えていく。やはり、霧か霞のように。

 

 

「私の、記憶────」

 

 

 色を得て、語り出したのは少女。白く、輝くような銀色の髪の。携帯型篆刻写真機を抱く、白い兎のような。

 

 

「わたしの最初の記憶は、ウラル山脈の麓。エリノの町。その近くの、雪深い森の中。降り積もる灰色の世界で、一人、うずくまるっているところ。どうして、そんな記憶なのかしら? どうして、父さんや母さん、兄さんがいるのに、どうして────」

 

 

 煌めくように、そう口にして。色を失って、代わりに。

 

 

 

 

 Q、夢とは?

 

 

 

 

「私の、夢か────」

 

 

 色を得て、語り出したのは男。ブロンドの、緑色の瞳の青年だ。携えた小説のページを捲る、学者のような。

 

 

「愛を知りたい。愛を、知りたい。本当の愛を知りたい。実の親から、実の兄弟から。愛した、女性から────」

 

 

 陰るように、そう口にして。色を失った彼の代わりに。再び色を得て、少女が口を開く。

 

 

「わたしは────アンナ・グリゴーリエヴナ・ザイツェヴァ。アナスタシアじゃない。そう、よね……」

 

 

 彼の陰りに釣られたように、俯いて。全てを語り終えて色を失い、霧か霞か、或いは雪のように消えていくのだ。

 

 

 

 

 Q、叶えるべき願いは?

 

 

 

 

「愛を、知りたいんだ────」

 

 

 彼も、また。全てを語り終えて、得たはずの色を失って。霧か霞か、或いは雪か────若しくは紫煙のように、消えてしまった。

 

 

 後に残されたのは、ただ、この日溜まりだけ。ああ、もう十分に休んだ。さあ、歩き出そう。最後に、僅かな名残を残して。

 風に揺れる草を、華を。有りもしない瞳に焼き付けて────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 灰色の雪の降る、モスクワの市街。底冷えのする冷気を伴いながら、しんしんと。歩く人々は、一様に手袋に包まれた手で襟と襟巻を引き寄せて。白い息を吐いて、家路を急ぎながら。

 そんな人々を横目に、わたしとリュダは、連れ立って。同じように手袋に包まれた手で、襟と襟巻を引き寄せながら。

 

 

「さて、と────じゃあ、アーニャ?」

「ええ────じゃあ、リュダ?」

 

 

 そして、ある建物の中に入ったわたし達は、一緒に。クスクス笑いながら。

 

 

「「────ようこそ、ミュールとメリリズへ!」」

 

 

 なんて、おどけながら。モスクワ最大のマーケットに。二階建てのアーケード、天蓋に覆われた総合商店に足を踏み入れた。

 

 

──ミュールとメリリズ、モスクワで一番楽しい場所! ミュールとメリリズ、何でも揃う総合商店! ミュールとメリリズ、最高の場所!

 

 

 もう、自分でも分かるくらいはしゃいじゃう。だって、ミュールとメリリズだもの! ああもう、楽しい!

 

 

「はしゃいでるわねー、アーニャのミュールとメリリズ好きも堂に入ってるわ」

「な、なによ。良いじゃない、好きなんだから」

「悪いとは言ってないけど。年齢考えなさいよね、あと性別も。カメラ屋の前で騒いでる女の子なんて、アーニャくらいのものよ?」

 

 

──言われて、うぐ、と、ぐうの音もでなくて。まあ、それは。ミュールとメリリズで騒いでるのなんて子供くらいだけど。更にカメラ屋の前で騒いでるのなんて、男の子くらいだけど。

──普通の女の子は、服屋でおしとやかに見繕うんだろうけど。でも、仕方ないじゃない。カメラ、好きなんだから。

 

 

 そんな風に心の中で不満を呟きながら、愛用のカメラを手に取る。最初期のライカカメラ、随分と手を加えられた、前の持ち主の人に大事にされていた事がよく分かる、古めかしいけどしっかりしたカメラを。

 

 

──そういえば。カラマーゾフ先生から頼まれていた写真撮影。明日、なのよね……

──うう、思い出したら、なんだかお腹が痛いったら……

 

 

 カメラ屋さんでフィルムを買って、ついでに新しいレンズとカメラを見て。うん、買うお金はないから、あくまで見るだけで。

 少し、緊張でお腹が痛くなるけど。カラマーゾフ先生のご兄弟の写真なんだし。うん、少しでも良いものにしなくちゃ。

 

 

 そんなことを思いながら、表で待っていたリュダと一緒に歩き出す。と、ふと、古本屋に目が留まって。

 

 

「なぁに? カメラの次は古本? あのねぇ、アーニャ。どうしてあなたはそう、おじさん臭いところに興味があるかなぁ……」

「うっ、い、いいでしょ、別に」

「悪いとは言ってないけど。私はこの先の服屋に行ってるから」

 

 

 分かりやすいくらいに『飽きた』と言った風のリュダは、とっとと先の服屋に向かって行って。

 わたしは、その姿を見送った後で。羊皮紙とインクの臭いが染み付いた店内に足を踏み入れた。

 

 

「…………」

 

 

 静かな、静かな店内。少し先では、アーケードの下、機関排煙に汚染された雪に脅かされる事のない空間ではしゃぐ子供達の姿もあるというのに。

 まるで、俗世から隔絶されたかのような、静謐の空間が。広がっていて────

 

 

「…………」

 

 

 室内には、ただ、一つの音しかしない。そう、ただ、一つの────

 

 

「────ようこそ」

「────────」

 

 

 瞬間、息が止まりそうなくらいに驚かされて。髪の毛二房、跳ね上がったんじゃないかしらってくらい。

 慌てて振り返った目に映ったのは、女性。良かった、優しそうな眼差しの。ブロンドで、艶やかな肢体の。

 

 

「珍しいわね、貴女のようなお若い方が。こんな古ぼけた店に」

「あ、いえ、あの、その」

「ふふ、ご免なさい。驚かせてしまったかしら。見たところ、モスクワ大碩学院の生徒さんかな?」

 

 

 優しげに笑う淑女に、先ずは非礼をお詫びして。

 

 

「はい、モスクワ大碩学院の二等生です」

「やっぱり。ああ、懐かしいわ。私もあそこの卒業生なのよ」

「そうなんですか、あの、専攻は」

「数学よ。この世のすべては数字で表せる、そう信じてたわ」

 

 

 世間って狭い。こんなところで先輩にお会いできるなんて。それにしても────

 

 

「どうして数字者がこんなところに。そう思ってる顔ね?」

「あう、あの」

「いいのよ、責めてる訳じゃないから。ところで、何か探しにここに?」

 

 

 言われて、なんとも言えない。うん、だって、何となく寄ってみただけだから。ただ、何となく、本当に。

 

 

「……そう、喚ばれた、のかしらね」

 

 

 そんなわたしの顔色から、察したんだろう。女性は思案顔になって、隣の本棚から、無造作に一冊。

 

 

「これ、あげるわ」

「え────?」

 

 

 黒い背表紙。ううん、背表紙だけじゃない。表紙も裏表紙も、全て真っ黒な本をわたしに差し出して。

 

 

「貴女のための本よ。題名は、《アルソフォカスの書》」

「《アルソフォカスの書》……?」

 

 

 気のせいか、おぞましさすら感じられる程の、その書物。一様に真っ黒で、試しに開いた一ページは────

 

 

「────あれ?」

 

 

──真っ白。何一つ、書かれてなくて。本当に、他のページにも、何一つ。

──落丁、じゃないと思うけど。うん、驚くくらい、何も書かれてなくて。

 

 

「そう、それは貴女が紡ぐ物語。その記録者だから。今は、真っ白。いいえ、少しは書かれているかもしれないけど」

「あ、の────」

「大丈夫よ。それは、他の誰にも知られない。貴女を見下ろす赤い騎士からも、貴女と共にある白い騎士からも、貴女を見上げる黒い騎士からも。誰からも知られない、銀雪の詩編だから────」

 

 

『あぶない、アンナ。アナスタシア』

 

 

 熱に浮かされるように、熱い眼差しでわたしを見やる女性。その姿に、恐怖とは違う、だけど、恐ろしさがわたしを包む。

 何、この人は。誰、この人は。どうして、わたしの前に────

 

 

『そのひとは、きみを、まどわせる』

 

 

 背後の《彼》が、そう、怯えながら口に。いいえ、音じゃなくて、意思を伝えてきて。

 その時、ようやく気付く。わたしの周り、本棚。どこまでも続くような、書架、書架、書架。見果てぬくらいに、広がっていて。

 

 

「私は、ソフィア。ソフィア・ヴァシーリエヴナ・コワレフスカヤ。専攻は数学、《現象数式》────そして、《回路》よ。覚えておいてね」

 

 

 足場を失うような、或いは意識を失うような、浮遊感と共に────

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()────いいわね? 新たなる、《魔女(クローネ)バーバ・ヤガー》。《白い第四皇女(アナスタシア)》様?」

 

 

 天地を失う喪失感と共に、わたしは────

 

 

「────アーニャ、お待たせ」

「え────?」

 

 

 ミュールとメリリズの、アーケードの真ん中のベンチに腰掛けている姿で、紙袋を抱えたリュダから声を掛けられて。

 

 

──夢? わたしは、今まで、何を……

 

 

 そう、混乱しそうになって。でも、左手。そこに携えていたもの、その存在に気付いて。

 

 

「何、新しい本? 真っ黒だけど……何それ?」

 

 

 そこにある、漆黒の書物。その存在に────

 

 

「……なんだっけ、これ」

 

 

 思い出すものは、何もなくて────


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