銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
兄弟 ―брат―
───黒い。黒い。ああ、ここはなんて黒いのだ。
コツコツと、石畳に革靴の音を刻みながら。ふと思う。生まれ故郷であるサンクトペテルヴルクでも、雪は暗い灰色を帯びていたが。このモスクワの雪は、更に黒く淀んでいる。
全ての元凶は、遠く排煙の柱を立ち上らせるチェルノブイリ
──ああ、思い出すな。あの日々を。忌まわしい、おぞましき日々を。
薄暗く淀む大気に白い息を吐きながら、私は歩く。このソヴィエトでは、働かない者、学ばない者に生存の権利はないのだから。
──だから、ああ。
昔を懐かしんだところで。私は、私には、もう。
──視界の端に。
戻るべき場所も。迎えてくれる『兄弟』も。
──躍る、道化師が見える。
ありはしないのだから────
………………
…………
……
「ザイツェヴァくん。すこし、時間はあるかね?」
「え? あ────」
碩学院の講義を終えて。帰り支度をしている最中の事。いつものように、リュダが、『ミュールとメリリズ、寄ってく?』と聞いてくる前に。
ホームルーム、終えた後。学年担任の先生から、声、掛けられて。
「は、はい、先生。なんでしょうか」
──学年担任の、イワン先生。大人っぽい人。いえ、実際大人なんだから、こんな評価は失礼だけれど。担当は近代文学、穏やかな物腰と、聞き惚れるくらい素敵なバリトンの声の。
──よく、学年の女の子の話題に上る人。恋人はいるのか、とか。だ…………抱かれるなら、この人が良いとか。よく。ミラとか、他の女の子も。
「ああ、うん。先程の授業なんだが……ドストエフスキー氏の『罪と罰』。これは、理解できる内容だったかな?」
「は、はい。現実と理想の解離、犯した罪、それに対する罰と向き合う苦悩と孤独を描いた、名作だと思います」
わたし、もし、スターリン同志に答えていたなら、すぐにシベリア送りになるような、吃語で。答えれば、先生は少し、驚いた顔をして。
「そうか。私には、理想論者が現実に敗北する物語だったが。そう言う解釈もあるんだね」
そう、口にされて。碩学院で最も、現在のソヴィエトを席巻する『無神論』を識っていると言われている、イワン先生は。
「と。いけないな、実は、授業の話がしたかったわけではないんだ。確か、君は、篆刻写真機を持っていると聞いたのでね」
「はい、持っています。あの、それが……」
「ああ、うん。咎めているわけではなくてね」
いきなりの事に、怒られるのかと思ったけれど。先生、穏やかに微笑んで。安心させるように。
「実はね。故郷のサンクトペテルヴルクから、兄夫婦と弟がモスクワに旅行に来るんだ。だから、君に、記念写真を撮ってほしいとお願いしようと思って」
「き、記念写真……ですか?」
そして、やっぱりいきなりの事に、わたし、驚いて。あたふた、意味もなく、掛けた鞄の紐、弄って。
でも、先生。柔和な笑顔のまま。
「ああ。是非、お願いしたい。育ちのせいで、そういう機会に恵まれなかったが────」
「
微笑んでいて────
「は、はい。こちらこそ、是非」
「ありがとう。兄弟が来るのは、来週の安息日なんだ。突然で申し訳ないが、宜しく頼むよ」
「はい────」
その笑顔のまま、立ち去っていく。最後に、わたしの肩を軽く叩いて。学年担任の、近代文学専攻の、イワン・フョードロヴィチ────
「────カラマーゾフ先生」
彼は、去っていった────