銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
遠い、遠い。果てしなく遠い。暗く、長い長い
届かないものを思う。見た事はないけど、水鏡に煌めく満月であるとか、蒼穹に輝く太陽であるとか。
そして、ふと、足元に目を向けた。
隧道の天井から漏れる、僅かばかりの『光』を湛えた石畳に。そこに芽を出した、ほんの些細な命を。雑草と、一括りにされるもの達だ。だが、確かに命の輝きだ。
一休みしよう、この命を眺めて。背後から吹く風に揺れる、小さな彼等を眺めて。
辺りに佇む、セピア色の、皆と共に。
『──オブジェクト記録を参照:
その時、声が。声、声? いいや、違う。心を震わせる『思い』が、流れ込んできた。
『全身を
尚、似て非なるものに自動人形と呼ばれるものがある。こちらは、完全なる機械を人間に似せたもの。無論、ただの。ただの機械に過ぎない。ごく稀に、物好きな者達が語る噂に────心を持つ機械の話があるが。世界最高の技術者にして偉大なる十碩学、初代《蒸気公》チャールズ・バベッジなら兎も角。そんな技術を有する者など、もう居はしない。
見上げても、暗く霞んだ天井から吊り下げられた、仮面が口走る言葉。その全てを囁いて、色を失った仮面は霧のように消える。
『────モスクワ
次に、吊り下げられた左腕。鋼鉄の、
『《とある碩学》の協力により、モスクワ市内に廻らされた地下交通機関の愛称。現在は第一書記長スターリンがコーヒーカップを置いて記したとされる、クレムリン市街外縁を巡る環状のレールと僅かな他の駅が敷かれるごく小規模なものであるが、計画では都市全域に張り巡らせる予定である。世界広しと言えど、1917年現在で地下鉄をこれ程の規模で実用化している都市はこのモスクワを除いて外にない。
…………そう、外には。崩壊した────
そして、消えていく。やはり、霧か霞のように。
「私の、世界────」
色を得て、語り出したのは少女。白く、輝くような銀色の髪の。携帯型篆刻写真機を抱く、白い兎のような。
「世界。煌めくもの。世界。《美しいもの》。私が、初めて写真を知ったのは、いつだったっけ。覚えていないけれど、でも、うん、きっと、ううん、絶対に。私は、その瞬間に、虜になったの」
煌めくように、そう口にして。色を失って、代わりに。
Q、夢とは?
「僕の、夢か────」
色を得て、語り出したのは男。ブラウンの、硝子玉のような瞳の眼鏡の青年だ。携えた物理学の教書を捲る、機械仕掛けのような。
「完全なものが造りたかった。神など、この世にはいないから。ならば、人間の手で神なるものを。完全なるものを造り上げよう、そう願った。かつて見た、機関人間の姿に。ああ、その時、僕は魅入られた。虜になったんだ」
陰るように、そう口にして。色を失った彼の代わりに。再び色を得て、少女が口を開く。
「綺麗なものを、素敵なものを。切り取って、保存して。外の、皆にも。私も、そんな素敵なことをしたい。そう、思えたから。だから、私は────うん、写真家に、なりたい」
彼の陰りに釣られたように、俯いて。全てを語り終えて色を失い、霧か霞か、或いは雪のように消えていくのだ。
Q、叶えるべき願いは?
「あんな、できの悪い紛い物じゃなくて。本物を造ると。僕は、そう────誓ったんだ。外の誰でもない、僕に……だから。ボクは────外の何を、犠牲にしても…………ぼくは、つくりあげなければ、ならないんだ」
彼も、また。全てを語り終えて、得たはずの色を失って。霧か霞か、或いは雪か────若しくは紫煙のように、消えてしまった。
後に残されたのは、ただ、この日溜まりだけ。ああ、もう十分に休んだ。さあ、歩き出そう。最後に、僅かな名残を残して。
風に揺れる草を、華を。有りもしない瞳に焼き付けて────
………………
…………
……
安息日前日の今日、一番驚いたのは、放課後の事だった。
「ザイツェヴァ、付き合って欲しい」
「────ほぇ?」
最後の時限が終わって。この後の事、リュダにミュールとメリリズに誘われるんだろうな、と思っていた矢先の事。
隣の席のリュダより早く、そんな風に────別の学級の筈のオジモフ君に、いきなり、誰憚らずに言われた事だと思う。
「ザイツェヴァ、付き合って欲しい」
──聞き損ねたと思ったのだろうか、もう一度、オジモフ君は同じ言葉を口にした。周りの生徒達、先生すら、終礼と同時に入ってきたモスクワ大碩学院主席のオジモフ君に注目していた皆、呆気に取られた顔で見ている中で。
──誰憚らずに、うん、皆にも聞こえるくらいの声、明朗な声で、オジモフ君、そう言って。あ、リュダったら、あんなにあんぐり口を開けて……もう、はしたないのはどっちかしら。
「────え? え?」
なんて、逃避もできずに。私は机に座ったまま、オジモフ君を見上げながら。思考、凍らせて。どうすれば良いのか、分からなくなって。多分、リュダと同じように。あんぐり口を開けて。
「────ちょちょっ、ちょーっと待ったーっ! 何、ギャグ? それは新手のギャグなの、イサアーク!? 笑えない、笑えないんだけど! ユーリィならともかく、あんただと本気で! リュドミラ・パヴリチェンコは糾弾するわよ! 助走付けて!」
「君は何を泡食っているんだ、パヴリチェンコ────いや、ああ、なるほど。確かに、言葉が足りなかったな」
そこで漸く、学級の固まった空気を察して。オジモフ君、改まって。
「今日、今から、僕に付き合って欲しい。頼む、ザイツェヴァ」
そんな風に、言い直して────
………………
…………
……
モスクワ
その足で、駅のカフェへ。地下鉄公団の職員を対象としていたカフェへと、私は、オジモフ君に促されて入った。オジモフ君の、コネクションで。
「まず、先に聞いておきたい」
席について、先に切り出したのはオジモフ君。合衆国の妙な飲み物、確か、コーク、とか言う、コーヒーみたいに真っ黒な炭酸飲料、飲んだ後で。
「君は────
ぱりぱりと喉を焼くような変な飲み物、飲んだ後で。私、咳き込みそうになるのを、堪えながら。
「えっと、あの、その。見分けがつく、と言うか、私としては、当たり前のような、そんな……」
「……要領を得ないが、間違いではない訳だな。それで良い、十分だ」
コークの刺激に噎せて、慌てて答えた拙い言葉にも、オジモフ君は落胆を見せずに。少しだけ、私を見詰めただけで。
心の中だけに、押し止めて。オジモフ君は、微笑んで見せて。
「紹介したい相手がいる。直ぐに、来るよ」
その言葉と、全く同時にベルが鳴る。新たな客の入店を知らせる音色が。年代物のベル、きっと帝政ロシア時代からのベル、鳴らして。
カフェに入ってきた、人影が一つ。
「────兄さま。私の兄さま」
表れた《彼女》は、開口一番、そんな風に口にした。まるで、忠犬のように。まるで、そう刷り込まれているかのように。
カチリ、と。機械のように正確に。機械のように、精密に。誰か、最近逢った人を思い出すような。そんな、精緻さで微笑んで見せた、《彼女》に。
「紹介しよう、僕の────妹、だ」
「初めまして、
「────────」
恭しく、頭を下げた金髪に碧の瞳の女性。誰もが振り返るか、見詰めてしまうような綺麗な女の人。童話の《賢いワシリーサ》そのもののような、素敵な女の人。綺麗な女の人。素敵な女の人。
私は、それを見て────心の底から、凍り付いてしまって。
──妹。妹? 妹、なの? オジモフ君の、妹?
──だって、貴方は。人のようだけれど、だって。
凍り付いてしまって。見詰めるだけで。《彼女》を、見詰めて────一言すら、発せなくて。
「……そうか、やはりか」
それに、オジモフ君、目敏く。いいえ、初めからそうなること、知っていたみたいに溜め息を溢して。
だから、申し訳なくて。頭、下げて。非礼、詫びるように。
「あ、あの────」
「いや、良い。気休めはいらない。君のその反応が、全てだ」
何もかも、分かっていたように。オジモフ君、疲れたように微笑んで。傍らの《彼女》を、見遣ることすらしないで。
「……やはり、僕は────半端者だな」
諦めるように、呟くのだ。傍らの────『作品』の《彼女》を、捨て置いたままで。
「紹介しよう、僕の
何か、一つ────大事なものを諦めたかのように。
「ワシリーサだ────」
自動人形を見詰めて、笑うのだ────