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魔理沙が飛んでいったのを見送った後、母屋の方の掃除を済ませて早めのお昼ごはんを食べていた私は驚愕の事実を知らされていた。なんと、静葉と穣子はご飯を食べなくても平気だと言うのである。
神様は人々からの信仰が存在だとか神力とかを強めているので、巫女から神様へのお供え物という扱いで食事も微量ながら力にはなっているようなのだけど、もし二人分も食事を用意するのが大変だったらお酒とお米とお水のお供えだけでも全然大丈夫らしいのだ。
現実問題、神社の食糧事情はけっこうキツキツである。私一人分というだけなら穣子のおかげで多少の余裕が出来たけど、三人分となったら全然足りない。でも、私一人だけご飯食べて二人はおあずけだなんてどんなに豪勢な食事だったとしても絶対に美味しく食べられないだろうし。
うーむ、結局は食材について何かしら考えないといけないみたいだ。
それから私は台所でどんぐりを茹で、アク抜きしながら考え事をしていた。静葉と穣子は昼食を終えた後、神社の本殿で今後の神事に必要になりそうなものだとかを整理してくれている。手伝おうにも私にはその辺りさっぱりわからないので、邪魔になりかねないからと自主的に引っ込んできたのだった。
そうして何となしに大鍋をかき混ぜながら考えているのは今夜ここで行われる宴会についてである。お誘いをかける予定である慧音と咲夜に関しては魔理沙に任せてあるから気にしなくてもいいのだけど、問題は紫だ。紫にも今夜の宴会のことを伝えておかないといけないのに、肝心のあいつの居所がさっぱりわからない。どこかで紫の存在を聞いていたらしい静葉や穣子にも訊ねてみたのだけど、やっぱり住んでるところまでは知らないようだった。
「そういえば最初に紫が出てきてたのって、結界を緩まってたからだったわよね」
博麗大結界が弱まったからこそ紫は神社まで霊夢の様子を見に来ていた訳だし、どこか他所にいても結界の状態はいつでも確認できるのだろう。つまり結界を使って紫を呼び寄せればいいのだ。というか、ヒントも何もない状態じゃそれぐらいしか考えつかない。
茹でていたどんぐりをざるにあけて、それを持って移動。考え事をしていたからちょっと茹で過ぎちゃったかもしれない。
そうして縁側に着いたら布を敷いてその上で天日干しを始める。日があたって風通しの良いところで数日かけて乾燥させて、そうしたら殻剥きだ。そうして一月弱かけて、ようやくアクの渋みもなく食べられるようになる。
「ま、駄目で元々。とにかく試せることはやってみましょ」
ふらっと神社の裏手に回った私は、目を細めて空を注視する。葉が枯れ寂しくなった森の上に、ぼんやりと普段見ているのとは別の光と色とが格子状になって視界に浮かびあがってきた。
これが博麗大結界らしいのだけど、以前見た時は膜のように視えた結界にぽこぽこ穴が空いていた。今、こうして格子状に見えるようになったのは多少なり結界の構造を理解したからみたいである。さらに、ここが重要なのだけど綻びはまったく見当たらない。それというのも私が定期的に霊力で補修して、しっかり博麗の巫女として仕事しているからである。しかしお給料は出ない。
「えーっと、緩めるってのはつまり壊して穴を開ければいいってことでしょ? 前みたいに書き損じのお札もないし、あれと同じものなんてもう書ける気しないし……」
前回はよくわからない言語で書かれたお手製のお札を結界に投げつけたら大きな穴が出来たのだけど、あのお札はそんなの使ってる巫女なんて恥ずかしいからって理由で静葉に処分されてしまったのだ。今は形を変え、半分にされて裏側の白紙を利用したメモ用紙として活躍している。仮にも御札だったのにメモ用紙なんかにしてもいいのやら?
「認識を隔てる為の理論が縦と横に編まれてるわけだから……。んー、でも霊力ってどうやって消せばいいのかしら?」
ふわりと浮かび上がって結界に手を掛ける。私と同質の霊力で編まれているからなのかはわからないけど、弾かれることもなく結界に触れることが出来た。
触った感じ、手に抵抗はあるけれど重さが感じられない。真綿を掴んでいるような感触はあるのに不思議な感じ。
「ま、束を二、三本ぐらい引っこ抜いちゃえば結果はおんなじでしょ……っとぉ!」
残念ながら霊力を散らすとかそういう穏便な方法はわからないので、とりあえず手近にあった霊力の束を掴んで引き出すと脇に抱えてそのまま引っこ抜く。
――と、ぶちぶちぶちって変な破裂音がした。横糸にあたる太い束を引っこ抜いたのだけど、編まれていた細い縦糸が強く引っ張られて千切れていったようだ。数にして十数本ぐらい。
「あっ……」
縦糸がちぎれてバラバラになった後に宙へ溶けていく。当然、それを支えにしていた他の横糸もどんどんと崩れ落ちていく。結界から離れてしまうと霊力の束も維持が出来なくなって消えてしまうようである。
一本引っこ抜いただけでこの有り様。崩れたところから連鎖して穴はどんどんと広がっていく。その穴から異質な空気が流れこんでくる。この光景に近いのはダム決壊の様子って感じかしら。
「……って、ちょ、ちょちょちょっと待って!」
他人事みたいに眺めてる場合じゃない! もしかしなくてもやっちゃった!? これ絶対よくない! また紫に怒られる! 魔理沙に呆れられちゃう!
「むううう!」
私は慌てて穴へと近寄るとすぐさまに両手に霊力を集めて結界の補修に掛かり始めた。数日おきに結界の穴埋めとかしていたから構成だけはなんとなくわかっているのだけど、よくよく見てみれば結界全体をつなげていた
「ぐ、ジリ貧……!」
以前はあった筈なのにいつの間にかぽっかり空洞になっているそこに、その場しのぎ的に霊力を送って他が崩れようとするのを食い止めることしか出来ない。そんでもってその楔ってのが厄介で、構成している取るに足らない部品のように見えて実は核になっていて、視ようとしてもさっぱり視えない、そこに存在していた筈なのに限りなく希釈されているなんて、まるでなぞなぞみたいな部分だったのだ。そして、ぱっと見でわからないものだから私が理解を放棄していた部分でもある。
博麗大結界は理論で編まれている。もちろんそれを形にしているのは博麗の巫女の霊力なのだけど、核になっていたそこに当て嵌めるものがなんだったのかわかんないことには底に穴の空いた袋に水を注いで一杯にしようとするようなもの。空いてしまった穴自体を何とかしないことには、充分すぎるほど霊力を注ぎ込んでもすぐに漏れて宙に溶けていってしまう。
ばつ、と小さな衝撃が頭に走った。何かがどこかに繋がった感覚。視界が僅かに白く染まって、ザーザーと微かな雑音が聞こえ出す。けれどもそんなものに構っている時間は生憎ながら今の私にはなかった。目の前の結界修復に手一杯なのである。
『……てる!? ようやく繋がったと思ったら、あんた何してくれてるのよ!?』
「誰ようるっさい! こっちは取り込み中だっての! 用事があるなら後にして!」
『ああ? 取り込み中って偉そうに、全部あんたの所為でしょうが!』
何なのよまたあのひっくい女の声の空耳!? こころなし以前に聞いた時よりクリアに聞こえるけど、ちっとも嬉しくない! ドスが利いてて怖い!
こっちの大ピンチを見計らって集中力が乱しに来るなんて悪魔の囁きって奴なんじゃないの!?
『まったく、こんな状態じゃ落ち着いて話も出来やしない。いい? こっちからじゃ手出し出来ないし、とりあえず今私から言っとくことは二つ。困った時は全霊を以ってうちの神様に神頼みすること。そんでもってあんたはいつまでも引きこもってないで鳥居の外に出ることよ』
「はぁ!? ってか誰なのよあんた!?」
怒鳴り散らすように声を上げたのに、一向に返事が返ってこない。女の声と一緒にわずかに聞こえていたノイズ音もすっかり消えてしまっている。こういう、自分の言いたいことだけ言って通話切る奴って大っ嫌い!
脳内に直接喚き散らすような声に集中が乱されたか、結界の綻びが増している。頑張って意識して霊力の出力を上げてみるけれど、やっぱり修復にまでは霊力は回っていないらしい。
「ちょっと霊夢!? 何をしているの!? こ、これは!?」
「あっ、紫! いいところに! お願い、手を貸して!」
じりじりと結界が崩れようとしている中、髪に寝ぐせをつけた紫が泡を食ってスキマから飛び出してきた。家で寝ていたのだろうか。
そしてそんな紫の目にも霊力の流れが見えているのか、大結界が綻んでいこうとしている様子を見て大きく目を見開いている。
「ど、どうして、こんなにも結界に綻びが。このままでは外との境目が消えてしまって幻想郷と外界が……」
「それは後で! 紫、結界を崩れないように固定しておくことは出来る!? 私一人だと止めておくので手一杯なのよ!」
「……わかったわ、維持さえしておけば霊夢が何とかするということね? 十数秒ぐらいなら私だけでも……!」
おろおろあたふたしていた紫が冷静さを取り戻す。そうして瞑目した紫の体からは歪んだ気配が神社の神気をも押しやって際限なく広がり始めた。そしてその目が見開かれると、紫色だった瞳の色は金色に変わっていた。
体ごと振りかぶり、勢いづけて腕を振り下ろすと同時にひび割れたかのように宙に無数の亀裂が走り出した。空間を分断する亀裂が私の周りを――いや、結界に空いた穴を私ごと取り囲んでいく。
幾つもの亀裂の端と端がリボンで結ばれていき、その中に取り残されたものは赤、紫、黒、それらの色がひしめき合う禍々しい色で塗りつぶされる。そして間もなく凍りつくように停止した。この空間だけが時の流れからも置いて行かれ、境界と境界の狭間に弾かれてあらゆる理が止まったのだ。
それは事象からの干渉、変化を拒む異界。そちら方面に疎い私の理解が及ばない、そして無知な私ですら感じ取ることのできる超常の力だった。
「霊夢! 殊この結界に対して、妖力ではいくらも持たないわ!」
「わかってるっての!」
私じゃ詳しいことまではわからない。けれども今この空間にいる間に事を為せねば打つ手はなくなる。こんな理解の及ばない力によって引き起こされたとんでもびっくりな現象だというのに、この空間は軋みを上げていたからだった。まるで水と油のように霊力と妖力は相容れない。互いに反発し、弾き合うような性質があるらしい。
「ふう……っ!」
肺の中の空気を絞り出す。体が重たい。水の底に立たされたみたいに、体を動かそうとすると何かを押しやっているような負荷がかかっている。
普段、霊力の光は人の胸――心臓の辺りに宿っている。それを咄嗟に思い出した私は、胸に右手を当てて心臓から全身に送り出される血液をそのまままるごと吸い上げるようにイメージしていた。
そしてそのまま右手の人差指と中指に押し固める。圧縮された霊力は暗いこの空間の中でも煌々とした光を放つ。しかし、それを宿して私に何が出来るのか。
――『困った時はうちの神様に神頼みすること』――
誰だか知らない声の主のそんな言葉を思い出していて、私の光る指先は宙に『博麗』という文字を描いていた。
紫によって生み出された空間が、見る間見る間に修復していく博麗大結界に競り負けるようにひび割れて、禍々しい色を薄めていく。
その中にいると何だか私まで粉々になっちゃいそうなので急いで外に飛び出した。私が逃れ出ると同時に、ガラスが割れるような音と一緒に空間が砕けて消えていく。
「ふう、流石に焦ったー! いやー、危なかったわね」
「……本当、規格外ねあなたは」
「あん? 何がよ?」
「私の全力を以ってして作り出した空間の中で、普通に動けていたでしょう。いくら妖力と反発する霊力を扱っているとはいえ、異常だわ」
む。そんなバケモノみたいに言われるのは心外である。紫が作った空間の中は服を着たまま水の中に落っこちたみたいに、立っているだけでも体中が重たかったのだ。
それにしても、紫が全力を出したらあんなびっくり空間が作れてしまうということの方が驚きである。ただ、流石に全力を出したというだけあって、今の紫からは普段のような存在感や妖気を感じない。かなり消耗しているようである。
「普通にって、動きにくかったわよ? 何だか水の中にいるみたいで抵抗あったし」
「その程度で済んでしまったと言われる方が、いっそ私としては救いがないわ」
「よくわからないけど、そんなもん?」
そんな私の返答に「はぁ」と深く嘆息した紫は、気を取り直し、きっと眦を釣り上げて私を真っ向から見据える。
「それについてはいいわ。それより霊夢、博麗大結界にいったい何があったの? あなたが結界を管理し出してから、綻びは間も置かず修復されていたからすっかり安心していたというのに」
「あー……、あれね。うん」
どうやら博麗の巫女である私の仕事ぶりに安心してちょっと寝ていた矢先、例を見ない博麗大結界の崩壊の兆しを感じ取って叩き起こされた形なのだろう。いまだ紫の寝癖は取れていない。
ちょっと私も事実をありのままに伝えるのは抵抗がある。『調子に乗って部品引っこ抜いたらダム崩壊』なんて言ったら、絶対に怒られる。
「えっと、紫に会いたくて、紫、結界が弱まったらわかるみたいだから、ちょっとだけ緩めたらいいかなって?」
頬をかいて、私にしては珍しく媚びるような笑みを浮かべているんだと思う。それも仕方ない。だって、説明している途中で紫の目が据わったんだもの。
「『ちょっと』?」
「うん。ちょっと……ちょっとね、やり過ぎちゃった」
「つまり……、今しがたのアレは霊夢の仕業ということかしら?」
「まぁ平たく言えばそういうことになるわね」
「あなた……!」
私が己の罪を認めると同時に、紫から私の顔を目掛けて張り手が飛んでくる。話し始める前から引け腰になっていた私は、咄嗟に右手を前に出して顔を守る。
「結界!」
そして、それを隠し持っていたお札で反射的に結界を展開して防いでしまう私。いや、頬を一発ぐらい張られても仕方ない大失態だったのだけど、いざ来ると思ったらつい体が反射的に動いてしまっていた。
目の前に展開される文字。我ながら惚れ惚れするような早業である。妖怪だと霊力で編まれた結界に触れられないのか、紫の手は結界と接触するとばちばちと音を立ててから乾いた破裂音を立てて大きく弾かれた。体ごと吹き飛ばされた紫は土の上に尻もちをついて、目を見開いている。
咄嗟の事でお札一枚しか出せなくて、てっきりまた呆気無くぶち抜かれるかと思っていたのに、予想を裏切る結果だった。ってか、考えてみれば、このお札はちゃんと神様二人の監修による真っ当なお札だった。以前のと違って強力な訳である。
「あ、あなたいつの間にこんな堅固な結界術を?」
「ああ、昨夜からかしらね。これ、新調したばっかりのお札だもの」
「昨夜!?」
地面に腰を下ろしたままの紫は、右手を左手で擦っている。結界と触れたその手のひらは軽く火傷したみたいに赤くなってしまっていた。
遅れて、ものすごい申し訳なくなってくる。罪悪感がすごい。寝ているところを叩き起こして、私のミスの尻拭いをさせて、その上で怒られて当然のことをしたのに、防衛本能からの反応だったとはいえ自衛して怪我させてしまった。
「ゆ、紫、ごめんね。つい結界使っちゃったけど、今度は避けたりとか防いだりしないから。あんたに叱られて当然のことをしたんだもの、一発だけなら罰だと思って受けとめる」
紫の手を取って立ち上がらせ、紫のスカートについてしまった枯れ葉や汚れを払うと、私はぎゅっと目をつむって紫の正面で気をつけの姿勢をとった。
こっそり一発だけと注文つけたけど、それぐらい許して欲しい。妖怪である紫に何発も殴られて無事でいられる自信がない。っていうか、一発だって頭が吹っ飛んだりしないか不安でしょうがない。
「さぁ、来なさい!」
「そ。それならば遠慮無く」
「え、遠慮はいらないけど、手加減はしてよ!?」
歯を食いしばっては全身に力を入れて、今か今かと待っていたら、ぺちんと軽く頬を張られた。……全然痛くない。
まさかこれで終わりではあるまいとしばらくそのままで立っていたのだけど、一向に本番が飛んでこないので恐る恐る目を開いてみれば、私の顔を見て苦笑する紫がいる。
「あら、もうちょっとあなたのその不細工な表情を眺めていたかったのだけど」
「へ? さっきので終わり?」
「あいにく、ほとんどの妖力を使ってしまって腕力に回せないの。普段の私であれば霊夢の結界にだって体ごと弾かれるようなこともなければ、触れたところがこんな風になることもなかったのだから」
そう言って、いくらか赤みが治まった右の手の平を私に見せてくる。すらっとしてきれいな手、こういうのを白魚のような手って言うんだっけ? 傷ひとつ無い手だからか、薄っすら赤くなっているところが妙に綺麗に見える。
はぁ。とにかく、弱っていて強く叩く力も残っていないとのことらしい。おまけに、どうやら直前に張り切ってなかったら何でもないことだったのだから、紫が怪我したことも気にするなということだろう。
「もう。そういうことなら、紫が元気になるまで一発分借りとくわ」
「あなたの信条は『一発は一発』なんでしょう? もう今しがた返したところよ」
ぐ。きっと背中を思いっきり叩き返した時のことだろう。痛くなくとも一発叩いたのだからチャラだなんて、器が大きさをまざまざと見せつけられた気分。
私だったら後日にしっかりやり返すべく貸しておくところである。
「で、霊夢? 話を戻すけれど、わざわざ結界を緩めてまで私を呼び出す要件があったのでしょう?」
「あ、そうそう。今夜神社で知り合いだけの飲み会を開こうって話があるのよ。紫も来てくれないかと思ってね」
「私に?」
きょとんとした顔で目を見開いて、信じられないという声色で紫が自分のことを指さしている。私がこくこくと頷いて返すと、紫が更に珍妙な表情を浮かべた。顔を横へ背けて、でも私へは視線をちらちらと向けて、口元は引き絞ろうとしているのだろうけどむずむずしている。
「どうしたのよ、変な顔しちゃって」
「いいえ。確かに呼び出し方に問題はあったし肝を冷やしたけれど、わざわざそうまでして霊夢が私に声を掛けてくれるだなんて、思いも寄らないものだから……」
紫は「ふふ、これじゃ怒れないわね」なんて、相変わらず口元をむずむずさせて呟いている。まるで、口の端が持ち上がるのを必死に抑えようとしているみたいだ。
「で、どうなの? 一応参加メンバーは私と魔理沙、静葉と穣子に、都合が合えば慧音と咲夜あたりも来そうなんだけど」
「もちろん参加させていただきますわ」
私の問いかけに、食い気味に紫が返答する。どうやら落ち着いたらしく、表情の方はいつもの薄っすらとした笑みに戻っている。
「そうね。では目も覚めてしまったことだし、今日は夜の宴会まで神社でのんびりさせてもらいましょうか」
「……別に構わないけど、あんたの口に合うようなお茶っ葉は用意してないわよ」
「あれはあれで味があるものね。確かに美味しくはなかったけれど、今思えば嫌いではないわ」
「この贅沢者。うちにある唯一の嗜好品だってのに」
以前にうちのお茶っ葉に文句を言っていたから注いでやりたくないけど、負い目がある手前、無碍にすることもできない。
ま、いいか。嫌いじゃないって言葉が聞けたから許すとしよう。
縁側で紫にもお茶を入れてあげて、並んで座ってお茶を啜る。
そのままぼへーっと宙を眺めて特に会話もなく湯呑みを空にした私は、紫の湯呑みにお代わりを注いであげてから思い立ち、すっくと立ち上がった。
「あら、霊夢。どこかへ行くの?」
「ちょっと神社の外に。紫はそこでのんびりしてなさいな」
「今日の私は機嫌がいいから、用事があるなら目的地まで連れて行ってあげてもいいわよ?」
「あー、そうじゃなくて。ついさっき空耳で神社の外に出ろって指示があったのよ。結局あれが何だったのかわからないままなのだけれど」
お茶を啜りながらぼーっとしていたら、忙しくて忘れていたもう一つの方の指示を不意に思い出したのだ。
「それは、この前に言っていた鳥居の側で聞こえたといっていたあの声?」
「そうそれ。あのひっくい女の声。一応結界を直す時に貰った助言自体は正しかったみたいだから、物は試しに言われたとおりにしてみようかなって」
「……何が起こるのか興味が有るわね。私もついていくわ」
「まぁ、構わないけど」
本殿の横を通って参道になっている石畳を進み、境内と俗界を隔てている鳥居へと向かう。ちょっと寒いので両手を息で暖めつつ、紫を引き連れて歩く。
とりあえず階段を降った、私が倒れていた辺りまで行ってみようと考えながら鳥居を潜ると、急にばつんと電源をオンにしたような軽い衝撃が頭に響いた。ほんの一瞬だけ目の前が真っ白になる。耳からではなく、意識が直接薄いノイズ音を拾い始めた。
「あれっ、これって前の時と似た感じ……」
『ようやく出てきたのね、この引きこもり』
「だ、誰が引きこもりよ!」
『引きこもりでしょうが。あんたが全然出てきてくれないものだから、こっちから連絡つけられなかったんだから』
「私だって忙しいのよ!」
いつも頭の中に直接聞こえてくる低い女の声だ。呆れ返った感情がこれでもかと乗せられている。
ぐ、それにしてもちょっとばかり自覚があったので言い淀んでしまった。不覚。
「……霊夢、今、あなたはその聞こえてくる声の主と話をしているのね?」
「え? ああ、もしかして今の私、視えない誰かと話をしちゃってる危ない人みたい?」
「それほど普段の姿との間に違和感はないから大丈夫よ。それより、少し触れるけれど我慢しなさいね」
宙に向かって一人で怒鳴り上げていたことに気づいて、顔が熱くなってくる。紫が事情を知っていたからよかったけれど、魔理沙とかの前でやっていたらドン引きされていたかもしれない。
そんな私に紫が近づいてきて、断ってから右手で頭に触れてくる。その右手には、他よりも妖力が固められているようだ。見るからに禍々しい。そしてまた、頭の中にばつっと軽めの火花が散った。
『さて、これで繋がっている筈だけれど、聞こえているかしら?』
「うわ、紫の声まで頭の中に響いてくる……」
自分のじゃない声が二つも頭の中に響いてくるのだ。ただただそれが気持ち悪い。紫の声がどうとかではなく、その二つばっかりが頭の中で浮き上がっていて違和感しかない。
『……紫? なんか聞き覚えある声だと思ったら、あんたも一緒に居たんだ』
『やはり。声色は違うけど、霊夢なのね?』
『あー、紫がいるってことは、やっぱり大結界維持に置いておいた霊術もとっくの昔に切れちゃってたのね』
『それよりも、どういう了見で姿を眩ませたの。いきなりあなたがいなくなったものだから、色々骨を折る羽目になっているのよ?』
『本当は一週間ぐらいで戻るつもりだったのよ、でもこっちの体が全然霊力を扱えないものだから……』
「あ゛ーー!! あんたらうるっさい!」
更に私の頭を介して会話を始めやがった。考えもまとまらなくて頭の中がぐちゃぐちゃになる。
あの低い声の主が霊夢ちゃんというようにも聞こえたのだけど、まともに情報として認識できなくて自信がない。
「……仕方ないわね。このまま無理やり繋げて霊夢の頭が物理的に破裂してもことだし」
「ちょっと待って、人の頭が破裂するような危険なことしてたのアンタ」
『それ、私の体なんだから変なことしないでよ?』
私の声を無視して、焦点の合わない視線を私に向けたまま紫がぶつぶつと呟きだした。内容はなんだかよくわからない数式みたいなのだけど、全然理解できない。
集中している紫を邪魔するわけにもいかず、ただただ立ち尽くしていた。何をしているか理解できないけれど、数分ぐらいしてようやく紫が現実に戻ってくる。
「ふう。とりあえずあちらにいる霊夢の居場所は思念波を辿って特定できたわ。ここから先は、今残っている妖力では成功するか心許ないのだけど……」
紫が宙に作ったスキマに手を突っ込むと、一分ぐらい中をこねくり回し、そうしているうちに何かを掴んだらしくスキマから手を引き抜いた。
スキマから引き出され、ぽいっと放り出されたのは人である。巫女装束を着た(今私が着ているような奇抜なデザインではなく、一般的な小袖に朱袴のもの)結構な長身の、背中辺りまで髪を伸ばした女性。地面に投げ出され、上半身を起こしたままこちらを見て目をぱちくりさせている。
「えっと……私の体?」
そこにいたのは、多少外見が変わっているものの二十数年慣れ親しんできた私であった。肩辺りまでだった髪が背中辺りまで伸びているだとか、何故か巫女装束を着ているいう違いはあったけど、紛れも無く私の体だ。
私の体が、私の目の前で動いている。目の前の私が、袴を手で払って立ち上がる。そして見下される。身長は今の私より、たぶん頭一個分ぐらい高い。すごいでかく見える。
「そんでもって、そっちのあんたの使ってる体が私ってことね」
この女性にしては低めの声は、周りが聞いていた私の声だったようだ。自分で聞く声と周りが聞いている声が違うというのは本当らしい。全然、気づかなかった。
ともかく、私の体を動かしているのは霊夢ちゃんのようであった。
聞きたいことは色々ある。言いたいこともたくさんある。けれどもそれよりも、私は急に動悸に目眩に襲われ、更には冷汗を額に浮かばせていた。更に、死にたくもなってくる。
――――この年になってからの巫女姿の自分を目の当たりにするとは、まったく想像していなかったのだ。