「なかなか綺麗な町じゃないか。人口は数千人というところだな」
「あのレストランで、ホテルはどこか聞きましょう」
顎を撫でるジョセフに、花京院が応える。霧で10メートル有るか無いかの視界から、よくぞレストランなんて見つけるものだ。
「しっかし、妙に物静かな町だなあ。今まではたいがい、ドワーッて感じの雑踏だったのによぉ」
ポルナレフが車を停め、エンジンが切れる。
あらわになった奇妙な静寂。沈鬱とした気配。
「霧が出ているせいじゃあないか」
アヴドゥルが言い、四人は連れ立ってレストランの方へ向かった。出てきた店主と話している。
千時は周囲を見回してから、恐る恐る、ポケットのメモを出し、手繰った。
「しまった…」
そもそも、最も覚えていないのが順序で、次にあやふやなのが各エピソードの導入だ。今回も肝心の部分は覚えているが、冒頭は忘れていた。それに、もう少し間があると思っていた。
「離れとこうと思ってたのに…」
「どうした」
いつの間にか、背後に来ていた承太郎が低く問う。
千時は振り返らず、小声で答えた。
「大声を出さないで。リアクションもしないで聞いて。ここは町じゃない。敵のテリトリど真ん中。アヴさんが前に、魔女が敵に荷担してるって言ってたの覚えてる? それ。エンヤ婆っていう、両右手のお婆さん」
「何?」
「J・ガイルの母親よ。今、周囲に居るのはみんなゾンビで、彼女の操り人形だから、こっちが気付いてるって知られるとヤバい。だから静かに」
「分かった」
承太郎はゆっくりと落ち着いた足取りで、通りを少し歩いていった。ただ町の様子を眺めているだけのように見えたが、千時のそばへ戻ってくると、舌打ちを一つ。
「来る途中で見た犬の死体が歩いていやがる」
千時は乾いた笑いをこぼした。昔から、バイオハザードが一番リアル遭遇したくない映画だと思っていたのに、よりによって。
「最初は普通に接触してくる筈だから、こっちから仕掛けるのは少し待った方が」
「そうか」
承太郎は飄々と、分かりにくい表情で頷いて、レストランの前で騒ぐ面子のところへ向かった。この場面は覚えている。クローズが掛けられて、どうせろくな話は出てこない。それに、死体の検分なんかしたくない。
千時は車に戻っていようとドアを開け、片足を乗り上げた、途端、凄まじい力で肩を後ろへ引かれて声も出ない、羽交い締めにされ、別の誰かに足を捕まれてやっと、悲鳴が上がった。
「池上さん!!」
気付いた花京院の声を筆頭に、全員が戻ろうとするも間に合わない。どこからか沸いて出た数十にも及ぼうかという人…いやゾンビが、通りを埋め尽くして、スタンド使い達の進路を塞いだ。
「傷を負わないで! 絶対! 一つも!! このスタンドは傷か
痛い。超痛い。後頭部が死にそう。
ぐぅっと顔を顰め、どうにか目を開いたが、暗がりでほとんど何も見えない。
さっきは…いや、何分経ったか知らないからさっきかどうか怪しいけれども…、このスタンドは傷から入ってきて操る、と叫んだつもりだが、途中までしか記憶が無い。たぶん…いやこの後頭部じゃ確実に、昏倒させられたのだろう。もうちょっと痛くない方法にしてよ、クロロホルムとかさあ。そんなどうしようもない感想が浮かんで消えた。
…エンヤ婆のスタンド能力が、彼らに伝わっていればいいが。
「フ、フ、フフ。起きたか」
背後から、老婆の妙な猫なで声がした。体を起こそうともがいて、両手両足が縛られている事に気付く。これじゃ動けない。頭だけでどうにか背後を見ると、千時よりさらに小柄な老婆のシルエットが、のそのそと歩いてきた。
「ガキのようだが、それでも、女じゃからのう。見目が悪すぎるのは困るでな。傷はピアスホールにしておいてやったぞい。ディオ様にお会いする時は、おばばが飾ってやろう」
千時はハッとした。言葉が分かる。エンヤの持つ霧のスタンドに、入り込まれているらしい。…まあ、体にいきなり大穴が開いているよりは、ピアスホールってんだから良心的かもしれないな。思わず苦笑すると、エンヤは渋い顔をした。
「気に食わん娘じゃ。涙の一つも見せておれば、可愛げもあるものを」
「ハハハ。こういうお化け屋敷じゃあさ」
千時は、何語かもよく分からない言葉が口から滑り出る事に驚きながら、笑った。
「彼氏が冷静だと安心してビビれるけど、彼氏がビビッてたらこっちの頭が冷えちゃうんだよ。今コレ、男ども全員パニクッてんだろーと思うと笑える」
キエエェェエッ!! と、奇声が耳に入った瞬間、杖で肩を殴られ、息が詰まった。
「いかん、いかん…。お前はあのお方に献上せねばならぬ…。これまで奴らの道中を助ける愚行を犯してきたお前に、ディオ様のものとなるチャンスを与えてやろうと言うのじゃ。素直に喜ぶがええ」
「冗談キチィわ。ジョジョが二人も居るってのに、ディオが勝てると本気で思ってんの?」
また杖が飛んできて、今度は足をしこたま殴られる。
千時は痛みに体を丸めた。
挑発するのは、さっさと殺してほしいからだ。あっさりと、至極あっさりと、千時は死を思っていた。このまま連れていかれて肉の芽でも植えられてみろ、ぺらぺら喋っちゃってディオが勝っちゃったらどーする。余計なことを吐かされない内に。単純な事だった。
「このクソババア。予言してやる。てめーは仲間に殺されんだよ。残念だったね、教祖様に見捨てられてさア。それに引き替え、私はなんて幸せなんだろう。あんたの息子を殺す手助けができて!!」
イイイイ痛い痛い痛い! さっきから手足ボコ殴りしかこない! 早く頭やってよ!
千時が涙目で耐える内に、エンヤはゼエハア、肩で息をしながら自らを押し止めてしまった。
「…テメェはまだ殺さねえ」
エンヤはしゃがんで千時の顔を覗き込み、世にも醜悪な笑みを突きつけた。
「ディオ様に、未来の全てをお話しするのじゃ。イーッヒヒヒヒ! テメエの「予言」こそ、ジョースターどもを殺すんだよオォ!!」」
ザーッと、頭のてっぺんから血の気が引く音を、千時は聞いた。
未来の全て? 何故この老婆が?
「ンッフッフッフ…。良い顔もできるじゃあないか」
エンヤはニタニタしながら手を伸ばし、千時の顎を撫で、穴の開いた耳たぶを引っ張った。
「教えてやるから、よぉぉーくお聞き。エンプレスが聞いていたのさ。お前さんのヒミツをねェ」
エンプレス?
一瞬、何の事だか分からなかった。
…ジョセフに仕掛けた腫瘍のスタンド? 何時? 何処で? 千時は必死に頭を回した。ジョセフは、例の本体と前日ぶつかった時に寄生されたのだろうと言っていた。その時点から先、話したことは何だった? 最も大きな話題はチャリオッツの能力について…だったはずだが、あの時は、千時について余計な話をした覚えがない。スタンドに関する考察は想像力や着眼点の問題だから、誰にでもできることだ。
他に何を話しただろうか。ジョセフが直接エンプレスに話すわけがない。本体と居たポルナレフ? それも違うだろう。あるとすれば、一行の誰かと誰かが、千時について話していた可能性。それをエンプレスが聞けた状況。
「…鬼平だ…」
愕然として、千時は呟いた。
あの時、承太郎に話した違う世界の未来について。インターネット。仮想空間と百科事典。それしか無い。ポルナレフを挟んだその後ろに、エンプレスの本体は乗ってきていた。そう、それで、バスを降りた時にポルナレフが取ってくれた首筋のゴミ、アレが凝固した血だったとしたら。
寄生している間は千時の一部だから日本語を理解できるかもしれない。千時が戦力でない事、スタンドを持っていない事も解っただろう。だから話を聞き終えた後、いつでも始末できるザコからは寄生を解除し、連絡だけ飛ばして、予定通りジョセフを狙った。それなら辻褄が合う。
……自分で喋ってしまっていたのか。
「こりゃポルナレフを笑えないわ…」
しかし乾いた笑みが唇に張り付く。
「オヤオヤ、オヤァア? 頭は悪くなさそうじゃあないか。気付いたようだね。どうしてあんなバカな失敗をしたんだい!?」
エンヤの高笑いが響き渡って、場違いにも、そこが天井の高い部屋なのだなあ、と考える。
「わしも到底、信じられんかったよ。じゃが、これまで差し向けた者共が、どれもこれも、あまりに綺麗に倒されすぎておる。スタンド能力を解析するスタンドは居らんし、内通者も探したが居らなんだ。エンプレスから連絡が来て、ようやく合点がいったんじゃわい。まったく、驚いたもんじゃ。別の世界の、それも、未来から来たなどとはな。それが嘘でも、予言を持っている事は本当のようじゃから困る」
まずい。こりゃどこかで隙をみて自殺するしかない。
しかし千時は焦った。実は随分前に、完全自殺マニュアルという本を読んだことがある。一瞬だけ売り出され、すぐに出版停止された問題作で、たまたま友人が買っていたのを借りることができたシロモノである。正直、自殺って難しいなと真剣に考えこまされる内容だった。何より、その本だったか他の文献だったか忘れたが、一番手近で道具の要らない、舌を噛む、という方法。あれは出血などで死ぬのではなく、舌が反射的に喉の奥へ引っ込み、窒息するというのがメカニズムなのだそうで、とてもじゃないがそりゃ無理だと驚かされたのだ。だってそんな、体が引っ込めるほどの痛みを自分で仕込むって時点で無理だろ、と。
「参ったな…」
呟いて、千時は目を閉じた。どうにか、誰かに殺してもらわなきゃ。考えて思わずまた笑う。なんだソレ。どこのメンヘラ。はて、メンヘラという言葉すら、今は存在しているのかどうか。
ここへきて、とうとう、少しばかりの諦めが沸いて出てしまい、千時はぼんやりと頭を床へ預けた。そうして、またハッと気付く。
外が騒がしい。
たぶん、助けに来てしまっている。千時のことがバレたとも知らずに。
「…エンヤ婆…さん」
千時はもう一度、一気に頭をフル回転させ、言葉に迷いながら口を開いた。とにかくこの場は、彼らの足手まといにならない事だけを考えなければならない。つまり、早く去るべきなのだ。どこでもいいから。
「分かった、私、死にたくないから行く。ディオのところでも何でも行くよ。そもそもさ、私、別の世界の人間だから、助かりたくてジョースターと取り引きしたんだもん。これじゃ割に合わない。…でも、一個だけお願い。早くして。こんなんじゃもう、皆の顔、見たくないから。お願い」
「ホッホ。ようやく自分の立場が分かったようじゃな」
エンヤは杖で千時のふくらはぎをゴリゴリとやって、満足そうに頷いた。
「では、わしの復讐を話してみよ。さすれば望みを聞いてやる」
狡猾な老婆は、ゾンビ数人を使って千時を抱き起こし、ぽいとソファへ座らせた。
「お前はこの町の事も知っておった。わしのスタンドをな。つまりは、奴らがどのように戦うのかを知っておるという事じゃろうて」
ソファがある部屋。天井が高い。広い。慣れてきた目に、うっすらと、ドアの明かりが解る。
エントランスの隣の部屋か。
アニメでホルホースが下に押し込まれていたソファに、今、座らされているわけだ。千時は目を動かしながら、必死に予言を考えた。
「…スタンドの能力が、操る事だとバレて、…操れる肉体が無くなればいいんだって…、それで…、アヴドゥルが全て焼き尽くした」
実際にありそうな、それらしい嘘。
信じるかどうか。
「…ふぅむ」
床に杖を鳴らして、魔女は、にっこりと優しげな笑顔をしてみせた。
「よし、よし。まずはよかろう。奴らは確かに、今、そうしておるよってな」
千時は驚愕を悟られないよう、俯いて顔を隠した。外の騒音は、実際にアヴドゥルが炎を放っているからだったのか。いや、無意識にそれを理解したから、今のでまかせを思いついたのかもしれない。
千時は次の言葉を考えながら、ゆっくりと体を前へ倒した。泣いているようにでも見えればめっけもの。
「おいおい、女の子を泣かせちゃあいかんぜ」
唐突に甲高い銃声が響き、エンヤがアッと声を上げた瞬間、千時の体はソファの後ろへと引っ張り込まれた。
身動きの取れない千時を抱えた男は、声を張り上げた。
「エンヤの婆さんよお、俺は、どっちかと言われりゃあんたの味方だが、それでも女性を傷つけるのはポリシーに反する。ちょいとこりゃ、やりすぎだ」
言いながら千時の縄をほどいて、ホル・ホースはウインクした。
「ありがと!」
千時は小声で感謝して、それから、両手で頭を抱えた。
「そうか!! 女だってだけで助けてくれたんだ! ごめん! こないだタックルで転かしたのに! 本当ありがとう! ごめんね!」
「え…、ああ、いや」
ホルホースは面食らったようだったが、すぐに優しげな笑みを浮かべて見せた。
「男に気を遣わせるのは、女の特権てもんだぜ。悪いと思うならキッスの一つもくれりゃいいのさ。だが、今はそんなことよりッ」
銃声二発。千時には見えない虚空からの拳銃を手に、ホルホースは背後に迫ったゾンビ二体を打ち抜いた。そのまま立って、エンヤを睨みつける。
千時は思わず、ズボンの裾を引っ張った。
「傷を負わないで! 傷から霧のスタンドが入り込む! そうなったら操られちゃうから!」
「ヒュー! 納得! それで街中、穴だらけで婆さんに従っていたわけか。お嬢ちゃんはさながら、知恵の泉の妖精だな」
「ホル・ホース」
エンヤが、いやに楽しげな様子で、ぴっと人差し指を立てた。
「何をしようと無駄じゃよ。正義のスタンド、わしのジャスティスの前ではな」
途端、千時は耳を引っ張られて悲鳴をあげた。ちぎれる! 穴をあけられた右の耳。痛みに体がもっていかれる。それなりの覚悟はあれど、精々が一般人、そんな、耳がちぎれてもなんて咄嗟に思えない。
「ほーれほれ、おいでおいで。人形はおばばと遊ぶんじゃ」
「くッそ! 堪えろお嬢ちゃん!!」
ホル・ホースは周囲から迫るゾンビを蹴散らかすのに手一杯。
千時は叫んだ。
「待って待って待っておばーちゃんッッ! 白状する!! ディオが勝つにはあんたがカギになるのよ!!」
「何ィ…?」
エンヤが訝しみ、耳を引っ張る力が無くなる。千時は時間稼ぎにその場へうずくまって、両手で右耳を押さえた。一秒も休まず、考えて考えて。ホル・ホースに頼んだら、殺してくれないだろうか。いや、この人じゃ無理だな。
「だ、大丈夫か!?」
案の定、ホル・ホースが片膝ついて覗き込んでくれたのを影にし、すかさずその胸元を掴む。聞こえるかどうかもわからないほど小さく、早口に、千時は吐き出した。
「助けてくれたお礼に教えてあげる。運命の女神がディオに微笑む事は絶対に無い。あなたに向ける私の言葉に従えば、あなたは逃げ仰せて生き延びられる。よく考えて」
肩に添えられたホル・ホースの手が、びくりと動いたのを感じ、千時は立ち上がった。横目にちらりと男を見、嘘をついてごめんねと、心の中で謝罪する。
賭けだ。一世一代の大博打。
「ディオは、あなたから譲られた鏃を他人にあげちゃったでしょ」
「なッ! なんじゃとオォ!?」
エンヤの驚愕は本物のようで、千時はその醜い老婆を睨み据えた。
「知らないの? あらまー、かわいそうにね。大事な大事な切り札だってのに。ディオは自分で手放しちゃってるのよ。もう既に。あなたは? まだ鏃を持ってる?」
「テんメェッ…矢のことまでもッ…」
エンヤの声は明らかに動揺し、さきほどより弱々しい。
「あっ! おい!」
ホル・ホースの手を振りきると、千時は痛みによろめきながらも、老婆へと歩み寄った。
「あなたも本物の鏃がどれか、知らないでしょう」
「ほっ本物じゃと!?」
「正確には、完全か、不完全か、ね。その鏃は、ディオを吸血鬼にした古代種族が隕石から削りだした。発掘された鏃は六個。だけどその内、完成品は二個しか無い。そもそも、その事実すら作中では明言されなかった。言っとくけど虫の彫刻は関係ないからね。物語の中の人物達は…つまりあなた達は、誰もそれを知らなかった。原作者だけが別の紙面で語った見分け方がある。もしあなたが鏃を手元に残していて、それが本物なら、私がディオを勝たせてあげる。けど、それはあなたじゃできない。なぜなら、あなたはもうスタンドを持ってしまっているから」
千時は淡々と続けた。外の騒音がどんどん近付いてくる。
どう転ぶかは解らない。死も覚悟したが、彼らが自分を助けることに執心してこの魔女を逃せば、もっと厄介になるだろう。
「スタンドを持たない者だけが、本物を見分けられる。私はスタンドを持つのなんて絶対にゴメンだし、触らないから、手に乗せて見せてみてよ。本物だったら、私は本当にあなたにつく。でないと自分が死んじゃうし」
沈黙の背後、壁越しに、誰かの声が聞こえた。近い。
「小娘め…。ならば方法を教えてみよ!」
「ダメだね。これは私の切り札だもん。それに無駄だよ。言ったでしょ、あんたはスタンド持ってるからもうダメだって」
「…後ろへ退がりや」
エンヤは厳かに言い、千時を数歩、下がらせた。触らせないためだろう。
見つめる先にある、恐ろしく思えたはずの老婆の手は、ただの節くれ立った、しわくちゃの、小さな手だった。
「どのようにして解る」
エンヤが、ほんの少し、石の乗った手を差し出した瞬間、千時は振り返った。
手を撃って。
口だけで告げる。
近距離だったからかそれとも、彼が待っていたのかは分からない。優秀なガンマンはノーモーションで銃声を響かせ、銃弾は正確に、エンヤの右手を一つ、後方へ弾きとばした。
千時は飛び散った石を追いかけ、両手を伸ばしたが、そりゃ銃弾が弾きとばしたのだから人間の足で間に合うわけもない。それどころか、落ちた老婆の右手が靴の下に入って…いやストレートに申し上げると踏んづけちゃって、ぬるっと滑った。
本当の窮地に陥ると、脳があまりに働きすぎて、周囲の流れをスローモーションレベルで認識するのだそうだ。床に落ちた石の、尖った先がこちらを向いているのすら、ちゃんと見えた。本当なんだな、なんて思う余裕があった。
大丈夫、抱き込んで離さなければきっと、彼らは間に合う。
ジョセフさん気付いてね、バイバイ。
衝撃でも痛みでもなく、左胸にかかる酷い圧迫感で、千時は目を閉じた。
が、次の瞬間に彼女を襲ったのは死でもなんでもなく、エレベーターで感じるような浮遊感だった。頭の中に、鈴のような甲高い音が響いている。リリリリリ、と鳴る音は、笑うような、嘲るような色を含んで、言葉ではなく確かにこう訊ねた。
何のため?
瞬間、突風が体を駆けた。
全身が痛くて目を開くと、視界一面、ぐるりと全部がピンク掛かっている。半透明の膜が張ったようだ。ゾンビは群を成して向こう側から叩いたり引っ掻いたりしているが、ピンク色はびくともしない。
体中で一番痛む両手を見ると、甲側に無数の小さな傷が付いている。エンヤにやられた大きな打撲とは別のようだ。
何が何だか分からない。正面ではホル・ホースが驚愕に目を見開き、向かいでエンヤが何か喚いているが、それも聞こえてこない。
そうだそれどころじゃない、鏃、鏃は、と、どうにか体を起こし、飛び散ったはずの欠片を探すが、どこにも無い。ひとかけらも見あたらない。胸に刺さったはずの一番大きな破片はどこ、と慌ててから、ふと、あれ? ブラジャー外れてる、なんて間抜けたことに気付いた。いや違う、手で確かめるとカップの下が一カ所、切れて、緩んでいる。
本気で、本当に、心の底から、嫌な予感がした。
パーカーの前を開け、シャツの切れ目から指を入れると、傷がある。塞がりかけの鈍痛。大きさはちょうど…千時は途方に暮れた。この世界へ紛れ込み、空条邸の前で立ち尽くした時と同じ感情が、ぽっかり口を開けていた。
どうしようもなくゾンビだらけの周囲を見回し、ピンクの障壁を辿って、天井を見る。何本もの筋を描いて、ドーム状に閉じたその上方、……。
……うん。はっきり言ってしまおうではないか。ネコミミ付きで顔は目しかないマネキンの胸から上が浮いてる、というのが、だいたい正しい。字面にするともの凄い。
リリリリリリ。
あの鈴のような音だけが、静かな内部に響く。カット済みの宝石をはめ込んだような目が、何故かころころと笑って、千時を見おろしていた。
どんな無理ゲー? こちとらモブだぜ。
「ハハハ…」
やっぱり、笑うしかない。
さて、どうしよう。どうもコレこそがスタンドというやつらしい、が、使い方わかんない。そもそも自分のものなのかどうかが怪しい。
千時は、動かないかなと念じてみたり、自分の手足を動かしたりしてみたが、まったく連動はしなかった。
そのくせ、地味に痛い。途中で冷静になってきてから気付いたのだが、ゾンビが薄ピンクの壁を叩いたり引っ掻いたりするのに合わせて、千時の手が傷ついているのだ。フィードバックの軽減…というより、千時の手のサイズに縮小されているらしく、ミリ単位のひっかき傷と、つまようじで刺したような痣や内出血が、プチプチ増えていく。チャリオッツの鎧とは違うらしい。ものすごく地味に痛い。
まだ耐えられるけどコレ、手が限界きたらどうしろっつーの?
真っ青になりながら、けれど、これを解除する方法すらわからないため、ぼんやり座っているしかない。
死にたくはなかった。
だが、それよりもっと、足を引っ張りたくなかった。
けれどしかしまさか、スタンドが出るなんて、もっともっと思っていなかった。
あの瞬間、思いついたのは、鏃で死ぬ事だけだったのだ。
「早く誰か来てよぉー…!」
千時は半泣きで呟いた。
エントランスからこちらの部屋へ飛び込んだのはポルナレフ。傷を負うなと言ったのが伝わったのか、守備優先で甲冑のままのチャリオッツがゾンビ数体を蹴散らした。それに間髪入れず続いたのが承太郎で、彼らは、喚き散らしている様子のエンヤ婆と対峙した。
そこからは、千時の記憶が間違っていなければ、アニメと同じ展開だ。承太郎が赤ん坊のゾンビに足をやられ、あわやと思われたところで、ダイソン見てるか状態の吸引力なスタープラチナ。霧のスタンドはあえなく呑まれ、本体であるエンヤが窒息したため、文字通り、雲散霧消と相成った。
アニメと違ったのは、彼らが千時の方へ駆け寄る同時に、エンヤがよろめきながら起きあがって、逃げ出した事だ。承太郎は部屋へ入るなり、千時のピンクドームに気付いていた。気が散って吸引が不完全だったのだろう。
何しろ音が何も聞こえないので、とりあえず千時はピンクの壁を叩いて、向こう! 逃げる! とやるのだが、案の定、向こうにも聞こえていないらしく、彼らは千時を包んだ謎の壁にご執心のままだった。千時がパニックを起こしているようにでも見えたのか。あながち間違いじゃないけれども。
二人は、不用意に触れようとはしなかった。一通り観察し、改めて周囲を警戒している。他にスタンド使いが居る可能性と、ドームを攻撃して千時が傷つかないかを危惧している様子が、手に取るように分かった。
千時は、もう大丈夫なのに、と上を見上げた。
宝石のような目は、キラリキラリ、男二人を興味深げに見おろしている。
「ねえ、あの、もしもし?」
こわごわ、声をかけると、ネコミミマネキンはくるりと縦回転して、千時に向き直った。
「…あの二人が、分からないの?」
ははぁ。ネコミミは固定式か。つんと内側を向いたままで、音を拾う動作がない、なんて心底どうでもいい事に頷く。よく目を凝らすと、マネキンの肩はスッパリ切れていて、その先に、テニスボールのような黄色っぽい丸が浮かんでいる。ボールは他にも四つ、肘かな? あたりと、手首かな? あたりに在った。そう考えると、このたくさんの筋が見えるピンクのドームは、両手を祈る時のように組んで丸くし、中に空洞を作った形なのだと理解できる。
それから、ぽつんと、心臓のあたりにハート型のタイルか何かが浮いていた。大きさは他の黄色い丸と同じくらい。色は違うようだが、薄ピンク越しだからよくは分からなかった。
宝石の目は千時の視線を追ってキラキラと動き、自分の形を把握しているのだと知ると、また楽しそうに、リリリリリ、と鳴いた。
「ねえ、あなたは…、私よね?」
それとも。
胸元を押さえる。
「…違う? 鏃?」
ネコミミマネキンは、しかし、なんのこと、とでも言いたそうに首を傾げた。
「ああもう何でもいいや。私の言葉は聞こえてるもんね。聞いて。あの二人は私の味方。助けに来てくれたの。もう大丈夫。安全。えっと…、これ、おてて? …おててよね? 開いてくれないかな?」
マネキンの頭は、急にクッと正面を見た。
視線を辿ると、承太郎とスタープラチナが、同じ目で同じ視線を寄越している。
しばらく値踏みするように、ネコミミマネキンはそれを見詰め返していたが、やがて満足したのか、千時に向き直って宝石の目で笑い、不意に消えた。
なぜか熱風が吹き込み、周囲のひどい熱からさえ守られていたのだと知れる。
「千時!!」
ポルナレフの絶叫が、ようやく聞こえた。
彼は転がるように駆け込んで、厚い胸板と太い腕の中に、千時を閉じこめた。
「良かった! 良かったッ…!!」
食いしばる口元から漏れる声と、微かに震える体が、殺された妹を想ってしまったのだと伝えてくる。あちこちが痛んだけれど、千時は、どうにかその背に腕を回して、そっと撫でてやった。
「生きてるよ、へーきだって。ほら…。…今、ポルナレフが…助けて、くれたんじゃん…ね…」
もっと慰めようと思ったのに、千時の意識はそこで一度、途切れた。
目が覚めた時、千時は、心の底から思った。
ぜえぇんぶ夢だったらなあぁー…、と。
「まだ寝ていてかまわんぞ」
千時の手に手を重ねたジョセフが、疲れきった顔で笑う。千時は頷いたが、ぼんやりと天井を辿って、部屋を見た。どこだか知らないが、ベッドに寝かされている。
あちこち痛い。なんて酷い展開だろう。
「…みんなぶじ?」
声がだいぶ掠れる。
ジョセフは、ああ、とだけ答えた。彼も余裕が無いようだった。いつも元気なキャラクターをした人に、こうもぐったりされると不安になる。
「てきは?」
「外へ出てきたところを、アヴドゥルが仕留めた。捕らえて情報を引き出すつもりだったが、発狂していて手がつけられなかったそうだ」
千時には納得できた。息子を見捨てた男の銃で片手を失い、捕らえたはずの小娘に鏃を奪われ、挙げ句、破られるはずのなかった自らのスタンドが倒されたのだ。おかしくもなるだろう。
「みんなにあいたい」
ジョセフの手を握り返すと、彼は、ひどく傷ついたような顔をした。
「ああ。だがその前に、千時、お前…、…スタンドを発症したというのは、本当か?」
覇気の無い声音を、どうしてだろうと考える。そうして彼女は、これで最後の砦であった日本へ帰すという選択肢が、本当に無くなったからだと思い当たった。もしかすると、情報の無いエジプト上陸以降は、問答無用で送り返すつもりだったのかもしれない。
「…わかんないけど、みんなが守ってくれるでしょ?」
ああ、そんな顔しないで。わざと冗談めかして言ったのは、不安を拭いたかったからなのに。
千時は空いている手をのばし、俯くジョセフの頬をそっと触った。何日も手を繋いで来たのに、間近で見ていた髭を触るのは初めてで、くすぐったい気持ちになる。
「すまん。やはり日本に置いてくるべきじゃった」
「ちがうの。ごめんね。私が自分でやらかしちゃったのよ。本当。説明聞いたら呆れ返るよ、きっと」
笑ってみせると、ジョセフは、義手とは思えない手つきでそっと、頭を撫でてくれた。
助けを借りて身を起こし、部屋を出ようとしたところでドアが開いた。
「あっ!」
ホル・ホースがバケツを取り落とし、水がこぼれる。その手には濡らしたタオルがあって、千時は目を丸くした。
「あぁ…、そうだ、良かった、居てくれたんだね。ありがとう」
「おまえ寝てなくていいのか!?」
開口一番そう叫んで、ジョセフの反対側へ回り、体を支える。いやそんな二人がかりってほど重たくはないはずだけど、なんて思いながら、千時は促されるまま廊下を歩いた。
隙間から灯りのこぼれるドアを開けると、全員が振り返った。エントランスは小綺麗で、拠点として手入れされていたのだと分かった。
「起きてきて大丈夫かよ!?」
ポルナレフがホル・ホースと似たような慌て方で駆け寄ってきて、ああ神よ、彼女の人生、初のお姫様だっこが電柱頭のフランス人に墓地のど真ん中でという悲しい事態が起きた。特に夢があったわけでもないのだが、しょんぼりな顔文字が頭に浮かぶ。
そのままちょっと運ばれ、千時はそーっとソファへおろされた。
「壊れ物じゃないんだから」
「だってよぉー!」
ぷーと頬を膨らまし、ポルナレフは隣に座った。
「えーと、何がどうなった?」
千時は続きを聞かずに、面々を見回した。
「それはこっちのセリフだ」
アヴドゥルが言い、つかつかと音を立てて千時の正面に立つ。と、ホル・ホースがソファの後ろへまわった。
あらまあ。ちらりと見れば、幸い、ホル・ホースにやり合う気は無いようで、アヴドゥルと目が合わないよう、体ごと斜めに窓を見ている。
「エンヤがお前の事を呪うと絶叫していたのはなぜだ? ホル・ホースが、お前が目覚めるまで待つなどと言い張る事になったのは? お前がスタンドを発現したというのは本当か?」
「アヴドゥル、スタンドは俺とポルナレフが確かに見た」
カウンターに寄りかかる承太郎が割って入る。
「ただ、コントロールは全くできてねえ。どういうスタンドか分からんが、安全と分かるまでしつこくガードしてやがったぜ」
「千時、全て聞かせろ。でなければお前をつれていけない」
「アヴドゥル!」
ジョセフが慌てて咎めた。
「ここまでわしらと来た上、スタンドが現れたこの子を、ディオが放ってはおかん。こうなったらむしろ、連れて行かんと危険すぎる」
「ですがジョースターさん、彼女が戦えるとは到底思えません」
焦ったようなジョセフと対照的に、アヴドゥルは険しい表情だった。
「これまで敵がノーマークだったから間に合ってきたが、それでも既に彼女は危機に遭遇している。背中に傷を負い、我々の戦いに飛び込み、今度は人質に取られてアザだらけだ。次は何です? タイムリミットがあるんですよ、我々には!」
「待って待って! 話すから! 詳しくね、オーケー!」
千時は喧嘩腰のアヴドゥルを止めようと、慌ててそう口にした。…してから、あれ? と、アヴドゥルを見上げた。
彼は、どこの国だか分からない謎の言葉を発している、なのに、解る。
「え? あれ? これ、スタンドで会話ってやつなの?」
「そうだ。私にもお前の言葉の意味が分かる」
アヴドゥルは大きなため息をついて、その場にしゃがんだ。片膝をついて千時に視線を合わせ、トーンを落とす。
「自分の身の危険は予言できないのか? 私たちと来るのと、ここで別れるのと、どっちがマシなんだ」
「…しんぱいさせてばっかだね。ごめんね」
千時はアヴドゥルの肩に両手をまわし、精一杯の力でハグした。大きな熱い手に背中を撫でられ、沸き上がるひどい罪悪感。彼に死ぬなと言っておいて、自分は彼らを置いていくつもりだった。
千時はゆっくりと体を離し、ソファへ座りなおした。
そのまま上を向く。
「頭っから説明する。まずホルホースさん、ごめんなさい」
ガンマンは、ちょっと眉を上げただけだった。
「先に謝ります。あの時の話は、半分ほんとで半分ウソ。あなたに話した事は本当だけど、エンヤ婆に話した事はただのハッタリ。作り話」
「そいつァ解ってる」
ホル・ホースは、彼に似つかわしくない真剣な色の目で、千時を見おろした。
「一言一句間違い無く、この耳で聞いたぜ。あなたに向ける私の言葉に従えば、あなたは逃げ仰せて生き延びられる、ってな。あのエンヤが予言とやらを信じていたし、こいつらも」
言いながらホル・ホースは、千時の正面のアヴドゥルと、隣のポルナレフをそれぞれ一瞥し、睨み合う。
「あんたを信じている。となれば、事の次第を聞いておきたいわけさ。だから俺はここに残って待ったんだ」
「うん。あなたの今後については教える。鏃についての事もこれから話す。だから聞くだけ聞いていって」
「だが何故、俺の事をそこまで気にかけてくれるんだ、お嬢さん。俺は敵だぜ。たとえ、女性だからというだけであんたを助けたとしても、だ」
「個人的には、あなたが助けてくれなかったらストレート負けで死んでたから。単純にそういう話。個人的じゃない理由もある」
「どんな理由だい?」
「あなたは善でも悪でもない。自分を最大限活かすための最善の方法として、他者の影になるだけ。でも、光が無くちゃ影は出来ない。私が今、あなたから、ディオという光を消す。そうすればあなたは、逃げ延びることが出来る。つまり、無駄な死人が一人減る。どう? 一番よりナンバー・ツーさん?」
言葉はそれらしく変えたが、どこだかに作者がインタビューでどうたらこうたら、こんな話を読んだ記憶があった。
ホル・ホースの顔を見るに、どうやらビンゴだったようだ。
ニヤリとしてみせれば、全員が息を飲んだ。