スターダストテイル   作:米俵一俵

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31.星屑の帰る場所

 二人の赤ん坊は予定通り、アメリカへと移送された。SPW財団本部の医療施設で精密検査を受けるそうだ。

 翌日、財団職員がポルナレフの出国制限を撤回すると同時に、帰国のチケットが手配された。こちらが解散しない限り、警察は勿論、外のマスコミを散らすのも難しかったからだ。

 チケットは更に翌日の、1月9日付だった。

 ホテルで缶詰だったにも関わらず、何となくてんやわんやで日々が過ぎ、スモークグラスの車で空港へ送られるまで、全てがあっという間だった。

 

 

 渡された航空チケットと、例のメモ帳に書いた小さなカレンダーを眺めて、千時は目を丸くした。

「お?」

 思わず出た素っ頓狂な声に、足下のイギーが胡乱げな顔をし、隣のアヴドゥルが振り向く。

「何だ」

「いや、運命的だなあって」

「運命?」

「今日、私がこの世界に来てからちょうど五十日だった」

「何…」

「見る?」

 カレンダーを渡すと、アヴドゥルは目を凝らして数え出した。

「何々。五十日がどうした?」

「ポルナレフ。手続きはちゃんと済んだのか」

「おう。俺ンとこの便ときたら、三時間後にならなけりゃ分からんのだとよ。で、何の話?」

「ああ、いやな」

 戻ってきたポルナレフも加わって、数字を頼りに指を折る。

 空港まで車を出してくれた財団職員達が案内したのは、かなり奥まった場所にある、この小さなVIPラウンジだ。VIPとは言いながら、さして広くもなく、長いソファが二台とガラスのローテーブルが置いてあるだけなのだが、どうやら、他のラウンジと違って他人が入らない秘密の部屋らしい。ここなら余計な人間は来ませんと丁寧に言いおいて、彼らは簡単に別れを告げ、市内へと戻って行った。エジプトでの後始末は、彼らとアヴドゥルの仕事だという。

「あっ、俺らもしかして留置場で年越しちゃったのかア!?」

 ポルナレフが千時を挟んでソファに転がり込み、悲鳴を上げた。

「今気付いたの?」

「オエーッ! 何てこった!」

「職員さんとハッピーニューイヤーしてケーキ食べたの私だけー」

「こんにゃろ! …まあ、ここ何年もクリスマスすら飛ばしてきちまったし、代わり映えしないだけと言やあそれまでなんだが」

「ああそっか。ちなみに今年のクリスマスはー…」

 アヴドゥルから戻ってきたメモは日本語なので、彼らでは内容が読めない。見てみると、23日はただ一泊して…そうだ、気まずくてフテ寝した日だ…、続く24日は。

「お子ちゃまにされてましたね」

「マジ!? ヒッデえタイミング! せめてサンタが来いっつの」

 アヴドゥルが笑いだした。

「ちょっと来ないかもしれんなあ」

「エジプトだから?」

「キリスト教徒は少ないし、さらにその中のコプト教という宗派のクリスマスが一月七日なものだから、大体まとめてニューイヤーだ。うっかりすると一日がクリスマスと信じている奴が居るくらいだぞ」

「はー。お国事情だなあ」

 聞いていたポルナレフがきょとんとした。

「日本だってブッダの国だろ? クリスマスすんの?」

「あー…」

 実は日本、仏教国ではない。分類としては単独で神道の国になっている。しかし、生まれたら神社にお礼して教会でウェディングして死んだらお寺で仏様、なんて、説明したら長くなる。

「日本はお祭り大好きだから何でもやるよ。クリスマスなんて一大イベントになってる…から、ねえ、次のクリスマスとかカウントダウンとか、みんなで一緒にしようよ」

 話しながら思いつき、二人の手を左右に取れば、ポルナレフとアヴドゥルはちょっと顔を見合わせ、そりゃいいや、と頷いてくれた。

「何だか知らんが楽しそうじゃあないか。仲間に入れてくれ」

 声に振り返れば、ジョセフがドアを潜ったところだった。

「来年…じゃないや、今年のクリスマス、皆でしようよって」

「オー! だったらわしのところに来い! 何せアメリカのデコレーションはジョークじゃあ済まんからな」

 はっはあ。そりゃそうだ。

 ポルナレフがドアの方を見た。

「あいつらにも言っとかなきゃあ。承太郎と花京院は?」

 そういえば一緒に出ていった筈だが、学生二人の姿が無い。

「買い物があるそうだ。すぐ戻ってくるじゃろ」

「そうか…変なのに捕まらないといいが」

 電柱頭をがりがり掻いて、彼はギュッと渋い顔をした。

「さっきよお、雑誌だか何だかの奴らにとっつかまって、ダッシュで逃げたんだよねえ、俺」

「ハハハ。ま、あんなんは敵と同じで、慣れちまえば遠くからでも見て分かるようになる」

「え、ジョースターさん慣れてんの?」

「これでも結構、経済誌なんかに載っとるからねェン」

「へーえ! 今度載ったら教えてくれよ」

「不動産だの経済だのが分かるのか?」

「違うって! 顔見るからア」

 しばしの雑談は、それじゃあ次に目指す街をなんて地図が出てきそうな調子で、もうそんな事は無いと思うと急にぽっかり穴が空いたような気がする。何せずっと一緒に居た。六人と一匹の大所帯が、こんなにべったり固まって旅をする事はまず無い。正に異常事態。しかし何とも居心地の良すぎる異常事態だった。

 顔にでも出ていたのか、アヴドゥルが頭を撫でてきて、千時は笑った。

 こんな寂しさくらいどうってことない。また会えばいい。もう陸路じゃあないから、空を行けばほんのちょっと。アヴドゥルと水路の話の続きをしたいし、ポルナレフにはなんで爆弾使ったことあるのと直接訊きたい。ジョセフに話すことも色々ある。息子の件は勿論、携帯やウォークマンを見せたい、強奪されそうだけれど、きっとおもしろがる。

 取り留めも無い思いに気を取られていると、アヴドゥルが眉根を寄せた。

「泣かんでくれよ」

「え、なんで。泣かないよ」

「だったらそんな顔をしてくれるな。気が咎めてしまうだろ」

「どんな顔か分かんないんだけどまあいいや、分かった分かった」

「本当かア?」

 ジョセフが割り込んできて、さらに頭をグリグリやられる。キャーなんてフザケていたら、手直しではきかない程クシャクシャにされてしまった。

「やりすぎやりすぎ! 結びなおしてこなきゃいけないじゃんか!」

「もうここでやっても構わんじゃろ」

 ジョセフはいたずらっぽくウインクし、千時の頭をポンポンとやってから手を引っ込めた。あらまあ。思わず苦笑する。

「お見通しだった?」

「わしに隠し事ができると思うなよオ」

「それどころじゃないだろうと思ってたから」

「二人して何の話だ?」

 首を傾げたポルナレフにはジョセフが顔を向けたので、千時は頭に手をやって、ヘアゴムを引き抜いた。

「千時はな、髪をおろすところを一度も見せずに、旅を終えたんじゃよ」

「えっあホントだ!」

「そ、そういえば…」

 ポルナレフとアヴドゥルが仰天し、ジョセフがカラカラ笑う。

「寝る時までひっつめとったんだよなあ」

「そうでしたね、確かに。言われてみればそうだった」

 アヴドゥルが何だかもの凄い感心した顔で、いや、そう凝視されたら髪とはいえ気まずいんですけど。パッパと適当に結い直し…かけたところで、ポルナレフがゴムを取っていった。返せと言う間も無い。無骨な指から魔法のように綺麗なポニーテールができあがった。

「手慣れてる理由は「皆まで言うな」だぜ」

「オーケー、言わない。ありがとう」

「何なら編み込みでもお団子でもしてやるよ。お前、そんなに気ィ遣っててよく疲れなかったなあ」

「むしろ逆方向に気を遣わなきゃいけなかった方が大変だったと思うよ。時間かかるわ歩きにくいわ暑いわ寒いわ動けんわで。大体、目の保養なんぞ腹の足しにゃあならんのだぜ」

「女の子がそういう事言わない!」

「ハイハイ。とは言え、やっぱお小遣いねだっちゃえば良かったとは思った」

 千時が見上げると、ジョセフは髭を撫でた。

「足らんかったか?」

「そうじゃなくて、日本を出る前。ショートにしようかとも思ったんだけど、そのお金をジョセフさんにねだらなきゃいけなかったから。今なら頼めるけど、あの時はまだちょっとね。しっかし昼のポニテは椅子の背もたれに当たるし、夜の結び目は首ゴリゴリするし、全体的に髪が超ジャマな旅だった」

「ああ、なら結果オーライだな。どう考えても、お前さんにショートヘアは似合わんもの」

「えー」

「えーて。髪は女の命なんじゃろ?」

「人によるそして私は違う」

「えー!?」

 何故か不服そうなご老体を三人で笑い、またひとしきり雑談に花が咲く。

 やがてどこから話題が移ったのか、ポルナレフが愚痴混じりにチケットを出して見せた。

「結局、日本行きが一番早いのか?」

「そうじゃよ。予定ではわしが先だったんだが、アメリカ行きも遅れとるらしい。お前さんはもっとかかりそうか」

「夜までに出発できるんだかも怪しいぜ。下手したらアヴドゥルとホテルへ逆戻りかも」

「ハハハ」

 まあ発着時刻の適当さときたら、さすが海外。この一ヶ月ちょっとで千時もすっかり慣れっこだが、列車もバスも何もかも、定刻は無視がデフォルトだ。昔読んだ旅行記か何かに、どこだかマイナーな国で珍しく定刻通り列車が来たと思ったら遅れに遅れた前日のだった、なんて書かれていたのを覚えてはいたが、まさかこんなにガチな話だとは思ってもみなかった。

 現に今も、チケットの時刻からすれば搭乗ゲートへ入るべきなのだが、カウンターの案内で三十分の遅延確定。それでも三十分なら早い方だと思えるあたり、のんびりしたものである。

「千時」

 ジョセフが、ふと思い出したように呼んだ。

「この後、わしはダラスに向かう。赤ん坊の送り先だ」

「えっ、あ、はい」

 軽やかな調子で話し始められて、千時は逆に緊張し、体ごと向き直った。ジョセフはそれに気付いて苦笑すると、ソファを回り込み、千時の正面にしゃがんだ。

「お前さん、ブロンドの方に付けたい名前はあるか?」

「は?」

 千時は目を丸くした。

「承太郎から、お前が名前の候補を考えとるかもしれんと聞いた。どうだね。聞かせてくれんか。爺さんの方はジョナサンでいいが、もう片方はカルテが空欄なのだ」

「空欄?」

「残党がどれだけ居るか、見当も付かんからな」

 ジョセフの声音が固くなり、アヴドゥルとポルナレフの纏う空気も一瞬、引き締まる。

「少なくとも、ホル・ホースや…ボインゴとかいったか、ディオの存在を知っていた者達が確実に居る。名前をそのままにして要らぬ火種を撒いては、本末転倒じゃ。救いたいんだろう? アレを」

 千時は、真っ直ぐな碧の眼から視線を外し、しばらく考え込んだ。

 膝に握った両手の拳を、ジョセフの義手が宥めるように撫で、不安を消していく。顔を上げ、再び目を合わせた時、ジョセフはいかにも老人らしく優しげに笑っていた。

「ジョセフさん。あの子達の戸籍、どうなる? もし検査が大丈夫で、本当に育てられるってなったら、引き取る人の候補とか場所とかはある?」

「ホリィかわしだ」

 ジョセフは頷き、即答した。

「最良なのは、何かあった時に承太郎が近場に居る環境だからな。東京の家に頼んでみる。ダメならわしが引き取ろう。但し、そうなったらお前がこちらで一緒に暮らしなさい。そばに居るべき人物の二番手がお前だ。わし一人では…いや、他の誰が居ようと、問題になる能力は承太郎か千時にしか対処できんだろうからな」

「分かった」

 千時もまた即答し、笑みを返した。

「なら、彼の名前はジョンがいい。今度こそジョースターの子であるようにJ、Oの二文字を。そして今度こそ、どこにでも居るありふれた人間で居られるように、ありきたりな名を」

 身元不明者をジョン・ドゥと言うほどだ。それにジョンは、ジョナサンの愛称の一つでもある。

 ディオ・ブランドーは、元よりとてつもなく頭の良い少年だった。無事、順調に育ったとしても、謎に包まれた己の出自にはどこかで躓くだろうし、そうでなくとも、あらぬ事を考える瞬間が訪れるだろう。そういう日に、彼を押し留めるものを与えたかった。孤高の悪などではないのだと、きっぱり言い渡せるものをだ。

 …踏み込みすぎだろうか。

 発言は後悔していないが、〝ジョジョ〟の名を分け与えろと強請ったのだ。ジョースターの人間にとってそれは、許すべからざる事かもしれない。いや、本来なら当然、そうだろう。そもそも、ディオをジョースター家に迎え入れなければ、こんな歴史は刻まれなかった。

「ああ分かった。ジョンにしよう」

 ジョセフの答えに、千時は飛び上がった。

「本当!?」

「お前さんの想いが詰まった、良い名だと思う。わしも、あの子がそうであるように祈るよ」

「ほ、本当にいいの…!?」

「いいとも。チャンスをやろうと決めたのは、お前一人じゃあないんだ」

「ありがとう!! ありがとうジョセフさん!!」

 千時は彼に飛びついて、感謝の言葉を何度も繰り返した。ジョセフはよしよしと満足そうに背を叩いてくれて、それが千時には嬉しかった。

「だそうだが」

 あれ? 唐突な花京院の声がして、ドアへ振り返ると、いつの間にやら学生二人がドア脇に寄り掛かってニヤニヤしている。

「どうなんです、ジョジョ?」

「いいんじゃあねえか。そいつがきっちり腹キメたってだけでも、これまでより上等だぜ」

「池上さん、良かったね」

 花京院は屈託無く微笑んで、自身の感想は差し挟まなかった。その気遣いに感謝して、千時は笑い返した。

「二人とも遅かったな」

「大丈夫だったか?」

 アヴドゥルとポルナレフが言って、二人は中に入ってきた。

「記者連中がうろうろしてただろ」

「ええ。二、三度、声をかけられました。肖像権や名誉毀損で訴えますから名刺をくださいと丁寧にお願いしたんですが、断られてしまいましたよ。根性の無い奴らだ」

「花京院やるう! 次ソレ使お」

「そこまでして、何を買いに行ったんだ? 空港内に大した土産物屋は無かったろうに」

 アヴドゥルが首を傾げる。花京院は下げていたビニール袋をガサガサやって、四角い箱を取り出した。

「インスタントカメラです。写真を撮る約束だ」

「そうだった!」

 ポルナレフがニカッと笑って立ち上がる。アヴドゥルも目を細め、ジョセフがイギーを拾い上げた。

「じゃあ、外で誰かに頼んで…」

「それなんだが」

 花京院は、ゴホン、とわざとらしい咳払いをした。背後にはハイエロファントグリーンが姿を現し、花京院の手からカメラを受け取る。太めの触脚をひょいと延ばし、レンズをくるりとこちらへ向けて、彼は何とも感慨深げに力説した。

「こういうのこそ! 僕は! いっぺんやりたかったんだよ! だってそうだろこんなに便利なんだぞ僕の友達はッ!!」

ああそうだねコレ、こういうのやりたいスタンドだよね。

…一拍おいて全員が盛大に笑いだした。

「ハーッハハハハ! そりゃ無理だ!」

「外でやったらただのポルターガイストじゃねえか!」

「そうなんだよ!! けど撮れるんですよ僕は! なのに家族写真すらわざわざ他人に頼むという、この、この何とも言えない感じ! 分かるか!?」

「分かる分かる」

「ですよねアヴドゥル! あなたライターもマッチも何ならコンロも要らないでしょう!!」

 ヌハハハハ! アヴドゥルがうんうん頷いて花京院と肩を組み、その背中をヒーヒー笑いながらポルナレフが叩く。

 わいわい寄り集まって、カメラに向かった。約束通り、全員揃って。

「ますます良い思い出になっちゃうね」

 前列にされた千時が見上げると、彼は笑いっぱなしで頷いた。

「ああ。僕にとって、とても特別な写真だ。さあ皆! 撮りますよ!」

 日本式に、はいチーズ! 

「…そういやなんでチーズなのかな」

「さあ?」

 グーグル先生が居ないので、解答はお預けである。

 

 搭乗ロビーの前まで移動するのに、男性陣は千時を壁側へ寄せ、アヴドゥルのローブと承太郎の学ランで隠して行った。彼女の身元が最も怪しいからである。

「急いで作ったんでな。ほじくり返されると、細かい書類が揃っとらんかもしれん」

 歩きながらジョセフはそう断り、千時に釘を差した。

「日本での事はホリィとサダオに頼んであるが、あまり下手な事を喋るな。特に警察だ」

「えっ、日本の警察にも呼ばれる?」

「爆破じゃなく花京院の事で、多分なあ」

 当の学生は、また数人の取材クルーに突撃し、慇懃無礼に名刺を強請っている真っ最中だが。

「向こうの空港に両親と警察が待っとるからして」

「あちゃー…。結局、全員が見落としてたんだ?」

「わしは頭っから忘れとって、メグロの者もお前が頼んだ手配でてんやわんやだったとさ。報道で気付いてから、慌ててあちこちへ掛け合ったそうだが、いかんせん本人不在で無事も証明できんかったろう。そこへエジプトの警察から連絡がいったもんだから、もうわやくちゃだ。仕方あるまい」

「分かった。何をどうとか分かんないけど気をつける」

「承太郎、お前もだぞ」

 話を振られた学生は、まるで意に介さず肩を竦めた。

「花京院の事なら、本人の方が弁も立つ。俺は黙秘で充分だぜ」

「こいつ、助け合いってモンを知らん」

 ブツクサやっていると、当の花京院がまた名刺をくれなかったと不服そうに戻ってくる。承太郎は半笑いで問いかけた。

「花京院、助けが要るか?」

「何だって?」

「日本のサツにどう言い訳するか、だとよ」

「ああ、神隠しか何かでいいんじゃないか」

 行方不明の高校生は、あっけらかんと頭を掻いた。

「僕、家の中ではオカルト担当なものでね。パスポートは失くしたという事にして、まあ、気付いたらエジプトに居ました、でも家族は黙ると思います。警察は時間をかけるしかないでしょうが」

「マジでぇー!?」

 ジョセフはマジとか言っちゃうほど困惑しきりだが、千時はホテルで少し聞いていた話だった。いやまさか本当にそれでいいやと本人が断じているなんて思わなかったが。この人、時々ものすごい大胆で大雑把だ。

「いっそ荒唐無稽なくらいがいいですよ。ハンハリーリの雑踏でさまよっていたところを池上さんが拾った、くらいの」

「ちょ、おい。人選」

「承太郎じゃあ拾いそうにないだろ」

「そりゃそうだけど」

 承太郎が噴き出し、呆れたジョセフが勝手にしろと呻いている。その先の細かいことは、機内ですり合わせることとなった。

 さあ、とうとう本当にお別れだ。

 搭乗ゲートの手前で、また記者を見つけたポルナレフが見せ物じゃねえぞと追い払いに行った瞬間、千時はアヴドゥルの服を引っ張った。

「うん?」

 他の三人は話し込んでいるようで、彼だけが振り返った。

「アヴさんが一番、フランスに近いよね」

 アヴドゥルは不思議そうに首を傾げたが、千時の目を見てたちまち険しい表情になり、立ち止まった。

「千時。お前はやはり、タロットそのものなのだな」

 どうだろう。今はまだ、あと少しだけ、そうかもしれない。自分の知る未来が、敵の順番のように並んで全て押し寄せてくるのなら。

「ポルナレフから目を離さないで。絶対、一人にしないで。だけど、あなたも死なないで」

「おやおや。注文の多い予言だ」

「うん。ごめん。でも、それまで私が居るかどうか分からないから」

 アヴドゥルは弾かれたように千時の肩を掴んだ。

「まさか、元の世界への手立てが見つかったのか?」

「違う違う」

 あまりの剣幕に少し笑ってしまったが、相手はまったく真剣で、こちらも声のトーンを落とす。

「でも、こういう展開のお話じゃ、よくあるでしょ。私みたいなキャラクターは事件が済んだらさようなら、って。だから、トートバッグと化粧ポーチは、どこにも持ち出さないで承太郎の家に置いておく。お願い」

 本当は、遠近や地理など問題ではない。運命と呼ばれる何かが問題なのだ。ポルナレフがそれに最も振り回される。アヴドゥルがそれを最も理解している。

「分かった」

 本当はこの旅だって、彼は二度も死を遠ざけるポルナレフの救世主なのだから。

「絶対だよ」

 感謝を込めて肩の手に手を重ねると、アヴドゥルは何ともいえない複雑な表情を浮かべた。

「私からも二つ、頼んでいいか」

「なあに?」

「日本に着いたら、着いたという連絡をくれ」

「そんなこと? いいよ、勿論。どうしたの?」

「さっきお前が数えた五十日という暗示的な日数が、どうも気懸かりでな」

 ああ、彼はもしかすると機内で消えたりしやしないかと思っているのだ。千時は、しかしそれを保証できない。何せ、空条邸の前へ出た時だって、何がどうしてそうなったのか、まるで分からないからだ。

「分かった。着いたら連絡する」

 着いたら、を少し強調してそれを伝えた。

「もう一つは?」

「託された保険を破棄したい」

「え」

「元の世界へ戻る方法が見つかっても、できるなら、どうか留まってほしいんだ。誰だって大切な友人は失いたくないものだよ」

 千時はさすがに返事をできず、ローブに抱きついた。

「頼めるかな」

「うん。がんばる」

 守れる約束かどうかではない、だから「頼み」だと彼は言う。つまり答えは気持ちで正解。

 顔を上げて笑いかければ、褐色の顔もやっと微笑んだ。

「おおい、お二人さん。時間が無いんで邪魔するぞお」

 少し先に居たジョセフから声がかかり、そちらへ追いつくと、それぞれに一枚の紙切れが配られた。B6ほどの大きさで、こまかい英字と電話番号が綴られている。

「配り忘れるとこじゃったわい。連絡先の一覧だ」

「おお! これで電話できるね」

 しっかし印字がこまかい。やたらガチャガチャしていると思ったら、住所まで記載されていた。目を凝らしていると、横からアヴドゥルの指が番号を指した。

「国の番号も頭に載っているから、これを続けて押すんだぞ」

「やーだアヴさん、子供じゃないんだから分かってるよ」

「ハハハ。すまん。だが頼む」

「ん?」

「私からはかけられないようだからな」

 リストには、千時の名前だけが無い。

 少し悩んだ彼女は、ショルダーバッグの中を漁ってボールペンを捜し当てた。

「アヴさん、それ貸して」

「うん?」

 用紙を引ったくり、壁に押しつけ、番号を書き足す。

「これ私の」

 返した紙きれを褐色の指が受け取って、面食らった様子で眺める。

「未来のだから繋がらないけど。私の携帯」

「携帯?」

「クリスマスに会えたら詳しく教える。会えなかったら、未来で分かる」

 わざとらしくニヤッとしてみせれば、アヴドゥルは苦笑し、紙をローブの内側へしまい込んだ。

「なあなあ、ソレ俺にも書いて」

 後ろから紙を差し出したのはポルナレフだった。

「繋がらないからかけちゃダメなやつだけど」

「おう。お前って、時々すッげー謎な」

 機と見たのだろう学生二人がアヴドゥルを呼び寄せ、向こうも別れの挨拶を交わし始める。ああ本当にお別れだなと実感しつつ、千時はまた壁を下敷きに番号を書き、通じないからねと念押ししてポルナレフへ渡した。

「メルシー」

「こっちこそいっぱいメルシー。これからはあんま無茶しないで、アヴさんの言うこときくんだよ」

「ちぇっ、何だそれ。ガキじゃねえぞ」

「ハハハ! さっき私も同じこと言った!」

 丸太のような腕をぺちぺちやって笑うと、電柱頭のフランス人は何とも言えない変な顔をした。

「なあ。お前、フランスに来るか?」

「は?」

「家が無いどころか、この番号すら通じないんだろ?」

「え、通じないけど…」

「俺ん家、部屋余ってるしよ。ちょっと田舎だけど、景色の綺麗な良いトコだぜ。帰るトコにしてやっても…いいと思ったんだがいやいやいやルームシェアの話だぞ勘違いすんなよ分かってる?」

 自分で言って、勝手に慌てふためいていては世話がない。千時は思わず噴き出し、分かってるよと笑ってしまった。そのお喋りな口に他意が無いことなど、皆ちゃんと知っている。

「約束と一緒に覚えとく」

 千時が答えると、彼は、あ、という顔をした。

「そうだな。覚えとけ。来たくなったらいつでも来うおわッ!!」

 悲鳴と共にのけぞった顔に、なんというタイミングのボストンテリアか。最後までジャンプ力ハンパない。

「ぐおッ! てッ…てめええーッ! ご主人様に向かってなんつう…ぎゃー! やめろ…やめて! クッセええぇーッ!!」

 さっさと後ろへさがった千時は嗅がずに済んだが、何で毎度ポルナレフだけ直撃なんだろうねえ。ひとしきり、ポルナレフいじめの儀式を執り行って、イギーは床へ降りた。フンと鼻を上げ、胸をそらしてお行儀良く座る。

 何となく目が合ったので、千時はしゃがんだ。

「やっぱお前が連れてった方がいいんじゃあねえのかア?」

 涙目のポルナレフだが、彼は知らない。この小さな紳士は、彼を救って死ぬはずだった。

「イギーが自分で選んだんだから、ポルナレフがいいんだよ」

 そして何と、物語に従ったわけではあるまいに、実際、彼を救ったのだ。ポルナレフが単独で亜空間のスタンド使いと出くわした時、イギーは助けに入った。彼は、少し離れた地下通路の出口でお菓子の山に囲まれ、のんびりしているはずだったのに、それを蹴って駆けつけた。イギーがいなかったら、そして最後に花京院が間に合わなかったら、自分は死んでいただろうとポルナレフは語っていたのだ。

「イギー。ポルナレフをよろしくね」

「ええ? 俺にイギーをよろしくじゃなくて?」

「イギーちゃん、イギー大明神様、なにとぞ電柱をお見守りくださいませナムナムー」

 しまった、明神には南無じゃねえわ。どうでもいいな。

 千時は、フスンと鼻を鳴らしたイギーを抱き上げ、顔を寄せて撫で回した。彼の嫌がる事だから、これまであまりしてこなかったのだが、心得た紳士は別れすらちゃんと気付いていたのか、為されるがままだった。それどころか、胸元に鼻をすり寄せてくれたのだ! 

「ありがとう。一度バイバイだよ。元気でね」

 額にキスを一つして、床へ降ろす。

「何だよ何だよ、イギーばっかり」

 ポルナレフが不服そうに言って自分もしゃがみこみ、イギーの頭を小突いた。

「俺にはハグもキスも無いのによオ」

「そうやって犬と同じ高さの舞台に立つからナメられるんだよオ」

 千時は、ポルナレフの首に思い切り飛びついてやった。しゃがんでいるのに、この勢いで尻餅をつかないのはさすが。

「日本人なのでキスは無理!」

「おう知ってる! 花京院にブン殴られたからな」

「マジか!」

「マジだ! 挨拶だってのにもー、こっちがびっくりすんぜ」

「カルチャーショックですな…ぎゃあ!!」

 ポルナレフがいきなり立ちあがったのだ。

「色気のねえ悲鳴だこと!」

 千時を抱き上げたまま、ガハハと笑う。

 大きな手で頭を、肩を、背を撫でて。

「グッドラック。また会う時までな」

 頬にリップ音を一つさせ、降ろす。

 ……。

「まさかの犬扱い!!」

「ワハハハハ! 同じくらい小っこいんでついつい」

 と言った途端にギャーッと飛び上がったその足、ふくらはぎに食いついているイギーさん。よくできたコンビだこと。

「イギたん賢い! やっちゃえやっちゃえ!」

「いだだだだ!! かわいくねえ奴らめッ!」

 首根っこ掴んでぶら下げたイギーに、ほらそうやって鼻を寄せるからブーッとやられるんだよ。千時は笑いながら数歩、逃げた。

 そんな自分の笑い声に紛れて、それは聞こえた。

「おい。千時」

 他の声なら、驚いたりなどしない。彼女は一瞬、聞き間違いかと疑りながら振り返り、やはりそれが空条承太郎の呼びかけだった事を知って、呆気に取られた。

 名前を呼ばれたのは、これが初めてだった。

「そろそろ時間だぜ」

 彼女の驚愕には気付かないようで、承太郎は、その手を差し出した。初めての事だのに見覚えがあるのは、これまで迷子防止にジョセフがしていた事を、彼が真似ているからだ。

「ああ…はい。うん」

 いいのかなと戸惑いながら重ねた手だったが、大柄な学生は、本当に何気ない様子で握っている。

 唐突に、ひどくホッとした。

 右手を包む大きな手に、他の誰の手より安心した気がした。

 なぜかと考えた時に思い浮かんだのは、結局、どんなありきたりな感情でもなく、必死で握り返さなくていいというだけの事だった。

 彼は死なない。自分が引き留めなくても、生きていてくれる。この手を離して遠くへ行っても、そこに居る。何の心配も要らない。

 生きていてくれるのだ。

「もっと早く、手を繋げばよかった」

 そうしたら、彼こそが拠り所だと、すぐ分かったろうに。

 学帽を見上げれば、承太郎は少しばかり眉を上げ、不思議そうに瞬きをした。

「承太郎!」

 ポルナレフが、ガッと肩を組んで喚く。

「楽しかったぜ! クッソ楽しい旅だった!!」

「おう」

「花京院!」

 パッと飛んでいって、あああ! まさかのピシガシグッグがこんなところにズレ込むだなんて!! パン2丸見えも見たかった!! 

「三人とも」

 最後にジョセフが軽く手を振った。

「わしは予定が決まり次第、そっちへホリィの顔を見に行くからな」

「うん」

「待ってます、ジョースターさん」

 搭乗ゲートに入り、またね、と言い合って。

「さて、承太郎。帰宅するまでが遠足ってやつだぞ」

「空港のサツをいかにして撒くか、だな」

 学生二人がにんまり顔を見合わせる。

「えええ!? おとなしく捕まりなさいよ!!」

「後でゆっくり出頭すりゃあいいだろ」

「まずは家帰って寝たい」

「何という遠足!!」

 …十五時間後、白昼に起きた成田空港での逃亡劇は、まあ、お察しの通りである。

 

 

 麗らかな昼下がりに強奪した車で学生が無免許運転という、とんでも犯罪イベントを最後にこなして、千時は空条邸へ辿り着いた。

 まあなんだ、途中で止められては大惨事がカンストしてしまうので、  一月の寒空の下、承太郎は学ランを脱ぎタンク一枚で高速をブッ飛ばした。ヒーターという文明の利器が無かったら、さすがに無理だったかもしれない。それと、回り道で花京院を自宅マンションへ送り届けたが、果たして彼の両親がいつ帰宅して息子と再会するやら、恐らくは、振り切ってきた警察と要相談である。

「死ぬかと思った…」

 日本家屋の門前で停車した時、千時はそう呟いたが、たぶん、空港で待っていてくれた目黒支部の職員さん達の方がよっぽどそう思ったに違いない。

「てめえのフラフラ運転より良いと思うぜ」

「そりゃそうだけど違法! 無免許!!」

「誰がだ?」

「だッ…うう」

 残念ながら、元の世界で取ってきた分が無効なので、千時も無免許だ。時系列的にはものすごくおかしな話だけれども。本格的に残留決定となったらアレを取り直さねばならんのかと思うと、早、気が遠くなりそうだ。

 車を降りると、承太郎はもう門を開けていた。奥から甲高い声がして、騒がしくなる気配がする。少し入ったところで玄関は勝手に開き、中から寝間着のホリィが飛び出してきた。

「お帰りなさああい!! 承太郎ッ! 承太郎が帰ってきたわッ!! ママとっても寂しかったのよォーッ!!」

「大声出すな。近所迷惑だろうが」

「ただいまって言わなきゃ叫び続けちゃうんだからッ!!」

「分かった。…ただいま、母さん」

 息子は静かに、けれど柔らかく、そう応えた。ホリィは感極まったらしく、胸に顔を寄せて、おかえりなさいと繰り返した。

「具合は」

「大丈夫よ。すっかり良いの」

「そうか」

 数歩後ろに居た千時はというと、まあもういたたまれない。この、自分の場違いにも程がある感ンンー…。気まずい。世界をまたいだどうこうより、目の前の親子に迷惑かけざるをえない異分子感のほうが千倍くらい問題だ。

 まあ、感動していたはずの息子さんも、母親の足もとを見るなり呆れた顔をし始めたのだが。

「はだしじゃねえか」

「だってサンダル履く間も惜しかったんだもん!」

「しょうがねえババアだな」

「まーッ! ダメでしょ、ママにそんな事言っちゃ!!」

「ハイハイ」

 ウーップス!! 空条承太郎の口からハイハイとか出た! ホリィさん無双ッ! 承太郎は、纏わりつくホリィを腕に引っ付けたまま、のっそりと玄関を見た。

「で、何なんだ、コレは」

「何って?」

「なんでスージーばあちゃんとクソ親父まで居るんだと訊いてる」

 マジか!! 位置的に玄関の中が見えない千時は仰天した。

「ジョセフがちゃんと言わないからですよ!」

 さらに、そちらから飛んできた、女性の流暢な日本語にもびっくり仰天した。

「あの人ときたら! サダオだってこうして駆けつけたというのに! あなたもあなたよ承太郎!! 一体どんな仕事なら病気の母親をおいていけるの!?」

 ポンポン飛んでくる叱責。承太郎が小さくグウのネを吐いている。なんか背中がしょげちゃってるからやめたげてえー! と思うが、家族のやりとりに部外者が口を出せない。

 黙っていると、急に承太郎が振り返った。

「突っ立ってねえで来いよ」

「そうだわ! チトキちゃん!!」

 いきなりホリィが飛んで来…ワアオ! おっぱいやらけえ!! なんて厨房男子みたいな感想を抱きつつ、ギュウギュウに抱きしめられる。

「ごめんなさいねえ! なんにも知らなくって!!」

 はい? 

 千時がぽかんとしたのをどう解釈したのか、ホリィは涙でも浮かべそうな顔をした。

「さぞかし心細かったでしょ、もう大丈夫よ! 私をママと思って…あッいけないわ! ごめんなさい! ご両親を亡くしたばかりでそんなのイヤよね…!!」

 …あーあぁぁ何だろう、何だろうこの、一人芝居の舞台に強制参加させられちゃった観客みたいな気持ち。どうしたらいいの。助けを求めて承太郎を見、ようとしたら、もう居ない。いッ…生け贄かッ…!! 

 代わりに、玄関から老齢の白人女性と、大柄な男性が出てきていた。

 ビビッドブルーのワンピースに、カーディガンを羽織った老女…スージーQは、なんともミスマッチな日本の庭用サンダルをつっかけているが、まるでハイヒールのようにツカツカと姿勢良く歩いてきた。

「はじめまして、お嬢さん。スージーよ。ジョセフから聞いているかしら」

「あ、はい! 初めまして」

 初対面がホリィの胸に顔埋めてってのは衝撃的だが、とにかく、アニメで見ていたあのスージーだ。溌剌として明るい語調と優しげな表情はホリィとそっくりだが、波紋戦士たるリサリサの侍従だったからか、僅かに厳格な雰囲気もある。

「ちょ…っとすいませんホリィさん、ご挨拶させて頂いても…」

「あ、ごめんね」

 苦笑いでおっぱい天国を脱出し、千時は深く頭を下げた。

「池上千時と申します。ご家族の皆様にはたいへんお世話になりました。本当にありがとうございました。今しばらくご迷惑をおかけしますが、どうかお許しください」

「ンまぁーッッ!!」

 えっなんかマズいこと言った!? 金切り声にギョッとして頭を上げられずにいると、下から老女の手が千時の手をすくい上げた。

「お行儀の良いこと! 承太郎と同い年だなんて信じられないくらいよ」

「あ、ハハ…」

 そうか不良だったなあの人、いやちょっと待て今同い年って言った? 

「安心したわ。やはりちょっと、面識の無いお嬢さんを急に迎えるというのには、驚きましたからね。ジョセフときたら、いつもホウレンソウが適当なのよ。まったく」

 テキパキ勝手に進む言葉で、疑問がガンガン押し流されていく。ていうかスージーばあちゃん日本語スキル高すぎねえ? そのホウレンソウ、野菜じゃなくて社会人ルールの方ですよねスゴい。

「そんなにかしこまらないでいいわ。さ、いらっしゃい」

 やんわり手を引かれ、促されたのは男性の前。

「サダオよ。ホリィの夫」

「初めまして…」

 承太郎の父親は結局、原作に登場しなかったとどこかに書いてあった。コレ、もしかしてもしかしなくてもウルトラレアカード引いたかな、なんて思いながら一度会釈し、顔を見上げる。背が高い。承太郎と同じほどもあるだろうか。但し、体は薄く、学者か芸術家のように見える…いや音楽家だったな。

「やあ。待ってたよ」

 ピシャーンッ! と雷の落ちる気分を、千時は初めて味わった。声渋い! 超カッコいい!! まさにイケボ! ボーカル!? ボーカルなのか!? ジャズってボーカルあったっけ!? MP3、いやCDか! あるなら絶対買う!! これまで延々、ドキッ! イケメンだらけの大冒険! だったというのに、ここで一番ウットリしちゃうとは思わなかった千時である。そもそも彼女、あまり美醜に敏感でないせいか、もとより良い声に弱かった。

「会えるのを楽しみにしていたんだ。僕ら、娘も欲しかったから」

 きゃあそんな声で言われたら嬉しい楽しみにしてもらってたなんて、楽しみにするほどの期間あったか? え? 娘? 

「後見人はパパだけど、私たちを親と思って…あっ! ううん! 今じゃなくていいの! そのうち! そのうちよ! ね!」

「…あぁありがとうございます…?」

 なんだか話が明後日の方角へ向かっている気がするんだが、ジョセフからはこの家に身柄を頼んだとしか聞いていない。典型的日本人の曖昧スマイルで、右から左へ受け流すー…古い。

「外で何グダグダやってんだ」

 承太郎の声が玄関先に飛ぶ。わらわら中へ押し込まれてみると、廊下の奥には看護士らしき白衣の女性が二人、にこにことしていた。そういえばホリィがまだ寝間着で裸足だ。一ヶ月も衰弱していたのだから、体力がもどるまで無理は禁物なのだろう。

「おい、お袋。もういいだろ。大人しく布団に入れ」

「そうですよ、奥様。まだ本調子じゃないんですから」

 白衣の二人は呆れ顔で、上がり框に座ったホリィの足を拭いた。

「あんまりはしゃぐと、また微熱が戻ってしまいますよ」

 どうやら前科が有るようだ。ホリィは子供のように頬を膨らませ…これがまた良い年齢の筈なのにかわいく見えるからすごい…、あとちょっと! と言い張った。

「お部屋を見せたら! それくらい、いいでしょ」

 看護士二人の顔には、まったくもうと書いてある。

 千時はというと、頭がてんやわんやだった。ジョセフは何をどこまで手配したのやら、確かにスージーの言う通りでホウレンソウが足りていない。何となく、ジョースター不動産はきっと、かなりのワンマンなのだろうなと今更になって考える。

「最初に使ってもらったお部屋をコーディネートしたのよ。ここなら私が隣だから、安心して使えると思って」

 さすがに間取りは覚えていた。案内されたのは泊まらせてもらっていた和室で、ホリィの寝室の隣だ。えーと、とりあえずお泊まり続行、だと思っていたのだが。

「ジャジャーン!」

 ご機嫌なファンファーレと共に開け放たれた襖の向こう……が、ピンク一色。キラキラー、とか、シャランラー、とかの効果音が聞こえる。漫画で言えばICのS-613、定番の点描ほわほわトーン。アニメだったら発光処理だろうか。

「…すっげえ」

 背後でボソッと言い残し、承太郎が廊下を去っていく。

 かつてごく普通の和室だったそこは、レースとドレープとベビーピンクの坩堝と化していた。オフホワイトのデスクすら、アンティークだろうか、バラの彫刻がものすごい。壁や梁も目隠しされ、畳もカーペットで覆われて、日本家屋の中だというのにこの一室だけマリーアントワネット的異空間を完全再現。極めつけは、超絶本気なドレッサー。某大手通販雑誌の後半に載っている、姫コーデでかわいくしちゃお! のガチ版みたいなことになっていて、千時の頭にはハイ撮影しますレフ板持ってこーいなんてアテレコが入った。白昼夢だったってことで撤収してくれないだろうか。全部まとめて。

「私が使ってた家具を送ってもらったの。ママと一緒に選んだ物でね、女の子ができたら譲ろうって取っておいたのよ。どこにも譲らずにおいて良かったわ!」

「……あ、ありがとうございます……」

 どもったのを喜んでのことと勘違いしてくれたらしく、ホリィは踊るように千時の背を押した。ああ、貴女こそ部屋に似合いすぎて、背景に花びらが見えるようです奥様。

「チトキちゃんのお鞄は、ちゃあんとクローゼットにしまってありますからね」

「はい、え?」

 和室にクローゼット? と思ったら、ちゃんと運び込まれていた。あれえ? 押入あったよねこの部屋。この家に辿り着いてから、これでもかというほどの連打でクエスチョンマークの嵐だ。

「奥様、そろそろ…」

 看護士が声をかけたが、

「まぁだよ!」

 ホリィは後ろ手に襖を閉めた。

 いや何と驚いたことに、襖の部屋側が張り替えられているではないか。何このピンクのバラ柄の襖。すごい。あらゆる意味でものすごい。

「さ、開けてみて」

 クローゼットの前へ押し出され、まさかなあとイヤな予感に震えつつ、ゴクリ、乾いた喉を鳴らして取っ手を握る。まるでシルバニアファミリーのおうちに置かれていそうな、愛らしい形の木製家具。やはりベビーピンクに塗られた両開きの戸を開けると、そこには。

「わーあぁぁ…」

「実はね、貞夫さんが今晩、もうツアー先へ戻っちゃうの。だからちょっとおめかしして見せてあげてくれない? …コレとか!」

 ニコニコしている熟年天使に、趣味じゃないなんて絶対言えない。

 さっすが主人公一家。ぅゎジョースター家っょぃ。

 間抜けな顔文字が頭をよぎった。

 

「あ。かわいい」

 貞夫氏の渋い美声に、

「まあまあ! お人形さんみたいじゃないの!」

 スージーQが飛んできて、見せて見せてと回される。千時はもう、笑うしかなかった。その場でくるくる、二周させられる間に、居間の奥であぐらをかいたお坊っちゃんが一瞬だけ目を丸くし、顔を伏せて静かに爆笑したのが見えた。ああいっそ一緒に笑いたい。

「いいわねえ。ホリィの小さい頃を思い出すわ」

「チトキちゃんは色が白いから、ピンクが似合うのよ。ね!」

 ええまあ白いに関しては引きこもり系現代版吸血鬼ですので…。しかし、この一ヶ月に結構焼けたはずなんだがなあ。げんなりしていく心のテンションを顔に出さないよう、細心の注意を払う。母娘共々世界最大級のお世辞で褒めてくださってありがとうございますですよ。しかし、美形一家に囲まれてのコレはない。いたたまれない。ていうか千時側からすると、悪質な吊し上げかサーカスの見せ物にされた心境だ。しかも、観客の誰一人として悪意が無い。外人さんのオーバーリアクションは、時として残酷である。

 それでも、ホリィが一押ししてきたコーデをどうにか遠慮できただけ数段マシなのだ。ハイウエストでフレアのミディスカートはチョコレートブラウン。全力で気に入ったと主張しまくりゲットした。だってホリィのオススメ、オフホワイトの膝丈ティアードなんか穿かされてみなさい、先に着せられたパウダーピンクのひらひらブラウスと相まって、警察に呼ばれるより大惨事になってしまう。

 無論、いくら服のハードルを下げたとはいえ、ノーメイクのポニーテールが似合うわけもないので、編み込みのハーフアップをやりたがるホリィに任せ、千時は久方ぶりのメイク道具を広げることになった。例の、麗しきドレッサーでだ。場違い甚だしい。千時よりよほど部屋にマッチしたホリィはというと、あら若いんだからメイクなんかしなくても、まあアイライン引くの上手ねえ、なんて暢気に感心していた。

「奥様、そろそろ本当にお戻りください」

 廊下から掛かった、鶴ならぬ看護士婦人の一声。あらそうだったとスージーが呟き、寝間着姿の娘を捕まえた。

「アキヨさんの言う通りよ。はしゃぎすぎだわ」

「もう。大丈夫なのに」

「何を言ってるんです。昨日も夜には熱を出したくせして」

「それは貞夫さんが相変わらずカッコイイからポーッとしちゃったんだってば! キャッ! 言っちゃった!」

 あざといッ! かわいいッ! なんたるヒロインッッ!! 

 貞夫がひょいと立ち上がり、スージーが掴んでいるホリィの腕を、何気ない仕草で受け取った。

「僕に心配させたい?」

「そんなつもりじゃあないけど」

「なら行こう」

「はあい」

 効果覿面、一撃必殺。あの渋い声には、魔法でも詰まっているのかもしれない。たった二言で天使の無邪気を諫めるなんて、スタープラチナをレクイエムしても出来ないんじゃあなかろうか。

 ホリィは医療スタッフの都合、自身の寝室でなく奥の一部屋に寝かされている。スージーもホリィを送り届けに行ってしまって、部屋には承太郎が残った。千時は、まだクスクス笑っている学生を睨みつけて中へ入り、ローテーブルから座布団一つ分を空けたあたりに座った。

 承太郎は視線に気付くと、帽子の鍔を下げた。

「随分やられたな」

「うん」

「大丈夫か」

「わりと大丈夫じゃない」

 千時がうなだれて見せれば、ますます笑う。

「笑うな」

「悪い」

「どうするよ、クロゼットん中もふわっふわなんだぜ?」

 スカートの端を摘んで見せれば、ブックククと承太郎が声をたてて撃沈した。

「ガチな話さあ」

 千時は畳の目を無意味に爪で引っ掻いた。

「私が散々さまよって辿り着いたワークデスクは、スチールラックにプラ段で天板した、シンプルかつフルカスタムの無愛想極まる自作品だったんだよ。部屋の中なんか推して知るべしって感じで暮らしてたからなあ…」

「男みてえな趣味してやがる」

「そうだよ。日曜大工とか割と好きだよ」

「そのスカートで」

 承太郎は、言いかけでまた笑い出した。

 ちょっと想像してみな。カントリー風ひらふわスカートでDIYなんかやったらきっと、スカートの端を釘で打っちゃって動けなくなるんだぜ。…おおおい!! 勘弁してえええー!! 千時も想像してしまって少し笑い、それから、諦念のため息をついた。

「いいさ。衣食住まるっとジョセフさんに頼ってる身だもの。ホリィさんが喜ぶなら、着せかえ人形にくらいなろうさ」

 乾いた台詞を吐き出せば、さすがに承太郎も笑いを引っ込めた。

「悪かった。どうもイメージが違いすぎてな。だが、確かにそのほうが似合うぜ。自然に見える」

 千時はポカンとしてそちらを見た。承太郎は別段からかう様子でもなく、ちょっと眉を上げた。

「くだらん嘘は言わねえ」

「それは知ってるけど」

 いきなりそんな事を言われてしまうと、恥ずかしいよりむずがゆい。

 が、承太郎は続けて、

「しかし、花京院も連れてくりゃあよかったぜ」

 なんてまた笑いだしたので、千時はわざわざ隣まで行って、その横っ腹に効きもしないパンチを一発くれてやったのだった。

 

 その日はほとんど、スージーの質問に千時が、時折は承太郎が答え、ジョセフを肴に挟んで、互いの人となりを知るのに当てられた。中座したのは、途中でアヴドゥルとの約束を思い出した千時が電話をかけた時、承太郎も話すと言ってついてきた、その一度くらいだった。

 話を繋ぎ合わせる内に、現状が分かってきた。どうやらジョセフはエジプトから何度か電話を入れていたらしい。そういえば最後の作戦会議で、千時の身上調査が届いていたような事を言っていたが、結論として彼女は、作りものの設定をそのまま使わされる事に決められていたようだ。ホリィはそこらへんを病床で聞き、かわいそうな女の子を手元に置くと勝手に決めてかかった。最初に語ったフリーターだのという自己紹介も、突然両親を亡くし天涯孤独になった混乱から、変な警戒をしていて虚偽を話してしまったというような事にされ、訳の分からない納得と同情を買っていた。

 年齢の件は、なぜ承太郎と同い年と思いこまれているのか不思議だったが、実は千時が見落としていただけだった。最初からパスポートの生年月日は、承太郎と同じ年度に設定されていたのである。気付かなかった理由は幾つかあるが、大人の特権である飲酒喫煙に縁が無かったのと、ジョセフが唯一、免許証を見せた相手だったのが大きかった。時折、自称二十歳過ぎだろうなんて言われたりしていたもので、疑いもしなかったのである。

 ともかく、そういうわけで千時は人生の時間を巻き戻されていた。皮肉か因果か、今や彼女は十七歳の少女であり、故に、あのキラふわピンクな部屋が発生しちゃったわけだった。

 日暮れ頃に貞夫が腰を上げ、ホリィがまた飛んできて全員で見送り、千時はここぞとばかりの恩返しに夕飯作りを引き受けた。スージーQのお眼鏡に叶うかどうかはともかく、姿勢くらいは見せたかったからである。台所に立って一人になると、どっと疲れが押し寄せたものの、残る力と少ないレシピを振り絞り、旅の前のホリィに倣ってテーブルを隅まで和食で埋めると、女性二人は手放しで褒めてくれた。

 まあでも、若干やりすぎましたよね。承太郎がかなり頑張ってくれたが、山と残った料理は冷蔵庫に詰め込むしかなかった。

 千時は、朝に卵焼きを温め直して…などと算段しつつ、ベビーピンクのベッドにひっくり返った。

 …のだが、翌朝の台所には立てなかった。真新しい部屋で目覚まし時計の不在など頭に無く、久々に髪をほどいて一人でくつろいだからか、起きた時には昼過ぎだったのである。

 

 

 ムンクの叫び状態でひらひらのパジャマを脱ぎ捨て、洗顔は旅先で使っていたウェットティッシュで代用し、中までピンクだらけのクローゼットと壮絶な戦いを繰り広げ、ドレッサーと睨み合い、部屋を出たのは十二時半。

「うあああやっちゃったあああ…」

 げっそり肩を落として家人を探すと、覗いたダイニングのテーブルで最初に見つけたのは、幸いにも一番気安い人物だった。

「おは…、おそよう」

「ああ」

 声をかけてやっと気付いたらしく、承太郎ははカップから顔を上げた。

 トレーナーにジーンズのラフな部屋着で、勿論、帽子は被っていない。ごく普通の格好が見慣れないというのもおかしな話だが、しかし向こうも、千時を見るなり意外そうに首を傾げた。

「無関心というわけでもねえんだな」

「何?」

「服」

「ああ」

 クローゼットの最奥に杢グレーのニットベストという救世主を見つけたため、白のブラウスとベビーピンクのシフォンスカートに合わせてきた。自分の許容範囲、かつ、ホリィが喜ぶ系統を模索した結果だ。

「ショップ…いや、洋服屋でバイトしてたこともあるから」

 但し、何をどう頑張っても学生時代にすら着なかったようなコーデになっちゃうので、気分はコスプレと割り切った。マネキンに着せるつもりのチョイスである。

 承太郎は胡乱げに目を眇めた。

「ラッピングはどうした」

「それは別の店」

「わけの分からんアマだぜ」

「ハハハ」

 千時が向かいに座ると、承太郎がテーブルの中央にあったポットを寄せてきた。コーヒーの香りがする。礼を言い、布巾に伏せてあったカップを取って、一息。

「寝坊してごめん」

「いや。俺が起こすなと言った」

「マジか! ありがとう。目覚まし時計が無い事にも気付かなくってさあ。ホリィさんはどう? 熱出ちゃった?」

「いいや」

「良かった! じゃあお昼ご飯どうするか訊きに行…」

「さっきジジイから連絡があった」

 さらりと遮った承太郎に、千時は、上げかけた腰を下ろして姿勢を正した。

「赤ん坊は両方、この家の養子になる。お前の国籍も日本に移されるそうだ。身の上話はこのまま。ジジイが後見人。仕事は子守」

「へ?」

「働き口が欲しいと言ったんだろ。住み込みでお袋を助けるのがテメエの仕事だ。ガキ共が来る時、書類だの通帳だのを揃えて持ってくるそうだから、詳しくは後で聞け」

「は、はあ…」

「どうした」

「いや、何か凄いスピードで話が進んでて…。もっと時間かかると思ってたから」

 千時は少しばかり拍子抜けして、独り言のように呟いた。

「DNAとかどうなんだろ、こんな短時間で判るのかな…」

「お前、よくそんなもの知ってるな」

 承太郎の声が妙に面食らっていて、はたと気付く。

「あっそうか。まだあんまり一般的じゃないんだ」

「今年…いや去年か。FBIが犯罪捜査に使い始めたと聞いたが、未来じゃそんなに簡単な事になるのか」

「まあ、親子鑑定くらいは一般人でも手が出せるくらいにはなるね」

 ほう、と感心する彼は、どうやら興味があるようだった。

「詳しいことは知らねえが、遺伝子解析の研究は昔から財団が力を入れてきた分野だ。独自の機関も持っているし、あちこちに金も蒔いてる。調べただろうぜ」

「そっか」

 千時は頷き、続きを待った。まだ何かありそうな様子だったからだ。

 しかし承太郎は、少しばかり俯いて沈黙した。

「他には?」

 軽く促す。

「…お前の事だが」

彼は更に言い淀み、カップの中身を流し込んだ。

「実家は、あったそうだ」

 明らかにどう話すべきか迷っている青年を見て、千時は、こんなことを伝えさせるなんて悪いことをしたなあ、と思った。だが、ただそれだけだった。実家「は」というのだから、他の何かが無かったのだろう。これまでの経緯から、おそらく自分こそが存在していないのだと、それは大体分かっている。

 承太郎は、ようやくちらりと千時を見、顔を上げた。

「但し、片方だけなんだと」

「ふうん」

 他人事のような返事に、彼が眉根を寄せたものだから、千時は慌てて両手を振った。

「あ、いや、そのへんは最初から全然。だって考えてみてよ、私の世界じゃあ逆に皆が居ないんだからさ。うっかりするとこっちの私が紙媒体って可能性すら、無きにしもあらずとか思うわけじゃあないですか」

 取り繕いでも何でもなく、千時はそう思っている。だが、承太郎は疑ったようだった。

「閉じこめるなよ」

「閉じこめる?」

「心をしまい込みすぎるな。またT・Tに殺されるぜ」

 至極真剣なその言葉は、今まで彼が相当心配してきたのだと分かる重さで千時を打った。

 だから彼女は謝る代わりに、心から笑って頷き返した。

「大丈夫。自分を殺すのはもうやめた」

 少しきわどい応酬をしても、言葉の裏に意味は無い。

「だから名前はジョンがいいって、ワガママ言えたんだもん。もう何にも、閉じこめてないよ」

 伝わっただろうか。彼らが起こした奇跡の一つが。

 承太郎はフッと微笑み、そうか、と頷いた。

「一週間後の十八日、ガキ共が来る。それまでに奴らの荷物が届くから、準備を手伝え」

「了解!」

「それと、これはジジイの個人的な指図だが」

「ん?」

「テメエに英語を教えろと言われた。教えてやるから死ぬ気で覚えろ」

「イーヒヒヒヒですよね必須科目ですよね死んだッッ!!」

「バカ」

「あっ、今のすごくジョセフさんに似てる」

 けらけら笑って、ああそうだ、と思い出す。千時はボインゴ少年にも、電話してやらねばならんのだ。

「しょーがねッ。がんばるべえさ」

 わざとらしく言って机に突っ伏すと、承太郎が声を上げて笑った。

「何を着ようが、中身は同じだな」

 失礼な奴だ。

 

 

 その日は特段のことも無く、調子の良いホリィと、まだ油断させたくないスージーの攻防を遠巻きに、千時は、できる家事をしてまわった。

 翌日、花京院が警察を引き連れて来て、玄関先は大混雑になった。インターフォンのベルに千時と承太郎が出ると、花京院は用件よりまず千時をビシッと指さして喚いた。

「まさか隣のソレが池上さんだとか言わないよな」

「まさかのイケガミサンだぜ」

「嘘だろ承太郎!?」

 おおぅナマ嘘だろ承太郎いただきましたーだがしかし。

「二日前まで一緒に居たのに失礼千万じゃないかね」

「きみ女の子だったんだな!?」

「一発ブン殴っていいかなア!?」

 どいつもこいつも!! 憤慨する千時と笑い出す学生二人に、何のこっちゃな警察の方々はしばし唖然としていた。

 まあ結局、三人は、奥から出てきて警察の説明を聞いたスージーにその場でしこたま怒られた後、地域の警察署まで任意同行させられて、一日丸潰れとなった。ちらっとだけ会えた花京院の両親に、千時が平身低頭ペコペコしまくったのは言うまでもない。

 さて、続く三日間で、立て続けに荷物が届いた。

 やたら広い玄関すら通らないお届け物二つは、承太郎が表の門扉を外し、庭から開けはなった縁側へ運ばれた。中身は梱包過剰のベビーベッド。それらを皮切りに、双子用ベビーカー、山ほどのオモチャ、おむつにおくるみ服よだれかけ、シーツにタオルにふかふかの布団。抱っこ紐が四本と、哺乳瓶はなぜか六個もあって、粉ミルクの缶が台所の角に小山を作った。

「パパったら、いったい何人の赤ちゃんを送り込むつもりなのかしら?」

 ホリィが目を丸くし、

「ンまぁーッ!! 私がアメリカに戻っておくべきだったわ!」

 スージーが悲鳴をあげたほどの量だ。実際にどれだけ必要なのか見当も付かない千時と承太郎は、積まれたベビーグッズにただ沈黙するばかりだった。

 荷物が片付け終わった日の夕刻、看護士の二人が撤収した。

 彼女らは、仕事でもないのに全力で荷解きを手伝ってくれていて、千時はようやく仲良くなれたところでお別れとなった。

「これで五日間、お熱が出ませんでしたので、良いところまで回復なさったと思います。但し、無理はなさいませんようにね」

「あまり激しい運動はいけませんよ。来月の検診で異常が無ければお終いに致しますから、ちゃんと病院へいらしてください」

 二人がそう言い置いて迎えの車に乗る時、ホリィが涙目だったのには驚いた。後で聞いたところ、この二人は一ヶ月間、ほとんど泊まり込みで側に居てくれたのだそうだ。千時は、こっちの旅仲間と一緒だな、と感謝して、車が角を曲がるまで頭を下げ続けた。

 

 

「夕方には帰りますからね。くれぐれも、無理をしないのよ」

「はァい、ママ。いってらっしゃい。お義母さんによろしくね」

 ニコニコ手を振るホリィが、タクシーに乗り込むスージーを見送った。ジョセフとは対照的に、スージーは日本を気に入り、こちらの親戚ともすっかり仲良しのお友達になっちゃったのだという。来日の際には、いつも貞夫の母親と会っているのだそうだ。但しあちらは少しばかり目が悪いため、今回、ホリィが倒れた事と、そのためにスージーが来日した事は伏せられていた。それらの事後報告を兼ねてのお出かけだ。

「さあて。ママが居ない間に、何をしましょっか」

 ホリィはくるりと振り返り、玄関先で待っていた千時にニコリとした。

「明日には赤ちゃん達が来ちゃうから、今日の内に千時ちゃんをいっぱい甘やかしたいの! なにしてほしい?」

 ああん。天使がキラキラしてる…のは、金髪が冬の日差しで輝いている現実の現象だった。いやあそんな、なんてデレデレしながら居間へ戻ると、承太郎が新聞を広げていて、手招きで千時を呼び寄せた。

 彼は小声で、ほんの少し興奮気味に言った。

「お前、本当に未来から来たんだな」

「は?」

 お茶を煎れようとしていたホリィが、なんの話ー、と呼びかけてきたが、承太郎はうるせえと一蹴し、新聞で千時を覆うようにした。

「見ろ」

 指さす隅っこ。

「ああッ!!」

 千時は思わず声を上げた。

 元号が平成になっている。これまで西暦ばかりを気にして元号の換算をしていなかったため、気付かなかったのだ。

「八日に切り替わったんだと」

「えぇぇー…! すっごいタイミング…」

「お前は二〇一四年から来たんだろ。という事は、平成…26年だな」

「ああ、うん…、うん? 元号なんて承太郎に話したっけ?」

「ジジイに聞いた」

「ねえねえ、何のお話? ママも混ぜてェ」

 背後からお盆を持ったホリィが覗き込んできて、承太郎はため息一つ、新聞をテーブルへ置いた。

「何でもない」

「承太郎の意地悪! いいもん、千時ちゃんに聞くもん!」

 ええええー!? 何とごまかせば!? 慌てて目を泳がせる千時の頭に、承太郎がポンと手を置いた。

「ダチとの話だ。親がクチバシ突っ込むなよ」

「あらまあ、仲良し。それじゃあしょうがないわね」

 ホリィはハイとお茶を差し出し、パアーッと光が差すような笑顔を向けてくれる。何とも申し訳ない。そんな事情は露知らず、母親は息子にも湯呑みを渡しながら言った。

「そうだわ、承太郎。明日から私、赤ちゃん達のママになるから、甘えたいことがあったら今日中にしてちょうだい。ママもねえ、最初からの子育てなんて、十七年ぶりのことでしょ。きっとそっちばっかりになっちゃうと思うの」

 承太郎は大仰にため息をついて、頭を掻いた。

「それこそ、こっちはガキじゃあねえんだ。好きにやれ」

「分かってないわねえ。あなただってお兄ちゃんになるんですよ」

「俺は知らん。こいつに頼め」

 ビッと指さされた千時は苦笑い。いやまあ、責任の所在は分かっているつもりだが、しかし、それにしたってスタープラチナも居なきゃあ無理だったんだからちょっとくらい持ってくれてもいいじゃんよ、なんてのは思っていても言えたことではない。

「アハハ…がんばります」

「はい! よろしくお願いしまぁす!」

 ホリィは何の屈託も無く笑い、手を挙げて応じた。

 ふと、それに息詰まるような気がして、目を伏せる。普通なら感じるであろう不安や何か…マイナス方向への感情を、ホリィはまったく見せようとしない。それは初対面の時から一貫していて、弱々しい姿を見せたのも、体の具合が悪かった時だけだ。

 ここで世話になるわけでなければ、もしくは、赤ん坊の引き取り手がジョセフだったら。ここまで気が引ける事はなかったかもしれない。寄りかかる相手がジョセフならば、申し訳なく思う気持ちは同じでも、すべての事情を共に知る仲間として無条件に安心できるところがある。

 だが、目の前の、ことさらに優しい女性は、何の事情も知らないのだ。赤ん坊の正体も、危険の可能性も。

「あの、赤ん坊を育てるって、大変じゃあありませんか」

 問うべきでないのは承知で、それでも千時は訊かずにいられなかった。

「うん。とぉーっても大変だと思うわ。でも、笑顔を見たら帳消しよ。子供って本当にかわいいもの」

 あっさりとして簡単そうな口調がますますいたたまれず、千時は支離滅裂に喚いた。

「それだけじゃなくて、その、私のことまで、…貞夫さんもですが、こんな、良かったんですか本当に」

「千時ちゃんが不安に思うのも無理ないわね。ほとんど私と承太郎だけだった家に、一気に三人も増えるんだから」

 ホリィは真剣に頷き、的確に不安を掬い上げた。

「でも、安心して! 貞夫さんだって二つ返事でオーケーだったのよ!」

 パッと明るい声を出し、ホリィは千時の隣へ来た。暖かい両手で千時の手を包み、うっとり語りだす。

「貞夫さんて本当に頼りになる人なの! それに、とぉーっても優しいのよ! 千時ちゃんのことも、赤ちゃん達のことも、喜んでくれただけじゃなく賑やかになるね、楽しそうだね、僕もできるだけ帰るよーって!! そんなの惚れ直しちゃうじゃなアい! キャッ、のろけちゃった」

 いやノロケるくらい好きなだけノロケたらいいけれども。

 キラキラふわふわの甘い空気に気圧されて、ネガティブモードが吹っ飛んでいく。どこだったかで、ホリィのスタンドは癒しの能力だっただろうというのを読んだ覚えがあるけれど、さもありなん、この人、スタンド無しでも効果抜群。いやむしろ当人がヒーリンググッズ状態。ゲームだったらパーティー全員に自動で回復がかかるスーパーチートアイテムかなにか。

「それにね、赤ちゃん達のこと! パパが見つけた時、手を握りあって離さなかったんですって。それで二人とも連れて来ちゃうんだから素敵! そこでひとりぼっちにしないのが、パパのいいところよねぇ」

 人差し指を頬へやって、少女漫画のような仕草で首を傾げる。

 いつの間にか、千時は顔を上げていた。

「お袋なら大丈夫だ」

 承太郎の、少し柔らかい言葉が耳を打つ。

「それは俺が一番よく知ってる」

「そうよ! その通り! キャー! 息子も優しく育ってママ嬉しい!」

「ほらな、この能天気さだぜ。赤ん坊くらいどうって事ねえだろ」

「ああん! それ褒めてるゥ!?」

「あー褒めてる」

「もー!」

 この親子かわいい。ギャンかわ。かわいすぎてどうしよう。これを間近で見つめる生活なんて天国すぎて死ぬ。グッフゥ。千時が悶絶している内に、息子は照れ臭くなったのか、のっそり立ち上がって自室へ引っ込んでいった。

 承太郎が居なくなると、ホリィは僅かに居住まいを正した。

「千時ちゃん」

 これまでになく静かに呼ばれ、千時は驚いた。崩していた足を慌てて引っ込め、向き直る。

 ホリィは、穏やかに言った。

「私、あなたに感謝しているの」

 いやいやいや徹頭徹尾迷惑かけっぱなんですけれども。ご存知無い。困惑する千時の顔に少し笑ったホリィは、けれどやはり、静かに語った。

「パパも承太郎も詳しい事は話さないから、具体的にどうだかってことまでは知らないわ。でも、あなたが私の家族を助けてくれたんだってことは分かるから」

「いえ、助けてもらったのは…」

「それも分かっていますよ。だけど、パパがあなたを何て言ったと思う? 返しきれない恩がある子だって言ったのよ。頑なだった承太郎は笑うようになって戻ってきたわ。母親の私が一年も見なかった笑顔を、あなたが連れて帰ってきてくれた。だから私、千時ちゃんが何者だろうと構わないの。たぶん、赤ちゃん達もね。だから千時ちゃんも、気にしないことよ。

 これから一緒に暮らす親代わりとして言っておくけど、私達をちゃんと頼りなさい。ここをあなたの家にするのよ。いつでも帰ってこられる場所に。いい? 頼ることと迷惑をかけることは違うんだから」

 あっ、と千時は息をのんだ。

「うふふ。そんなのお見通し。分かった?」

 かわいらしいウインクを一つ。現実の天使はずるい。

 そんなふうにされたら、応えるしかないではないか。

「はい。そうします」

「素直でよろしい!」

 ホリィは明るい笑顔を輝かせた。

 

 

 甘えて欲しいなんて言われたものの、具体的な事は何一つ思い浮かばず、千時はとりあえずホリィにくっついてまわった。ホリィが病み上がりでなければ散歩だショッピングだと提案もできるが、まだ遠出はさせたくない。

 結局したことと言えば、お菓子が無いと気付いてクッキーを焼くという、小学生のようなイベントだった。オーブン二段分を焼いた大量のクッキーに承太郎は微妙な顔をしたが、まあまあ食べた方だろう。何せ旅先でシロップ漬けのドーナツを放り込んだ時なんか、吐き出そうか悩んでいたくらいだ。

 四時頃になると、ホリィはわざわざ息子を私室まで探しに行き、夕飯をどうしようかと問いかけた。

「千時ちゃんは何でもいいんですって。承太郎は何食べたい? あ、どこかへ食べに行っちゃう?」

 一人息子は目を逸らし、ほんの少しだけ照れくさそうに呟いた。

「家でお袋の飯がいい」

「まあ! それならママ張り切っちゃおっかな!」

 ホリィはころころと鈴のように笑った。

「千時ちゃんと一緒に作りましょうね」

「ああ。そうしな」

 承太郎が襖を閉じ、ホリィが振り返った、その時だった。

 千時は、今朝からずっと自分の中にあった大きな氷塊が消えたのを感じた。崩れた氷のかけらがスーッと溶けて、驚くほど滑らかに口を動かしていった。

「ごめんなさい。今日は私、どうしても出かけなくちゃいけないんです。それにほら、承太郎さんはホリィさんのごはんが食べたいんですから。ホリィさんが作ってあげてください」

「あら残念。せっかく一緒にお台所に立てると思ったのに」

「すみません。言いそびれちゃって」

「いいのよ。そういう事なら門限はー…女の子だから7時にしようかな。遅れるなら必ず電話すること!」

「はい」

 どこへ行くのと言われないよう、千時はパッと動いた。

「いってきます」

 自分を殺すのはやめると決めたのだから、迷っている時は素直に迷うべきなのだ。

 彼女は廊下を駆け戻り、部屋に入って服を着替えた。花柄のチュニックにジーンズ。ダウンジャケットのポケットには、その存在を忘れていたスイカが入っている。それから、荷物を作った。トートバックの中に化粧ポーチだけを残し、あとは適当なレジ袋へ放り込む。

 そうして、レジ袋の方を手に空条邸を出た。足音を立てず、玄関の音が鳴らないよう注意し、いってきますの声もかけなかった。

 道すがらにT・Tを呼び、姿を現したネコミミマネキンと手を繋ぐ。ずっと一緒だよ、そう告げればT・Tはこっくり頷き、彼女がバスに乗り込むため手を離すまで、そばに居た。

 駅前のロータリーに置かれたベンチで、彼女はぼんやりと思いを馳せた。ホリィが倒れてから五十日。ひどく長い時間だったようにも思う。だが同時に、全てがあっという間だった。

 やがて夜空が深くなる頃、視界の端に見慣れた学ランの裾が翻るのを見つけてしまって、だから彼女はとうとう、両手で包んでいた小さなオーバーテクノロジーを開いた。

「携帯がね…。電波拾ってるんだ」

 大柄な学生は、ただじっと彼女を見おろしていた。

 彼女も、ただじっとして、自分の呼吸を聞いていた。

「行くのか」

 そのたった一瞬に、涙がこぼれる。

 彼は言ったのだ。帰るのか、ではなく、行くのか、と。

 

 へたくそな笑顔で、池上千時はベンチを立った。

 

 

                    fin.

 







長編小説にお付き合いいただき、ありがとうございました。


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