炎の壁をすり抜け、優しげに微笑む男だけが、歩みを止めない。
千時に迷う暇はなかった。最初は身動きもできないほどの拘束だったが、今なら緩んだ腕を抜け出せる。
「T・Tジェイルッ!!」
ジョセフの腕に両手を突っ張り、思い切り下へしゃがんだ。ジョセフの背後、吸血鬼の眼前。十の指が突き立つのを視界の端に掠める。目隠し、攪乱、なんでもいいが、もつとはまるで思わない。とにかく二人同時には無理だと踏んでの時間稼ぎだ、次。
「ロープ!」
ピンクの指を崩し、
「彼を投げて!!」
簀巻きにしたジョセフの体を道の先へと投げさせる。背後から尖った爪が二の腕を掠めたが、かまわず両手を広げ、T・Tのデコルテに抱きついた。
「向こうへ!!」
察したT・Tが手の縮小を指先へ収束し、その勢いで移動する。スピードに耐えきれず手を離してしまった千時の体は、さらにその向こうまでスッ飛んだ。勿論T・Tも一緒くたに転がる事になって、一度、その姿を消した。したたか背を打ちつけた上、体勢を崩して右半身を地面で擦りおろす。慌てて身を起こした時、露出していた肘から下の小指側が真っ赤に染まったのは見えたが、痛みも意識できない。ああしかし、こういう事があるから片袖でもパーカー着ときなさいっておじいちゃんは言うんだなあ、と妙に感心する。
転げるようにジョセフの元へ走り出そうと、した、その瞬間、
「あ」
たった数十センチ先で、ひどく美しい光彩と目があった。
鮮やかな赤に縁取られ、深い黒の瞳孔へ向けては透けるような青白い色のグラデーションを描く、見たこともない色だ。
ぐっと喉が詰まり、視界が上昇する。なかなか事態に理解が追いつかず、何が起きているやら後手々々だったが、千時は、スタープラチナより太いかもしれないような片手に首を掴まれ、持ち上げられていると知った。
これか。ザ・ワールドというのは。
頭部を覆い隠す角張った仮面の下、やけに艶やかな色の目が、無表情にこちらを見ている。本体から逃れられても、このスタンドの射程距離はバカ広い。10メートル。フフフ。これがポルナレフの階段ループを運んだのかと思えば、笑えちゃうんだぜ。
「ふぅむ…」
ディオは、道に倒れたジョセフの体を通り越した。千時はそれが見えただけでもホッとした。確か彼の血を吸ってジョースターパワーメーイクアーップ! 的な展開がどうたら、ダメだ、細かいこと覚えてないけど読んだ気が、なんてフザケた字面で考える。自分の頭の中なのに、セラムンの変身シーンがディオに化けてしまって、この上なくおかしい。
勝手に妄想されて笑われている吸血鬼はというと、滑るように近付いて来た。そして、自らのスタンドが手にぶらさげた女を、あどけないような仕草でしげしげと覗き込んだ。
「キサマ、なぜ動ける…?」
呟きは、しかし、こちらに答えを求めていない。
「興味深い…。おかしなことだ。二度とあるだろうか…このディオの、 〝世界〟に、これほど完璧に踏み入る者など」
返事をさせる気は無いのだ、何しろこっちはろくに息もできない。死人なのに息ができないってのも変な話だが。
「ティ、イ…」
「おっと。それはいけない」
不意に首が外れて僅かに落下し、同じ手が口元に被さる。顔の下半分に全体重がかかった激痛で、千時はグブッとおかしな音を詰まらせた。反射的に両手でスタンドの腕を掴み、必死に自重を支えるしかできない。足を動かしてもがく事すら、痛くてできなかった。
ディオはひとしきり千時を眺め、満足したのか、フッと吐息で笑った。
「いや、レディにキサマなどと言ってすまなかった。やはり、きみは取っておかなければ」
取っておく? 何の事だ。目がチカチカする。痛い。
「少し眠っていてくれないか。目を瞑っている間に、すべてを終わらせよう。何、ゆっくり話がしたいだけなんだ」
ああ、取っとくってアレか、ノリさんのチェリー的な。
また不意に、痛みから解放された。
次の瞬間に何があったのかが、千時にはよく分からなかった。
道に倒れているのは確かだ。せり上がってきた鉄臭い液体が、ゴブッと勢い良く吐き出された衝撃で、意識が戻った。どれだけ気を失っていたのかと青褪める思いだったが、すぐにまだ静寂が続いていると気付き、ホッとする。ただ、首がそっぽを向いてしまって、状況が分からない。吸血鬼の足音だけが在った。元の方へ戻る音が、地面に着いた耳に届いていた。ああ、マズい、おじーちゃんの血が吸われたら厄介な事に。
鼓動が早い。
おかしい。体の感覚が無い。
千時はハッとした。体を、両腕が勝手に起こし始めた。頭がガクンと落ちて視線が胸元に入り、その向こう、さっき腕に作ったはずの派手な擦り傷が、無くなっている。
…T・T。後頭部あたりに、その存在を感じた。地に着いた両手首から先を、半透明のピンク色が覆っていく。
一体化した指先から、十本のビビッドピンクが突き立ち、パッと路面が遠くなった。
指だけで宙へ、それもかなり高くまで跳んだ。千時は、しかし何故かそれが起こることを知っていて、知っていた事の方に驚いた。体が動く。身を捻り、体勢を整え、自分ではない別の何かが深く馴染んでしまった事を感じ取る。
「消してもいいんだよ」
目的の場所へ落ちていく中、ネコミミマネキンは肩から顔を出し、懸命に首を横に振った。すぐに指先の鞭が網目に広がり、落下のクッションと同時、ジョセフの体を覆い隠す。
「承太郎ッッ!!」
千時が叫ぶのよりは多分、ほんの僅かに切り替わりが早かったのだろう。ジョセフの直前まで手を伸ばしていたディオは動きを止め、千時の頭上で起きたオラオララッシュと共に、後方へズレていった。
ついでに服の背中を鷲掴みにされ、絡め取ったジョセフごと、後方へ引っ張られる。
「やはりテメエ、とんでもねえ大バカだぜ」
不機嫌な声音で承太郎は言った。
ゴウッと音が戻り、熱風が吹き付ける。千時が見上げた承太郎の背中の先で、ディオの体が時間の追撃に為す術無く吹っ飛ぶ。
「なっ…!?」
目を白黒させるジョセフから、ピンクの鞭が解かれた。
「逃げて! あなたの血は吸わせちゃいけない!」
言えば片手が呼応したようにジョセフの腕を取った。ピンクの鞭を巻き付け、引っ張ってひょいと立たせる。こんな膂力、千時には無い。手はジョセフをアヴドゥルの方へ突き飛ばした。T・Tによる制御はそこまでで、途端、両手は鈍痛と共に千時の元へと戻った。
「二人とも行って! 早く!!」
言い捨てて走り出す。
もし奴が時を止めたら、さっきの調子で気を散らし、時間を稼いで…あれ? 時間止まってるのに時間稼ぎっておかしいな…まあいいや。承太郎の攻勢を待つのだ。
何故か心がこれまでになく落ち着き払っているというのに、時間稼ぎがおかしいだなんてくだらない思考が挟まるあたりは、ちゃんと自分。消え去るのはまだ先のようで、苦笑がこぼれる。
吸血鬼のスタンドは、主人より先に立ち上がり、スタープラチナの猛攻を猛攻で押し返している。ディオ自身はまだ、身を起こしきっていない。立ち上がる前に、ビンタの一発も食らわしてやらねば。
『失敗した!』
トランシーバーが怒鳴った。
『飛べるのを見られちまった! イギーを狙ってやがるッ!!』
『焦るんじゃあないッ! くそッ…誰か聞いてるか!? 僕はポルナレフの方へ向かう!』
「聞いたッ! よろしく!」
千時はトランシーバーに怒鳴り、すぐさまポケットへ戻した。
足もとにひっくり返る照射装置の群を見て回ると、ほとんどが破損していた。爆風かと思ったが、どれにもほぼ一つずつ穴が開いていて、瓦礫の欠片を投げつけられたのだと分かる。やはり弱点には違いないのだ。でなければこんなに丁寧に潰さない。点灯しているものを見つけて立て直し、裏側から抱えて戻る。
「T・T!」
ディオはちぎれそうな左腕を忌々しげに押さえながら、その場に背を向けていた。一時撤退? させてたまるか。
「あいつに!!」
前へ突き出した照射装置を、背後から薄ピンク色の手が受け取り、指を伸ばして限界まで前へ。届くかどうか怪しかったが、ディオがもの凄い形相で振り返ったところを見るに、多少は効果があったらしい。
「投げちゃえ!!」
半透明の指先が、弾くように装置を正面へ投げる。向こうも分かったようで、一掴みの瓦礫を投げつけて壊し、軌道を逸らす。
小賢しいとか何とか聞こえた気もしたが、もうその時、千時は承太郎の後方へと駆け戻り始めていた。承太郎はディオの方へ向かっている。変な場所で承太郎を邪魔したくない。距離を取って後方へだ。そのさらに先、路地の暗がりにはジョセフとアヴドゥルが居る。二カ所の真ん中辺りが正解の筈。
ビン、と体が引っ張られて足が浮く。
「んわッ」
まさかまた承太郎に掴まれたかとも思ったが、もつれた足を引きずるように逆方向へ動き始めたのは、ネコミミマネキンだった。
「T・T!? 何してるの、ダメ!! そっちは」
危ない、だがそんな事は分かりきっている。そちらには敵を追う承太郎の背と、応戦しながら崩れた館の内側へ退るディオが居る。
マンガに出てくるキョンシーよろしく、両手を前に引っ張られながら、千時は仕方なく走り出した。分かりきっているのにT・Tがそちらへ向かおうとするのだから、きっと理由がある。
あんまし変な事すんなよ、呟くが、前方斜め上に浮かぶ頭は振り返らず、千時の動作に助けを得て、飛ぶように瓦礫へと駆け上がった。足の裏が熱い。燻る熾火。靴が溶けやしないかなんて、どうでもいい危惧。
ディオの視線で背後に気付いた承太郎が、僅かに振り返った。
「なッ」
「うわぁあ」
場違いに間抜けな悲鳴をあげたのは、T・Tがそのまま承太郎の背中に突進したからだ。ぶつかる! と思う寸前ネコミミマネキンは止まり、自らの頭部の下に浮くハート型のプレートを掴むと、その手を承太郎の向こう…スタープラチナの背に押し込んだ。
何を、と、問う暇も無い。
黒髪が背を覆い、甲冑が形を変え、体躯は一回りも膨れ上がるようだった。青を基調としていた色は漆黒に染まり、元の名残はもう、承太郎と同じ色の目くらいしか無い。
何だ、これは。
最初にそう呟いたのは、意外にもディオだった。その囁くような小ささに、どの時点で時間が止まったのか、また静寂が辺りを包んでいると気付く。
スタープラチナだったはずのスタンドは、T・Tの方へ首を向け、一度だけ頷いた。そうして、美しい金細工の手甲に覆われた大きな手を、進み出たT・Tの手に重ねた。
そのまま薄ピンク色が大きく広がり、吸血鬼をやわやわと包んでいく。
その瞬間になってようやく、千時は、目の前の光景の意味を理解した。彼女は、彼女の願った救済が、この吸血鬼に運命を狂わされた何百何千という人間すべての願いを壊すのだと気付いた。
やめて、という絶叫が、実際声に出ていたかどうかも定かではない。
時は何事も無かったように滑り出し、また世界を刻み始めた。
炎が轟々と風鳴りを響かせる。スタープラチナはいつものように、ただ無表情なまま承太郎のそばに立つ。
熱風と瓦礫の中で、赤ん坊の泣き声が二つ、妙に甲高い。
手を組んで作った揺りかごを、T・Tは揺らしていた。
千時がその場にへたりこんでも、ただ、ゆらゆらと、あてどなく。
朝日の昇る、ほんの一分前の事だった。
部屋へ入るなり、アヴドゥルが投げかけた。
「あの子はどうしている」
「相変わらずだ」
承太郎は後ろ手にドアを閉め、吐き捨てるように答えた。ディオが消えた今となっては、暫定、襲撃も起きないだろうと予測され、千時にはシングルのキーが渡された。彼女はそれを無言で受け取ったきり、丸一日、部屋から出てきていない。
承太郎は苛立ちを隠さず、チッと舌打ちした。
「テメエで作ったガキ共の世話もしねえで」
なかなか語弊のある言い方だったが、いつものように調子良く咎める者も無いのだ。壁に寄りかかり咥えた煙草には、なかなか火がつかなかった。アヴドゥルが歩み寄り、指先から熱を灯す。礼を言うでもない。つけた方も昼下がりの窓辺へと視線を戻し、茫洋と街の景色を眺めるだけだった。
ポルナレフは床へ座り込みベッドにもたれて、花京院はテーブルに着き両手を組んで、どちらも黙りこくっている。
彼らは、恐れながらも待っていた。
次にドアが開くのをだ。
やがてドアノブが、ガチャリと回った。
「かなりの遺体が見つかった」
部屋へ入るなり、ジョセフ・ジョースターはくたびれたきった声で告げた。
「十二、三人分らしい。損壊が激しく、ほとんどが炭化しとって、どの時点まで生きていたかは分からんそうだが…」
花京院の向かい側、空いていた椅子にどっかと腰掛け、両手で顔を覆う。
大きな、長いため息が、僅かな沈黙に落ちた。
「彼女は知らなかったんでしょう」
窓の外を見ていたアヴドゥルが、ぼんやりとこぼした。
「ディオが食い殺してしまった後の遺体ですよ。そもそも、あの予言自体がアニメだかテレビだか、言っていたじゃあないですか。そんな場面が放送されなかったのでは」
「ンな言い訳で通るかよッッ!!」
床を拳でブチ抜きそうになりながら、ポルナレフが怒鳴った。
「信じろと言ったんだ! あいつは! 信じろと!! 裏切られたなら殺せとまでだ!! ああそうとも! 裏切られたさ!! 俺は今あいつをブチ殺してやりてえよッッ!!」
隣室どころかホテル中に聞こえてしまいそうだ。けれど誰も、言い返したりはしなかった。やり場のない感情の矛先をどこへもっていけばいいやら、迷っているのは全員が同じだった。
「皆の考えはもっともです」
花京院が、酷く静かに、重苦しい空気を押し上げた。
「彼女を非難し、切り離すというなら、それには賛同する。…ただ、僕自身は彼女の側に立ちます」
一瞬の間を置いて、ポルナレフが立ち上がった。怪我のある片足を引きずって、しかしそんな事など感じさせない凄まじい勢いで、テーブルへ詰め寄った。
「何血迷った事抜かしやがる!!」
「同じ立場ならどうだ」
テーブルを叩こうとした手は、宙に止まった。
怒りにわなわなと震える男を、花京院は、ちらとも見なかった。彼は彼で、怒れる仲間を見れば自らの決心が揺らぐのだとでも、言いたげな様子だった。
「彼女は恐らく本当に、人質の有無は知らなかったんでしょう。だが、結果がどうでも、最初から一人で背負うつもりだったのは確かだ。
…僕はたぶん長いこと、彼女と同じ種類の弱さを持っていました。他者を受け入れず、全て自分の内側に押し込めて、傷つく事を恐れる臆病さをね。僕は運良く沈黙を保ったままでいられた。彼女には行動を駆り立てられる情報があった。それだけの差だ。
だから僕は、予言や裏切りがどうこうと言う前に、彼女自身を信じているんです。
無論、僕はこの場の全員が大好きですよ。こんな事を言うのは照れくさいが、生涯の友人達だと思っています。ずっとそうであってほしい。離れたくもありません。だが、それは彼女にも同じことで、もう大切な友人の一人になってしまった。だから彼女が切り捨てられて、ひとりぼっちになるようなら、僕はそうさせたくないから彼女の隣に立とうと思うんです」
「フザけんなッッ!!」
ポルナレフは、一回り小柄な友人の胸倉を、乱暴に掴み上げた。
「頭イイ奴だと思っていたが、脳ミソがトロけちまったらしいな! そういう事なら、俺が二人仲良くブッ殺してやろうじゃあねえかッ!!」
「できない事を言わなくていい」
「分かってるよ!! ンなこた分かってる!! けどなあッ」
「納得いかないんだよな。分かるよ、ポルナレフ」
驚くほどそっと、花京院は同意した。そうして、自分を掴む手に手を重ね、ゆっくりと降ろさせた。
くそッ、と小さな悪態に、掠れた嗚咽が混じる。
「僕だってこの結末に納得しているわけじゃないんだ。分かってくれ」
「わーってるよッ…!!」
ポルナレフは、堰を切ったようにボタボタと涙をこぼした。
花京院の手指は慰めるようにそれを拭い、肩を叩いて励ました。
「くそッ…何で、…違うッ!! 分かってる! 俺が弱いからだ!! 俺がもっと強けりゃアイツ一人にあんな事言わせずに済んだ!!」
「全員同じだ。言うんじゃあない」
「だがよオッ…情けねえんだよッ!!」
「ああ。そうだな」
立ち尽くす二人の言い合いが、その場の葛藤の全てだ。
本当は違う。それは全員が分かっていて、言葉にしない。彼女は確かに、彼らを騙しおおせた。事実、現実、裏切った。ただ、あの敵を前にして、他に何の手段があっただろう。正面切って戦って、仲間を死なせる方がマシだったかと問われたら、そこにも答えは存在しない。
ひどく複雑な花京院の視線は、ジョセフを、アヴドゥルを、目の前のポルナレフをさまよって、最後は縋るように承太郎を見た。
海色の目は伏せられたまま、彼は、何も言わなかった。
「そろそろ、どういう事だったのか訊きに行かんと…」
ジョセフが腰を上げ、もう一度だけ大きなため息をついた。
爆破を知って真っ先に動いた財団員は、現地に居た別動隊の数人だった。彼らはすぐさま周辺国に待機していた本隊に連絡を取り、同時に、現場へと駆けつけた。
承太郎は、ディオが目の前から消えた後、いつまでも立ち上がらない千時の腕を掴み、館の瓦礫から引きずって戻った。後ろからついてきたT・Tが、手の中の赤ん坊二人をジョセフとアヴドゥルに差し出して消えると、千時が手を掴まれたそのまま昏倒、朝日と共に駆けつけた財団員はそれを見て、すわ死人かと慌てて合流した。直後、もう一方の難敵を倒し終えた二人と一匹も戻った。そちらはポルナレフが片足の腿を深く抉られていたため、千時と二人、財団員が引き受けて近くの病院へ担ぎ込んだ。
数時間後にはサポート班の本隊が駆けつけて手配が始まり、三階立ての小さなホテルが貸し切られた。現在、一、二階には財団職員が、三階にはジョセフ達が詰めている。
赤ん坊二人にはシッターが手配された。但し、普通の事態でないため、一般人を使うのはジョセフが渋った。こういう時、彼らの膨大なネットワークが本領を発揮する。ギリシャのアテネに飛んでいた研究班の中に、一人だけ女性職員が居たのを見つけてきた。本職のシッターではないが、子持ちの母親だっただけでも充分な人材だ。アテネからカイロまでは、飛行機で二時間である。四時間後には、もう彼女が到着し、赤ん坊二人を引き受けた。
丁度そのあたりで、千時は目を覚ました。心臓の石はともかく、他に異常が無い事は確かめられた。何が起きたのかと全員が詰め寄ったが、彼女は言葉に詰まったまま語らなかった。ただ、ポルナレフの怪我を見てT・Tを呼び出そうとし、ネコミミマネキンが姿を現さないことに、酷く落胆していた。
全員が疲れきっていた。
自身も疲れていたジョセフは一旦諦め、ホテルへ引きあげた。ポルナレフは入院を促されたが、もう平気だと無理を押して戻った。彼が、正直なところ今は一人になりたくない、と、初めて弱音を吐いたのは、千時の居ない夕飯の席だった。
彼らは何度も声をかけてドアをノックしたが、中に居るはずの彼女は、案の定、返事をしなかった。彼らは結局、フロントに頼んでホテルマンに来てもらい、開けるぞと予告した上で、マスターキーを使った。
そこまでやってようやく、千時は、チェーンを外しに来た。
「すまんが、話をさせてくれ。な」
またドアを閉められると厄介だからか、ジョセフは優しげに、そっと言った。彼女は頷くこともせず、部屋の奥に寄せられたベッドの隅に座った。
悄然とした小柄な女の部屋に、大柄な男ばかり五人も入っていくせいで、ホテルマンは少しばかり不審そうだったが、既に財団が介入しているためか、押し黙って戻って行った。
部屋の中には、何度もあった光景があるだけだ。一部屋に、ギュウギュウになって、額を寄せて。次はどこを通る、何に乗る、どんな敵が。そんな事を散々繰り返してきた。
だが、こんな空気になった事は無い。
各々が適当に散らばると、ジョセフはベッドへ歩み寄り、千時の隣に座った。
「大丈夫か」
答えない千時の片手を、彼は両手で包んだ。老人らしく、子供にするように、何度も何度もただ撫でて、しばらくは黙っていた。
「ホリィの熱が下がったよ」
弾かれたように顔をあげた彼女に、ジョセフはニッと笑いかけた。
「まだ衰弱しとるからな、しばらく安静にとの事だが。明日には、本人と電話ができる。お前さんも話すじゃろう? いや、話してやってくれ。きっと喜ぶ」
「うん」
千時が、やっと素直に頷いた。
ジョセフはそのままの調子で、静かに続けた。
「それで、何があったんだ」
「…ごめんなさい」
彼女は謝ったが、もう俯かず、ジョセフの目を見つめ返した。
「最初から話さなきゃ、今回の事は説明できない。だから今度こそ、全部を話す。だけど、絶対に口外しないと約束して。全員、お墓の中まで持っていって。理由は、聞いたら分かるから。
ここ、盗聴器は無い?」
「何?」
「無い?」
「…ああ、無い」
「絶対?」
「無いよ。安心していい。何でも好きに話しなさい」
欲した答えだけを受け取り、千時は言った。
「私、死んでるの」