スターダストテイル   作:米俵一俵

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27.混戦

 時刻は現地時間の午前6時過ぎ。

『どうだ? 聞こえるか?』

 アヴドゥルの声が訊き、

「うん。ノリさんは?」

『聞こえてる』

 花京院が応える。

「じゃ手筈通りここで」

 トランシーバーと言い合う内に、薄暗い水路へ明かりが駆け戻ってきた。アヴドゥルは指先に火を灯している。彼だけは懐中電灯が要らない。尽々便利な人だ。まあ、代わりに天井の低いトンネル状の地下排水路、彼は頭を下げなければならず中腰。千時は余裕で立っていられる絶妙な高さ。

「うーむ…、いかんな」

 彼は辺りを見回していた。

「何が?」

「昼は無線の事でゴタゴタして忘れていたが、ここは分岐などが無いだろう。距離はあるが直線だ。もし炎が延びたら身を隠す場所が無い。少しでもおかしいと感じたら、とりあえず水に飛び込んでくれ」

「うえー! この水にか!」

「背に腹は代えられんだろうが」

 水路の中の出入り口から放火する案は通ったのだが、昼の間に現場を下見に来てみたら、トランシーバーが届かなかったのだ。で、千時が水路の途中、地表と奥の両方がどうにか繋がる地点で通信を取り持つ事になった。先ほどのやりとりは最終確認である。

「背に腹はって、その腹を壊しそうだねえ、この水」

 通路脇の一段低い場所に通る排水路は、暗く淀んで深さも知れない。

「腹くらい何だ。死んでは元も子もないぞ。お前もきちんと生き残る努力をしろ」

「わかってるってばもー、一日中耳タコ。皆して何なの」

 うんざりする千時に、アヴドゥルは少しばかり意外そうな顔をした。そして、すぐに一人で納得し、頷いた。

「皆、頼まれていたんだな。承太郎がしきりに心配していたんだ」

「は?」

「死にたがりだから気をつけてやってくれと」

「ううッ!! 何たる誤解を!!」

 軽く流そうとしたが、

「どうかな」

 アヴドゥルはジロリと見下ろしてきた。

 何だかこう、T・Tのせいで、承太郎やアヴドゥルの中の千時が、とんだ人物になってしまっているらしい。

 自分のような人間は、どこにでも居る。千時はそう思っている。別に厨二病でなくても、へとへとに疲れた時、いっそ世界が滅びてくれればとか人生面倒くさいだとか、そんな事くらい誰だって考える。特別ネガティブでなければ思いつかない妄想というわけではない。それがちょっと外部へ漏れたからといって、承太郎に心配されるような、特別な事ではない筈だが。というか、承太郎に至っては、彼女が既に死んでいると知っているのに。007じゃないんだぜ。二度は死ねない…多分。

「T・T居るし、日本出る時の予定より断然マシだよ。ま、最初から命懸け、自分の事くらいはどうにかする! でしょ」

 昨夜の台詞を引用してやると、彼は不服げにフンと鼻を鳴らした。

 ガガッとトランシーバーが喚き、ハッとして手を上げる。

『お届け物でェす!』

「ポルナレフ! 今行く!」

 二人は顔を見合わせ、水路を走った。大した距離は無い。出口は、さらに地表を走る別の水路へと繋がっていて、併走する道路に対し、堀のように低くなっている。見上げた道路には、バイクに跨ったままのポルナレフが荷物を持って待っていた。

「よう! 無事に取ってきてやったぜ」

 投げ込まれた荷物は一抱えもあって、アヴドゥルがキャッチ。

「第一段階はオーケーか?」

「ああ、そのようだ」

「そんじゃまた後で。ヤケドすんなよ!」

「そっちもな!」

「ジョセフさんによろしく!」

「あいよ!」

 早口に言い合い、バイクは走り去った。

 計画は、一晩がかりで議論され、昼の間に幾つかの確認をして、決行に至っている。

 館に直接近付くのは、これが最初で最後だ。勘付かれると先制や防御を招きかねないため、下見には行けなかった。ジョセフがポルナレフと共に、またどこだかの屋上へ上って確認だけはしてきているが、その建物自体どこまでが幻影か判別不能のため、計画は図面頼りである。

 他、昼間に全員で確かめたのは、大学、工場、消防署の位置と、二カ所の地下通路出口。その程度だ。あとはイギーへのご褒美を山ほど買い込んだ。ガムは勿論、普通ならあげないようなヌガーキャンディやキャラメル、マシュマロ、ついでにめっけたオレオも大サービス。

 分担は、メンバーの中で唯一爆薬を扱った事があると自己申告したポルナレフが消防署。ジョセフと合流し、配置のついでに防護服を水路へ。

 千時、アヴドゥル、花京院は、最初から現場付近に直行し、通信の地点を確保。花京院は全てのトランシーバーが届く地点から、細心の注意を払って上空に結界を伸ばしている最中。

 承太郎は、ジョセフと共に照射装置を引っ張ってきてから、イギーを連れてもう一カ所の地下通路の出入り口を塞いでくる算段だ。

 イギーは当初、千時が連れて行く予定だった。出入り口が館から少し離れていて、戦力外の彼女が待機するには、程良い位置だったのだ。まあ結局、無線の中継問題が発覚して千時は現場に駆り出されたが、それが分かる前に、承太郎が待ったをかけ、自ら引き受けた。万が一イギーが失敗して穴を塞げなかったら、力技で封じられるのがスタープラチナだけだからである。さらに彼には、最後の爆薬が課されている。これはジョセフの意見で、炎が通った後、館の中央に投石で穴を開けて爆薬を投げ込めれば効果的だ、との事でそうなった。間に合うかは状況と現場の判断に任せるため、こちらには分からない。

「千時、さがれ」

 アヴドゥルに言われて一歩後ろへ退くと、彼は荷物に炎を差し向け、器用に紐だけを焼き切った。…いや本当に便利な人だな。キャッチコピーは、一家に一人モハメドアヴドゥル、とかな。

 荷物は、解して広げると、そのまま銀色の繋ぎになった。

「おー、これが防護服…!」

 千時はちょっと感心した。内側に畳まれていたマスク部分が頭部に一体化していて、いかにも映画っぽい。ボルケーノだったっけ、溶岩がワーッとくるの。そういうのに出てきそうな装備である。

「お前、本当に現物を知らずに来ているんだなあ…」

 アヴドゥルに呆れ返られるが、

「そりゃ一般市民だもの」

 当然の話だ。

「さ、ローブ持ってるから」

「ああ」

 アヴドゥルの脱いだ上着を受け取り、畳んで丸めてリュックに詰める。

 さすがの占星術師も、金属の装飾具はホテルに置いてきた。防護服の着脱に困らないよう、髪も全て崩して後ろで束ねただけ。普段とは違うシルエットが、ピクシブで眺めていたイケメンイラストにほど近い。

「普段もそのほうがモテそうなのに」

 ニヤリとしてからかってみる。千時は、次にアヴドゥルは「バカな事言っとらんで」とか何とか言う、なんて思っていた。ら、意外にも彼は微妙な表情を浮かべ、ウゥンと唸った。

「普通に、なら、いいんだが」

「んん?」

「それじゃあ中継を頼んだぞ。くれぐれも注意して、飛び込むべき時は飛び込むことだ!」

 言いながら、アヴドゥルは防護服を抱え、奥へ向かっていってしまった。

 なんだソレー? 

「…は、終わってからゆっくり聞けってか」

 苦笑に深呼吸を一つ。

 雑談でも何でも、生きていればできる。今は目の前の問題だ。

 目指す日の出は6時50分頃になる。

 時計は今、6時20分を過ぎた。

『池上さん、照射装置の設置が終わった』

 トランシーバーがガリガリと雑音混じりの声を届ける。

「ハイ了解」

 財団さんGJ! 心の中で拍手喝采。

 照射装置の足元は、キャスターとは言いながら、かなり特殊な作りになっている。

 パソコンに使うマウスの、古いタイプをご存じだろうか。もう二〇一四年時点ではLEDの光学式がスタンダードだが、これ以前のマウスは、底面に球体の填まったボール式だったのだ。…千時はパソコン歴が小学一年からとバカ長いため、これの時代に友人達がマウス壊れたと嘆くと、とりあえず底を外してボール洗え中はピンセットでゴミ取って綿棒で掃除しなと説明し、数々の廃棄寸前マウスを救ってきたわけだが閑話休題。

 今回の紫外線照射装置も、外装の底にオプションを填める形で、四連のボール式になっている。普通のキャスターではコーナーで倒れてしまうだろうという事と、運搬の際の騒音を低減するための仕様だ。

 ここまでは順調。いきなり気付かれてまるごとガオン、なんて事にはならなかったらしい。

 さて。

『少し早いか?』

「どうだろ…」

 次の爆弾投入が、こちらからの最初のアプローチとなる。敵の巡回…あの大きな鳥など非常に怪しい…が、すぐさま気付くには違いないのだ。多少早いか遅いか、日の出までに何分を残すかというだけの差で。

「もう既に、私たちが周囲をうろちょろしてたり、地下道を封じてる事は、バレてる可能性もあるから…」

『やはりそう思うよな。よし、このまま進めよう』

 花京院も、年齢の割に老練を思わせる策士だが、こんな大がかりな作戦なんぞやった事は無い。言い出しっぺの千時の同意を、ちらほら求めてくる。いやまあ、無いもんな。人生に、こんな事する機会なんて。千時だって無い。たぶん一緒に考えてくれた別動隊の人も無い。ジョセフすら、大人数による計画的作戦行動は慣れないのか、見取り図の前で目を皿のようにしていた。無い無い尽くしの中、意外にもポルナレフが落ち着いているのは、爆弾を扱った経験と関係があっただろうか。しかしやはり雑談どころではなくて、そういえばそれも聞きそびれた。

『ポルナレフ、ジョースターさん、聞こえましたか』

『おう、聞いてるぜ』

『爆薬は持ったぞ』

『ではお願いします』

『なあ、おい、ポルナレフ。これ、本当に投げ入れても爆発せんのじゃろうな?』

『してくれるほうがよっぽどマシだぜ。むしろ信管がすっぽ抜けねえように祈っときな!』

 ああ、抜けちゃったら不発なんだっけか。

 エンジン音と同時、地上からの通信は途切れた。

 こちらはすぐに送信ボタンを押す。

「アヴさん。今、投げ込みに行ったって」

『わかった』

 次の連絡で、とうとう火を放つ段になる。

 足下に置いた懐中電灯の明かりしか無い水路で、ただ息を潜めていると、唐突な不安が押し寄せた。もしかしてこの暗がりを歩いていくと、元の世界に戻れるんじゃあないだろうか。気付いたら自宅のそばなんかに出たりして。違う。不安なのは帰りたいからではなく、世界の狭間で永遠の迷子なんて、恐ろしい事を想像してしまったからだ。

「早く早く…」

 トランシーバーの雑音を願う。

 沈黙は、ひどく長く感じられた。

 そして次の音は連絡でなく、ドオン、という地響きだった。

『千時! 何事だ!?』

「まだ何も!」

『ジョセフさんが鳥に襲われている! 承太郎ッ左へ入れ!!』

 花京院の怒鳴り声が割って入る。

『行き止まりに見えるぜ!』

『突き当たりに細い横道がある! まっすぐ抜けてもう一度右だ、正面ッ! 見えるか!? 鳥が氷を…』

『承太郎ッ!! 奴はわしがひきつける! 爆弾を頼んだッッ!!』

 さらにジョセフの声が被った。どうやら早速、厄介な事になり始めたらしい。

『千時! まだか!?』

「アヴさんがまだかって訊いてる!!」

 トランシーバーに怒鳴ると、答えたのは承太郎だった。

『まだだ!! 待てと伝えろ!!』

「もうちょっと待てって!」

『くそッ! 上はどうなっているんだ!?』

 話す間もずっと、遠い轟音が響いてきている。ダダダッと妙に連続するものが混じっていて、こちらの爆弾ではなさそうなのが怖い。

『五秒後だッッ!!』

「はい!」

 承太郎の怒声、機械的に送信を押し、

「五! 四!」

『いいんだなッ!? いくぞッッ!!』

「一!!」

 そこからきっかり、また五秒おいて、千時は吹っ飛ばされた。

 壁に激突して頭をしたたかぶつけ、一瞬の途絶。リュックがクッションになり背中は無事だが、真っ暗闇で何も見えない。懐中電灯がどこかへいってしまったらしい。周辺をぺたぺた触ってようやく、T・Tの手がその場を覆っている事に気付いた。後頭部を撫でながら、大丈夫だと言…おうとして、今度は、音の無いのが遮断されているからではなく、鼓膜がきかないせいだと気付く。自分の声すらまともに聞こえない。

 両手の甲がじんわりと痛んできて、これは、どれだけの熱が通り過ぎたのかと背筋が凍る。

 アヴドゥル、と叫んだはずだが、海水でも入ったように耳がぼんやりとしている。ドームの事も忘れていて、何度も叫んでから開けてと言い、生ぬるい空気にぶわりと顔を撫でられながらもう一度叫ぶ。いや、考えてみればあっちだって耳がやられているだろう。聞こえるはずもない。

 暗がりの動きにくさを考えてリュックをおろし、T・T、そのまま、一緒に来て、と言ってみる。聞こえないのでちゃんと言えたかどうか怪しかったが、両肩にそっと乗った手で、伝わったことが分かった。

 ポケットのトランシーバーを確かめ、どうにか立ち上がる。千時は、小刻みに震えて言うことをきかない足を叱咤し、壁に手をついて、ひたすら奥へ向かった。幸い壁側にそのままひっくり返ったおかげで、方向だけは分かる。水路を左にして進むだけだ。しかし本当の真っ暗闇で、果たしてアヴドゥルを見つけ出せるかどうか。彼が吹っ飛んでしまって、この通路の先に居なかったら、探そうにも手探りだ。…水路にでも倒れて窒息とかしてたらどうしよう。だめだ、これまでになく怖い事を思うのは、絶対に暗闇のせいだ。

 叫びながら歩く内、徐々に音が戻ってくる。どこからか響く轟音が、間断無く耳朶を這っているが、とにかく聞こえ始めた。

「アヴさん! アヴドゥル!! 返事して!!」

 進む内、つま先が何かにひっかかった。ゆっくり歩いていなかったら転けていたところだった。千時は下がって膝を着き、手探りでそれを確かめた。

「アヴドゥル!? アヴドゥル!! お願い起きて! 起きてよ!」

 ぐいぐい揺らしても反応が無い。違う? これはアヴドゥルじゃあないんだろうか。違う! 

「T・T巻き戻してッ!!」

 絶叫するしかできなかった。どこを、も分からない。確かに触れているのは防護服で、頭の位置はマスクで分かる、が、そのマスクのせいで呼吸が確かめられない。紐を解いた時の表面は布のような手触りだったはずが、変にザラついて粉っぽいし、もとよりろくに触ったことのない防護服の繋ぎ目など、手探りでは見当がつかない。

 T・Tが手を出しているかどうかも見えないのだ。

「やだ」

 千時はうずくまって額を押しつけ、感情の暴発をこらえた。

「懐中電灯ない、ひどいよ、暗いのに、…お願い、お願い起きて」

 轟音が繰り返し響き、トランシーバーが時折思い出したようにノイズを吐くだけの沈黙は、一時間にも二時間にも思えた。あとになって時計を見てから、それがたったの数分だった事に気付くのだが、もう千時は泣いてしまった後だった。

 だいじょうぶか。

 そうくぐもった声が聞こえて、千時は弾かれたように顔をあげた。むくりと起きあがる防護服から慌てて手を離し、顔を拭う。

 ごそごそと動く音。ガコッとどこかが外れる音。

「お前は大丈夫か」

 くりかえす、クリアな声。

 千時は腰が抜けてしまって、しばらく返事ができなかった。

 

 彼は、千時と同じく壁際に吹っ飛ばされた後、とにかく体が動かなかったと語った。

 彼の担当する場所は、水路の壁にある60センチ四方ほどの小さな通路出入り口だ。承太郎の合図を受け、そこから全力で放火したという。

 打ち合わせの時点では、爆薬が投げ込まれるのは少し後という手筈だったから、勿論、そのつもりだったろう。だが現実には、いきなり爆風が狭い通路を吹き返した。アヴドゥルは、手元の感覚で自らの炎熱ではないものが押し返してくる事を察し、咄嗟に出入り口の脇へ避けた。だが、爆風は正面の壁に吹き付け、通路へ雪崩込んだ。

 爆弾というのは、手足が飛んだり物の破片が刺さったりという事もあるが、大きな外傷が無くても死に至る場合がある。衝撃波が及ぶからだ。千時は爆弾の知識などほとんど無いが、CSIか何かの洋ドラで、内臓だけやられてるわーとかそんな、ちょいグロの話を見た覚えがある。

 防護服を確かめたところ、やはり炎に直接晒された様子は無かった。粉っぽかったのも煤や粉塵。さて、体のどこがやられていたのか、それとも単に気絶していただけなのか、真相は神ならぬT・Tのみぞ知るところ。

「承太郎め!!」

「まあそう怒るな」

「ダメだね。あとで正座でバケツで廊下で小一時間問いつめて反省文…いやヌルいッ!! びっくりするほどユートピアさせやるッッ!!」

「なんだそれは?」

「ジャパニーズトラディショナル安価ッッ!!」

「…なんなんだそれは…」

 いやまあ、あっちだっててんやわんやだろう。分かっている。だがもう軽口でも叩いていないとおさまらない。何しろ千時は、さっき抜かした腰がまだ立たず、アヴドゥルの肩に担がれているのだ。ポルナレフと張るほど体躯の良い彼でも、中腰で荷物を担いでいては走れない。早く外に出たいと気ばかりが急く。

「ごめんね。私も気付くべきだった。考えてみたら秒読みとかおかしい」

「うん?」

 千時は渋い顔で、謝りそうにない承太郎を思い浮かべた。

「爆弾投げ込んでどんぴしゃ火なんかつけたら、こうなるに決まってる。あンのヤロー、アヴさん殺す気かっつの。予告するならまだしも、何も言わずに五秒しかおかないとか無い!」

「五秒?」

「せめて予告して十秒あけろだよねえ」

 アヴドゥルは不審げに、ちょっと、と千時を肩から降ろした。

「足は大丈夫か。まだ座るか」

「…と、立てそう。ありがと」

「いや」

「重くてごめん、もう平気」

「そうじゃない。今の話だが」

 歩みを止めたからか、指に灯った炎が揺らいで大きくなった。

「その五秒というのはカウントの事だったか?」

「ん? いや、だから放火から五秒でドカンの…」

「放火から?」

 アヴドゥルはたちまち眉根を寄せ、険しい目で千時を睨んだ。

「一秒も無かったぞ。だから私は逃げられなかったんだ。お前、気が動転しているのなら、あとは終わるまで隠れていなさい」

 千時はアヴドゥルの目を見たまま、しばらく言葉を失った。

 そして、

「は…ッ、走ろう!!」

 呼びかけるアヴドゥルにも答えず、暗闇を走り出した。

 この齟齬は大問題だ。

 彼女は、スタープラチナとザ・ワールドのネタバレを、それなりにしっかり覚えていた。ほぼ同じ能力を持つ者同士、承太郎とディオだけが互いに停止した時間を認識できる、というのは確かで、さらに原作の描写から多少の動作が可能かもしれない、とあった筈だ。この事は、現場での混乱を避けるため、全員に話してある。

 だが、千時の時間が〝止まらない〟事は知らせていない。

 原作に従えば、本来、停止中の世界を認識できるのは先述の二人と6部の神父、この三人しか居ない。T・Tも時間操作の一種を持っているのは確かだが、ならば同じ括りに入る4部の殺人犯や5部のボスも認識できる事になる。実際にはできない…はずだ。千時の記憶が確かなら。

 この事は、どういう訳か最も謎の事象であると同時、何の拍子に切り札となるか分からない。承太郎の時止めは、彼女にとって、認識云々どころか景色のほうが一方的に止まるだけ。スイッチの瞬間すら分からず、行動も極普通に叶う。という事は、彼女はディオの時止めに対しても不感であるかもしれないのだ。

 ようやく話を戻すが、昨夕の打ち合わせ時点で、承太郎の時止めはまだ誤差含め二秒強。五秒に及ぶ時間が止まっていたのだとしたら、どちらの可能性が高いか、である。

「ヤバいヤバいヤバい夜明けまでに勝負する気だあぁ!!」

「何だって!?」

 後ろから便利な明かりも追いかけてきたが、どこから何をどう言えばいいのか準備が無い。覚悟の内、想定の範囲でも、実際にそうなられると胃が口から出てしまいそうだった。

「とにかく走っ…」

『どこだ!?』

『右後ろ!!』

 出口が近いのか、唐突にトランシーバーが声を拾った。ポルナレフと花京院だ。

『絶対に炎や煙から離れるんじゃあないぞ!!』

『わーッてら!!』

 そう! そこ大事! 事態を察して思わず頷く。

 千時が館に火を放ちたかったのは、このためでもあった。火も爆破も確実にクリアしてくるであろう敵の筆頭、亜空間使いへの対策だ。最初から炎と煙で空気の流れを視覚化しておけば、位置と軌道を目で追える。

 まあ実際は穴掘って逃げちゃうパターンも考えられたが、それなら精々、最初から想定しているディオと当人の二人くらいだろうから、計画の内。現状、戦いに出てきたようなので、踏み込んでいいなら千時は今回、いっそディオよりグルグルガオンを倒してほしいのである。

「既に混戦か…千時、危ないから前後を代われ」

 アヴドゥルは千時の肩を掴んで自分の背後へと下げ、小走りに進んだ。

 トンネルはそこからすぐで終わり、途端、全力で駆けていく背中を、千時が必死に追いかける。少し先で据え付けの梯子を上れば、空は赤い。朝日でなく炎の色が、夜明け前の暗がりを染め、星の代わりとばかりきらきらと灰や火の粉を巻き上げていた。

『げえッ! 照射装置が飲まれちまった!』

『見えている!! まだチャンスが無い、そのまま走れ!!』

 トランシーバーでポルナレフと花京院がひっきりなしに喚いている。

「グルグルガオンというやつか!?」

 アヴドゥルの口から出るとまたぞろ間抜け極まるが、

「多分!」

 語句の割に洒落ではない。館へ向かう細い路地を駆け出しながら、アヴドゥルがトランシーバーに叫んだ。

「花京院、水路を出たぞ! 指示を!!」

『館に突き当たったらアヴドゥルは右へ! 承太郎の援護を頼みます!』

 すかさず花京院が応える。

「分かった!」

『注意してくれ! 池上さんッ!!』

「はイ!!」

『きみには単独で左へ行ってもらう! ジョセフさんが足をやられた! 館を通り過ぎた先だ、頼むぞッ!!』

「わぁあかッたア!」

 行く前から半泣きの気持ちで細い路地を抜けると、目の前には、バッと目映い赤が広がった。轟々と空を染める炎を正面に、アヴドゥルが振り返りもせず、

「必ず花京院の指示に従え!!」

 そう怒鳴って右へ折れ、

「はいイィッ!!」

 悲鳴のように返事をした千時が左へ折れる。あちこちに照射装置が倒れて散らばっているが、半分くらいはきちんと館の方へ向かって、青紫の鈍光を発していた。まあまあ上出来だ。倒れている物も半分くらいは光っているから、この辺りは吸血鬼も近寄り辛いだろう。

 と、道の先の暗がりに、妙な物が見えた。

「へ?」

 赤、オレンジ、黄、煙の白、それに時折、夜空の濃紺。キラキラと絶え間無く照り返すそれは、場違いにもイルミネーションのようだ。

「な、何コレ」

 珍百景。MVP取れそう。じゃなくて。

「氷!?」

 花京院の言う通りに崩れきった館を通り過ぎ、十字路を真っ直ぐ行った先。近くなって分かったその正体は、氷塊だ。幅も高さも2メートルはありそうな氷が、何の変哲もない道路のど真ん中に突き立っている。いやホントに何コレ? 

「千時ッ!!」

 絞り出すような声が聞こえた。氷の前まで辿り着いたが、どこからの声やら姿が見えない。

「ジョセフさん! どこ!?」

「こっちだこっちッ!!」

 向こう側かと氷塊を迂回すれば、まず目に入ったのは少し向こうに転がる血塗れの毛布の塊で、そこから飛び散った血…いや飛沫の方向からして逆だ、投げられて散った血、とにかくそれを目で辿る、と、

「ひぎょわああああーッッ!!」

 氷塊の根元にジョセフが転がっていた。

「鼓膜まで破る気か! やッかましい!!」

「意外ッ! それは孫のセリフッッ!!」

 パニックのあまり口を滑らせたが、目の前の事態はそれどころではない。

「悲鳴あげとらんでT・Tに頼んでくれ!」

「あああT・Tッ! T・Tィィ!!」

 氷塊の根元に釘付けで棒立ちだった千時は、両肩にふわりと乗った薄ピンクの手にハッとして、ようやくジョセフの隣に膝を着いた。

 グロ注意にて端的に申し上げよう。

 片足フトモモ切り口がミンチッッ!! 

「巻き戻し超特急でええええ!!」

 T・Tは両手を少しだけ大きくサイズ調整し、挽き肉部分を覆った。

 ジョセフの左足が氷塊に潰され、ちぎれていたのである。きっちり血が止まっているのはさすが波紋の使い手というところだろうが、いやもう、なまじ血が出てない分むしろ切り口の大惨事がよく見えちゃってる気がしないでもないというか、アレだ、ブラクラか何か踏んじゃって一瞬でヤバいッ! と気付いてタブ閉じたんだけど目に焼き付いちゃってお口がしばらくHみたいな。

「うあぁぁ…」

「千時!」

「ヒャい!!」

 ジョセフは怒鳴るように呼び、千時の二の腕を掴んだ。

「いいか、ここまで酷いとダメで元々じゃぞ。足の一本、戻らんでもどうにかするから、気には病むなよ」

「T・T早くしておじいちゃん錯乱してるぅ!!」

「錯乱しとるのはお前さんの方だっつーの!」

 片足のジョセフは身を起こし、無傷の千時を両腕で胸に抱き込んだ。

「聞け」

「だって足」

「口を閉じろ! 聞きなさい」

 聞く? 聞くってなにを? ああ館の炎の爆ぜる音? パーカーのポケットがトランシーバーの怒鳴り合いをガーガーやってる、そうだ自分の呼吸、ハ、ハ、と犬のように小刻みでうるさい…それと、それから、ああ、

「あ」

 押しつけられた胸板に、バクバクと少し早い、鼓動が。

「聞こえたか?」

「きこえた」

「生きとるじゃろ」

「うん」

「落ち着い…うおっ!」

 ジョセフは千時を抱えたまま、いきなり仰向けに、路面へひっくり返った。何事かと顔を向ければ、

「おお! でかしたッ!!」

 氷の壁面に、左足が、蹴り上げたように突っ立っている! 

「…が、ズボンと靴までは無理かァ」

 あー。生足乙。いや贅沢言うな。

「T・T大好き愛してるッ!」

 半泣きで褒められたネコミミマネキンは、得意げにパーツをばらして宙をクルクル回ってみせた。半透明の手だけ止めて、千時が伸ばした手を取り、大事そうに撫でている。

 体を起こして驚愕に絶句したのは、氷塊の下の残骸がそのままだったからだ。花京院が病院でやった花と同じで、取れたモノは現時点に取り残されている。視覚の暴力とは正に…

「千時、ついでにもう一つ頼まれてくれんか」

「へ?」

「すまんがこの指」

「おッぎゃああああああーッ!!」

「もー! どっから出とるんじゃそのキンキン声ッ!」

 視覚の暴力とは正にこの事オォッ!! 

 再度T・Tの名を連呼したのは、目の前に出された義手でない方の手の指が、こう、なんというか、ひしゃげて破れて大変なことになっていたからで、うるさいとか言われてもこんなのしょーがないだろとしか返しようがない。こちとら二十云年生きてきて事故現場とかに居合わせた事すら一度も無い一般市民だもの! 

 〝巻き戻し〟の回数制限が無かった事に、千時は心底、感謝した。

 

「いやー、T・Tが居て助かった」

「助かったじゃないッ! もうちょっと方法無かったの!?」

 方法と言ったって、この状況で悠長に話を聞ける訳もなく、何がどうしてああなったのかは知らないのだが。

「あったらあんな事になっとらん!」

「ですよねゴメンでも気をつけて!」

 連れ立って燃え盛る館へ駆け戻る。

 ちなみに、ジョースター氏曰く大サービスの片生足は、足先を布で覆った。裸足で走るには火の粉やら瓦礫やらで危険だったため、千時のパーカーのフードと袖を一本、縫い目から引きちぎった。千時は、熱いし動くしフードはともかく袖無くなったし、もういらんわとパーカーを捨てかけたのだが、とりあえず着ておきなさいと怒られ、こちらのサービスは生腕一本となっている。

 ジョセフは角を曲がることなく真っ直ぐ走り、尻ポケットのトランシーバーを取り出した。

「花京院! …花京院! おい!?」

「もしもしノリさん!?」

 慌てて千時が倣うと、慌ただしい声が返ってくる。

『どうした!? ジョースターさんは!?』

「ありゃ?」

 隣のジョセフは手の中の機械を振って、何度もボタンを押し直している。千時は返事より先に、自分のトランシーバーを、押しつけるように隣へ渡した。

「こっちは片付けたぞ!!」

『ああッ! 無事で良かった!』

「トランシーバーは壊れちまったがな!」

 尻ポケットには入れちゃいかんかった、なんてボヤいているが、携帯電話が普及するあたりまでそれを覚えていてくれるだろうか。結構大事よ。落とすしね、尻ポケットは。

『ジョースターさん、トランシーバーをそのまま貰って、池上さんには退避するよう言ってください』

 え、いやいや。やっと落ち着いてきたんですけど。千時はジョセフの手からトランシーバーを引ったくった。

「一緒に行く、またケガ人出た時に近い方がいい、死なれたら巻き戻せない」

『危険だ!』

「いいから次ッ!」

 説得の時間なんぞ惜しかろう。案の定、一瞬の沈黙をおいて花京院が折れた。

『そのまま真っ直ぐ!』

「はい!」

 同じ方向を指さし、走る速度を全力に戻す。ジョセフが千時に合わせた速度で走るのは、トランシーバーが一つしか無いからだ。この点、いっそ運が良かった。ジョセフの無線が壊れていなかったら、全力疾走されて置いてけぼり間違いなしである。

 奥の角、手前まで来た時だった。

『そこで止まれ!』

 千時は、もう曲がろうとしていたジョセフの背中をギリギリで掴んだ。

『瓦礫で死角になっているが、その先にディオが居る!!』

「何じゃと!?」

『池上さんはそこまッポルナレフ後ろ!!』

 一度ブツンと電波が途切れ、次に叫んだのはポルナレフ。

『承太郎ッ! イギーが俺ンとこ来ちまったぞオイッ!! ちゃんとお宝の山ァやってきたんだろうな!?』

『承太郎は応答できる状況じゃあない! ポルナレフ、イギーが居るなら捕まえろ! どうにかして、砂漠の時の翼を出させるんだ!!』

『上は鳥が居てヤベえんだろ!?』

『もう居ない!』

 トランシーバーから花京院の声が続いた、と思ったが次の瞬間、千時は何が何だかわからないまま、吹き付けた塵と煙に思わず目を閉じた。ジョセフに抱えられ、後ろへ飛び退られている。ちょっと懐かしい。偽船長の時と同じだ。あの時は、初めて戦いを目の当たりにして怯えた。今にして思うとぬるい一幕だったけれども。…くだらない思考が駆け巡るほどのスローモーションを感じたのは、目を開けた時、吹っ飛んだ瓦礫の先に吸血鬼が居たからだろう。

 彼女はその時、初めて、真正面にその顔貌を見た。

 …これが見る者を崩壊させるはずの美か。

 千時はぼんやり納得した。

 ディオの、紅を引いたように赤い唇がニイッと弧を描き、千時は突然、体中に鈍痛を巻かれた。

「うおおおッ!!」

 あらぬ色に輝き爆ぜるハーミットパープルで千時ごと体を覆い、ジョセフが身を翻す。今この瞬間、吸血鬼の背後で驚愕を露わにした承太郎とアヴドゥルから、ジョセフへと標的が変わったのだ。承太郎に背を向けてでもジョセフを捕らえようとする意図は、その抉れた左腕か。

 血を寄越せ、そんな意味の言葉が聞こえたと思うが、明確にどう言ったかは認識できなかった。千時はとにかく、ジョセフのじゃまにならないよう、身を竦めた。

「ジジイッ!!」

「ジョースターさんッッ!!」

 悲鳴のような呼びかけと同時、ジョセフの厚い胴からガガンと複数の衝撃が伝わり、拘束が弱まる。倒れるかと思われたが、ジョセフはどうにか堪えて走り続けた。数秒も無い。振動で見上げた顔が血塗れだ。その背後にカッと明かりが射し、炎の壁が広がる。

「させるかあーッ!!」

 アヴドゥルの怒声。

 次の瞬間、恐れていた静寂が、辺りを包んだ。

 慣性の法則というものがある。ジョセフがぴたりと止まった時、千時は無意識に衝撃を予測し、思わず身構えた。が、それは来なかった。その点だけが、動き続けているはずの世界と、せき止められた世界の切り替わりを、千時が体感できた唯一だったかもしれない。

 


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