「千時。お前さん、寝てないって?」
ジョセフに言われ、川を見ていた千時は振り返った。
「あー大丈夫。今夜はちゃんと寝る」
それだけ聞くと、ジョセフはアヴドゥルと話し込み始めた。
だいぶ歩いて辿り着いた、軽食屋の店先だ。
敷地が四角く川に張り出して、テラスになっている。テーブルには四人。承太郎は敷地の縁に立ち、川を眺めていて、千時は1メートルほど離れた隣に座って、川面の上に足をぶらぶらさせていた。
「他の事は黙ったまま行くのか」
小さく、低く、承太郎は言った。
暴露するのは千時が語る分だけと、昨夜、了承したはずの事だったが、承太郎は今更になって納得のいかない様子だった。
千時は一度振り返り、テーブルがこちらを見ていないか確かめてから、立ち上がった。承太郎に音源を近付けるためだ。女の甲高い声はよく通ってしまう。できるだけ最低音量で、千時は答えた。
「巻き戻しは最悪、T・Tに代わってもらえばこの体にも効くんだし、逆に時間停止は効かない相手なんて基本居ないはずだから、心配無い。あと、まあ、私自身に関しては、さして現状変わらんですから」
千時はあっさり答え、学帽の鍔の陰を覗いた。
「テメエが死んでても?」
「死んでても」
「少なくとも俺は、ちっとばかし違うぜ」
「なんで?」
「何故分からねえフリをするんだ、テメエはよ。そういう態度が心底ムカつくぜ。仲間が一人、死…」
「仲間に入れなきゃいい」
すかさず遮られた承太郎は、ギロリと千時を見下ろした。
「…自虐的なのもいい加減にしろ。女だろうがブン殴る時は、容赦しねえ」
「分かったごめん前言撤回、けどそんなお荷物、わざわざ他の皆にまで背負わすことないでしょうが」
千時がシーと人差し指を唇にあてれば、承太郎はチッと舌打ち一つ、けれど黙った。恐らく、彼だって余計なことを言うつもりはないのだろう。
まあ実際、最初から千時が勝手にやらかした事だ。霧の町で云々などと言う以前に、それこそ旅に来なければ良かったのだから。そしてぶっちゃけ、落ち着いてみれば、自分が死んでいた事は割とどうでもいい。こういう場合、どうでもよくない気分になるのは、たいてい周囲の方である。
千時はそれ以上の追求を拒むため、テーブルへ戻った。
こりゃあ誰もこっちの会話なんぞ聞いていないわけだ。ラジオが酷い。店先からノイズがガビガビとうるさく流れている。
「あと二日あればカイロまで行けますから、今夜と明日はルクソールに滞在して、休息を取るのはどうですか」
アヴドゥルが言いながら、千時に気付いて隣を空けてくれた。千時は会話を邪魔しないよう、小さく礼を言って彼の隣に座ったが、肝心の会話は続かなかった。
ジョセフが少々うわの空で、うむ、とは言いつつ、義手をごそごそやっている。
「そうしようぜ。エジプトに入ってから、敵スタンドが特に強くなってきている」
ポルナレフが加勢し、花京院も頷く。
「ぎりぎりで勝っている感じはしますね」
「花京院なんか勝ってねえもんな。T・Tが居なかったら戦線離脱だったろうよ」
「お前にだけは言われたくない。味方に剣を向けるなんて、敗北より始末に負えないぞ」
「ぐわあーッ! 言いっこナシ!」
「そっちが先に言ったんだろ」
やいのやいのとくだらない言い合いが始まって、千時は何気なく目を移した。ジョセフがまだ義手をカチャカチャいじっている。
「ジョセフさん」
「うむ…」
「ねージョセフさん、手、どうかしたの?」
「ん?」
しつこく訊いて、やっとジョセフは顔をあげた。
「ああ、いや。義手の調子が少しおかしくてな。まあ、指関節の油がきれたせいだと思う」
「あー。…サラダ油じゃダメなんだよねえ?」
「ダメだねえ」
サラダ油に気抜けたらしく、ちょっと手を止め、苦笑い。
「おい! ちょっとオ! そのラジオ、ぶっこわれてんじゃあないの!?」
言い合いが済んだのか、ポルナレフが店先に向かって叫んだ。
確かに。ノイズは、少しずつだが着々と、酷さを増している。店主は身振り手振りで弁解して、ラジカセを覗き込んだ。
千時としてはこういうアイテムが出てくると、なんてレトロなと思ってしまうが、時代柄、ジョセフがカセットのウォークマンを持っていたりして、ジェネレーションギャップに…、逆ジェネレーションギャップと言うべきか? 毎度、妙な気分である。千時も日本に置いてきた鞄の中にはウォークマンを持っているが、勿論、デジタルデータの方。この時点からしたら、とんだオーバーテクノロジー。携帯と違って充電したところだったから、無事戻れれば、電池が切れるまでに見せびらかして驚かす算段でいる。
「ガーガーうるせえ…」
「店主、申し訳ないが切ってもらえませんか」
怒鳴り出しそうなポルナレフを手で制した花京院が、物腰柔らかに頼んだ。店主は首を傾げながら、ボリュームのつまみを回してくれ、ラジオが口を閉じる。
「ジョースターさん?」
「ん? ああ」
川辺が静けさを取り戻した中、ジョセフはまたも生返事。なぜかコーラの王冠を摘んでしげしげと眺め、テーブルに置いていた。
「確かに。カイロに入った時の為に、しばらく休んだ方がいいな。ただし油断は禁物だ」
瓶の残りを一気に飲み干し、席を立つ。
「では、ホテルを探そう。おやじ、ごちそうさん」
また中心街へ向けてトコトコだ。
少し歩いて、たまたま、千時がジョセフの背後に来た時だった。
「あれ?」
「なんじゃ?」
感触に気付いたジョセフが振り返って、千時は、今その背中から取ったコーラの王冠三つを、笑いながら手のひらに乗せた。
「ジョセフさん、なんでくっつけて歩いてんの」
「は?」
「コレ。背中にくっついてたよ」
「くっついてただァ?」
ジョセフが思いのほか渋い顔をしたので、千時はおとなしく王冠を手渡し、口を閉じた。さっき義手の調子が悪いと言っていたし、ここへきて一日まるごと休憩に当てようというくらいだから、疲れているのかもしれない。そういえば、手前の宿でも疲れたと言っていた。…歳が歳だもんなあ。本当のところ。
何となく神妙な気持ちになって歩調を少し落とせば、あっという間に最後尾。
「くっそう…。コンパスが…」
「コンパス?」
何でもない! ヒステリックにアヴドゥルへ八つ当たり。彼はちょっと目を丸くしたが、次の瞬間、ハッと顔を後ろへ反らして手を振り上げた。
何が起きたかと思えば、ソレどっから持ってきた? 手にハンマーを掴んでいる。
「…んん!?」
今度は千時が目を丸くしたが、逆側で立ち止まっていたポルナレフもまた、後方を見ていた。
「おいおい、指でも打ったかあ? 気をつけろよ。危ねえじゃあねえか、トンカチふっとばすなんてよお。まったく…」
たった今通りすがった大工仕事中の中年男が、うずくまってモゴモゴ、どうやら苦しんでいるらしい。
ドスッと重い音がして、足もとにハンマーが落ちた。
アヴドゥルもポルナレフも興味無さげで、ひょいと踵を返し、承太郎達を追い始める。あらららら。千時はちょっと迷ったが、大工らしきおじさんの苦しみ方が尋常でないように思えて、思わずハンマーを拾った。
「あー、と…。ハロー、アーユーオーライ?」
いやオーライな訳が無いんだが、それしか思いつかないまま歩み寄り、隣にしゃがむ。大工は耳に入らなかったのか、まったく千時を見ない。しかしとにかく、顔は上げた。
「ひっ!」
思わず喉が詰まって、ハンマーを取り落とす。
男の頬から、釘が三本!! 飛び出してる!! 何でそんな刺さり方するわけえええ!? 内心絶叫してしまう光景だったが、口から出たのは、
「うわぁぁ…!! ちょ、えええ!?」
程度がやっと。
慌てている間に、涙目の男はブルブル震えながら、手を口に突っ込んだ。いやまあそりゃ、そうだよ、抜くしかないけど、うわあああ!! なんつーグロ注意!! 見てるこっちが痛い!!
「T・T! T・Tちょっと! 早く!」
思わず叫んで、両肩に乗ったピンクの両手を、触れもしないのにパタパタと叩く。
「巻き戻し巻き戻し! 抜けたとこから治したげて! てか抜いてあげられない!? これ!!」
ひいいい! すごい! おじさん自分で一本抜いたア!!
T・Tは千時と男を交互に見て、こっくり頷くと、手を男の頬へ持っていった。男には見えず触れられない手は、片方が釘を透過したままぴったりと頬を覆い、片方が顔の正面側から頬の中へ潜っていった。
グムウウウウウウウッッ!! と籠もった絶叫が飛び出して、T・Tが手を引き抜く。指には血塗れの釘二本。いきなり抜かれた男は、あまりの事態にのたうちまわって転がったが、T・Tの手はぴったりと張り付いたまま一緒に動き、やがてふと離れた。
「…治った?」
見上げたネコミミマネキンは、目をキラキラさせて千時を見ている。なに、褒めろって?
「ありがと、T・T。助かった…」
T・Tはまたこっくり頷き、笑いながら姿を消した。
色々呆然。千時は取り落としたハンマーをもう一度拾い、同じくポカンとしている男の手に渡した。
「あ、アーユーオーケー?」
男はやっと千時に気付いたらしく、え、え、と目を泳がせて頬を押さえたまま、オー…センキュ…、と呟いた。頬はすっかり元通り。一体何が起きたのか分からない。大工さんは勿論、千時の方も。だって、何をどうしたらあんな釘の刺さり方すんの?
「千時!」
声に振り返ると、駆け戻ってきたのはアヴドゥルだった。千時は腕を引っ掴まれ、勢いよく立たされてたたらを踏んだ。
「一人で何をしているんだ、馬鹿者!」
おーっと。バカモノは初めて言われたかもよ。
「いや、アヴさんがトンカチほっぽってっちゃったの届けたら、おじさん、釘刺さってて、治して…」
「勝手なことをするんじゃあない! T・Tは見かけ倒しなんだろうが!」
ムグゥ。返答に窮していると、アヴドゥルは大股に歩きだした。
「まったく、敵だったらどうするつもりだ。油断は禁物だと、さっきジョースターさんに言われたばかりだろう」
「はアい。気をつけますゥ」
でも今の、人助けだよ?
千時は謝ったが、不機嫌は隠さなかった。
ポルナレフには怒鳴られるし、花京院にはドン引きされるし、承太郎は不満たらたら。ジョセフは低気圧気味で、今度は、良い事したのにアヴドゥルから怒られた。前半は自業自得だけども、年長組は知らんですよ! …どうでもいいが年長組って言うと幼稚園みたいだ、なんて、思考も明後日。
助けた男から少し距離を取ると、ようやく腕を離してもらい、隣へ並んだ。
他の四人はだいぶ先へ行ってしまったようで、前方に見える背中がかなり小さい。今更、アヴドゥルが迎えに来てくれなかったら、はぐれないために全力疾走せねばならんところだったと、そこだけこっそり感謝する。
「…ちょうどいいか」
唐突な呟きに、うん? と千時が見上げと、アヴドゥルは険しい表情のまま続けた。
「T・Tの能力についてだが、例の件は何か分かったか?」
おう、待ってました。千時はちらっと前方の四人を見、絶対に聞こえないであろう距離を確かめて、なお小声で頷いた。
「やっぱ能力三つ目。T・Tが意図的に触れなければ起きないって。ハイとイイエだけでやりとりしたから、それ自体の詳細は分かんないんだけど、とにかく私が指示しない限りやらないって約束させた。もう大丈夫…なハズ」
「あの時、なぜそうしたのかは分からないんだな」
「むしろそっちは分かった」
アヴドゥルは驚き、目を丸くして足を止めかけた。千時は彼のローブの袖を引っ張って歩くよう促した。
「T・Tは私の記憶を読みとったって言ったでしょ。アヴさんの時のは、私がマジシャンズレッドを一番見たいと思ってたのをT・Tが知ってたから。何かこう、動きというか、アクション取らせようとしてくれちゃったみたい。ポルナレフの時のは、チャリオッツに手ぇ刺されたら困るからっていう、ごく普通の理由。これ聞き出すだけでも大変だったよー」
千時はニカリと笑ってみせた。
「でも、かなりT・Tが分かってきた。コミュニケーション取り続けてれば、そう無茶な事にはならないと思う。そう言えるところまで来れたよ。…ねえ」
千時はアヴドゥルの袖を掴んだまま、まっすぐ前を見た。
「アヴさんが、私の問題は自分に自信が無いことだって、教えてくれたでしょ」
「…ああ」
「今も自信は無いままだけど、でも、代わりに確信てものがあることに気付いた。T・Tはどうにかできるってことと、少なくともディオを倒すまでは皆が私を必要と思ってくれるってこと。今はそれだけで充分、前に進める」
だってもう、自信なんてものは要らない。いつまでこうして〝自分〟が存在していられるのかも分からないし、そもそも、T・Tがこの意識を生き返らせた時点でそれが、元々居た彼女なのかどうかは確かめようがない。よくSFにある瞬間移動装置の、出口で再構築された者が入り口を通って分解された者と同一ではないかもしれないというアレ。単に今の自分は、T・Tに再現されただけのシロモノかもしれないのだ。
「だから当面は心配無い。色々ありがとう」
アヴドゥルは立ち止まった。
ピンと布に手を引かれて、千時も足を止めた。
褐色の肌にくっきりと映える大きな目が、彼女を睨みつけている。
「どうした」
その声音には咎めるような響きと、微かな狼狽があった。
「えっと…、何が?」
「今までもお前の隠し事は多かったが、何かが違うな」
肩が震えてしまわなかったのを、誰か、褒めてほしい。
千時は軽く笑った。
「何? どゆこと?」
「占い師がどれだけの人間を相手にすると思っている。その差くらいは分かると言っているんだ」
「なら分かって」
アヴドゥルはその短い言葉で弾かれたように下がり、息を詰めた。
ああ。もうローブは貸してくれないかもしれないな。
ふとそんなことを思いながら、千時はどうにかもう一度、笑った。
ホテルが決まった後、千時は食事とシャワー以外、ほとんど寝ていた。
間の悪いことにトリプルで、ゲストベッドは真ん中。徹夜に気まずさも相まって、頭まで布団に潜ったままの半日と一晩になった。
「先に降りてるね」
「ああ」
短い返事はアヴドゥルだ。ジョセフはやはり疲れているらしく、とんでもない寝相でベッドを上下逆さに使用中。枕は抱えているものの、ベッドヘッドに足がある。
時刻は朝の8時…15分。
壁はすべてサーモンピンクに統一されていて、各部屋のドア周りと天井の照明が、深いえんじ色のタイルで飾られている。対照的に、広い廊下の絨毯はきれいな群青色で、絶妙なコントラストの内装だった。
エレベーターホールの方が近いのだが、どうせ外に出るので、曲がって廊下の突き当たりへ。出入り口正面に続くエスカレーターがある。そこを降りると、広々とした豪奢なロビーだ。二階の高さまで吹き抜けになっていて、天井近くの大窓からは白い陽光が眩しい。
昨日はあまり楽しめなかったホテルをキョロキョロ、楽しみつつ外へ出る。うっかり正面から表通りに出てしまい、裏口から出ればよかったなんて思いながら、建物をぐるりと回った。
「お、来た来た。おはよーさん!」
ポルナレフが軽く手を振り、承太郎と花京院が振り返る。足もとにはイギーも寝そべっていた。
「おはよー」
千時も手を振りながら、待ち合わせの裏口へ。
「寝ろとは言ったが、よく一日中も寝ていられるな」
「僕ら、退屈で出かけてしまったよ」
承太郎と花京院は、なにやら機嫌良さげだ。良かった。
「昨日? どこ行ってたの?」
「そこの市場」
花京院が建物を斜めに指さして、最初に通った道を入った先だと教えてくれた。
「どの国でも大抵、楽しいから」
「ああ、珍しい野菜とかあるよね」
「あるね。それに、日本と違って陳列がおもしろい。どこでだったか、魚が縦に刺さってたりしたこともあった」
「縦?」
承太郎が首を傾げた。
「ペン立てみたいに、魚をバケツや何かに刺して陳列している国があるんだよ」
「俺も見たことあるぜ。笑っちゃうよな」
ポルナレフが挙手。
「結構あちこちで見かけるが、ヨーロッパでもリトアニア通った時、揚げた魚がフランスパンみてえになってたわ。ま、そんときゃ隣から逃げ出した鶏にタックルくらって、そんどころじゃなかったけどよー」
千時はけらけら笑わされながら、ポルナレフと花京院の語る世界の市場の話を聞いた。
こういう時、意外に承太郎が聞き手側だ。何となくあちこち知っていそうに思っていたが、彼はアメリカと日本の往復ばかりだったらしい。ちなみに、千時もハワイとバリにしか行った事が無い。今回の旅でいきなり相当数の国に踏み入ったわけだが、観光はしていないのでノーカウント状態のまま。話を聞くのはおもしろい。
「あ、そうだ」
花京院がふと話を止め、壁に寄せてあった小さい鞄を開けた。ホテルに荷物を置いて出る際、全員のちょっとした物をまとめて入れておくポーチだ。
「これ、承太郎が見つけてね。エドフで探せなかったんだって?」
「あっ!」
花京院が渡してきたのは、犬の首輪とリードだった。
「うわあ! ありがとう!」
「作りが甘いような気がするから、気を付けて使ってくれ」
「わかった! 承太郎もありがと!」
「ああ」
小さい! 細い! かわいい! 何しろ彼女、犬の首輪というと、縁があるのは大型犬用のチョークとスパイクばっかりだった。物々しいにも程がある。それに比べ、この細いベルトのなんとささやかな事か! 革もきれいな黄色だ。確かにちょっとリードの持ち手を留める縫製が甘いが、金具はしっかりしているし、何なら縫えるところは縫えば良い。小さい犬、ベネ!
「イギーちゃん、よかったねえ。いいのもらったよ」
しゃがんで撫でるも、寝そべったイギーは顔すら上げず、胡乱げに片目を薄く開けた。千時は問答無用で顎に手を入れ、首輪を緩めに巻いてみた。イギーは邪魔そうに体を震わせたが、逃げ出しはしない。キュッとサイズを合わせて留めても、ブウ、と不服そうに鼻を鳴らしただけだった。
「買ってきておいて何だが」
頭上で花京院が呟く。
「大人しく付けられるなんて、驚いたな…」
「ほんとだぜ。すっげえ」
ポルナレフも目を丸くしていて、その向こうから承太郎も覗いている。千時はリードも取り付けてみた。
「たぶんこの子、元は飼い犬なんだよ」
「へーえ…」
男たちは半信半疑といった顔だが、千時は一番最初に噛みかかりの抑制がきいていた時点で考えていた事だった。彼は、人との付き合いを心得ているのだ。
「なあ千時」
ふとポルナレフが裏口のドアを開けて、中を覗き込んだ。
「アヴドゥルとジョースターさんは?」
「あれ。そういや来ないね。すぐ来ると思ったんだけど」
時計がもう半になる。
部屋のあたりを見上げると、一つ、窓が開いていた。千時が出てきた時、部屋の窓はアヴドゥルが開けていたから、呼んだら届くかもしれない。でもあそこであってるかどうか。間違ってたら恥ずかしいしな。
なんて逡巡の間に、
「アヴドゥルー! 起きてるかー!? ジョースターさあん?」
大雑把なフランス人が大声で呼びかけた。
幸い当たりで、見慣れたエジプト人がひょこりと顔を出す。
「何だ、起きてるんじゃあねえか。おーい! 早くしろよお!」
アヴドゥルは苦笑しながら引っ込んだ。ポルナレフの奴が騒いでいますよ、なんて言う声が小さく聞こえる。
「早く起こせアヴドゥル! 五分で起きてくるように伝えろォ! 普通年寄りってのは朝が早いもんだよなあ!」
「おいポルナレフ、身内の前で。失礼だぞ」
花京院が呆れるも、
「構わねえよ。実際、いい加減ジジイの筈が、変に若すぎるんだ」
孫の方が辛辣という安定のオチ。
確かにジョースターさんは若いけれどもと、また雑談している内に裏口のドアが開き、アヴドゥルが出てきた。
「五分で出てくるそうだ」
「本当かよ?」
ポルナレフはまた窓を見上げたが、もう伝言する相手が居ない。承太郎と花京院はジョセフを肴に話し込んでいる。
千時はイギーの背中を叩いた。
「ガム食べたい子ー?」
ぴょこん。耳が動いて、目が開く。
「よーし。イギー、おいで!」
千時は眼前の川辺に向かって歩きだした。
イギーはパッと飛び起き、きちんとリードを緩ませる速度で、半歩遅れについてくる。
ポケットの中のガムを確認し、手の中に用意して。
「じゃあいくよー。つけ!」
ボストンテリアは日本語の号令に従い、ささっと左隣に回り込んで付いてきた。
「そう! いいねー、まだつけだよー」
しばらく歩いてターンして戻り、
「ジャンプ!」
ぴょん。彼は抜群の跳躍力で、助走無しでも千時の腹より上まで跳ぶ。
「おすわり!」
チャッと爪が音をたてて、ちょこんと座る。これはもう完璧。
「おて、おかわり、ふせ!」
サッ、ササッ、ペタン。
「んー! パーフェクト!」
全身撫でくりまわしてやりたいところだが、誇り高き紳士はあまりそれが好きじゃあないので、頭を軽くわしわしやるに止め、謹んでガムを献上。紳士はたちまち、上機嫌なだけの犬に変身し、モッチャモッチャ。
「ヒャー! すっげえ!」
気付けばポルナレフが背後に立って、感心していた。
「こいつ、ただのバカ犬だと思ってたが、ちゃんと言うこときけるんだな。チャリオッツがフルーツ切るよりよっぽど手品じゃねーか。いつの間に教えたんだ?」
「ちょっとした暇を縫ってね。覚えが早いから、教え方さえ失敗しなければ、1コマンド20分要らないくらいだった」
「信じらんねえ! おいこらイギー、俺の言うこともちったあ聞けよ」
「いきなりは無理だなあ」
千時は少し考えて、ポルナレフを見上げた。
「この手品、手伝ってくれない?」
「俺が?」
「もう一個教えたいコマンドがあるんだ」
「いいけどよ、どーォだかなア。俺の言う事なんて聞いた試しがねえぜ」
「いいのいいの。きかすのは私だから」
食べ終わったイギーが口の周りをペロペロしている間、ポルナレフに手順を説明し、ボストンテリアの首輪を外す。
「うまくいくのか?」
「わかんない。こんなの多分、世界初だもん」
「違いない」
言いながら、電柱と犬の間に立って、ポルナレフに背を向ける。
「とりあえずやってみる。イギー」
呼んで注意を引く。こっちを向いたところで、ポルナレフに手で合図。
イギーが背中の毛を逆立てた。
「サンド!!」
次の瞬間、イギーはちょっと目を丸くしながらも、砂のスタンド、ザ・フールを構えた。
「オーケー!」
ガムをポイ。犬もポカンとするんだなあ、なんて思いながら、千時は振り返ってポルナレフに親指を立てた。
「グッジョブですよ、ポルナレフさん」
「そうかあ?」
「イギーちゃんも初回から完ッ璧。素晴らッしい」
もうイギーは砂を崩し、ガムの切れ端を噛んでいた。眉間の皺が、コイツまた妙な事を始めやがった、と言外に語っているが、察しの良い彼のこと、すぐに飲み込むだろう。
「こんなんで上手くいくのかねえ」
ポルナレフは不思議そうに首を傾げた。
彼に頼んだのは、チャリオッツを出すこと。
ポルナレフがスタンドを出す、するとイギーがスタンドを出そうと構える、サンドと号令を入れて、ザ・フールが出たら、チャリオッツを引っ込める。つまり、「サンド」のコマンドで、ザ・フールを立ち上げるようにしたいわけだ。
「何度か繰り返すよ。もしイギーが途中で飽きてスタンドを立ち上げなくなったら、切りかかるフリしてね。あとは同じ」
「はいよ」
あっ。今の返事すごくお兄ちゃん。
千時はちらっと振り返ったが、何? という顔をされただけだった。
「次いこう」
つい笑いながら、千時は合図を出した。