スターダストテイル   作:米俵一俵

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17.見知らぬ襲撃

 ナイル川沿いの都市は、少し大きければ大抵が豊かだそうで、アスワンも例に漏れず整備された街だった。

 夜中走り通したバック走行のジープは、舗装された道路に入るとタイヤの代わりに填められたドアがギギガガガと凄い音をたて始め、その珍妙さに衆目を集めてしまった。が、血の止まらない怪我人が乗っているのでどうしようもない。そのまま病院へ直行。千時は恥ずかしすぎて、途中から荷物の中へ身を伏せた。同じく目立つ荷台にいながら、隠れられない体躯の花京院が一番かわいそうだったかもしれない。

 

 さて、その花京院だが、とりあえず病院で検査を受けた。でっち上げたのは、砂漠で砂が目に入ってかなり長い時間痛んだから、傷など無いか診てもらいたい、という如何にもな理由である。

 で、彼は正午からかかってこの夕方まで、長い長い精密検査を受け…大半は待ち時間だったそうだが…、何ともいえない顔で戻ってきた。

「本当に何でもなかった…」

「おおー! 良かったじゃあねえか!」

「ああ、まあ…」

「しかしすっげぇなア! あんときゃお前、気絶するほどの傷だったんだぜ? そのまま死んじまうかと思うくらいだったのに」

 ポルナレフも首を傾げて、花京院の目元を覗き込んでいる。

「こんな事ができるなら、なんでT・Tはアヴドゥルの首を治さなかったんだろうな。千時の制御がヘタクソすぎたか?」

「ならポルナレフがやってみなよ」

「うお! おっそろしーほどご機嫌ナナメ!」

 半眼でポルナレフを睨み付け、花京院に苦笑されながら病室へ向かう。中まで聞こえていたのか、声が飛んできた。

「廊下であまりうるさくするなよ」

 病室を覗けば、とりあえず一日は入院とベッドに押し込まれたアヴドゥルが笑っていた。奥の椅子には承太郎がだらしなくひっくり返っていて、帽子を顔に乗せている。一眠りと決め込んだらしい。

 三人連れだって中に入ろうとした時、後ろからジョセフの喚き声が聞こえた。

「おや? 池上さんを呼んでいるようだが」

 振り返った花京院の言葉通り、ジョセフは廊下の曲がり角から手招きしている。

「なんだろ」

 花京院とポルナレフを手振りで病室へ押し込み、千時は廊下を戻った。ジョセフは途中まで迎えに来て、がっしと手を掴んだ。ロビーの方へ歩きだす筋骨隆々の老人がもの凄い早足競歩で、50センチも足りない千時はリーチの都合駆け足だ。

「ちょちょちょ何どうした!?」

「ホル・ホースが電話してきおった!!」

「ハア!?」

 目を丸くして追いつくと、ロビーの公衆電話で看護婦が受話器を持っている。ジョセフが鼻息荒く、ポケットからくしゃくしゃの札と小銭を出し、数えもしないで看護婦へ押しつけた。彼女は、センキューとは言いつつも、非常に不審げな顔で受話器を渡して行った。

「ほれ! お前さんに話すとさ!」

 …果たして前振りにどんな会話があったんだか。

 千時は苦笑いしながら、突き出された受話器を受け取った。

「もしもし?」

『おいでなすったか』

 ホル・ホースは楽しそうに言い、よりにもよって

『いやあ、誰だか知らんが入院してくれて助かったぜ』

 などと続けた。

「全患者に土下座で謝れ」

『お嬢ちゃんよ、残念ながら俺はジャパニーズドゲザとやらの作法を知らねえんで』

「入院で助かったって何さ!」

『お前さんがた、動きっぱなしで捕まらねえんだ』

 ホル・ホースはあっけらかんと言った。

 ああ、まあ、確かにそうか…とは思うが置いといて。

「あらそ。わざわざお見舞いの電話をありがとう?」

 皮肉を吐くと、電話の向こう側は盛大に笑った。

『まあそう怒るなって。このホル・ホースが、早速あんたのお役に立とうってんだ』

「は?」

『件の鏃を見つけたかも知れねえのよ』

「嘘!」

 思わず両手で受話器を掴んでしまってから、慌ててジョセフの手を取り直す。

 ホル・ホースは声の調子を改め、低く滑らかに語った。

『ディオの足跡を辿ったら、何度も立ち寄った場所があってな。ちょいとおかしな噂話が持ち上がってるのさ。多少だが紙に書いて送れそうな情報もある。どうするね? 敵のお膝元に送っちゃまずいだろう?』

 あらまあ、この人、ちゃんと仕事してる。しかも早い。

「えーと…、ちょっと待って…」

 千時は目を泳がせ、考え込んだ。

 このあたりの事で彼女が知っているのは、ウィキにあった各部の主人公とボスのあらまし…をふんわりうろ覚え程度だ。それでも、6部の舞台がアメリカだったのは確かで、ホル・ホースが千時の勧めた通り渡米したのなら、この電話が伝えている相手は……世界をちゃぶ台返ししたい神父さんなのではないか。冷静に考えると壮大な話だが。

「それって教会と関係ある人だったりする?」

『ッ! …ンとに、変な女だぜ』

 少々焦ったような声音に、片頬でひきつった笑みが思い浮かぶ。

『知ってたんなら…』

「知らない知らない」

 肯定と捉えて頷き、千時は早口にまくし立てた。

「詳しい事は全然でね、名前も何もよく分かんなかったの。調べてくれてありがとう。すごく助かる。えっと、あー…そうだな、一ヶ月後がいい。東京の空条さんちに郵送してもらえない?」

『クージョー? ジョースターの孫の家か』

「うん。住所が手元に無いから、何なら財団に聞いてほしい。お願い」

『女性にお願いされちゃあ断れねえ性分よ』

「ありがとう。本当にアメリカへ逃げてくれたんだね。良かった」

 ホル・ホースは、何とも微妙な忍び笑いをこぼして、少しの間沈黙した。

「どうしたの?」

『ジョースターの爺さんは、そこに居るか?』

「居るよ。代わる?」

『いや。一つ伝言を』

「なあに?」

『お嬢ちゃんがお見通しなら安心だろうと伝えてくれ。それじゃあな』

 あ、という間も無い。通話は切れた。

「教会と東京の家とアメリカがどうしたって?」

 受話器を置かない先から、苛々とジョセフが眉根を寄せている。千時も、伝言の意味が分からず眉根を寄せた。

「その前に伝言。私がお見通しだから安心だろ、だって。何なの?」

「ああ」

 受話器を置くと、ジョセフは千時の手を引いて、病室の方へと踵を返した。

「本当にアメリカからかと疑ったからだ。ヤツめ、次はコレクトコールでかけてやるなんて抜かしやがった」

「あー、そういう…。大丈夫、とりあえず本当にアメリカ行ったみたい」

「フン。それで、肝心の内容は」

「今は要らない情報だった」

「それで納得しろと言うのか?」

 ジョセフは繋いだ手を引いて立ち止まった。

「ちゃんと話しなさい。お前さんが何を知っていようとも、ホル・ホースは信用ならん暗殺稼業の敵だぞ」

 千時は、碧の目を押し返すつもりで、まっすぐに視線を向けた。

「ならはっきり言うけど、彼の掴んだ情報は見当違いの件だった。それはそれで使えないわけじゃないけど、私たちに直接必要な情報じゃない。必要な時期も違う。

 私としては、彼が本当に調査してくれるようなら、この旅が済んだ後に方向を指示しようと思ってた。あれでもスタンド使いだから、うまく使ってやればいいって。それが予想より早く動いてくれちゃっただけ。

 一ヶ月後に送ってって頼んだから、その時説明するし、今はほんとにどうでもいい」

 咄嗟につく嘘も、少しは巧くなっただろうか。内心、少し自嘲する。

 だが、ディオへ近付くにつれ、その気配を共有するジョセフと承太郎に伏せるべき項目が増えるのは、最初から覚悟して挑んだ事だ。

 目を、瞳を揺らしてはいけない。

 千時は耐えた。相手はジョセフ・ジョースター。素人小娘の隠し事なんぞ見抜かないわけもない。けれど、意志を明示するだけの気概があれば、彼はそれを汲み取ってくれる人物でもある。

「…まったく。困った奴じゃのう」

「そうじゃなかったことあった?」

「ないッ!」

 義手が頭をわしゃわしゃと撫でに来て、やっと千時は笑った。

 

 病室へ入ると、いきなりオレンジ色がぴょんと飛んできて、キャッチしたジョセフが目を丸くした。

「なんじゃあ?」

「オレンジ?」

 …の、一切れ。見事な切り口をキラキラさせた、半月型のオレンジ一切れだ。

「オッオー! 丁度良い具合に切れたところだぜ」

 ポルナレフが派手なウインク。個室を良いことに、腕だけ出したチャリオッツの剣先でオレンジを突き刺しご満悦。

「おっおーゥ…スタンドの無駄遣いタグをリアルに見た…」

「タグ?」

「何でもナーイ」

「お前は全部ソレだな」

 呆れ顔のジョセフはオレンジを口へポイとやって、モゴモゴしながら空いている丸椅子に座った。

 千時が何気なくベッドの横に立つと、ポルナレフはサイドテーブルのオレンジを一つ、まるごと差し出した。

「千時も食べるゥ?」

「丸ごとは食べない」

 チッチッチ。ポルナレフはアヴドゥルの十八番を真似てみせ、その立てた人差し指で、オレンジのヘタをちょんとツツく。

「あっ!」

 ぱらり。

 まるで花が開くように、オレンジが八等分に分かれた。

「な?」

「スゴいスゴい! 今のはスゴい!」

「ありゃ。珍しく手放しで褒められちゃったぜ」

「いやホント! 切れ目が見えなかった!」

「これはこれは。ご機嫌が直って何より」

 千時は、大きな手から半分の四切れを受け取った。果物が良いのか、それとも切り口が綺麗なせいか、断面が宝石のようだ。

「ま、スタンドが見えなきゃ手品だよな」

「いたぞ。手品師」

 占い師があっさり言うので、えっ! と全員が注目した。

「物を宙に浮かせる手品をやっていた男だ。向こうが私の噂を聞きつけて、訪ねて来た事があってな。何のことはない、ただスタンドで物を持っていただけで、まさに種も仕掛けも無かった」

「えーっ! なんか! なんか…、なぁんだーァ」

 千時はちょっとがっかりしながら、ベッドの足下に腰掛けた。

「上手な手品師さんて、本当に魔法使いみたいと思ってたのに。本物の魔法使いだったとか、なんか違ーう…」

「ハハハ。いや、スタンド使いが言うのもなんだが、私もがっかりした」

「だよねえ!」

「その手品師のスタンドは、どんな能力を持ってたんだ?」

 ポルナレフが単純に興味からという顔で、オレンジを口へ放り込む。

「戦ったわけじゃあないから、能力は知らんよ」

 アヴドゥルも皿からオレンジを取って、しかし口にもっていく前に、摘んだままひらひらと振ってみせた。

「しかし、本体がお前に似たお調子者でな」

「は?」

「スタンドも、剣を持った戦士だった」

「ハァァア!? てめ、都合のいい嘘つくなよな!」

「本当の事さ。まあ、甲冑でもなかったし、両刃の曲刀だが」

「甲冑じゃない騎士って何だよ!?」

「騎士じゃない、戦士だ。どれかと言えば剣闘士…、そうだな、ビジュアルとしてはスタープラチナが剣を持っているような具合かな。それで手品がどうだとか、お前、遠縁の親戚だったりしないかね」

「そんなバカな! 無茶苦茶だァ!」

 ポルナレフが両頬を、ムンクのなんとかよろしく両手で押さえるものだから、病室には賑やかな笑い声が響いた。

「フム。しかし悪くないぞオ」

 おもしろかったのか、ジョセフがニヤニヤとして髭を撫でた。

「ポルナレフ、お前さんが香港でやらかした火時計なんて、派手だからお客にウケそうじゃあないか」

「うげッ! 思い出させないでくれよォ、こっ恥ずかしい!」

「ウハハハ! けっこう稼げそうじゃぞ。アヴドゥルの炎も、ちょっとこう、オイルでも吹いて点けちまえばさ」

「え、危険ですよジョースターさん」

「真面目!」

 黙って聞いていた花京院が噴き出して、笑いながら手を挙げた。

「なら僕が、水芸を担当します。ハイエロファントの触脚を筒状にして吸い上げよう」

「おンやぁー? 花京院がノリ気になっとるぞ、承太郎」

「何だ。鉛のテーブルでも持ち上げるか」

 まさかの承太郎が悪ノリで、ジョセフが腹を抱えて笑う。

「なあなあ! そんならさ」

 もうケロッとしたポルナレフが、千時の隣に座った。

「T・Tに包んでもらってよ、ハイエロファントで水ぶっかけてジャジャーン! 濡れてません! てのはどう?」

「おお! 手品っぽい! どーよノリさん」

「全力で放水させていただこう!」

「ヤバい! 水圧で吹っ飛ぶ!」

 ケラケラ笑いあってから、しかし不意に、ポルナレフが首を傾げた。

「いや、どうだろうな。海ン中じゃあT・Tのやつ、スイスイ行っちまってたから、案外パワーがあったりしねえかな?」

「そうだ、バカな話をしとる場合じゃなかった。千時にはT・Tを使えるようになってもらわんと」

 ジョセフが頷き、トーンを落とす。

 残念なことに、空気はガラリと変わってしまった。

 千時は何とも返事のしようが無く、ムゥ、と小さく唸った。

「とりあえずアヴさんごめんね」

 今度はベッドのアヴドゥルが呆れ顔。何しろこの台詞、昨日から事ある毎に言いっぱなしである。

「お前は何度謝れば気が済むんだ」

「さあ。今んとこ、T・Tが治すまで何度でもって気持ち」

「かなり掛かりそうだな」

「うん」

 アヴドゥルの首には、真っ白な包帯がぐるぐる巻きだ。派手に縫われたらしいが、とにもかくにも血が付いていないのは良い。急所ではなかったにせよかなりパックリいってしまって、ジョセフが治療を続けても出血が続いていたのだ。白い包帯を見た時には、全員がほっとした。

 片や、奥の壁に寄りかかる花京院は、同じ敵に負わされた筈の傷がきれいさっぱり、無い。

 まるでヒイキしたように見えて、千時としては何ともやりきれないのだ。

「千時」

 ジョセフは椅子ごと、ガタガタとベッドまで寄ってきた。

「ぐずぐず落ち込む暇はない。治癒能力を持つスタンドが使えれば、戦いの続くわしらにとって、非常に大きなバックアップになる」

「治癒能力か…」

「そうに違いない。ジープで思い出したんじゃが、ほれ、覚えとらんか。ラバーズのスタンドと戦った後、T・Tがわしの頭に指つっこんで、しばらく離さんかったじゃろう。あれはもしや、わしの中身を治していたんじゃあないのか? ラバーズに傷つけられた脳を!」

 千時は目を丸くした。そうか。言われてみれば、そんな事があった。すっかり忘れていたが、T・Tはあの時、自らジョセフへ向かっていって、じっと触れていた。花京院の時と同じように。

「だとしたらすごく嬉しいけど」

 そのせいでボケたんじゃないかって、書いてあったもんなあ。

 千時は曖昧に頷きながら、それを思い出した。どこだかの考察に、4部でボケがきていたのはラバーズ戦で脳細胞をやられていたせいではないか、とあったのだ。とすれば、意外にもボケまで回避したのだろうかこの話。ハテ。まあ恐らく、3部には無関係だろうけれども。

「本当はスタンドって、心で制御できるものなんだよねえ…?」

「精神のエネルギーだからな」

「精神…。うーん…」

 俯いた視界の端で、アヴドゥルが眉根を寄せているのに気付いたが、千時はそちらを見られなかった。

 彼は多分、T・Tの能力が治癒かどうか疑っている。千時自身にも、その疑問は根深く残っていた。能力が治癒だとしたら、T・Tの触れたスタンドが制御不能に陥った事象を説明できない。

「試してもいいか?」

 唐突に、花京院が壁から背を離した。

「いいよ。何?」

「T・Tを出してくれ」

 言いながら彼は周囲を見回し、悪いが少しの間イスを貸してくれと承太郎に頼んでいる。

 千時はT・Tの名を、なんとなく頭上に向けて呼んだ。やはりその場所にふんわり浮かんできたネコミミマネキンは、両手を千時の肩に置こうとして、何故か手を引っ込めた。なんだろう、とは思ったが、別に消えて居なくなるでもない。

 さて、その間に承太郎が席を立ち、花京院が座った。何をするのかと思えば、ズボンの裾をめくっている。

「僕の足には、小さな火傷の跡がある。これだ」

 かがんで指さしたのはふくらはぎ。小さな小さな、本当に小さな、薄い茶色のひきつれだった。色も非常に薄く、言われなければただのシミ。一見して遠い昔の傷だと分かる。

「これを消せるかい?」

「T・T、消せる?」

 二人が見ると、T・Tはふっと体を後ろへ下げた。手を出そうとしない。

 花京院は頷いた。

「それじゃあ、ジョースターさんの腕は戻せるか」

「腕!?」

 千時が驚くのと同時に、T・Tは両手をジョセフの方へ延ばした。

「うおっ! 待て待て! 何だそりゃ! 治るわけないだろ、もう傷じゃあないんだぞ!」

 T・Tは首を傾げて、もう一度手を差し出した。が、ジョセフの慌てぶりを見たからか、どうすれば? とお伺いをたてるように、千時を見おろすに留まった。

「切れたばかりの腕が残っとったら、それはくっつくかもしれんがなあ…」

「もしかするかもよ。T・Tはやってみたがってるみたいだし」

「どうなるか分からんのに、人身御供は御免じゃよ」

「そうですね。失礼。では…」

 花京院は、さも当然というていで、ズボンを戻して椅子を立った。

 サイドテーブルへ歩み寄り、花瓶から一本を摘む。そして、花の付け根から、それをポッキリ折り取った。

「この茎の傷口を治せるか?」

 差し出したのは、花が無くなった茎のほう。

 T・Tはトパーズの目を少し丸くしたが、動こうとはしない。

 花京院は、また独り合点に頷き、

「では、戻せない?」

 妙な具合に言い方を変えた。

 するとT・Tが、今度は動いた。おっかなびっくりという様子で人差し指を出し、茎をちょいちょいとツツく。

「どういう反応?」

 千時はちょっと笑ってしまった。が、T・Tは納得したと言いたげに頷いて、花京院の手から茎を受け取った。指先にちょんと摘んだそれを、全員が訝しげに見る。

「へ」

 不意に、茎の先に花が現れた。

 きょとんとする千時の目の前で、T・Tは花京院へと、花を差し出した。

「え? あれ? だってそこにノリさんが…」

 元の花が、咲いている。

 T・Tからそれを受け取った花京院の、もう片手には、茎の無い同じ花がある。

 ほとんど全員が同じ驚愕でT・Tを見た。

 花京院だけが淡々として、次の一手を打った。

「では、もう一つ」

 今度はザックからボールペンを一本取り出し、サイドテーブルの角に当てると、真ん中からボッキリ折る。

「これは戻せるかな?」

 手のひらに乗せられ、差し出されたプラスチック片、二つ。

 T・Tはさっきと同じように、おっかなびっくり指でツツいた。それからゆっくり首を横に振り、千時の背後へ引っ込む。

「そうか。ならばきっと、僕の想像通りだ」

 サイドテーブルに置かれたオレンジの皿と花瓶。その隣に彼は、検証の材料を一つずつ並べた。

 花瓶から抜いたままのような、茎のついた花。

 その花とまるで同じ、茎の無い花。

 真っ二つのボールペン。

 そこに立つ彼。

 一瞬の間をおいて、アヴドゥルが叫んだ。

「〝巻き戻し〟か!」

「ええ! その通り! 僕はT・Tの能力を、治癒ではなく、記憶の巻き戻しだと思う」

 とりあえず声が出ない。というか、追いつけない。

 千時はポカンと口を半開きにした間抜け面のまま、花京院とアヴドゥルを交互に見た。

 花京院は目元に手を置き、全員を順に見渡した。

「T・Tが目に触れた時、僕は意識を取り戻しました。そして傷が、治っていくのではなく、消えたように感じたんです。ある瞬間、不意に無くなった、と感じた。

 しかも、傷跡どころか、血の跡が残っていない」

 あっと誰かが息を飲む。

「それで、どうも治癒ではない気がしていたんです」

 しばし沈黙が通り過ぎ、各々が思考を巡らした。

 口を開いたのは千時だった。

「え、でも、おかしいよ、なんで花が二つになっちゃうの? てか、記憶ってそもそも過去じゃん、巻き戻すって何?」

「対象の過去を、そのまま再現するということだよ」

 花京院は、本当に何でもない事のように答えた。

「この茎の先には、数十秒前、花が付いていた。その記憶を、この場に巻き戻したんだ。つまり、僕が取って手の中に残した花は現在の花。茎の先にT・Tが付けたのは、過去の花」

「なんだ。それなら、チャリオッツの理屈と同じって事だな?」

 意外にもあっさり理解したのは、ポルナレフだった。

「お前にしては察しが良いじゃあないか」

「にゃにおう! 俺だっていろいろ考えて生きてんだっつの!」

「まさにチャリオッツだよ。池上さん」

 花京院とポルナレフ、二人の視線が千時に注がれた。

「きみ自身が説明していた、アニメのセル画だ。任意の過去の一枚を、現在に結合すると言えば分かりやすいだろうか」

 ……えええええー……。

 千時は、いつの間にか右隣に顔をよせているT・Tを見た。

 T・Tの目は、何故か不安そうにキラリキラリと瞬いた。どうしたのやら両手を寄せて、千時の肩をちょんちょんと触る。

「あの、…んん? どうした?」

 T・Tはそっと肩に手を置き、すぐにパッと飛び離れた。それからまた顔を寄せてきて、千時の様子を伺っている。

 もう怒っていない? 

 ふと、そう訊かれた気がした。

「あ? え? …ああ、いや、怒ってなんかないよ?」

「何の話だ?」

 きょとんとしたポルナレフの目の前ギリギリを、黄色いボールがすっ飛んでいった。

「おいおいィ!?」

「ちょちょちょ何してんの!?」

「なんじゃあ!?」

 慌てる面々におかまいなし。T・Tはすべてのパーツをバラバラに、病室を目一杯くるくる飛び回ってから、ここが私の定位置です! と主張するように千時の背後へ収まった。頭上へ頭をもってきて、両肩に手を置く。唖然として見上げた千時を見おろして、キラキラと嬉しそうに目を輝かせている。

「しまった。砂漠で怒ったのを気にしてたらしい」

「ハァ!? 怒ったのを気にするスタンド!?」

 ポルナレフはすっかり眉根を寄せ、そんなの聞いたことがないとブツクサ呟いた。

「花京院。ちょっといいか」

 承太郎がT・Tを見上げながら言った。

「能力は理解できる。が、お前の足はダメで、ジジイの腕は戻そうとした、その理由は何なんだ」

 花京院は、ああ、と頷いた。

「単純なことさ。僕はこれを「消せるか」と訊いたんだ。T・Tは「消す」ことはできない。

 それに、実を言えばコレは、赤ん坊の頃のものでね。たとえ巻き戻したとしても、ここだけが0歳児の組織になる。周辺との整合性が取れないんじゃないか。

 だが、ジョースターさんの失った腕は、成人のサイズだろう? 切断面より手前から順に巻き戻せば、接合できる範囲内じゃあないかと思って例に挙げた。こちらはちゃんと「戻せるか」とね。推測は一応、筋が通ったらしい」

「なるほど」

「手だけ10代だか20代だかのが付くってこと?」

 千時が訊けば、そう、と頷く。

「やってみる?」

 見遣ったジョセフは、思い切り首をブンブン横に振った。

「今さら腕が生えたら、スージーが腰抜かしちまうよ」

「あー」

「それとね、池上さん。君の疑問の二つ目だが」

 花京院がふと思い出したように千時を見た。

「記憶と言ったのは、生物に限定しているからだ。植物は切ってもしばらく水を吸い上げて生きている。ペンは無機物。これまでT・Tは、物を直そうとした事が無い」

「なあなあ、それじゃ結局よお、なんでアヴドゥルの傷はダメだったんだ?」

 花京院先生お忙しい。くるりと振り向く。

「ポルナレフ、ちゃんと聞いていたのか? 治癒ではないからだ。彼女はあの時「治してくれ」と頼んだ。T・Tには、治すことはできなかったんだ」

「ああそうか。じゃあ今、戻せっつったら戻る?」

 全員、一斉にアヴドゥルを見る。

 千時は座っていた場所から降り、アヴドゥルのすぐ横に立った。

「…トライしてもいい?」

 何が起こるか、保証されたわけではない。千時は不安で仕方ないのだが、アヴドゥルはそれを察したようで、間をおかず顔を上げた。

「包帯の留め金がどこだか見えないんだ。はずしてくれるか」

「わかった。T・T、ちょっとそのまま待っててよー…」

 言いながら、左側にあったフックを見つけて、包帯を外す。さらにガーゼが張り付いていて、千時は、先刻のT・Tのようにおっかなびっくり、それを取った。アヴドゥルは気を遣ったのか、痛むようなそぶりを一切見せない。現れた縫い目には、血がこびりついている。十針は有に越えていた。

「T・T。この傷のところ、〝巻き戻し〟て」

 一字一句、噛みしめるように伝えると、T・Tはアヴドゥルの首へ両手を重ねるようにして触れた。

 重い沈黙。

 数十秒もかかったろうか。

 半透明の手が離れた時、そこに、傷跡はなかった。

 千時が思わず飛びついてハグしたせいで、ひっくり返ったアヴドゥルがベッドヘッドに後頭部をぶつけたのは、まあ御愛嬌である。

 

「次は、巻き戻し! とか、無かったことに! って言うようにしてみるよ」

 千時はアヴドゥルの隣にそのまま座って、行儀悪く足をブラブラさせた。上機嫌。なにせ嬉しい。ここまで情報以外に提供できるものが無く、足を引っ張らない事が第一だった。T・Tのドームの防御力だって怪しいもので、フィードバックの限界値も分からない。しょっちゅう傷だらけになって戻る誰の事も、どうにもできなかった。死の回避のためには傷くらい仕方ない、なんて思う他に無かったのだ。それが、なんということでしょう! 究極のビフォーアフター! 匠もびっくりスーパーリフォーム! …いやリフォームは違うか。とにかく、役に立てた。そしてこれから、大いに役に立てそうなことが分かったカッコ物理!! 

 ものすごい収穫である。ノリさんほんとにありがとう。

「しっかし、なんでそんなに融通きかんのかねえ」

 ポルナレフに言われて、千時も首を傾げた。

「治して、でも結果は同じはずだもんね」

「普通は心で命じれば、その通り動くもんだからな。俺のテキトーな感覚でチャリオッツが分身できてたくらいだから、言葉の差なんて無関係だと思うんだが…」

「ま、伝わるのなら、まずはそれでもいいさ」

 ジョセフがあっけらかんとして言った。

「精神で制御するなんてのは、うちの孫でも独力じゃ上手くいかなかったくらいだ。追々、ゆっくりやればいい。こうなると、目下、問題が変わった」

「は?」

「ホテルを取り直さんと」

 ジョセフはパッと席を立った。

「お前たち、先に戻って、もう一部屋取ってきてくれんか。わしらは退院の手続きをしてから、タクシーで向かうとしよう」

「わかりました」

 花京院が返事をし、運転手のポルナレフと、何となく承太郎が出ていく。ジョセフがそれに続いて、病室にはアヴドゥルと千時が残った。

「その首、お医者さんはびっくりするだろうね」

「世の中には不思議な事が意外とあるものさ」

 アヴドゥルはいらずらっぽく笑い、ほら、と千時の背中を押した。

「おいて行かれるぞ」

「ああうん」

 千時はドアまで駆けていき、廊下を覗いて確かめてから、ドアを閉めた。そうして、大きな目を丸くしたアヴドゥルの居るベッドへと、駆け戻った。

「実はちょっと内緒話があって」

「何?」

「全部オフレコ口外無用いいって言うまで絶対誰にも言わないでほしい話。オーケー?」

「か、構わんが…」

「鏃の事を話した時、スタンドを傷つけるとややこしい事になる、って言ったのを覚えてる?」

 早口に小声で言うと、アヴドゥルの表情は一気に険しくなった。

「ああ。覚えている」

「未来のポルナレフは、その現象をレクイエムって名付けた」

「未来?」

「彼が矢の秘密を暴いた張本人らしいの。ずっと先だけど。

 矢でスタンドを貫くと、ある種の進化をもたらすんだって。スタンドが本体にも制御できないようなものに変貌する事もあるって書かれてた。ねえ、T・Tに刺さってるわけじゃないけど、本体に刺しっぱなしっていうのは怪しいよね?」

 言わんとした事に気付いたアヴドゥルの目は、まるで炎が爆ぜるような色を宿した。

「心臓の鏃のせいで、T・T自身の能力とは別に、何らかの影響があるという事か」

「かもしれないって話。実はね」

 千時は身を乗り出し、さらに声を潜めた。

「チャリオッツも一度、コントロールを失ったの」

「何だと!?」

「カメオ戦で、T・Tが私とポルナレフをガードしてたの見てた?」

「ああ」

「あの時ポルナレフと、ここから出せ、無理だ、ってモメてね。彼が強行突破するつもりでチャリオッツを出した。そしたら、おかしい操れないって絶叫してて、確かにチャリオッツはT・Tを攻撃せずに、ポルナレフの顔スレスレへ剣をこう」

 手で振り下ろす動作をしてみせる。アヴドゥルは絶句した。

「ポルナレフは何も言ってこなかったから、多分、T・Tのせいだと思ってない。あの時は相当取り乱してたし、彼の性格からして、自分の心のせいだったと考えてると思う。

 でも、マジシャンズレッドの時と同じな気がする」

 あんなにフレンドリーじゃなかったけれども。まあそれは余計な話。

「…やはり、ただのスタンドではなさそうだな」

 アヴドゥルはようやく、喉の奥から絞り出したような声を発した。千時は頷き、少し落ち着いて体を離した。

「内緒だよ。誰に悪用されないとも限らないし。それと特に、旅が終わるまで承太郎とジョセフさんに言わないで。絶対。特にジョセフさん」

「ジョースターさん? 何故だ」

「鏃の効果かもしれなくて、ディオにバレたら大惨事かもしれないから。ディオは自分が譲り渡した矢の所在を知ってる。ジョセフさんから何かちょっとでも伝わっちゃったら、取り戻しに行きかねない。

 だから本当はあなたにも話すべきじゃないんだけど、アヴさんはマジシャンズレッドの件で、T・Tをすごく不審に思ってたでしょ。何かあって話し出されたりしちゃ、何が起こるか、もっと分からなくなっちゃう。だから話しとこうと…というか正直、釘刺しとかないとと思って」

「…確かに。不用意に口にしかねなかった」

 アヴドゥルは思案げに腕を組んだ。

「お前はツイてる」

「なんで?」

「さっき、花京院がT・Tを能力を明らかにした時、言おうかと思ったんだ」

「あっぶねええええええ!」

 思わず絶叫。千時は両手で、文字通り胸をなで下ろした。

「危なかった! そーれは危なかった!」

「彼のような推論は無かったから言わずに済んだが、正直、どこで話題に上げたか分からない。話してくれて良かった」

「こっちも話して良かったァ!」

 顔を見合わせて笑ったが、結構、笑い事ではない。それこそ千時がエンヤにかましたハッタリが…ディオに切り札なんて事態が…現実になりかねなかったわけだ。

 よーく考えよー。保険は大事だよー。場違いにもアヒルのCMが頭に響く。元歌はお金だったけれども。

 さらなる保険を掛けるべく、千時は笑いを引っ込めた。

「良かったついでにもう一つ、内緒の秘密をしょってもらってもいい?」

「ついでか。どうぞ」

「世界の終わりの引き金」

「何?」

「…を見つけた、かもしれなくて」

「分かるように話しなさい」

「えっと、まずディオをどうにかしておかないと、知ってても意味が無いんだけどね。そろそろどこかで頼もうと思ってたんだ。他に頼めそうな人が居ないから…」

 千時はポケットからメモ帳を取り出し、だいぶ薄汚れてしまったそれを、表紙のまま翳して見せた。

「まず今、この旅について。もし私が消えちゃった時は、このメモ帳を探してみて。途中は無いけど、最後は書いてある」

「何ッ…」

 アヴドゥルがあまりにも勢い込んで目を見張るので、千時は少々、体を引いた。

「大丈夫だよ、対策も書いてあるから…」

「そうじゃなく、お前、元の世界に帰る方法を見つけたのか!?」

「あ?」

 心配の矛先がだいぶ違っていて、千時は一瞬、話が飛んだのかと思った。盛大に首を振る。

「違う違う。こっちの世界に来る時が本当にいきなりだったから、こっちからもある日突然、前触れもなく消えないとも限らないでしょ。だから念のため。本当に念のため。自主的に帰りたいとかは思ってないよ。ここまで来たら、そりゃディオが居なくなるまで見届けたいでしょ。これは保険。

 だから聞いて。次ね」

 彼は、アアだかウウだか呻いたが、おとなしく頷いた。

「ディオを倒しても、物語は続いてく。だから日本を出る前に、続きを別にして置いてきた。場所を覚えといてほしい」

「…分かった。どこだ」

「化粧ポーチのブラシケースの中。トートバッグに入ってる。わかんなかったらホリィさんか誰か、女性に言えば見つけてくれると思う」

「ああ」

「で、そこに書いてある事に、一ヶ月後、ホルホースさんから送られてくる情報が関わってるわけよ」

 アヴドゥルは険しい表情で、しかし、見事に目を丸くした。

「ホル・ホース?」

「さっき電話があったの。向こうで掴んだ情報を東京へ郵送してくれるはず。多分、ディオが遺す負の遺産の一つで、世界の終わりの引き金になる人物の事。

 もし私の知る物語通りに進めば、この世界は誰の望む結果にもならずに一巡して消えてしまう。それを止めるために大勢が死ぬのに、世界の終わりは止められなかった。だから目の前の問題を解決したら、すぐにでも取りかからなきゃいけないと思う」

 真剣に、低く落とした声音で、千時は語り終えた。

 アヴドゥルは微動だにせず聞き終えたが、頷くことすらしなかった。

「…というわけで、アヴさんを秘密の保険に任命します! よろしく! はい! 日本のどこにメモ置いてきたか復唱!」

「えっ、ああ、トートバッグの化粧ポーチのブラシケース?」

「グレート! マーベラス! ベネ! えらいえらい」

「何がア?」

 ドアの開く音と不思議そうなジョセフの声で、二人は同時に振り返った。

 何でもないです! とステレオサウンド。

 ジョセフはますます変な顔になった。

 

 さて。とりあえず病室から荷物を…と思ったが、大したものは何もなく、一番の大荷物はジョセフとポルナレフが持ってきたオレンジだった。まだ紙袋に半分もある。一番上にはポルナレフがカットしてしまった分があって、胸に抱いていると良い匂いだ。

 ジョセフとアヴドゥルがどこへ行ったかというと、なんと詐欺の疑いで奥へ連れて行かれてしまった。医者連中が大騒ぎになってしまって、強行突破なんかしたらそれこそインドの二の舞になる。千時はロビーで待ってなさいと言い遣った次第だった。

 …なんかこう、ジョセフさんの人生って、本当にトラブル上等だなあ。リュック一つを背中に、紙袋を前に抱えて、とことこリノリウムの廊下をロビーへ向かう。

 ふと千時は足を止め、数歩ばかりバックした。ブロ、ブロ、という子供の声が聞こえたからだった。なんとも弱々しく小さな呼びかけで、聞いているこっちが凹んじゃうような声音だ。

 開いたままのドアから病室を覗くと、ベッドから突き出た細い手が、宙を掻いていた。隣のベッドに呼びかけているらしい。

 廊下の左右を見回したが、捕まりそうな看護婦が居ない。

 千時は少し迷って、結局、中へ入った。

「ハロー?」

 別に怯えられるような姿もしていないだろうし、大声も出していないのだが、少年は弾かれたように竦みあがった。

 頬も目元も青く腫れ、唇も切れて擦り傷だらけ。事故にでも遭ったのだろうか。

「あー…、ユアブラザー?」

 わざとらしく首を傾げて、少年が手を伸ばしていた隣のベッドを見る。

 だいぶ年齢が離れているようだ。少年と同じくボロボロのボコボコになっている所以外、あまり似ているように見えなかったが、ブロと呼ぶからには兄だろう。弟より酷い顔になっていて、これは、気絶しているのかもしれない。

 少年に目を戻したが、彼は、泣き出しそうな顔をした。痛そうに、ひどくぎこちない動作で掛け布団を手繰り寄せている。なぜそんなに怯えるのか知らないが、年の頃がまだ十かそこらで、千時はちょっと同情してしまった。

 抱えていた紙袋をベッドの足もとへ置き、中からオレンジを一つ、取り出す。少年の目の前に持っていって、人差し指でヘタをトンと叩けば、ほら! ポルナレフの真似だ。パラリとオレンジが分かれて、少年の目はこれ以上無いほど丸くなった。

 差し出したそのまま待っていると、少年はビクビクしながらも、一切れを取った。千時は笑いかけ、残りのオレンジをサイドテーブルに置いてやった。ヘタな言葉よりコミュニケーション。これもポルナレフから教わった。

 イスを一つ拝借し、笑顔で見守る。

 少年がモソモソとオレンジを二切れ食べて、怯えるのをやめたと思われた頃に、千時は頼んでみた。

「プリーズ、クローズユアアイズ。フューセカンズ。プリーズ?」

 ちょっとだけ、と指でやってみせる。

 またもや何故か、少年は慌てふためき、枕の下から変な表紙の本を取り出した。顔を埋めるようにして、読んではちらりとこっちを見上げる。

 それから本を抱きしめて、ぎゅっと目を閉じた。

 まあ何でもいいや。千時は急いでT・Tの名を小声で呼び、

「この子のケガしてるとこ、巻き戻してあげられる?」

 と訊ねた。

 現れたT・Tは、薄ピンク色の手をドームにする時のように大きく広げた。ふわっとした動作で少年を包み込み、じっと止まる。

 少年が途中で目を開けてしまわないかと心配したが、彼は固まったままだった。

 T・Tが手を離しながら消えると、彼は、おそるおそる目を開けた。

 不思議そうに両手を見、自分の顔や腕を触っている。

「クローズユアアイズ、ワンスモア」

 練習台にして悪いが、もののついでだ。

 少年は、何故かまた本を開き、閉じて抱きしめ、ぎゅっと目を瞑る。物わかりの良さはちょっと引っかかった。が、ともかく千時はもう一度T・Tを呼び、今度は隣のベッドの男を〝巻き戻し〟た。

「よし」

 T・Tが消えてから立ち上がり、紙袋を抱える。

「グッドラック。バイバイ」

 千時は軽く手を振って、病室を出た。

 もしかしたら彼らも詐欺疑惑をかけられるかもしれないが、痛いのよりはいいだろう。子供だったしね。

 

 その背後で、飛び起きた兄の方が千時に襲いかかろうとし、弟が必死に止めていたのを、彼女は知らなかった。

 長い長い病院のお話は、ここまでである。

 


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