スターダストテイル   作:米俵一俵

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12.マニッシュボーイよ感謝しろ

 正面に、女の子が座っている。

 白っぽい景色の中、正面に、見たことのある相手が座っていた。

「…あれ? えっと…、なんか…、あれ?」

 千時は瞬きをし、手を動かしたが、鏡ではなさそうだ。

 それは自分と同じ姿の、何者かだった。

「どちらさまですかね…?」

 千時は立ち上がろうとして、体があまりに軽いことに驚いた。重力が足りない。浮き上がってしまいそうだ。…そのくせ、ちゃんと歩けている。

 どういうことなんだろう。ふらふらしながら、相手の前で膝を着き、その顔を覗き込んだ時、千時は理解した。

「もしかして、T・T?」

 日本人に一番多い、深い焦茶の虹彩に漆黒の瞳。その奥で、小さく、黄色い輝きがキラキラと光をこぼしている。

 彼女は、口を開いた。

「私は言葉を話す器官を持たない。あなたの体を借りている」

 自分の口から出たのかと、鼓膜が錯覚するような声がした。いや、もしかすると、自分の口から出ているのかもしれない。今、この目の前の何者かは、体を借りていると言った。

「あなたの体には、私を異物として排除しようとする部分と、既に私を受容した部分がある。そのせいで、あなたの体はひずみ、苦しんでいる」

 それを聞いた途端、千時はここが現実でないことを思い出した。

 砂漠で一夜を明かした翌日、出発直後から記憶がない。背中を支えていてくれた花京院に、何度も名前を怒鳴られている内、意識が途切れた。

 そうか、と、なぜか納得できる。

 死にかけているのだ、多分。T・Tの…どうだろう、鏃の? ウイルスの? …せいで。

「もうすぐ結論が出るだろう」

 千時の姿をしたT・Tは、ほんの微かに眉根を寄せ、不安そうな声音を発した。

「共に生きられることを祈っている」

「一蓮托生って事?」

 千時は笑った。

「T・Tがそう願うなら、きっと天秤はそっちに傾く。願いの総量の大きい方が、きっと勝つよ。祈って」

「祈る。生を祈る」

「ねえ、でも、

 

 なんのため? 

 

あの時の問いを、今度は千時が問いかけた。

だが、T・Tの答えが返る前に、体を風が吹き抜けて、夢は、閉じた。

 

 

「…T・T」

 一番最初に、笑うトパーズが目に入った。

 それはすぐにかき消えて、見知らぬ部屋の天井へと変わった。

「あなたの祈りが勝ったらしいよ」

 呟いて、身を起こす。一気に汗が冷え、空調の温度設定がかなり低いことに気付いた。ボタッと膝に何かが落ちたのを見ると、濡らしたハンドタオルだ。ああ、熱が出ていたんだなと解って、額を触る。この感じなら、たぶん、下がっているだろう。

 スリッパが見あたらないため、千時は素足のまま、床に立った。このパジャマに着せかえたのが、せめてジョセフであることを祈るばかりだ。

「置いてかれてたらどーしよ…」

 ドアを開けて廊下の左右を見ていると、突き当たりの角からホテルマンらしき中東系の男性が見えて、あっ、という顔で引き返していった。

 部屋のベッドに戻ったところで、バタバタ慌ただしい足音が聞こえ、ドアがものすごい勢いでバーンと開いた。

「千時!!」

「無事か!?」

 飛び込んできたのはアヴドゥルとポルナレフ。

 にへらっと笑って頷くと、ポルナレフはベッドに乗り上げて千時の背を支え、アヴドゥルは額に手を当てに来た。

「熱は下がったようだな…」

「うん。大丈夫、たぶんホリィさんみたいにはならないと思う」

「何故わかるんだ! そう言って死んだ者も居るんだぞ!!」

 アヴドゥルに本気で怒鳴られ、肩を竦めると、

「病み上がりに怒鳴るなよ! なあ?」

 ポルナレフがぎゅっと抱き込んで庇ってくれた。

 千時はまた笑ってしまって、二人に変な顔をされた。

「大丈夫だから、話をさせて。ポルナレフもちょっと放して、ほら。T・T? 居る? 出てこれる?」

 虚空に向かって声を出す千時に、男達は顔を見合わせた。が、T・Tが姿を現し、千時の背後に回ってピンク色の手を肩に置くと、目を見張った。

「この子が教えに来てくれた。生きて目が覚めたってことは、私がT・Tに適合できたって事みたいよ。だからたぶん、もう平気。そうでしょ? T・T?」

 頭上に浮かぶネコミミマネキンを見上げると、それはウンウンと頷いて、笑った。それから、おもむろに両手を上げて、男二人にひらひらと振って見せてから姿を消した。

「ほら、ごきげんちゃん」

 真似して千時も手を振ると、アヴドゥルが思い切りため息をついた。

「まったく、どういう事なんだ…。これまで積み上げたスタンドへの知識が、覆されっぱなしだぞ。T・Tは自分の意志を持って、お前と会話しているのか」

「と思うけど、どーだろーねえ」

「え、何々、どういうこと?」

「わかんないならポルナレフは黙る」

「ええー!?」

 そのうち廊下からまた足音が駆けてきて、開けっ放しのドアから血相を変えたジョセフが飛び込んできた。

「生きとるかッ!?」

「生きてる生きてる」

「はぁぁー…ッッ! 死ぬかと思ったわい!!」

「この通りピンピンしてるよ」

「ワ! シ! が!! 生きた心地がしなかったっつーの!」

「アハハ。ごめんごめん」

「ごめんじゃないわい、まったくもう!」

 ジョセフは少々おどけて、プンスコ! という風を装っていたが、本当に心配していたようだった。アヴドゥルを押しのけ、千時の頭と肩、背中を、確かめるように撫でている。

「ごめんね」

 千時がトーンを落として謝ると、ジョセフは首を横に振った。

「いや。ただ、ホリィにはディオを倒せばという解決策があるが、千時を助ける方法は無かったからな」

「そうだね。本当にごめんなさい。でも、良いこともあったよ」

「良いことじゃと?」

「そう。T・T!」

 もう一度、頭上の虚空に呼びかけると、T・Tは姿を見せた。

「何度も呼んでごめんね。ジョセフさんに見せてあげたくて」

 目を丸くしたジョセフを見おろし、リリリリリと機嫌良く鳴いて、千時の頭を撫でている。

「ほら。呼んだら出てきてくれるようになった」

「オー…。少しはコントロールできるようになってきたか」

「そんなとこ」

 ちょっと違うと思うけど、とは口に出さず、千時はジョセフの手に手を重ねた。単に頼んでいるだけで、ネコミミマネキンは勝手に動いている。千時の頭にチュッとキスの動作をして、T・Tは姿を消した。

「ところで…」

「うん?」

 千時は笑顔を張り付けたまま、視線を床へ落として、…アレだ、絵面的に言うと、額からタテ線で…青くなった。

「…タイムロスはいかほど…?」

 ホリィさんを思い出したら、そっちのほうが大ごとだ。

 

 良かった、ほんと良かった。T・Tちゃんありがとう。

 千時は胸をなで下ろしつつ、スープを飲んだ。やさしい味…と言いたいがまあ要するにものすごい薄味で、そこまでしなくてもいいのになあという感じだが。

 幸い、覚悟したような日時は経っていなかった。おそらく最良のタイミングだったに違いない。

 昨日、気絶した千時を抱えて砂漠を抜け、このヤプリーンに入ったのが夕方。しかし医者が居ない。その足でセスナに乗せて病院へと思ったら、今は四座席の機体しか動かせない、六人乗れる八座席の方は未整備飛べない明日朝以降、と断られ、途方に暮れてホテルへかつぎ込んだ。で、一晩、交代しながら看病してくれたのだという。

 午前中に看ていた承太郎が、熱が下がり始めた事に気付いて報告しようと席を外した時、千時は目を覚ました。ちなみにその承太郎はというと、ジョセフの後からノソノソ、千時の居る部屋を覗いて、軽く片手を振っただけで居なくなってしまった。後でジョセフに聞いたところ、二度寝を決め込みに引っ込んだそうだ。

 その時点で11時。全員乗れるセスナ機は整備を終えたが、やみくもに向かって到着先で立ち往生は困るため、ジョセフとアヴドゥルが、時刻などの再計算をしに部屋へ戻った。

「ごちそうさまでした」

「お、完食な! えらいえらい」

 ポルナレフが雑誌から顔を上げ、トレイごと食器を引き取る。彼はベッドの隣へ椅子を持ってきて、そばについてくれていた。

「ありがとう、ポルナレフ」

「いんや。これ片付けてくるわ」

「その間に着替えちゃうから、しばらくはずしててもらえる?」

「えぇ? お前、今朝は40度以上あったんだぞ。おとなしく寝とれよ」

「そうするけど、察してよ、下着が一昨日のまんまなの!」

「おっと、そりゃ失礼」

「言わせんな」

 ベーッとやると、ポルナレフはウインクに投げキッスでドアを閉めていった。

 千時は足音が遠ざかるのを確かめると、大急ぎでドアの鍵をかけ、エアコンのパネルを探して室温を上げて、シャワールームへ飛び込んだ。後で怒られるのは承知だが、もう日本人としてはたまらないわけで。

「あーきもちい!」

 すっきりしてご機嫌で出てきたら、やっぱりドアの向こうでポルナレフが、おーい、どうしたー、と大声で呼んでいた。

「ごめーん。もうちょっとー」

「テメー、シャワー浴びてんじゃねえだろうな!」

「だーからもーちょっとー」

「ったくもー! こっちゃー心配してやってんのに!」

「メルシー! ジュテーム!!」

「安売りするんじゃありません!」

「ハハハ」

 ドア越しにやり合いながら悠々お着替え。

 いつも通りのジーンズにシャツとパーカーで、頭を拭きながらドアを開けると、いつの間にやら花京院が来ていた。

「ノリさん!」

「やあ。無事で良かったよ」

「良くない! ノリさんひどい顔してる!」

 花京院は気にしないでと微笑んだが、明らかに血の気が引いている。ポルナレフが、フザけた調子でその肩を叩いた。

「こいつ、今朝はエクソシストばりに暴れていたんだぜ。ベッドをがたがた揺らしてさ。こわァい夢を見たんだと。まだ怖いのォ?」

「うるさい」

「何だよ、起こしてくれて助かったって言ったくせに」

「僕より具合の悪い彼女に、余計な事を言うなと言ってるんだ」

「あっ! すまん…」

 しまったー! という顔のポルナレフに、花京院はため息をついた。

「本当に気にしないでくれ、池上さん」

「うん、ポルナレフ悪いけどちょっとノリさんと二人で話がしたいからそこどいて」

「え?」

「ほらどいてどいてー」

 千時はポルナレフをぎゅうぎゅう押して、ドア付近から追い立てると、きょとんとする花京院をひっぱって部屋に入った。

「ポルナレフ、看病してくれてありがとね!」

 それだけは心から言って笑顔を残し、けれどバーンと勢いよくドアを閉める。向こうから、ええぇぇぇー…、と情けない戸惑いがこぼれてきたが、気にしている場合ではない。

「ノリさん、座って」

「どうしたんだ、急に」

「いいから座って」

 花京院にベッド横の椅子をすすめ、千時はベッドに腰掛けた。

「まずは、砂漠に捨てないでくれてありがとうございました」

「捨てていったら犯罪だと思うんだがなあ」

「いやいや。人一人抱えてラクダ乗って一日とか、大変だったでしょ。それで思い出したんだけど、香港からの船が転覆した時のお礼も、ちゃんと言ってなかった。ノリさんが居てくれなかったら、船と一緒に沈んでたと思う。本当にありがとう。何度も迷惑かけて、本当にごめんね」

 花京院は目を細めて、くすぐったそうに肩をすくめた。

「僕たちも、きみには助けられてきた。おあいこだ」

「そう言ってもらえて嬉しいよ。早速、ご恩返しと参りましょう」

 千時は身を乗り出して花京院の方へ顔を寄せ、小声で告げた。

「あなたは夢で襲われてる。デス・サーティーンというスタンドに」

「何だって!?」

 察しの良い彼も、慌てて椅子ごと前に来て、顔を寄せる。

 千時がコソコソ内緒話のていにしたのは、万が一でも例の赤ん坊に聞かれると面倒だからだ。

「ひどくうなされて、起こされたんだよね? 夢の内容は起きたら忘れてしまって、でも酷い悪夢だったって事は感じられる」

 花京院は驚愕し、一瞬、絶句してから頷いた。

「ああ、まさにその通りだ」

「手に傷は?」

 花京院は驚愕を露わに、左手を上げ、真新しい切り傷を見せた。千時が覚えていたのはBABY、STANDの文字のほうだが、それより少し手前らしかった。

「夢の中は敵のテリトリーだからスタンドが発動できなくて、外部から起こされなかったら、一方的に殺されちゃう。解決策はね…」

 千時はとても簡単な、しかし彼のスタンドでなければ難しい対策を、耳打ちしてやった。

 花京院は眉根を寄せ、険しい表情で聞き入った。

「一つ訊いてもいいか?」

「勿論どうぞ。なに?」

「なぜ僕がターゲットなんだ? そんなスタンド能力なら、ポルナレフあたりを真っ先に襲えば、確実に一人、排除できるだろうに」

 アハハハ。千時は、花京院の肩をポンポンと叩いた。

「そのとーり! それに気付くチームのブレーンは誰かって事!」

「ああ、バカは後回しでいいと」

 ひどい言いぐさに顔を見合わせ、ひとしきり笑いきってから、二人は部屋を出た。

 千時が見上げた花京院の横顔は、まだ疲労に青白かったが、いつも通りに強気な笑みを浮かべていた。

 

 見つけた。

 千時はニンマリとして、滑走路手前のフェンスに近付いた。

 ジョセフとアヴドゥルが、パイロットらしき現地人とモメている。そのそばで、困り果てた顔の中年女性が抱いているバスケットだ。

「ジョオォーセフさぁーん!」

 わざとらしい猫なで声で割り込むと、ジョセフは眉根を寄せた。

「おいこら、子供じゃあないんだろうが。ちゃんと寝とれよ」

「世界のピンチと皆のピンチ! 駆けつけない手はないでしょうよ」

「ハァ?」

 うーん。大好きだったけど知ってる人に会ったことないコードネームはBF。しかも、たしか集A社じゃない。…なんてくだらない事を考えながら、ジョセフの手を取る。

 そして千時はバスケットを見つけたふりをした。

「わあ、かわいい赤ちゃん! でも苦しそうね。熱でもあるの?」

「え? ええ…」

 バスケットを抱えた女性は、アバヤで目元しか見えないが、それでも人が良さそうだった。千時は、なんだなんだと慌てるジョセフの手を…言葉の都合で…引っ張っていき、バスケットを覗き込んだ。

「あらあら、かわいそうに。よかったら私に、だっこさせてくれない? 私、赤ちゃん大好きなの」

「おいおい、千時…」

「いーからいーから」

 ジョセフを押し止め、繋いでいた手を離し、赤ん坊を抱き上げる。ありゃ、けっこう重たい。

「おさんぽしましょうねぇ」

 日本語で話しているが、たぶんコイツには通じている。

 千時はニコニコしながら、ゆっくりとその場を離れた。フェンス伝いに、腕の中の子をよしよしと揺らしながら。姿は見えるが声は聞こえない程度に離れたあたりで、フェンスを背にして体育座り。

 赤ん坊を覗き込み、にっこりしてみせた。

「どうせ言葉は通じないわよね。私、日本語で喋ってるんだもんね。そうでしょ? …デス・サーティーン、ちゃあぁん?」

 赤ん坊の表情が、ガラッと変わった。醜悪な驚愕と共に、ザーッと青褪めていく。

「今はどんな夢見てるのォ? 大鎌持って、光るメロンと追いかけっこの最中かしら? ウフフ。よぉく見てごらん、その光るメロン。本当にあなたの作った幻影? 本物かもしれないよ? 何しろ、あなたがターゲットにしちゃった人は、頭が良いの。そこんとこは、よォォーく知っているのよねぇ?」

 わざとニコニコ、優しく笑いかけながら、しかし声音は低く、低く。

 腹部に手のひらを当てて、やんわりと押す。

「乳幼児突然死症候群、てのは知ってるかなァ? 知ってるよね! 天才ちゃんだもんねーぇ? どうかしら、たぶん…このへんしばらく押しといたら…」

「ヒッ! ヒィィィ…!」

 とうとう赤ん坊が明確な意志で悲鳴を漏らし、千時はますますニンマリとした。

「あーらあらあら、あらららー? どうちたんでちゅかー? うつ伏せに寝かせて背中を押す方がいいかしら? 大丈夫よ、クッション当ててあげる。柔らかいから痛くない痛くない…」

「ギャッ! ギャ…」

「シー。しずかにしないと、おくちを塞いじゃいますよ? 息ができなくなっちゃったらどうするの? いいこ、いいこ」

 千時はここでようやく、敵を思い切り睨みつけた。

「正体がバレてると、どうしようもないでしょう? マニッシュボーイ。あなたはひ弱な赤ん坊だものね。殺されたくなかったら手を引きなさい。私にだって、あなたの首をへし折るくらいは簡単よ。分かったんなら笑って。熱は下がった、苦しくないって顔をしていなさい。あんたをセスナに乗せることに決まったりしたら、その柔らかい腹、踏み抜いてやるから」

 演技じみた調子で脅しかけると、坊やは、分かったとでも言うように、ヒキツりまくった笑みを浮かべた。

「ア、アブゥ…」

「そーそ。いい子ねー」

 千時はまた笑顔を作り直し、ジョセフ達の方へと足を向けた。

 と同時に、ホテルから駆け出してきてきょろきょろしているのは花京院。どれだけ慌てて起きてきたのやら、頭は寝癖で跳ねていて、レアなことに学ランの前を開けっ放しだ。

 彼は千時を見つけると、手を振りながら走ってきた。

 あまり具合の良い顔色ではないが、問題が片付いたからか、表情は晴れやかだった。

「きみのおかげで、楽しい夢が見られたよ」

「それは良かった」

「例の赤ん坊かい? やあ、さっきぶり」

 花京院はにこやかに、赤ん坊を覗き込んだ。マニッシュ・ボーイは、千時の腕の中で硬直している。

「ほらほら、笑ってなくちゃダメでちゅよ」

「ヒッ! …アバッアバパプゥ…」

「そうそう、良い子。ほら、お兄さんにだっこしてもらいなさい」

「おっと」

 赤ん坊を差し出された花京院は、少々慣れない手つきで、小さな子供を受け取った。頭をそこへね、こうか、そうそう、なんてゴソゴソやって、それでも割にうまく抱いている。

「信じられないな。こんな赤ん坊に、してやられていたなんて」

「かわいそうな子よね」

 千時は何となく、ひきつった笑みを浮かべる赤ん坊の頬を撫でた。

「今からこんなに頭が良いんじゃ、この後の長い人生、苦労しかしないでしょう」

 赤ん坊は目を見開き、少しだけ、表情を失った。すぐ思い出したように笑ったが。

 千時も、今度は心から、そっと笑いかけた。

「まだ引き返せる。がんばんなさい」

「…君は優しいんだな」

 花京院が神妙に呟くものだから、千時はもっと笑った。

「ぜーんぜん! さっきメッチャ脅しといたからだよ」

「なんて?」

「そのヤワ首へし折られるのと、腹踏み抜かれるのどっちがいいって」

「ハハハ。池上さんもやるな。だが、それくらいは当然の権利だ」

「ノリさんならそう言ってくれると思った」

 だってアニメじゃこの人、ものすごい仕返ししてたもんね…。…まさかのおかゆ…。ていうかやっぱり彼が一番、一般的アホな男子の発想してる。うん。

 マニッシュボーイよ感謝しろ、と、千時はひっそり肩を竦めた。

 

 赤ん坊は具合が良くなり、当座、あのおばさんが面倒を見ていてくれる間に、親を探すそうだ。まあ、当の本人がアレだ、こんなところまで一人で来たのだから、帰る手だてもあるだろう。

 ジョセフは最後まで迷っていたが、千時の進言で、結局、パイロットに仕事を頼んだ。襲撃が無くなった事と、パイロットを頼めばセスナを買う必要が無い事から、千時がジョセフを説得したのだ。…まあ、もう一つ理由があって、これは口にしなかったが、パイロットが居ればたぶん、既に人生で二度も墜落したおじいちゃんの運転が心配な孫がちょっと安心する。おじいちゃん傷ついちゃうから言わないけど。

 

 

 到着時刻などの都合で、出発は早朝、夜明け前という事に決まった。5時出発なのだが、このあたりの日の出は7時ジャスト。目覚まし鳴っても真っ暗だから間違って二度寝するなよ、と、言われた…のにポルナレフがやらかして、出発は5時半になった。

 ちょっと大きめ八座席のセスナは、悠々、サウジアラビアの空へ舞い上がり、まずは三時間弱。美しい日の出を見ながら飛んで、給油地のリヤドに着陸。

 このサウジアラビア、出入国が世界一厳しい国の一つだ。千時は、ここから先、サウジを抜けるまで絶対にシュマーフを取らないよう言い渡され、目元以外は全部、黒い布地で覆い隠された。ジョセフはさらに、パーカーを脱がせて緩めのアバヤを着せかけ、真剣に注意した。

「いいか、この国では外国人でも女性が肌を晒す事が許されておらん。万が一、宗教警察に見つかると捕まって厄介な事になる。しかも、あらゆる場面で、女性が男性と同席できん決まりになっているからな。明日の朝には出国するが、それまで絶対、髪の毛一本出さんようにすることと、わしらからはぐれないこと。いいな」

「イエッサー。了解しました」

 千時は頷いたが、もう早速その直後から、サウジのビックリルールに直面した。

 通過の手続きに数時間もかかるというので、暇なその間は身動きがとれず、小さな空港の小さな食堂で、食事をするくらいしかできない。で、行ってみたら、男性オンリーの区画とファミリーの区画が厳重に別れていた。一緒には入れない規則、なのだが、気を利かせた従業員が、その子は子供だよね? 子供だったら大目に見てあげるよ? とやってくれて、衝立で目隠しされた奥へ通してくれた。宗教めんどくせー! …とはさすがに叫べず、従業員の男の子には本当にありがとうと頭を下げるしかない。彼は、僕パスポート見てないから年齢なんて知らないもんね、とウインクしてくれた。

 同じテーブルに誘ったパイロットは、ライセンスを持っているだけの村人なのだそうで、ホテルの裏でやっている小さな食品店が本業だと得意そうに髭を撫でていた。そんな話を感心しながら聞いたからか、その後のマッカ州に向かう間、パイロットは千時を操縦席の隣へ招待した。たっぷり三時間強、特等席で空の旅を楽しめるなんて、貴重で贅沢な体験だ。

 言葉はわからないからニコニコしていただけだけれども、このおじさんも他の外人さん同様、ガムと飴をくれた。本当にこの旅、飴にだけは困らない。

 

 予定通りマッカ州に着いたのが、14時過ぎ。

 くっそ暑い。暑いにもほどがある。これまでで一番暑い。辿り着いてからジョセフに聞いたら、一日の平均気温が31度。

「今はちょうど午後2時で、一番暑い時刻でもあるからな。最高気温は40度近いんじゃぞ。しかしこれでもベストシーズンの内でな。3月から11月まで、昼は50度に達する。誰一人、身動きが取れん気温なのじゃ」

 すっげー。砂漠の国すっげー。絶対暮らせない。これか、おとんの言ってたオマーンの気候は。実感。

 で全員、大急ぎでレンタルしたワゴンのクーラーの下へ飛び込み、走る道すがら花京院が教えてくれのが、このマッカ州の州都こそ、かの有名なメッカだという事。まさかイスラムの聖地に来ちゃってたとは! 千時は目を丸くして、窓の外の街を見回したが、ここじゃないよと花京院に笑われた。彼、実はこの州へ来た事があるそうな。何この高校生。

「メッカはムスリムでなければ入れないんだ。何キロも手前からムスリムオンリーと注意書きがあって、侵入しようものなら処刑されても文句は言えない。そもそも、外国人の自由滞在が認められていないんだよ。ほら、今、僕らにおりている許可も通行だけだろう? この国ではきっと、敵に回して恐ろしい相手はスタンドより宗教だろうね」

 すっげー。宗教国家すっげー。絶対暮らせない。

 千時に本日二度目の同じ感想を抱かせつつ、車は紅海方面へ向かってまっすぐ進んだ。道路はオイルマネーのおかげで舗装が良く、日本の道路よりも滑らかだ…が、途中、いきなりラクダの群が通りがかって、10分も足止めくったのには全員絶句した。

 さて、紅海へ乗り出すための経由地は、ジェッダという都市。港に面した一大商業都市で、メッカとメディナ、二大聖地の玄関口でもある。…という触れ込みの、びっくりするほど大したことない街だった。花京院が以前来たのもここで、彼もまた、うん何も無いよと遠い目をしていた。

 いや、綺麗ではある。よく整備されている。かなりの金満国家だという事はわかる。が、そもそも、聖地巡礼以外に観光がまず無いらしい。

 ジョセフとアヴドゥルが次の交通手段を買いに行った間、花京院と承太郎がカフェだの何だの覗いてきてくれたのだが、千時まで一緒くたに入れそうな場所が無かったらしく、テイクアウトで色々買って戻ってきた。

 千時は、日本でのペーパードライバーだがそれでも一応、免許は取った身なので、なんなら置いてってくれてかまわないんだよお前さん、なんてやってみたが、またここでびっくり仰天のサウジルールを聞かされた。

「この国では、女性が車を運転してはいけないんだそうだよ。最初から免許が取れないらしい。きみが車を運転したら警察に捕まる」

「えええええー! マジか! いやどっちにしても国際免許は無いから違法は違法なんだけれども!」

「ったく異常だぜ、この国は!!」

 当の千時より、フェミニストなフランス人のほうが憤慨していたが、あとはまあ数時間のことだ。ガソリンを入れなおして、市内を回ってみることになった。

 あちこちのモスクだけは、おとぎ話に出てきそうな外観で悪くなかったが、いかんせん教徒ゼロの一行なのでどうしようもない。

 

 ほらすぐこうなるからセスナは要らないって言ったんだ。不動産王の金銭感覚ホント怖い。

 桟橋に着けられたちょっと大きめのモーターボートに、思わず半眼。

 とうとう買っちゃったそうで、千時だけでなく花京院とポルナレフも、ちょっと呆れ顔をしていた。孫はどうだろうと思って見てみたが、彼は母親がかかっているためか、それともハイソなおうちのおぼっちゃんだからか素知らぬふり。

 …アヴドゥルも平気な顔だが、この人ももしかすると、生まれが庶民じゃなかったりするのかもしれない。バックグラウンドが不明なため、ちょっと不気味な時がある。

 ジェッダの中心街から北へ少し下ったあたりの、港付近から出発。全員乗り込むと、クルーザーは軽快に走り出し、かなりのスピードで飛ぶように水上を行く。これまでより船体が小さいせいか、速度をダイレクトに感じられて、これは一泊もしないで経由地へ着くのかなと、千時は勝手に思っていた。

 美しい海は、やっと少し観光じみて、点在する小島の間をすり抜けていくと、熱帯魚やイルカでも居るんじゃないかという気分になれる。

「おいジジイ」

 唐突に承太郎が、ひどく場違いな低い声を出した。

「おかしいな。方角が違ってるぞ。まっすぐ西へ…エジプトへ向かっているんじゃあないのか。あの島へ向かっているようだが…」

 振り返ってみれば、彼の指さす先に、小さな小島。

「ああ、その通りだ。わけあって今まで黙っていたが、エジプトに入る前に、ほんの少し寄り道をする」

「潜水艦とか言わないでよ…」

 一瞬で愕然とした千時が思わず呟くと、不動産王はこれ以上ないほど目を丸くして絶叫した。

「オーッノーッ!! 千時ッ! 何故それをオオッ!?」

「うわああぁぁぁやられた…!!」

 ジョセフと千時は、同時に額を押さえて項垂れた。

「なんじゃい! せっかく驚かそーと思ったのにィ!」

「なんだよ! せっかく節約したと思ったのにィ…」

 どんだけ予算潤沢なんだ。千時はちょっと目眩がした。それでなくともゼロ円スタート女を一人、余分に連れているというのに、この不動産王ときたら!! 

「これなら、敵味方あわせて絶対誰も思いつかんと思ったのになあ…。手配が大変だったんじゃぞォー!?」

「ああァん! 私は回避したと思ってたんだよォー!」

「回避ってお前、わしは思いついてから、誰にも内緒で…」

「そーじゃない! そーじゃないんだ! わかった、説明する」

 千時はジョセフの隣まで行って、全員を見回した。

「旅の最初で、海の敵に三度遭遇するって言ったの覚えてる人ー」

「何の話だ?」

 きょとんとしたのはポルナレフ。

「あーそうだ…。そうか。そうだよ! ポルナレフが悪い!!」

「えっ!? なんッ、急に何だ!?」

「だいたい全部ポルナレフが悪かったの! 元の話では!」

「ハァ!? なんで!? よくわかんねえ濡れ衣着せんなよオ!」

「インドのポルナレフのせいで潜水艦が準備され…やめよう。ごめん。いやちょっともう、まさかこの流れで潜水艦買っちゃうとは思わなくて…」

 もう一度、頭を抱えて、千時は最後の敵の事を思い返した。

 ハイプリエステス。これは最終2話の事だから、ちゃんと頭に残っている。

 …船ひっくり返されるのと、潜水艦で溺れかけるの、どっちがマシだったかなあ。

 千時は船の向かう小島を眺めた。

 


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