夕日が窓から差し込む病室で、シイはうっすらと目を開けた。
(ここ……何処だろ……)
薬の副作用で頭がズッシリと重く感じられ、意識がぼやける。身体を動かしてみようとするが、何とも言えない倦怠感が全身を包んでいた。
それでもどうにか上半身を起こしてみると、自分がまた病室で寝ていたのだと理解出来た。
(私は……出撃して……それで……)
身体を動かしたお陰か、徐々に頭にかかった靄が薄れていく。混乱する記憶を整理しようとしていると、不意に病室のドアが開いた。
「……起きたのね」
入室してきたレイは、シイの目覚めにさほど驚いた様子を見せずに呟くと、小さなワゴンを押しながらゆっくりとベッドに近づいてくる。
「綾波さん?」
「……そうよ。目が見えていないの?」
「あ、ごめんなさい。少し混乱してて」
「そう、なら良かった」
レイは相変わらずの口調で言う。先の言葉も嫌味や皮肉ではなく、彼女なりにシイを心配しての事だった。いつも通りのレイにシイは少し安心すると、今の状況を尋ねてみる。
「ねえ綾波さん。私……どうなったの?」
「使徒の攻撃を受けた貴方は、ここで治療を受けていたわ」
ここ、と言うのはネルフの中央病院。ネルフの直轄医療機関とも呼べる存在で、潤沢な予算を贅沢に用いた結果、設備も人員も世界最高レベルを誇っている。
「そっか……私……負けたんだ……みんなを守れなかった……」
敗北の記憶はほとんど残っていない。実際シイは使徒の姿を目視する事も無く意識を失ったのだから。それでも後悔の念からか、シイの目にうっすらと涙が浮かぶ。
「あれは貴方の責任じゃ無いわ」
「でも」
「……葛城一尉からの伝言。
『シイちゃんごめんなさい。私のミスで貴方の命を危険に晒したわ。
謝っても許される事じゃ無いけど、それでもごめんなさい。
そして身勝手なお願いだけど、もう一度だけ私を信じて戦って欲しいの。
使徒を倒すため、人類を守るため、貴方の力を貸して』……以上よ」
「…………」
レイの淡々とした口調でも、ミサトの気持ちは充分伝わった。
(私を必要としてくれてるんだ……もう一度あの使徒と……)
そう思った瞬間、シイの背筋がゾクリと凍る。表情が強張り、冷たい汗が全身に流れた。
(もう一度戦うの……あの使徒と……)
一瞬の出来事だったが、記憶には鮮明に残っている。身体には刻み込まれている。使徒の攻撃を受けた時の、強烈な胸の痛みと苦しさ、そしてハッキリと意識させられた死。
(戦わなきゃ……みんなを守るんだから)
心を奮い立たせようとする意思とは裏腹に、身体は拒否するように震えて止まらない。死の恐怖と向き合えと言うのは、十四才の少女にあまりに酷な話だった。
「……碇さん」
「な、何?」
「怖いのね」
レイにあっさりと恐怖を見抜かれシイは動揺する。
「だ、大丈夫。ちゃんと……戦え……るから」
それでも心配を掛けまいと無理矢理笑みを作るシイの手を、レイは無言で握る。小刻みに震える手が、隠しきれない恐怖を何より雄弁に語っていた。
「あ、綾波さん?」
突然の行動に戸惑うシイだが、不思議とその手の温もりに安心感を覚える。恐怖は未だ残っているが、それでも身体の震えは次第に和らいでいった。
「……怖いのなら、寝てても良いわ」
「で、でも」
「エヴァ一機でも、作戦は可能だから」
レイの言葉は嘘では無く、実際狙撃役が居ればヤシマ作戦は成立する。だがあくまで実施可能と言うだけで、使徒の反撃などを考えた場合、勝率と生存確率は大幅に低くなってしまう。
「作戦って?」
「葛城一尉発案の使徒狙撃作戦。ヤシマ作戦と呼称されているわ」
レイは握った手を離すと、メモを取りだし作戦概要とタイムスケジュールをシイに伝える。その規模はシイにとって信じられない物だった。
「日本中から電気を集めるなんて……出来るの?」
「ええ。葛城一尉や赤木博士が中心となって、作戦の準備は整っているわ」
「ミサトさんにリツコさんが?」
「それに、司令や副司令が日本政府と交渉して、全国停電の許可も下りてるわ」
「お父さんと冬月先生も……」
これだけ大規模な作戦だ。恐らくネルフスタッフ総動員で、作業を行っているのだろう。
全ては使徒を倒すために。エヴァを信じて。
「…………綾波さん、私もう一度やる」
「……そう」
「怖いけど……みんなが信じてくれてるんだもん。私もみんなを信じてみる」
シイは真っ直ぐにレイを見つめる。その瞳には強い意志が宿った様に見えた。何がシイを奮起させたのか、レイには理解出来ない。それでも戦えると言う以上、それを止める理由は無かった。
「……分かったわ」
「この後はケージに集合だよね? 一緒に行こう」
気合い十分と言った様子でシイはベッドから立ち上がり、出口に向かって歩き出す。そんな彼女にレイは背後から冷静に声を掛ける。
「……碇さん」
「何?」
「これ、新しいプラグスーツ」
振り返ったシイにレイはビニール袋に包まれた、新品のスーツを差し出す。一瞬首を傾げたシイだったが、直ぐに気づいた。自分が今、一糸まとわぬ姿だと言う事に。
「いやぁぁぁぁぁ」
絹を引き裂くようなシイの悲鳴が、ネルフ中央病院に響き渡った。
※
夕暮れの第一中学校屋上には、二年A組の生徒が勢揃いしていた。もう避難しなくてはいけない時間なのだが、彼らは何かを待っているようにそこを動こうとしない。
「ケンスケ、ほんまに来るんか?」
「間違いないよ。パパのデータを盗み見たんだから」
疑うような視線を向けるトウジに、自信満々と言った様子で答えるケンスケ。その揺るがぬ姿勢に、他の男子生徒達は文句を言いながらも誰一人屋上を離れる者は居なかった。
「ヒカリ、こんな感じでどう?」
「うん、良いと思う」
一方女子達は屋上の隅に固まって何やら作業をしている。彼女達はエヴァを見たいという好奇心が強い男子達とは違い、純粋にシイ達を応援したいと思っていた。
夕日が徐々に沈んでいくその時、屋上から少し離れた山が動き出す。山に偽装されたシャッターが開くと、そこから二体の巨人が姿を見せた。
「エヴァンゲリオンだぁ!!」
「「おぉぉぉ!!」」
カメラを向けながら叫ぶケンスケの声に、男子生徒から歓声が響く。
「格好いいな~」「でけ~」「強そう」
ゆっくりと歩き出すエヴァンゲリオンの姿に、男の子らしい感想があちこちから聞こえる。フィクションの世界でしか存在しなかった二足歩行の巨人が目の前に現れれば、興奮するのも当然だろう。
「お~い、エヴァンゲリオ~ン!!」
大きく手を振りながら叫ぶケンスケの呼びかけが聞こえたのか、初号機が顔を屋上に向けた。
「ヒカリ!」
「うん、みんな行くわよ」
待ってましたと女子達が動き出し、先程まで作っていたそれを広げる。
『綾波さん、碇さん、頑張ってね。二年A組一同』
彼女達が作っていたのは即席の横断幕であった。マジックで紙に書かれたシンプルなものであったが、応援する気持ちは伝わったのだろう。
初号機は歩みを止めると、身体を屋上に向けて丁寧にお辞儀をする。機密保持のために声を掛ける事の出来ないシイからの、せめてもの感謝の証であった。
「「碇ぃぃ、綾波ぃぃ、頑張れよぉぉ!!」」
「「頑張ってね」」
クラスメートからの声援を受けて、二機のエヴァは作戦ポイントへと向かうのだった。
※
すっかり日が沈んだ双子山山頂で、シイとレイはリツコ達から作戦の説明を受けていた。
「本作戦ではシイさんが初号機で砲手を、レイが零号機で防御を担当して貰うわ」
「わ、私が撃つんですか!?」
困ったようにシイは表情を曇らせる。真面目な彼女は定期訓練をサボる筈もなく、射撃訓練も幾度となく行っているが、毎回ミサトからお小言を貰うほど成績は悪かった。
シンクロ率以前に、戦うと言う行為自体がシイにとって不得手なのだ。
そんなシイの不安を察したのか、ミサトとリツコがフォローを入れる。
「それは問題ないわよ。今回の狙撃は機械が大部分をやってくれるから」
「だから大事なのは寧ろシンクロ率ね。その結果シイさんの方がレイよりも適任だと判断したわ」
「……分かりました。やってみます」
自信はないが、二人の判断に間違いは無いだろう。シイはコクリと頷いた。
「……私は初号機を守れば良いのね?」
「ええ。万が一初弾での狙撃が失敗した場合、使徒の反撃が予想されるわ。初号機が次の攻撃を行うまではおよそ二十秒掛かる。その間あの盾で使徒の攻撃を防いで」
「あんな凄い攻撃を防げるんですか?」
「理論上では十七秒間は耐えられる筈よ」
「凄いんですね…………って、駄目じゃないですか。三秒足りてませんよ」
感心し掛けたシイは、慌ててリツコに問いただす。
「そうね。だから二発目は考えずに、一撃で仕留めることだけを考えて」
「そ、そんな」
「……わかりました」
食い下がるシイを余所にレイは普段通りの様子で命令を受け入れると、そのままパイロットの待機場所へ移動していく。そのあまりに淡々とした姿に、シイは困惑の表情でレイの背中を見つめる。
「綾波さん……どうして」
「シイちゃんの事、信じてるからじゃない?」
ミサトの言葉に胸の鼓動が高まるのをシイは感じた。
『……信じてるから』
『……碇司令』
(綾波さんが、私を信じてくれてる……なら私は……)
暫しの沈黙の後、シイはミサトとリツコに小さく頷いて見せる。その瞳にはもう迷いは無い。信頼に応えてみせると言う強い意志が宿っていた。
一度殺されかけた相手と、間を置かずに再戦。誰だって怖いと思います。原作でシンジが嫌がったのも当然の反応です。
前向きに戦おうとするシイですが、根底にあるのは失う事への恐怖。人からの期待や興味、大切な人の命を失う事に過剰なほど怯えています。
一見精神的に強く見えますが、内面は非常に脆くて弱い子と思っています。
彼女の成長が鬱回避、しいてはハッピーエンドに欠かせない物です。
いよいよヤシマ作戦本番。
次回もまたお付き合い頂ければ幸いです。