~無邪気は時に残酷~
幼いシイと家事能力が欠如しているレイは、ネルフ本部の居住区画で一時的に暮らす事になった。食事は食堂、洗濯はランドリーがあるため、今の二人にとって大変都合の良い場所だったからだ。
(……朝ね)
ベッドが違っても、枕が変わっても、レイの体内時計は分単位で正確だった。目覚めたレイは身体を起こそうとして、ふと動きを止める。
そっと布団を捲ると、熟睡しているシイが自分の身体にしがみついていた。まるでコアラが木にしがみつく様に、小さな身体を目一杯に使って。
(……そう。まだ眠っていたいのね)
自分が動けばシイを起こしてしまうだろう。レイは小さく頷くと、身体を再びベッドに寝かせた。どうせこの状態では学校に登校する事も出来ない。焦って起きる必要は無いのだ。
シイの頭を優しく撫でながら、レイは人生初の二度寝を体験するのだった。
※
「へぇ~、碇達は病欠なのか」
「あ、ああ。そ~みたいやで」
「心配ね。シイちゃん達のご両親、今はドイツに出張してるんでしょ?」
「そら大丈夫や。二人揃って、本部の病院で面倒みて貰うとるからな」
第一中学校の教室でトウジは冷や汗を流しながら、ケンスケとヒカリへ事情を説明する。勿論シイが縮んだなど言える訳も無く、風邪だと誤魔化してだが。
「お見舞いは迷惑かな?」
「うつると不味いさかい、ここは治るのを待った方がええやろ」
「……なんかトウジにしては、随分と冷静だよね」
「そ、そない事無い。わしはいつも通りや」
眼鏡を光らせて探りを入れるケンスケを、トウジは乾いた笑いで誤魔化す。仮にケンスケとヒカリが真実を知ったとしても、気軽に口外するとは思っていない。だが情報は何処から漏れるか予測出来ない物だ。
事態を内々に片付けたいネルフは箝口令を敷き、鉄壁の情報規制を行っていた。
(絶対に知られたらあかん。万が一ユイさんにばれたら……ネルフが終わるで)
トウジは友人と恋人に後ろめたさを感じながらも、全力で情報を守り通すのだった。
※
ネルフ本部の食堂は二十四時間、年中無休で営業している。福利厚生の一環で価格も大分低めに設定されているので、多くの職員達が利用していた。
今この時間も、朝食を食べている職員の姿がちらほら見えるのだが、彼らは揃って視線をあるテーブルへと向けている。彼らの視線の先では、シイとレイが並んで食事を食べていた。
「えへへ~おいし~ね」
「……そうね」
小さな右手でスプーンを握り、幸せそうな笑顔でオムライスを食べるシイ。ケチャップで汚れた彼女の口元を、ハンカチで丁寧に拭いてあげるレイ。
まるで親子の様な光景に、職員達は朝から幸せな気分で満たされていた。
「れいにもあげりゅ。あ~ん」
「…………」
オムライスが乗ったスプーンを口元に差し出され、レイは悩む。素直に食べたいのが本心だが、これだけの職員が見つめる中、あーんをされるのは流石に気恥ずかしい。
だがシイはレイのそんな悩みを知るよしも無く、ニコニコと笑顔でスプーンを伸ばし続けている。そんな姿を見てしまっては、もう断る事など出来はしなかった。
「……あーん」
「ね~おいしーれしょ」
「……そうね。美味しいわ」
自分が褒められた様に喜ぶシイの頭を、レイはありがとうと言いながら優しく撫でる。そんな二人の姿を職員達は笑顔で見守りつつ、そっとカメラに収めるのだった。
お腹一杯になったシイは、レイと共にネルフ本部を散策することにした。今のシイにはネルフ本部は興味深い場所なのだろう。目を輝かせながらキョロキョロと視線を動かしている。
「……何処か行きたい所はある?」
「ね~れい、ふゆちゅきてんて~はどこ?」
真っ先に冬月の名が出た事に驚きつつも、レイは事前に聞いていた冬月の予定を答える。
「……副司令は今、会議中だと思うわ」
「かいぎ?」
「……ええ。複数の人が集まって、色々な事を話し合うの」
レイの説明にシイは目を輝かせる。
「かいぎ~。しいもかいぎしゅる~」
「で、でも……」
「かいぎ~かいぎ~」
小さな手足をじたばたとさせ駄々をこねるシイに、レイは困ってしまう。子供の扱いに慣れていない彼女は、シイを宥める術も、戒める術も持ち合わせていなかった。
※
暗闇の会議室では、冬月とゼーレによる会議が行われていた。ゲンドウが出張中の今、こうした業務は全て冬月が取り仕切っている。
シイが絡まなければ優秀な彼は、膨大な仕事を滞ること無く捌いていった。
「では予算案は以前の物で?」
「ああ。流石は冬月先生だ。修正点がほとんど無い」
キールの口から賞賛の言葉が紡がれる。組織の解体と新組織の立ち上げ、予算案の作成は困難を極めると思われていたが、冬月が纏めたそれは文句のつけようが無い出来だった。
「左様。碇君にも見習って欲しいものだね」
「全くだ。あの男ときたら、無愛想で無口で……」
予定されていた議題が全て片付いた事もあってか、ゼーレの面々はゲンドウの愚痴を言い始める。組織としては和解したが、反目し合っていた人間達が直ぐに仲良くなれるわけでも無い。
とは言え以前の様な険悪な感じでは無いので、冬月は頑固な男達に苦笑を漏らす。
「ところで顔色が悪いようだが……大丈夫か?」
「ええ、少々貧血気味でして」
「それは心配だ。今貴方に倒れられる訳にはいかないからな」
「良い医者を紹介しようか?」
「お気遣いは無用ですよ。一時的な物ですから」
流石に鼻血による出血多量とは言えず、冬月は愛想笑いで誤魔化した。
「では碇が戻ったら、再度会議を行おう」
「伝えておきますよ。では」
「「全てはゼーゲンのた――」」
「ふゆちゅきてんて~。み~ちゅけた~」
終了の決め台詞を言い終わる前に、会議室に小さな乱入者が現れた。それは冬月にとって一番会いたくて、しかしこの場では一番会いたくない少女、碇シイであった。
「ど、どうしてここに!?」
「えへへ~」
立ち上がった冬月の足にシイが抱きつく。一方ゼーレの面々は、突然の乱入者に呆気にとられて言葉を失う。この会議室に入れる存在は、極限られた人間だけなのだから。
「ふ、冬月先生。その子供は一体?」
「この場に来られると言う事は、ネルフ関係者の子供かね?」
「しかし何と言うか……随分と可愛らしい子だ」
「……ちょっと待て。その子供、見覚えが……」
キールはバイザーで隠された目をこらすように、シイをじっと見つめる。そんなキールの視線に気づいたのか、シイはキールに顔を向けてニッコリと笑いかけた。
少女が宿す面影。普通の子供なら怖がる自分にも、全く動じずに笑いかける肝の据わり方。キールの脳裏に、かつての記憶が蘇ってきた。
「冬月先生。まさかとは思うが、この子供は……」
「碇家と付き合いのあったキール議長なら、気づくと思っておりました」
「……碇シイ、なのか?」
「あい。はりめましれ。いかりしいれす」
ぺこりと可愛らしくお辞儀するシイに、ゼーレの面々は完全に言葉を失った。
冬月と後れて入室してきたレイから事情を聞いたゼーレは、怒りを露わにする。だがそれは監督不行届のネルフへではなく、自分達へ向けられたものだった。
「何故だ! 何故立体映像なのだ、我らは!」
「この手で、この手で触れる事すら叶わぬとは……」
「しゅごい。ねえれい、しゅごいよ。ほら」
嘆くゼーレの面々の身体を、シイが心底楽しそうにすり抜けていく。まるでおもちゃを見つけた子供のように、無邪気に会議室を駆け回る姿を見て、キールは真剣な声色で冬月に告げる。
「冬月先生……私から言える事はただ一つだ」
「何ですかな?」
「くれぐれもユイに悟られるな。あれは娘を守る為なら、何でも出来る強い女だ」
「……肝に銘じておきますよ」
言われるまでも無い。冬月が一番に恐れている事は、まさにそれなのだから。
「……シイさん、会議は終わりよ。行きましょ」
「は~い。おもしりょいおじ~ちゃんたち、ばいば~い」
「「またね~シイちゃん」」
すっかり好々爺と化したゼーレの面々は、気持ち悪いほどさわやかな笑顔でシイを見送るのだった。
続いてシイとレイがやってきたのは発令所だった。
「……ここがネルフ本部第一発令所よ」
「うわぁ~、おっき~」
戦艦の艦橋の様な発令所に、シイは興奮した様子で目を輝かせる。ただここは落下の危険性があるため、レイが小さな手を繋いでシイが駆け出すのを止めていた。
「「シイちゃん!?」」
予期せぬ来訪者にスタッフ達は思わず作業の手を止めて、シイへ視線を集中させる。そして満面の笑みを浮かべているシイの姿に、だらしなく頬を緩めるのだった。
子供服を着てはしゃぐシイを、ある者はカメラに、ある者は肉眼に、またある者は心のフィルムに焼き付けようと、全力でシイの姿を捉える。
「シイちゃん、レイ、どうしたの?」
「……本部の散策です。外出は危険ですので」
「まや~」
「はぁ、シイちゃん。良いわ。凄く良い」
マヤは危ない人のように呟きながら、シイの小さな身体を包み込むように堪能する。普段なら止めに入るレイだが、今のシイの前では物理的な手段を取ることは出来ない。
シイのほっぺに頬ずりするマヤを、青葉と日向と同じく羨ましそうに見つめるしか無かった。
「おいおい伊吹。今は業務中だぞ」
「あ、はい……」
日向に注意されて、マヤはしぶしぶシイから身体を離す。残念ながら日向の言葉は正しく、マヤもリツコの業務補助と言う立場から多忙な身でもあった。
「ごめんね、シイちゃん。また後で、たっぷりギュッとさせて」
「うん。おしゅごとがんらって」
シイに応援されたマヤは気合い十分で作業を再開する。リツコ直伝の高速タイピングに、シイは大きく目を見開いて感動していた。
「しゅごい、まやしゅごい」
「そ、そうかな?」
「ゆび、みえないもん。かっこい~」
「うふふ……」
頬を染めたマヤは、過去最高速度で仕事を片っ端から終わらせていった。
「んん~?」
「な、何かな?」
不意に足下に近づいてきたシイに、青葉は動揺を隠しながら尋ねる。
「あおびゃしゃん、おとこのひろらよね?」
「ああ、そうだぞ」
「なのに、ろ~しれかみがなぎゃいの?」
「ぐっ!?」
無邪気な一言が青葉の心に突き刺さる。バンドをやっている彼にとって、長髪もファッションの一つだった。ただそれを冷静に聞かれてしまうと、流石にダメージは大きい。
「こ、これはね、ファッションなんだ」
「ひゃっしょん?」
理解出来ないと首を傾げるシイに、レイがそっとフォローを入れる。
「……シイさん。この人は、これが格好いいと思っているのよ」
「れも、にあっれない」
「……シイさんは良い子よね? だから聞かないであげて」
「あい。しいいいこらもん。も~ききゃない」
「……もう大丈夫よ」
「だ、大丈夫じゃない……」
ざっくりと心を抉られた青葉は、力なく肩を落として心の中で泣いた。
「んん~?」
「こ、今度は俺か」
傷心の青葉から離れたシイは、次なるターゲットに日向を選んだ。戦々恐々とする彼に、シイはくりっとした瞳を向けたまま動かない。
「な、何かな?」
「ね~れい。ひゅーぎゃしゃんのかお、なにかありゅよ?」
「……それは眼鏡よ。視力を矯正しているの」
「めぎゃね?」
「あ、ああ。そうか。シイちゃんは眼鏡が珍しいんだね」
シイと親しいネルフ関係者で、眼鏡を掛けているのはゲンドウと日向、そしてリツコの三名だけ。ただリツコは普段は外しており、ゲンドウもサングラスなので、厳密には日向一人と言えるだろう。
子供にとっては物珍しいのだろう、と日向は苦笑しながら眼鏡をそっと外す。
「僕は目が悪いんだ。遠くの物が良く見えないから、これを着けて見えるようにしてるんだよ」
「へ~」
優しく微笑みながら説明する日向に、シイは納得の声を漏らす。本当に理解出来ているかは不明だが、少なくともシイは今の説明に満足したようだ。
「何なら着けてみるかい?」
「あい」
日向は自分の眼鏡をそっとシイ顔にかけてあげた。サイズが合わないので、シイはずり落ちないように両手でフレームを押さえる。
「わ、わわわ」
レンズ越しの世界は酷く歪んでおり、自分が真っ直ぐ立っているのかすら分からない。平衡感覚を失ったシイの足下は、酔っ払いのようにふらふらと頼りなく彷徨う。
「お、おい、大丈夫かい?」
「めぎゃまわりゅ」
目を回してしまったシイは大きく身体をふらつせて、オペレーター席の縁にぶつかってしまう。その衝撃でシイの顔から外れた日向の眼鏡が、ふわりと宙に舞って下の区画へと落ちていく。
クリアになったシイの視界に、ハッキリと落下する眼鏡が映った。
「らめ! それひゅーぎゃしゃんの~」
「「シイちゃん! 駄目!!」」
縁から身を乗り出して眼鏡へ手を伸ばすシイに、青ざめたレイ達が一斉に駆け寄る。だがシイの小さな身体は鉄棒の前回りの様に、ぐるっと回って縁の外へと舞い上がる。
レイが必死に伸ばした手は僅かに届かず、シイの身体は重力に引かれて落下していった。
誰のものか分からぬ絶叫が発令所に響く。この高さから落下すれば、間違い無く命を失ってしまうだろう。最悪の事態を想像してしまい、スタッフ達は思わず目を閉じる。
だがどれだけ待っても、シイが床に叩き付けられる音は聞こえなかった。恐る恐るスタッフ達が目を開くと、そこにはシイを抱き留めて宙に浮かぶ、カヲルの姿があった。
「ふふ、間一髪だね」
「ふあ~、しい、とんでりゅの?」
「そうだよ。全く君は……怖い物知らずも程々にしないとね」
カヲルは優しく微笑むと、シイを抱えたままオペレーター席へと舞い降りる。その姿はまさに使徒、天使に相応しい神々しさに満ちあふれていた。
「レイ、君はシイさんの保護者だろ? 目を離しちゃ駄目じゃ無いか」
「……ごめんなさい」
「まあそのお陰で、僕は可愛いお嬢さんを胸に抱けた訳だし、結果オーライかな」
シイを愛おしげに抱くカヲル。いつもなら直ぐに物理的制裁を加えるのだが、シイの命を救って貰ったのは確かなので、レイは何も言えなかった。
発令所に安堵のため息が漏れる中、突然警報が鳴り響く。一体何事かとスタッフ達は緊張した面持ちで配置に着くが、原因を知って思い切り脱力した。
「あ、パターン青。使徒です」
「ああ、僕だね」
使徒としての力を使った為に、探知機に引っかかってしまったのだろう。マヤが手早く端末を操作すると、警報は直ぐさま鳴り止んだ。
「しとっれな~に?」
「人間じゃ無い生き物さ。僕はヒトじゃないんだ。怖いかい?」
「ううん、じぇんじぇん。らって、きゃをるはきゃをるらもん」
幼くなってもシイはシイだった。首に手を回してしがみつくシイに、カヲルは心から感謝した。
「ねえシイさん。君は好きな人がいるかい?」
「みんなしゅき~」
「それは、僕も入ってるのかな?」
「うん」
「ふふ、ならシイさん。僕と結婚しようか」
とんでもない爆弾発言をするカヲルに、発令所の空気がざわつく。だがシイには意味が分からなかったのか、きょとんと首を傾げるだけ。
「けっきょんっれな~に?」
「好きな人と、ずっと一緒に居ようって誓う事さ」
「うん。しい、きゃをるろけっきょんしゅ――」
シイの言葉は最後まで発せられる事は無かった。何時の間にかカヲルに接近していたレイが、そっとシイの口元を押さえたからだ。
レイはそのままカヲルからシイを奪い返すと、その身柄をマヤに預ける。そしてカヲルの襟首を掴むと、有無を言わせず発令所の外へと引きずって行った。
「渚……勇者だよな」
「ああなるって、分かっててもやる。俺たちに出来ない事を、な」
学習能力が無いとは言わない。青葉と日向は、カヲルの姿に尊敬の念すら抱いていた。
「まや~。れいときゃをる、ろ~しらの?」
「ちょっとお話があるみたいなの。そうだシイちゃん、お菓子食べましょうか」
「うん。たべりゅ~」
その直後、発令所の外から壮絶な破壊音が聞こえたが、お菓子に夢中なシイの耳には届かなかった。数分後に戻ってきたレイはシイに、カヲルは遠いところにお出かけしたとだけ伝え、二人揃って発令所を後にする。
大好きなレイと一日中一緒に遊べたシイは、満足気な笑みを浮かべながら眠りに落ちるのだった。
※
「……気持ちは分かります。しかし母を求める娘の気持ちも、どうか分かって欲しい」
ドイツ支部の会議室で、ゲンドウは居並ぶ支部職員を前に説得を続ける。会議が始まってから十数時間、既にサルベージ反対派は支部長一人となっていた。
「だが、万が一失敗した時はどうなる? 我々からキョウコ君を奪うつもりか」
「では貴方はツェッペリン博士に、今のまま一生を終えろと仰るのですか?」
立場こそ総司令であったゲンドウの方が上だが、年齢は相手の方が上。ゲンドウはあえて威圧的には出ず、同じ目線で説得を行っていた。
「そうではない。もっと安全な方法が見つかるまで、待つのが得策では無いかと言っているのだ」
「問題の先延ばしに過ぎません。時間を掛けるほど状況は悪くなるのです」
平和な世界にエヴァは必要無い。今後エヴァに関する予算は減る一方だろう。そうなればサルベージの研究は縮小されるだろうし、安全な方法が見つかる保証も無い。先延ばしのメリットはゼロに等しかった。
「支部長。もう覚悟を決める時では?」
「馬鹿な! 君はキョウコ君を失っても良いと言うのかね」
「自分達は……もう一度会いたいのです。あの惣流博士に……あの女神の様な微笑みが見たいのです」
職員を代表して立ち上がった男の言葉に、会議室の面々は一斉に頷く。自分以外の全員がサルベージに賛成だと知り困惑する支部長に、ゲンドウが呟く。
「時計の針は元には戻せません。どれだけ悔やんでも、やり直しは出来ないのです」
「分かっている。だからもし失敗したら――」
「しかし、刻むのを止めてしまった時計の針を、再び刻ませる事は出来ます」
「…………」
「あの時から止まった彼女の時間。もう動かしてあげても良いのでは無いですか?」
ゲンドウの言葉を聞いた支部長は、目を閉じて黙り込んでしまう。
彼はまだ学生だったキョウコの才を見抜き、ゲヒルンに引き込んだ張本人。上司として、親代わりとして、ずっと面倒を見てきたのだ。サルベージを誰よりも望んでいるが、誰よりも失敗を恐れてもいる。
長い沈黙の後、支部長はそっと目を開けた。
「……必ず成功させろとは言わん。ただ、全力を尽くしてくれ」
「勿論です。本部の総力をサルベージに注ぐ事を、お約束します」
「キョウコを……頼む」
最後に零れた親代わりとしての言葉に、ゲンドウは力強く頷いて答えるのだった。
日付が変わってからホテルに戻ったゲンドウの顔を見て、ユイは説得の成功を確信する。
「お帰りなさい、あなた。上手くいったのね?」
「……ああ。結局は全員が、ツェッペリン博士のサルベージを望んでいたからな」
ゲンドウはジャケットを脱ぐと、大きく息を吐きながら椅子に腰掛ける。大きな仕事を成し遂げた達成感と同時に、気が緩んだせいか疲労感までもが押し寄せてきた。
「今日はもう休んで下さい。日本へは明日発つのでしょう?」
「ああ。ツェッペリン博士の体調を見て、恐らく明日夕刻の出発になる」
「ならシイとレイのお土産を買う時間はありそうですわね」
「……長く家を空けてしまったからな。少し奮発するとしよう」
遠く離れた日本で、自分達の帰りを待っているであろう娘達を思い浮かべ、ゲンドウは優しく笑う。他の人には決して見せない、ユイだけが知っているゲンドウの素顔だった。
「さああなた。お風呂は明日の朝にして、今日はもう休みましょう」
「ああ……そうさせて貰う」
ユイに促されて寝室に移動し、ベッドに横になったゲンドウは、直ぐに深い眠りへと落ちていく。連日続いた会議に、本人が思っていた以上の疲労が溜まっていたのだろう。
「本当にお疲れ様、あなた」
サングラスを外してあげると、ユイは愛おしげにゲンドウの頬を撫でるのだった。
フィルムブックを見て、改めてオペレーター席が高い位置にあるなと思いました。原作でナオコが落下した時には即死とあったので、実はシイも相当危険な状態でしたね。
ドイツ第二支部とキョウコに関する設定は、全て作者が妄想で捏造したものです。この小説では……とご理解頂ければありがたいです。
次回もまたお付き合い頂ければ幸いです。