エヴァンゲリオンはじめました   作:タクチャン(仮)

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後日談《姉妹のネルフ散策》

 

~無邪気は時に残酷~

 

 

 幼いシイと家事能力が欠如しているレイは、ネルフ本部の居住区画で一時的に暮らす事になった。食事は食堂、洗濯はランドリーがあるため、今の二人にとって大変都合の良い場所だったからだ。

(……朝ね)

 ベッドが違っても、枕が変わっても、レイの体内時計は分単位で正確だった。目覚めたレイは身体を起こそうとして、ふと動きを止める。

 そっと布団を捲ると、熟睡しているシイが自分の身体にしがみついていた。まるでコアラが木にしがみつく様に、小さな身体を目一杯に使って。

(……そう。まだ眠っていたいのね)

 自分が動けばシイを起こしてしまうだろう。レイは小さく頷くと、身体を再びベッドに寝かせた。どうせこの状態では学校に登校する事も出来ない。焦って起きる必要は無いのだ。

 シイの頭を優しく撫でながら、レイは人生初の二度寝を体験するのだった。

 

 

「へぇ~、碇達は病欠なのか」

「あ、ああ。そ~みたいやで」

「心配ね。シイちゃん達のご両親、今はドイツに出張してるんでしょ?」

「そら大丈夫や。二人揃って、本部の病院で面倒みて貰うとるからな」

 第一中学校の教室でトウジは冷や汗を流しながら、ケンスケとヒカリへ事情を説明する。勿論シイが縮んだなど言える訳も無く、風邪だと誤魔化してだが。

「お見舞いは迷惑かな?」

「うつると不味いさかい、ここは治るのを待った方がええやろ」

「……なんかトウジにしては、随分と冷静だよね」

「そ、そない事無い。わしはいつも通りや」

 眼鏡を光らせて探りを入れるケンスケを、トウジは乾いた笑いで誤魔化す。仮にケンスケとヒカリが真実を知ったとしても、気軽に口外するとは思っていない。だが情報は何処から漏れるか予測出来ない物だ。

 事態を内々に片付けたいネルフは箝口令を敷き、鉄壁の情報規制を行っていた。

(絶対に知られたらあかん。万が一ユイさんにばれたら……ネルフが終わるで)

 トウジは友人と恋人に後ろめたさを感じながらも、全力で情報を守り通すのだった。

 

 

 ネルフ本部の食堂は二十四時間、年中無休で営業している。福利厚生の一環で価格も大分低めに設定されているので、多くの職員達が利用していた。

 今この時間も、朝食を食べている職員の姿がちらほら見えるのだが、彼らは揃って視線をあるテーブルへと向けている。彼らの視線の先では、シイとレイが並んで食事を食べていた。

「えへへ~おいし~ね」

「……そうね」

 小さな右手でスプーンを握り、幸せそうな笑顔でオムライスを食べるシイ。ケチャップで汚れた彼女の口元を、ハンカチで丁寧に拭いてあげるレイ。

 まるで親子の様な光景に、職員達は朝から幸せな気分で満たされていた。

「れいにもあげりゅ。あ~ん」

「…………」

 オムライスが乗ったスプーンを口元に差し出され、レイは悩む。素直に食べたいのが本心だが、これだけの職員が見つめる中、あーんをされるのは流石に気恥ずかしい。

 だがシイはレイのそんな悩みを知るよしも無く、ニコニコと笑顔でスプーンを伸ばし続けている。そんな姿を見てしまっては、もう断る事など出来はしなかった。

「……あーん」

「ね~おいしーれしょ」

「……そうね。美味しいわ」

 自分が褒められた様に喜ぶシイの頭を、レイはありがとうと言いながら優しく撫でる。そんな二人の姿を職員達は笑顔で見守りつつ、そっとカメラに収めるのだった。

 

 

 

 お腹一杯になったシイは、レイと共にネルフ本部を散策することにした。今のシイにはネルフ本部は興味深い場所なのだろう。目を輝かせながらキョロキョロと視線を動かしている。

「……何処か行きたい所はある?」

「ね~れい、ふゆちゅきてんて~はどこ?」

 真っ先に冬月の名が出た事に驚きつつも、レイは事前に聞いていた冬月の予定を答える。

「……副司令は今、会議中だと思うわ」

「かいぎ?」

「……ええ。複数の人が集まって、色々な事を話し合うの」

 レイの説明にシイは目を輝かせる。

「かいぎ~。しいもかいぎしゅる~」

「で、でも……」

「かいぎ~かいぎ~」

 小さな手足をじたばたとさせ駄々をこねるシイに、レイは困ってしまう。子供の扱いに慣れていない彼女は、シイを宥める術も、戒める術も持ち合わせていなかった。

 

 

 暗闇の会議室では、冬月とゼーレによる会議が行われていた。ゲンドウが出張中の今、こうした業務は全て冬月が取り仕切っている。

 シイが絡まなければ優秀な彼は、膨大な仕事を滞ること無く捌いていった。

「では予算案は以前の物で?」

「ああ。流石は冬月先生だ。修正点がほとんど無い」

 キールの口から賞賛の言葉が紡がれる。組織の解体と新組織の立ち上げ、予算案の作成は困難を極めると思われていたが、冬月が纏めたそれは文句のつけようが無い出来だった。

「左様。碇君にも見習って欲しいものだね」

「全くだ。あの男ときたら、無愛想で無口で……」

 予定されていた議題が全て片付いた事もあってか、ゼーレの面々はゲンドウの愚痴を言い始める。組織としては和解したが、反目し合っていた人間達が直ぐに仲良くなれるわけでも無い。

 とは言え以前の様な険悪な感じでは無いので、冬月は頑固な男達に苦笑を漏らす。

「ところで顔色が悪いようだが……大丈夫か?」

「ええ、少々貧血気味でして」

「それは心配だ。今貴方に倒れられる訳にはいかないからな」

「良い医者を紹介しようか?」

「お気遣いは無用ですよ。一時的な物ですから」

 流石に鼻血による出血多量とは言えず、冬月は愛想笑いで誤魔化した。

 

「では碇が戻ったら、再度会議を行おう」

「伝えておきますよ。では」

「「全てはゼーゲンのた――」」

「ふゆちゅきてんて~。み~ちゅけた~」

 終了の決め台詞を言い終わる前に、会議室に小さな乱入者が現れた。それは冬月にとって一番会いたくて、しかしこの場では一番会いたくない少女、碇シイであった。

「ど、どうしてここに!?」

「えへへ~」

 立ち上がった冬月の足にシイが抱きつく。一方ゼーレの面々は、突然の乱入者に呆気にとられて言葉を失う。この会議室に入れる存在は、極限られた人間だけなのだから。

「ふ、冬月先生。その子供は一体?」

「この場に来られると言う事は、ネルフ関係者の子供かね?」

「しかし何と言うか……随分と可愛らしい子だ」

「……ちょっと待て。その子供、見覚えが……」

 キールはバイザーで隠された目をこらすように、シイをじっと見つめる。そんなキールの視線に気づいたのか、シイはキールに顔を向けてニッコリと笑いかけた。

 少女が宿す面影。普通の子供なら怖がる自分にも、全く動じずに笑いかける肝の据わり方。キールの脳裏に、かつての記憶が蘇ってきた。

「冬月先生。まさかとは思うが、この子供は……」

「碇家と付き合いのあったキール議長なら、気づくと思っておりました」

「……碇シイ、なのか?」

「あい。はりめましれ。いかりしいれす」

 ぺこりと可愛らしくお辞儀するシイに、ゼーレの面々は完全に言葉を失った。

 

 冬月と後れて入室してきたレイから事情を聞いたゼーレは、怒りを露わにする。だがそれは監督不行届のネルフへではなく、自分達へ向けられたものだった。

「何故だ! 何故立体映像なのだ、我らは!」

「この手で、この手で触れる事すら叶わぬとは……」

「しゅごい。ねえれい、しゅごいよ。ほら」

 嘆くゼーレの面々の身体を、シイが心底楽しそうにすり抜けていく。まるでおもちゃを見つけた子供のように、無邪気に会議室を駆け回る姿を見て、キールは真剣な声色で冬月に告げる。

「冬月先生……私から言える事はただ一つだ」

「何ですかな?」

「くれぐれもユイに悟られるな。あれは娘を守る為なら、何でも出来る強い女だ」

「……肝に銘じておきますよ」

 言われるまでも無い。冬月が一番に恐れている事は、まさにそれなのだから。

「……シイさん、会議は終わりよ。行きましょ」

「は~い。おもしりょいおじ~ちゃんたち、ばいば~い」

「「またね~シイちゃん」」

 すっかり好々爺と化したゼーレの面々は、気持ち悪いほどさわやかな笑顔でシイを見送るのだった。

 

 

 続いてシイとレイがやってきたのは発令所だった。

「……ここがネルフ本部第一発令所よ」

「うわぁ~、おっき~」

 戦艦の艦橋の様な発令所に、シイは興奮した様子で目を輝かせる。ただここは落下の危険性があるため、レイが小さな手を繋いでシイが駆け出すのを止めていた。

「「シイちゃん!?」」

 予期せぬ来訪者にスタッフ達は思わず作業の手を止めて、シイへ視線を集中させる。そして満面の笑みを浮かべているシイの姿に、だらしなく頬を緩めるのだった。

 子供服を着てはしゃぐシイを、ある者はカメラに、ある者は肉眼に、またある者は心のフィルムに焼き付けようと、全力でシイの姿を捉える。

「シイちゃん、レイ、どうしたの?」

「……本部の散策です。外出は危険ですので」

「まや~」

「はぁ、シイちゃん。良いわ。凄く良い」

 マヤは危ない人のように呟きながら、シイの小さな身体を包み込むように堪能する。普段なら止めに入るレイだが、今のシイの前では物理的な手段を取ることは出来ない。

 シイのほっぺに頬ずりするマヤを、青葉と日向と同じく羨ましそうに見つめるしか無かった。

 

「おいおい伊吹。今は業務中だぞ」

「あ、はい……」

 日向に注意されて、マヤはしぶしぶシイから身体を離す。残念ながら日向の言葉は正しく、マヤもリツコの業務補助と言う立場から多忙な身でもあった。

「ごめんね、シイちゃん。また後で、たっぷりギュッとさせて」

「うん。おしゅごとがんらって」

 シイに応援されたマヤは気合い十分で作業を再開する。リツコ直伝の高速タイピングに、シイは大きく目を見開いて感動していた。

「しゅごい、まやしゅごい」

「そ、そうかな?」

「ゆび、みえないもん。かっこい~」

「うふふ……」

 頬を染めたマヤは、過去最高速度で仕事を片っ端から終わらせていった。

 

「んん~?」

「な、何かな?」

 不意に足下に近づいてきたシイに、青葉は動揺を隠しながら尋ねる。

「あおびゃしゃん、おとこのひろらよね?」

「ああ、そうだぞ」

「なのに、ろ~しれかみがなぎゃいの?」

「ぐっ!?」

 無邪気な一言が青葉の心に突き刺さる。バンドをやっている彼にとって、長髪もファッションの一つだった。ただそれを冷静に聞かれてしまうと、流石にダメージは大きい。

「こ、これはね、ファッションなんだ」

「ひゃっしょん?」

 理解出来ないと首を傾げるシイに、レイがそっとフォローを入れる。

「……シイさん。この人は、これが格好いいと思っているのよ」

「れも、にあっれない」

「……シイさんは良い子よね? だから聞かないであげて」

「あい。しいいいこらもん。も~ききゃない」

「……もう大丈夫よ」

「だ、大丈夫じゃない……」

 ざっくりと心を抉られた青葉は、力なく肩を落として心の中で泣いた。

 

「んん~?」

「こ、今度は俺か」

 傷心の青葉から離れたシイは、次なるターゲットに日向を選んだ。戦々恐々とする彼に、シイはくりっとした瞳を向けたまま動かない。

「な、何かな?」

「ね~れい。ひゅーぎゃしゃんのかお、なにかありゅよ?」

「……それは眼鏡よ。視力を矯正しているの」

「めぎゃね?」

「あ、ああ。そうか。シイちゃんは眼鏡が珍しいんだね」

 シイと親しいネルフ関係者で、眼鏡を掛けているのはゲンドウと日向、そしてリツコの三名だけ。ただリツコは普段は外しており、ゲンドウもサングラスなので、厳密には日向一人と言えるだろう。

 子供にとっては物珍しいのだろう、と日向は苦笑しながら眼鏡をそっと外す。

「僕は目が悪いんだ。遠くの物が良く見えないから、これを着けて見えるようにしてるんだよ」

「へ~」

 優しく微笑みながら説明する日向に、シイは納得の声を漏らす。本当に理解出来ているかは不明だが、少なくともシイは今の説明に満足したようだ。

「何なら着けてみるかい?」

「あい」

 日向は自分の眼鏡をそっとシイ顔にかけてあげた。サイズが合わないので、シイはずり落ちないように両手でフレームを押さえる。

「わ、わわわ」

 レンズ越しの世界は酷く歪んでおり、自分が真っ直ぐ立っているのかすら分からない。平衡感覚を失ったシイの足下は、酔っ払いのようにふらふらと頼りなく彷徨う。

「お、おい、大丈夫かい?」

「めぎゃまわりゅ」

 目を回してしまったシイは大きく身体をふらつせて、オペレーター席の縁にぶつかってしまう。その衝撃でシイの顔から外れた日向の眼鏡が、ふわりと宙に舞って下の区画へと落ちていく。

 クリアになったシイの視界に、ハッキリと落下する眼鏡が映った。

「らめ! それひゅーぎゃしゃんの~」

「「シイちゃん! 駄目!!」」

 縁から身を乗り出して眼鏡へ手を伸ばすシイに、青ざめたレイ達が一斉に駆け寄る。だがシイの小さな身体は鉄棒の前回りの様に、ぐるっと回って縁の外へと舞い上がる。

 レイが必死に伸ばした手は僅かに届かず、シイの身体は重力に引かれて落下していった。

 

 誰のものか分からぬ絶叫が発令所に響く。この高さから落下すれば、間違い無く命を失ってしまうだろう。最悪の事態を想像してしまい、スタッフ達は思わず目を閉じる。

 だがどれだけ待っても、シイが床に叩き付けられる音は聞こえなかった。恐る恐るスタッフ達が目を開くと、そこにはシイを抱き留めて宙に浮かぶ、カヲルの姿があった。

 

「ふふ、間一髪だね」

「ふあ~、しい、とんでりゅの?」

「そうだよ。全く君は……怖い物知らずも程々にしないとね」

 カヲルは優しく微笑むと、シイを抱えたままオペレーター席へと舞い降りる。その姿はまさに使徒、天使に相応しい神々しさに満ちあふれていた。

「レイ、君はシイさんの保護者だろ? 目を離しちゃ駄目じゃ無いか」

「……ごめんなさい」

「まあそのお陰で、僕は可愛いお嬢さんを胸に抱けた訳だし、結果オーライかな」

 シイを愛おしげに抱くカヲル。いつもなら直ぐに物理的制裁を加えるのだが、シイの命を救って貰ったのは確かなので、レイは何も言えなかった。

 発令所に安堵のため息が漏れる中、突然警報が鳴り響く。一体何事かとスタッフ達は緊張した面持ちで配置に着くが、原因を知って思い切り脱力した。

「あ、パターン青。使徒です」

「ああ、僕だね」

 使徒としての力を使った為に、探知機に引っかかってしまったのだろう。マヤが手早く端末を操作すると、警報は直ぐさま鳴り止んだ。

「しとっれな~に?」

「人間じゃ無い生き物さ。僕はヒトじゃないんだ。怖いかい?」

「ううん、じぇんじぇん。らって、きゃをるはきゃをるらもん」

 幼くなってもシイはシイだった。首に手を回してしがみつくシイに、カヲルは心から感謝した。

 

「ねえシイさん。君は好きな人がいるかい?」

「みんなしゅき~」

「それは、僕も入ってるのかな?」

「うん」

「ふふ、ならシイさん。僕と結婚しようか」

 とんでもない爆弾発言をするカヲルに、発令所の空気がざわつく。だがシイには意味が分からなかったのか、きょとんと首を傾げるだけ。

「けっきょんっれな~に?」

「好きな人と、ずっと一緒に居ようって誓う事さ」

「うん。しい、きゃをるろけっきょんしゅ――」

 シイの言葉は最後まで発せられる事は無かった。何時の間にかカヲルに接近していたレイが、そっとシイの口元を押さえたからだ。

 レイはそのままカヲルからシイを奪い返すと、その身柄をマヤに預ける。そしてカヲルの襟首を掴むと、有無を言わせず発令所の外へと引きずって行った。

 

「渚……勇者だよな」

「ああなるって、分かっててもやる。俺たちに出来ない事を、な」

 学習能力が無いとは言わない。青葉と日向は、カヲルの姿に尊敬の念すら抱いていた。

「まや~。れいときゃをる、ろ~しらの?」

「ちょっとお話があるみたいなの。そうだシイちゃん、お菓子食べましょうか」

「うん。たべりゅ~」

 その直後、発令所の外から壮絶な破壊音が聞こえたが、お菓子に夢中なシイの耳には届かなかった。数分後に戻ってきたレイはシイに、カヲルは遠いところにお出かけしたとだけ伝え、二人揃って発令所を後にする。

 

 大好きなレイと一日中一緒に遊べたシイは、満足気な笑みを浮かべながら眠りに落ちるのだった。

 

 

 

「……気持ちは分かります。しかし母を求める娘の気持ちも、どうか分かって欲しい」

 ドイツ支部の会議室で、ゲンドウは居並ぶ支部職員を前に説得を続ける。会議が始まってから十数時間、既にサルベージ反対派は支部長一人となっていた。

「だが、万が一失敗した時はどうなる? 我々からキョウコ君を奪うつもりか」

「では貴方はツェッペリン博士に、今のまま一生を終えろと仰るのですか?」

 立場こそ総司令であったゲンドウの方が上だが、年齢は相手の方が上。ゲンドウはあえて威圧的には出ず、同じ目線で説得を行っていた。

「そうではない。もっと安全な方法が見つかるまで、待つのが得策では無いかと言っているのだ」

「問題の先延ばしに過ぎません。時間を掛けるほど状況は悪くなるのです」

 平和な世界にエヴァは必要無い。今後エヴァに関する予算は減る一方だろう。そうなればサルベージの研究は縮小されるだろうし、安全な方法が見つかる保証も無い。先延ばしのメリットはゼロに等しかった。

 

「支部長。もう覚悟を決める時では?」

「馬鹿な! 君はキョウコ君を失っても良いと言うのかね」

「自分達は……もう一度会いたいのです。あの惣流博士に……あの女神の様な微笑みが見たいのです」

 職員を代表して立ち上がった男の言葉に、会議室の面々は一斉に頷く。自分以外の全員がサルベージに賛成だと知り困惑する支部長に、ゲンドウが呟く。

「時計の針は元には戻せません。どれだけ悔やんでも、やり直しは出来ないのです」

「分かっている。だからもし失敗したら――」

「しかし、刻むのを止めてしまった時計の針を、再び刻ませる事は出来ます」

「…………」

「あの時から止まった彼女の時間。もう動かしてあげても良いのでは無いですか?」

 ゲンドウの言葉を聞いた支部長は、目を閉じて黙り込んでしまう。

 彼はまだ学生だったキョウコの才を見抜き、ゲヒルンに引き込んだ張本人。上司として、親代わりとして、ずっと面倒を見てきたのだ。サルベージを誰よりも望んでいるが、誰よりも失敗を恐れてもいる。

 

 長い沈黙の後、支部長はそっと目を開けた。

「……必ず成功させろとは言わん。ただ、全力を尽くしてくれ」

「勿論です。本部の総力をサルベージに注ぐ事を、お約束します」

「キョウコを……頼む」

 最後に零れた親代わりとしての言葉に、ゲンドウは力強く頷いて答えるのだった。 

 

 

 日付が変わってからホテルに戻ったゲンドウの顔を見て、ユイは説得の成功を確信する。

「お帰りなさい、あなた。上手くいったのね?」

「……ああ。結局は全員が、ツェッペリン博士のサルベージを望んでいたからな」

 ゲンドウはジャケットを脱ぐと、大きく息を吐きながら椅子に腰掛ける。大きな仕事を成し遂げた達成感と同時に、気が緩んだせいか疲労感までもが押し寄せてきた。

「今日はもう休んで下さい。日本へは明日発つのでしょう?」

「ああ。ツェッペリン博士の体調を見て、恐らく明日夕刻の出発になる」

「ならシイとレイのお土産を買う時間はありそうですわね」

「……長く家を空けてしまったからな。少し奮発するとしよう」

 遠く離れた日本で、自分達の帰りを待っているであろう娘達を思い浮かべ、ゲンドウは優しく笑う。他の人には決して見せない、ユイだけが知っているゲンドウの素顔だった。

「さああなた。お風呂は明日の朝にして、今日はもう休みましょう」

「ああ……そうさせて貰う」

 ユイに促されて寝室に移動し、ベッドに横になったゲンドウは、直ぐに深い眠りへと落ちていく。連日続いた会議に、本人が思っていた以上の疲労が溜まっていたのだろう。

「本当にお疲れ様、あなた」

 サングラスを外してあげると、ユイは愛おしげにゲンドウの頬を撫でるのだった。

 

 




フィルムブックを見て、改めてオペレーター席が高い位置にあるなと思いました。原作でナオコが落下した時には即死とあったので、実はシイも相当危険な状態でしたね。

ドイツ第二支部とキョウコに関する設定は、全て作者が妄想で捏造したものです。この小説では……とご理解頂ければありがたいです。

次回もまたお付き合い頂ければ幸いです。

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