~はじまり~
それは碇家が四人揃って夕食を食べている時の事だった。
「え? お父さんとお母さん、明日からドイツに行くの?」
「……ああ」
「お仕事でね。多分一週間くらい掛かってしまうと思うわ」
ネルフに復帰したユイは、ゲンドウと冬月の補佐を行っている。秘書のような役回りなのだが、彼女が二人を動かしているのではと思われてしまう程、ユイの仕事ぶりは見事であった。
そんなユイとゲンドウが揃ってドイツに出張する。重大な仕事だと察したシイは眉をひそめる。
「大丈夫……だよね?」
「ああ。心配は無用だ。ネルフのドイツ支部で、少々会議に出席するだけだからな」
「その間、二人きりになってしまうけど……」
子供だけを残していく事に、申し訳なさそうな顔を見せるユイ。
「……問題ありません」
「うん。ちゃんと家事も出来るし、大丈夫だよ」
両親を心配させまいと、シイは両手をぐっと握って問題ないとアピールする。大切な仕事だと理解している以上、足手まといにはなりたくなかった。
それにレイが居てくれるので、前のように孤独に悩む心配も無い。
「ごめんね、シイ、レイ。お土産一杯買って来るから」
「ううん、気にしないで。お父さんとお母さんが、無事帰ってきてくれるのが、一番嬉しいから」
「も~シイったら~」
「うぅぅ、お母さん苦しい……」
感極まったユイは、シイを思い切り抱きしめる。ユイの胸に顔が埋まり、呼吸が出来ないシイは手足をバタバタさせるが、テンションがあがりきったユイは力を緩めない。
「……羨ましい」
「……ああ」
「もがもがもご」
結局シイはユイが満足しきるまで、解放される事は無かった。
翌日シイが目覚めると、既にユイとゲンドウの姿は無かった。早朝にネルフ本部へ向かい、そこからドイツに飛ぶと言っていたので驚きはしない。
だが一人で立つ台所がこんなに静かだったのかと、シイは寂しさを感じずには居られなかった。朝食の支度に手をつけず、立ち尽くすシイ。
そんな彼女の腰に、いつの間にか背後に立っていたレイが無言で手を回した。
「えっ。あ、綾波さん!?」
「……いいえ、違うわ」
否定されて一瞬戸惑ったシイだが、直ぐに自らの間違いに気づく。
「そ、そうだった。えっと、レイさん……今日は早いんだね?」
「……寂しいと思ったから」
「レイさんも寂しいの?」
「いいえ。貴方が」
短い言葉だったが、レイが普段よりも早く起きてきたのも、こうして抱きしめてくれているのも、全て自分の為だとシイは理解した。
そう、今の自分は一人ではない。碇レイという優しい姉の様な妹がいるのだ。改めてレイの気配りに感謝したシイは、振り返ってレイに頭を下げる。
「ありがとう、レイさん」
「……もういいの?」
「うん、大丈夫。だってレイさんも一緒だもん」
「……そう、良かったわね」
シイの顔に笑顔が戻ったのを確認して、レイは小さく頷く。共に暮らすようになってまだ日は浅いが、碇姉妹の絆は確かなものになっていた。
「……シイさん、今日はどうするの?」
朝食を終えて洗い物をしているシイに、レイが緑茶を啜りながら尋ねる。今日が土曜日で学校が休みだから、予定はあるのかと。
「そうだね~。お掃除して、お布団も干して、それから……」
「……家からは出ないの?」
家事で一日を潰す気満々のシイに、レイは再度問いかける。
「お買い物には行くよ。タイムセールを狙うから、行くのは夕方かな」
「そうじゃなくて……」
「ん?」
何かを言いたそうにしているレイに、シイは首をかしげる。だがレイはそれっきり黙ってしまい、シイが問い返すべきか悩んでいると、
「ふふ、素直じゃないね」
不意にベランダから少年の声が聞こえてきた。
二人きりの家にありえない第三者の声に、シイとレイは目を見開いて窓を開ける。するとそこには、爽やかな笑顔を浮かべたカヲルが立っていた。
「か、カヲル君!?」
「やあシイさん。それにレイ。おはよう」
ベランダからの登場というサプライズに驚くシイに、カヲルは平然と挨拶をする。そんな彼にレイは警戒心を露わにして鋭い視線を向けた。
「……何しに来たの?」
「それよりも、どうやって来たの? ここ六階だよ?」
「ふふ、大した事じゃないさ。君に会うためなら、僕はどんな障害だって乗り越えて見せるよ」
驚くシイの疑問には答えず、カヲルは相変わらず芝居がかった動作で一礼してみせる。それが一層レイを不機嫌にさせてしまう。
「……不法侵入には、実力行使が認められているわ」
「やれやれ、つれないね」
取り付く島も無いレイに、カヲルは大げさに肩をすくめる。
「……本当は何の用で来たの?」
「今日は学校が休みだろ? だからシイさんをデートに誘おうと思ってね」
カヲルはシイに近づくと、自然な動作でその手をとる。そのまま手の甲にキスでもしそうな勢いだったが、流石にレイの手前それは自重したようだ。
「どうかな? 僕と遊びに行かないかい?」
「……駄目」
「ふふ、君はシイさんの妹だけど、お姉さんのデートを邪魔する権利はないよね?」
「それは……はっ!?」
「ご明察。碇夫妻が不在。このチャンスを逃すほど、僕は呆けていないさ」
カヲルはシイを狙う危険人物として、ゲンドウとユイから厳重マークを受けていた。二人の目が届かない登下校や学校でも、レイが常にそばに居るため、これまでは沈黙を守るしかなかった。
だが最大の敵は既にドイツへと発った。残る障害はレイしか居ない。
「僕だけじゃ無い。この機会を待っていた狼達は、こぞって動き出すだろう」
「狼さん?」
「……大丈夫よシイさん。私が守るもの」
「君一人でかい? それは厳しいと思うけどね」
カヲルの言葉にレイの表情が険しくなる。絶対的な抑止力を失った以上、どれ程の狼が現れるのか検討もつかない。冷や汗がそっとレイの頬を流れた。
「そこで提案だけど。僕とシイさん、そして君で遊びにいかないかい?」
「……三人で?」
「ああ。僕はシイさんと遊べる。君は付きっ切りでシイさんを守れる。どうだい?」
カヲルに耳打ちされ、レイはキョトンとしているシイに視線を向ける。この少女を守る為には、カヲルの提案は最善策と言えなくも無い。そもそも自分もシイと遊びに行きたかったのだ。
カヲルのシナリオ通りに進むのは面白くないが、贅沢を言える状況でもない。
「……良いわ。行きましょう」
「そうこなくてはね。じゃあシイさん、僕とレイと一緒に遊びに行こう」
「レイさんとカヲル君と……。行きたいけど、私お邪魔じゃないかな?」
困ったように尋ねるシイに、カヲルとレイは顔を見合わせて首を傾げる。今回の話はシイが中心にいるのだから、邪魔なはずが無い。
「邪魔なんてとんでもない。どうしてそんな悲しいことを言うんだい?」
「だって……カヲル君はレイさんの事……その、好きなんだよね?」
「は?」
「……え?」
予想だにしなかったシイの言葉に、二人はぽかんと口をあけてシイを見つめる。だが二対の赤い瞳に見つめられる少女は、いたって真剣な表情だった。
「カヲル君はレイさんが好きだから……ちょっかいを出すんだって」
「だ、誰がそんな事を?」
「お母さん」
「碇ユイ……なるほど。そうやって娘を守ろうとしていたのか」
カヲルはユイのしてやったりの笑顔を思い浮かべ、珍しく苦い顔をする。シイがその認識を持っていては、カヲルがどれだけアプローチをかけても無駄に終わってしまうだろう。
間接的ではあるが、有効な精神防壁だった。
「シイさん。それは誤解だよ。僕は今まで君に近づこうとしていただろ?」
「うん。そうすればレイさんが、カヲル君に構ってくれるからだって」
「碇ユイめ……」
「だから二人がデートするなら、私はお留守番してるよ。楽しんできてね」
笑顔で告げるシイだったが、そこには隠し切れない寂しさが浮かんでいた。
「……違うわシイさん。私は彼の事が嫌いだし、彼も私の事を好きじゃないもの」
「そうさ」
嫌いだとここまで大っぴらに言うのもどうかと思うが、この二人は互いに嫌い合っているのを隠すつもりが無いようだ。
「でもお母さんが……」
「……信じて」
じっとシイを見つめるレイ。赤い瞳には嘘や偽りが感じられない。母親とレイの間で揺れていたシイだったが、やがて納得したように小さく頷く。
「……うん。分かったよレイさん。きっとお母さんは勘違いしてたんだね」
「君はもう少し人を疑ったほうが良いよ」
「……それがシイさんだもの」
レイの言葉にカヲルは苦笑しながらも納得してしまう。育ってきた環境、周囲の人間、それらが今の碇シイを作り上げたのだろう。
嘘と偽りの世界で生きてきたカヲルには、それが少し羨ましかった。
「誤解も解けたところで。シイさん、僕と遊びに行ってくれるのかな?」
「うん、喜んで。レイさんも良いよね?」
「……ええ」
シイとレイは頷くと、出かける準備をするためにそれぞれ部屋へと戻っていく。
(僕とレイが好き合う、か。碇ユイもなかなか皮肉が利いてるね)
二人の後姿を見送ったカヲルは、雲ひとつ無い青空を見上げて苦笑するのだった。
ここから暫くの間、ゲンドウとユイ不在の物語が続きます。
羊を守っていた柵が無くなったので、羊飼いだけでは狼に手が回りません。苦肉の策で狼の一人に手をかして貰うことになりましたが、果たしてどうなるのか。
ゲンドウとユイがドイツに何をしに行ったのかは、もうお分かりだと思います。今回の連続話は二人が戻ってきて、アレが終わるまでですね。
妙な展開になってきた後日談ですが、今暫くお付き合い頂ければ幸いです。