~碇家の日常~
ユイが戻りレイが加わった碇家は、ミサトと同じマンションに住居を構える事になった。ゲンドウとユイ夫妻に、レイとシイ姉妹の四人家族は幸せな日々を満喫していた。
そんな碇家の台所では、ユイとシイが並んで朝食の支度をしている。親子で料理をするのは二人にとって諦めていた夢。それが現実の物となり嬉しくない筈が無い。
失われた時間を取り戻す様に、二人は幸せオーラ全開で料理をするのだった。
「ん~どうかなお母さん?」
「ふふ、良いと思うわ」
シイが小皿に取った味噌汁を味見したユイは、満足げに微笑んでシイの頭を優しく撫でた。娘の成長を喜ぶ様なユイに、シイもまた嬉しそうにはにかむ。
「料理も洗濯もお掃除も出来るなんて、お母さん嬉しいわ」
「えへへ……でも全部お婆ちゃんが教えてくれたの」
「お母様が?」
「うん。いつ何処にお嫁に出しても恥ずかしくない様にって」
何気ないシイの言葉に、ユイの手がぴくりと止まった。
「お嫁……シイが……お嫁に……」
「お母さん?」
急に表情を強張らせた母に、シイは心配そうな眼差しを向ける。するとユイはシイの両肩をがっしり掴み、真剣な眼差しで尋ねた。
「……シイ。貴方好きな男の人は居る?」
「え? えっと……お父さん。後は冬月先生と時田さんと加持さんと……」
「はぁ~。そのままのシイで居てね」
心底安心したように抱きつくユイに、シイは不思議そうに首を傾げるのだった。
「……おはようございます」
「あらレイ。おはよう」
「あやな……レイさん、おはよう」
朝食が出来上がる少し前に、レイがダイニングへと姿を見せた。彼女は毎日決まった時刻に起床する。一緒に暮らすようになってからも、シイはレイが寝ぼけていたり寝坊する姿を見た事が無かった。
「もうシイったら。まだ慣れないのかしら?」
「うぅぅ、だって……」
「……構いません」
「まあ、時間がかかるかもしれないわね」
シイとレイは互いに名字で呼び合っていた仲だが、姉妹になった為に呼び方の改善が必要となった。とは言え急に呼び捨て出来る訳も無く、まずはさん付けで名前を呼んでいるのだが、まだ定着していないようだ。
「私の事も、いつかお母さんと呼んでね」
「……努力します」
家族が居なかったレイにとって、ユイを母親と呼ぶのもまた抵抗があった。それも時間が解決してくれるだろうと、ユイは焦らず気長に待つつもりであった。
程なくして朝食が出来上がったが、まだゲンドウが起きてこない。仕事柄不規則な生活を送っている為、仕方ないとシイは思っていたのだが、ユイに言わせれば昔から朝は苦手だったらしい。
「全く困った人ね。子供よりお寝坊さんなんて」
「昨日もお仕事で忙しかったし、寝かせてあげようよ」
シイの言葉にしかしユイは首を横に振る。
「駄目よ、シイ。朝食は家族揃って食べるって決めたでしょ」
「……起こしてきます」
レイはすっと立ち上がると、ゲンドウとユイの部屋へと入っていった。ふすまが開けっ放しなので、部屋の中の様子が二人にも届く。
『司令、朝です』
『…………』
『朝です。みんな待ってます』
『……後五ぶぅぅ』
『起きて下さい』
『……ああ、分かった』
何事も無かったかの様に部屋から出てくると、レイは自分の席へと座る。ハッキリと聞こえたゲンドウの悲鳴に、シイは冷や汗を流しながらレイに尋ねた。
「れ、レイさん。今何があったの?」
「……ユイさんに言われた通りに起こしただけ」
「お、お母さん?」
「ふふふ、あの人は喉元を叩くと起きるの。シイも憶えておくと良いわ」
にっこりと微笑むユイに、シイは何も言えずに頷くのだった。
「お、おはよう……」
「おはようございます、あなた」
「お父さんおはよう」
「……おはようございます」
身体をふらふらさせながら、ゲンドウはダイニングへとやってきた。サングラスを掛けていない姿は、家族の前でしか見せない。シイはそれが密かに嬉しかった。
「もうあなたったら。子供が真似しますから、ちゃんと起きてきて下さいね」
「あ、ああ。もう少しで起き上がれなくなる所だったが」
コキコキと首をならすゲンドウをシイは心配する。
「大丈夫なの、お父さん」
「案ずるなシイ。ユイに比べれば、レイはまだ優しいからな」
無駄に凜々しくゲンドウはシイに親指を立てる。あれで優しいなら、ユイはどれだけ激しいのだろうか。シイは本気で母の偉大さと父の強さに感心してしまう。
「……お腹空いた」
「ふふ、召し上がれ」
「「頂きます」」
家族揃って朝食を食べる。これは四人全員が望んでいた光景なのかもしれない。
食事の最中にユイがシイ達に話しかける。
「そうそう、二人に言っておく事があったんだわ」
「なあに?」
「……もぐもぐ」
「私も今日から仕事を始める事にしたの」
ユイには以前からネルフへの参加が望まれていた。優秀な科学者としてだけでなく、碇ユイと言う存在が組織に与える影響力は計り知れない物がある。
身体と生活が落ち着くまで返事を保留していたが、今の状況から遂に決断をした。
「そうなんだ……」
「……もぐもぐ」
「ええ。だからシイにも家事を手伝って貰う事になるけど」
「全然平気だよ。レイさんも居るし、ね?」
「……もぐもぐ……ええ」
ミサトとアスカと同居していた時も、実質一人で家事を切り盛りしていたのだ。パイロットの仕事が無くなった為、時間にゆとりは十分過ぎる程ある。何も問題無かった。
「ありがとうシイ、レイ。お母さん頑張るわ」
「うん」
「……もぐもぐ」
朝の食卓は和やかな空気に包まれていた。
そんな時、不意に玄関のチャイムが鳴らされた。
「あら、お客様かしら」
食事を終えていたユイが、立ち上がろうとしたシイを制して玄関へと向かう。するとそこには、酷い寝癖をつけたミサトが立っていた。
「えへへ、おはようございます」
「おはようございます、葛城さん。どうなさったんですか?」
同じマンションに住んでいるので、こうしてミサトが来訪するのは珍しく無い。だがこんな朝早くにやってきた事は初めてなので、ユイは何かトラブルかと少し身構えてしまう。
「実は、ちょっちお醤油を分けて貰えないかなって」
「「!!??」」
玄関から聞こえてきた不穏な単語に、シイとレイは同時に顔を引きつらせて、大慌てでミサトの元へと走った。その様子に、ユイもミサトも目を丸くする。
「シイちゃんにレイ、おはよう」
「二人ともどうしたの?」
シイはともかく、レイは滅多なことで取り乱したりしない。そんなレイが目を見開いて走ってきたとあって、ユイ達は驚きを隠せなかった。
「み、み、み、ミサトさん! 今お醤油って言いました?」
「へっ? ええ。お醤油を分けて貰えないかって」
「……料理したの?」
信じられない物を見る様に、シイとレイはミサトを凝視する。彼女の料理の腕前を知っている二人にとって、それは聞き捨てならない事だった。
「二人とも。葛城さんに失礼よ」
「お母さんは知らないから……」
「……加持監査官が危ないわ」
碇家が暮らすようになったのと時同じくして、ミサトと加持は同居を始めた。加持が命を狙われる状況で無くなった事で、ようやく踏ん切りをつけたのだ。
それを目の前で壊れるのを黙って見過ごす訳にはいかない。
二人が何を心配しているのか察したミサトは、苦笑しながらその不安を取り除く。
「あ~そういう事ね。大丈夫よ、料理作るのは加持だから」
「ふぅ……」
「……良かった」
あからさまに胸をなで下ろした二人に、ミサトはプライドを刺激される。
「あのね、流石にその反応はちょっち傷つくんだけど」
「「カレー」」
「ごめん」
前科のあるミサトは声を揃える二人に即座に謝る。多数の犠牲者を出したミサトのカレーは、どちらにとっても思い出したくない過去であった。
一連のやり取りを見守っていたユイは、話が落ち着いた頃合いを見計らってミサトに声を掛ける。
「お醤油は余ってますので構いませんわ」
「助かります」
「普通の醤油で良いですか?」
「へっ?」
ユイの確認にミサトは何の事かと首を傾げる。
「濃口で良いんですよね? 一応薄口と溜り、白とだしもありますけど」
「????」
「あの、ミサトさん。醤油にも種類があってですね……」
「も、勿論知ってるわ。常識だものね」
説明しようとするシイに、ミサトは当然知っていると笑う。だが頬を流れる汗が全てを物語っていた。
「そ、そうね~。やっぱ健康志向で、その薄口ってのを貰おうかしら」
「「…………」」
「あれ?」
黙りこくってしまった三人を見て、ミサトは自分の回答が間違っていたことを察する。そんな彼女に、シイは気の毒そうに補足説明をした。
「ミサトさん。薄口しょうゆは色や香りは薄いですけど、塩分は濃口よりも高いんです」
「……濃口をお持ちしますわ」
「……はい」
ミサトはしゅんとした様子で、ユイの気遣いに頷くのだった。
「あら、もうこんな時間。後片付けはやっておくから、二人は学校へ行っていらっしゃい」
「うん。行こうレイさん」
「……ええ」
シイとレイは部屋に戻って鞄を手に取ると、ゲンドウとユイに挨拶をしてから学校へと向かう。そんな娘達の姿を笑顔で見送ると、ユイはエプロンを身に纏って食器洗いに取りかかる。
「あなたも新聞ばかり読んでないで、支度をして下さいな」
「……君の準備は良いのか?」
「何時でもいけますわ。全くあなたは昔から変わらないんですから」
「……ああ」
言いながらもゲンドウは、広げた新聞紙に目を通しながら食後のお茶を楽しむ。急ぐつもりの無い夫に、ユイはやれやれとため息をつきながら洗い物を続ける。
「ところであなた。頼んでいた件はどうなりました?」
「少々難航している。我々が直接赴いた方が良さそうだ」
ゲンドウの言葉に洗い物をしているユイの表情が曇る。
「そうですか。あまりここを離れるのは気が進みませんけど」
「シイならば問題無い。今はレイが居るからな」
「だと良いのですけども。……ほらあなた、いい加減準備して下さい」
「……ああ、分かっているよ。ユイ」
碇家の朝は穏やかに過ぎていく。何事も無く平和に。人によってはそれを退屈と捉えるだろうが、少なくともシイ達にとっては待ち望んでいた時間だった。
たまにはこんな、誰も痛い目を見ない話もありかなと。シイ達四人にとって、こんな何気ない日常こそが求めていた物なのかもしれません。
イメージはTV版最終話、通称『学園エヴァ』です。あれは当時見ていて、衝撃的な展開だったと今でも憶えています。
欲を言えばあのまま、一話やってくれたらな~と。
そんな思いも込めて、後日談の執筆を続けて参ります。
次回もまたお付き合い頂ければ幸いです。