予定よりも大幅に遅れて帰宅したシイを、仁王立ちしたアスカが玄関で待ち構えていた。
「おっそ~い!」
「うぅぅ、ごめんなさい……」
眉がつり上がった顔から、アスカの不機嫌度合いが伝わってくる。
「本当にごめんね……直ぐに夕食作るから」
「あんた馬鹿ぁ? んな事で怒ってんじゃないの」
「え?」
「遅れるなら遅れるって連絡しなさいって、あたし言ってたわよね?」
「うん……」
シイは母親にしかられた子供のように、申し訳なさそうに俯く。連絡を怠った自分が全面的に悪い以上、もう何の言い訳も出来なかった。
「あんたはね、もう少し自分の立場を自覚しなさい。あたし達がゼーレと戦おうとしてるのが、もし相手に知られてたら、真っ先に狙われるのはパイロットなのよ」
「……そうだね。本当にごめんなさい」
先程会った少年にも言われた自覚の無さ。シイはますます恐縮してしまう。そんなシイの様子から反省を感じ取ったのか、アスカは表情を和らげる。
「はぁ、分かったんなら良いわ。あんま心配かけさせるんじゃ無いわよ」
「あ……うん」
大きくため息をつきながら、アスカはシイの髪をグシャグシャと撫でる。そんなアスカの親愛表現にシイは不謹慎だが、自分を心配してくれた事を嬉しく思ってしまうのだった。
「はぁ? じゃあ何? 見ず知らずの男に声かけられて、あまつさえ会話までしたって~の?」
「う、うん」
「あんた馬鹿ぁ? どうしてもっと警戒心ってのを持たないのよ!」
夕食の席でシイはカヲルと出会った事を話したのだが、アスカの反応は予想以上に大きいものだった。
「でもでも、いい人だったし」
「あま~い! 男はみんな狼って言うでしょ。……変な事されなかったでしょうね?」
急に声をひそめるアスカに、シイは首を傾げながら問い返す。
「変な事って、何?」
「そ、それは……だから……」
「??」
(衣服の乱れは無かったし……シイは隠し事なんて出来ないだろうし……大丈夫みたいね)
アスカは勝手に混乱して、勝手に納得してしまう。表情がコロコロ変わった彼女に、シイは心底不思議そうな視線を向けるのだった。
「で、そいつは何者なの?」
「分からないけど、うちの学校の制服を着てたから転校生かも」
シイが知っているのは、彼が渚カヲルと言う名前だと言う事だけ。自分の学校の制服を着ていたが、学校で姿を見たことが無いので、転校生では無いかと思われた。
「ふ~ん。どんな感じの奴だったの?」
「興味があるの?」
「べ、別に無いわよ。ただ一応聞いておこうってだけで」
アスカにしてみればカヲルに興味があるわけではなく、シイに言い寄ってくる男に、警戒心を抱いているだけだった。それは妹に変な虫が付かないようにする、姉のような心境かもしれない。
「どんな感じって……ん~、鼻歌が上手かったかな」
「はぁ?」
「最初に会った時にあれを歌ってたの。えっと……モーツアルトの喜びの歌」
「……ベートーヴェンよ」
頭痛を堪えるようにアスカは額に手を当てて、シイの間違いを正す。前々から不安に思っていたシイの学力を、どうにかしなくてはと真剣に考え始めた瞬間だった。
「第九を鼻歌で、か。そいつ変人確定ね」
「あ、あはは、ちょっと変わってるのは確かかも」
ズバッと切って捨てるアスカに、シイはカヲルを思い出しながら苦笑する。
「まあそれは良いとして、顔は? あんたのタイプだったりする?」
「タイプ? ……よく分からないけど、綺麗な顔だったよ」
珍しい銀髪と赤い瞳と、穏やかな笑みを浮かべる整った顔立ち。世間的には格好いいと呼ばれる部類なのだろうが、シイは特別な感情を抱く事は無かった。
「あ、それとね、綾波さんに似てたの」
「レイと?」
何気ないシイの言葉にアスカの目がすっと細められる。
「目も綾波さんと同じ赤色だったし、ひょっとして親戚なのかも」
「……馬鹿。あの子に親戚なんて居るわけ無いじゃん」
厳しい口調でシイの失言を戒めるアスカ。生まれが特殊なレイには親戚が存在しようが無い。もし今の発言をレイの前ですれば、意識せずに彼女を傷つける可能性がある。
アスカの言葉は、シイとレイの二人を思っての事だった。
「ごめん……」
「別に良いわ。それにしても、ますます持ってそいつは怪しいわね」
銀髪はともかく、赤い瞳を持つ人間は極めて珍しい。と言うよりもアスカはレイ以外に知らなかった。だからこそ、赤い瞳の少年に強い警戒心を抱く。
(レイと同じで造られた存在? ネルフ以外にそんな事するのは……やっぱゼーレ?)
アスカはゼーレについて詳しく知っている訳では無い。ただ莫大な資金力と政治影響力を持つと聞いている為、人工的にヒトを造り出す位はやりそうだと思った。
(一応、ミサトに報告しといた方が良さそうね)
すっかり無口になってしまったアスカを、シイは不安げに見つめる。結局その後はほとんど会話も無く、夕食は淡々と終わってしまった。
※
翌朝、ネルフ本部に初めて訪れたカヲルは、司令室でゲンドウ達に着任の報告を行っていた。
「本日付でネルフ本部に配属になりました。どうぞよろしく」
「ああ、委員会から連絡は受けているよ。随分と急な配属だったがね」
「みたいですね。連絡が遅いのは老人の癖なんでしょう」
冬月が軽く牽制を入れてみるが、カヲルに軽く流されてしまう。ポケットに手を入れ微笑みを浮かべる彼には、底知れぬ余裕が感じられた。
「着任は受理しよう。だが今ここには、君が搭乗できるエヴァが配備されていない。そこで」
「……君には予備搭乗者に回って貰う」
「構いませんよ」
冬月とゲンドウの言葉に、カヲルは何も問題無いと頷いて見せる。
「話は以上だ。規則など細かな話については、直属の上司になる葛城三佐から聞きたまえ」
「分かりました。では失礼します」
ゲンドウ達に一礼すると、カヲルは優雅な足取りで司令室を後にした。その背中を見送った冬月は、姿が完全に見えなくなってから険しい表情で、ゲンドウへと語りかける。
「食えない少年だな。シイ君と接触した事など、おくびにも出さん」
「……ああ」
「MAGIが彼の調査を行っているが、芳しくないようだ」
「ゼーレの秘蔵っ子だ。情報規制は完璧と思うべきだろう」
「ここに単身送り込む程の自信作と言う事か」
直接カヲルと対面した二人は、カヲルがレイと同じ造られた存在だと感じ取っていた。
「迂闊に手は出せんな。泳がせながら様子を見るとするか」
(まず最初にシイ君に目をつけるあたり、気が合いそうだが……会長として手を出させる訳にはいかん)
「……ああ」
(シイに言い寄る男は、何者であろうとも全力で排除するだけだ)
ゲンドウと冬月は少しずれたところで、カヲルへの警戒心を高めるのだった。
※
その日の夕方、レイは一人本部の通路を歩いていた。本来ならまだ学校に行っている時間なのだが、彼女は身体のメンテナンスを定期的にする必要があったので、こうして学校を休むことがままあった。
(この後はシンクロテスト。もうすぐ碇さん達も来る……)
一人で居る時間が寂しいと感じるようになったのは、あの少女と出会ってから。レイはテストが行われる管制室へ移動しながら、シイ達と会える事の喜びを感じていた。
そんな彼女の行く手を遮るように、一人の少年が姿を現す。
「はじめまして。君がファーストチルドレンの、綾波レイだね?」
「……あなた、誰?」
突然現れた見ず知らずの少年に、レイは警戒しながら問い返す。
「僕はカヲル。渚カヲル。フィフスチルドレンさ」
「……そう。じゃ」
興味なさ気に通り過ぎようとするレイを、カヲルは進路を塞いで通せんぼする。僅かに目を細めて無言の抗議をするレイに、カヲルは面白そうに微笑む。
「ふふ、そう邪険にしないで欲しいな。君と僕は同じなのだから」
「…………」
「お互いこの星で生きていく身体は、リリンと同じ形へと行き着いたようだね」
まるで古い友人に語りかける様に、レイに親しげな態度をとるカヲル。だがレイは少年に向けて、敵意に近い感情を露わにしていた。
「……私は貴方とは違う」
「同じさ。君も知っている筈だよ、僕達はヒトとは違う存在だとね」
「……そう。でも私は貴方とは違うわ」
「ん?」
「私は一人じゃ無いもの。だから……一緒にしないで」
レイの静かながらも強い意志の籠もった言葉を、カヲルに向けて告げる。それはカヲルにとって、驚きを隠しきれない衝撃的な発言であった。
「一人じゃ無い……それはリリンの事を言っているのかい?」
「……ええ」
「僕達はリリンとは違う存在、共に生きる事は出来ないよ」
「……でも私は碇さんと、みんなと生きるわ」
互いに赤い瞳を持つ造られた存在。ヒトとは異なる魂を持つ存在。だが今対峙する二人は、まるで別の道を歩もうとしていた。
「それが、君の望みなのかい?」
「……そう」
「叶えられると、本気で思っているのかな?」
「……ええ。一人では無理でも、私にはみんなが居るから」
使徒とは違いヒトは単体で生きるには、あまりに弱い生き物だ。だがそれ故にヒトは群れる事を知り、互いに弱い部分を補って生きる事が出来る。
一人では無い。それはヒトにとって、何よりも大切な事だった。
「なら訂正しよう。君と僕は似ているけど、違う存在だ」
「……ええ」
「リリンとの共存か……考えもしなかったよ」
呆れたように呟くカヲルだったが、その表情は何処か嬉しそうでもある。
「……貴方は何を望むの?」
「ふふ、全ては流れのままに、さ」
そう告げるとカヲルはレイに背を向けて歩き出す。彼にとってレイとの対話は、意味のあるものだったのだろう。顔には満足げな笑みが浮かんでいる。
「ではシンクロテストでまた会おう」
「……ええ」
レイとカヲルの接触は静かに終わりを告げた。カヲルの心に小さな変化をもたらして。
レイはシイと出会い、人とふれ合い、少しずつですが心を成長させてきました。積み重ねてきたものは、決して偽りではありません。
今のレイは、確固たるアイデンティティを持っているのでしょう。
次回もまたお付き合い頂ければ幸いです。