アスカが運び込まれた病室に、エヴァから降りたシイ達は急いで駆けつける。外傷は無く精神汚染も心配ないと言われても、自分達の目で無事を確かめずにはいられなかった。
広い病室のベッドで静かに眠っているアスカの姿を見て、三人はようやく安堵して肩の力を抜く。
「眠っとるみたいやな」
「……よかった」
「アスカ……ごめんね。何も出来なくてごめんね」
シイはベッドに近づくと、眠るアスカの手を握って謝罪を繰り返す。アスカの危機に何も出来なかった事が、たまらなく悔しく、申し訳なかった。
「ん……」
シイの言葉が聞こえたのか、アスカは小さくうめくとゆっくり瞳を開ける。
「アスカ」
「ん~ママ~」
「「えっ!?」」
寝ぼけたアスカは手を握るシイの身体に思い切り抱きつく。そしてそのまま小さなシイの身体を、ベッドの中へと引きずり込んでしまった。
シイは慌てながらも必死にアスカへ呼びかける。
「アスカ、私はシイだよ?」
「ママはずっと私を守っていてくれたのね」
「うぅぅ~」
背中に回された両手で容赦なく身体を締め付けられ、シイは苦悶の表情を浮かべる。寝ぼけているアスカには加減という言葉は無い。母に甘える娘の愛は万力にすら匹敵した。
「やれやれやな。結局惣流の奴も親離れ出来とらんかった、ちゅうことか」
「…………」
アスカが初めて見せる子供のような姿に、トウジは困ったように頭を掻きながらも、シイをそろそろ助けてやるかと思っていると、不意に隣に立つレイの様子が変わっているのに気づいた。
「ん、どないしたんや? そない怖い顔して……なして拳握っとるんや?」
「……渡さない」
小さな呟きを残したレイは、シイを奪い返すべくアスカへ飛びかかる。ベッドの上で繰り広げられるシイ争奪戦を見て、トウジは呆れと同時に日常が戻ってきた喜びを感じるのだった。
「ぜ~は~、あんた、本気で間接極めてきたでしょ」
「……自業自得」
「ったく、普段はおすまし人形みたいなのに、シイが絡むと人が変わるんだから」
ベッドの上で乱れた服を直しながら、アスカは痛む右腕をさする。訓練を受けた自分が遅れをとる筈無いのだが、どうしてかレイの関節技には対応出来なかった。
「あの……アスカ。ごめんね」
「あんたが謝る事無いでしょ。悪いのは全部この女よ」
「……ママ」
レイの呟きにアスカの顔が真っ赤に染まる。例え寝ぼけていたとは言え、シイを母親と間違えたのは事実。それをこの場に居た全員に見られたとあって、もう何も言えなくなってしまった。
流石に可哀相になったのか、トウジがさりげなくレイを戒める。
「綾波。もうその辺にしとき」
「そうだよ綾波さん。寝ぼけて間違える事なんて、誰にだってあるんだから」
「……そうね……ぷっ」
「むきぃぃ」
レイに飛びかかるアスカだが、今度は足の間接を完全に極められてしまう。その流れるような動作に、シイとトウジはアスカの心配よりも先に、思わず感嘆の声をあげる。
「しかし、綾波のそれは見事なもんやな」
「何か習ってたの?」
「……いいえ。ただ身体が勝手に動くの」
明らかにレイの動きは素人のそれでは無いのだが、トウジとシイは素直に感心してしまう。
「天才っちゅう奴かのう」
「凄いな~綾波さん」
「……そ、そんな事無い」
シイに褒められて頬を染めたレイは、一層力を込めてアスカを責め立てる。結局アスカが落ち着いたのは、タップをしてから十分以上経ってからだった。
「へぇ~そんな事になってたんだ」
シイ達から弐号機の暴走と、使徒殲滅の顛末を聞いたアスカは、まるで人ごとのように呟いた。
「何や、覚えとらんのか」
「ま~ね。使徒の光を浴びてから嫌な事思い出しちゃって、正直その後の事は曖昧なのよね」
「何も出来なくてごめんね」
「だから良いって。後であのひげ親父に、落とし前つけさせるつもりだから」
救出しようとした三人を制止したゲンドウ。シイ達を責める気は毛頭無かったが、自分を見殺しにしようとしたゲンドウには、蹴りの一発でも入れてやろうと考えていた。
「それはおいといて、あたしもママに会ったわ」
「……惣流・キョウコ・ツェッペリン博士ね」
レイの呟きをアスカは頷いて肯定する。
「そりゃシイと同じやな」
「考えてみれば初号機にはシイの、弐号機にはあたしのママが眠ってるんだもんね。シイが会えたのなら、あたしが会えない理由なんて無いもの」
対話まで果たしたシイとは違い、アスカは母親と言葉を交わせていない。それでも母親の存在を、自分を愛して守ってくれるキョウコを感じる事は出来た。
「そっから先は覚えて無いわ。ママに抱かれて……気づいたらレイに関節技を極められてたのよ」
「天国から地獄やな」
言い得て妙なトウジの言葉に、シイも苦笑するしか無い。
「あ、あはは」
「……心を開けば、エヴァは応えてくれるわ」
かつてアスカが馬鹿にした、レイのエヴァに心があるという発言。リツコの暴露とシイの件で理解はしていたが、何処か疑ってもいた。だがそれは今回自分が体験した事で確信に変わった。
奇しくも使徒の精神攻撃が、アスカにトラウマを乗り越えるきっかけを与えてくれたのだった。
「……碇さん。時間よ」
「あ、うん」
「何よ。まだ事後処理とか残ってんの?」
「ちゃうちゃう。忘れたんか? 今日はシイの奴が、親父さんとケリをつける日やって」
トウジに言われてアスカはハッと目を見開く。完璧に忘れていたのだが、使徒と激しい攻防を繰り広げた彼女を責める事は、誰にも出来ないだろう。
「じゃあアスカ。行ってくるね」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。あたしも……」
ベッドから起き上がろうとするアスカをトウジが制する。
「あかんで惣流。こらシイの戦いや」
「……サポートは副司令に任せてあるわ」
「でも」
心配そうな視線を向けるアスカにシイは優しく微笑む。
「大丈夫だよアスカ。お父さんは一人だけど、私にはみんなが着いていてくれるから。きっと大丈夫」
「加持の兄貴も時田のおっさんも、姐さんもミサトさんもばっちしサポートしとるわ」
「……今、このネルフ本部は碇さんの味方」
アスカはレイの言葉の意味を理解して、苦笑交じりに頷く。今このネルフ本部内で、シイに危険が及ぶ可能性は限りなく低い身体。
「分かったわよ。シイ、見せ場を譲ってあげるんだから、ダサいとこ見せないでよ」
「うん。じゃあ行ってきます」
病室に三人を残して、シイは一人司令室へと向かうのだった。
シイは大きく深呼吸をし、手のひらに人の文字を書いて舐めると、意を決してドアをノックした。
「碇シイです」
「……入れ」
不機嫌そうなゲンドウの声を受け、開かれたドアから一歩踏み出してシイは司令室へと入る。正面には執務机に向かうゲンドウ。そしてその脇に立つ冬月の姿があった。
二人の視線を受けながら、シイは堂々とした足取りで部屋の中央へと進む。
「先に言っておくが私は忙しい。下らぬ用事なら後にしろ」
「ううん。大切なお話があります」
睨み付けるゲンドウに一歩も引かずシイは答える。ゲンドウから見えないように、冬月が小さく頷いてくれる事が、自分は一人では無いと心の余裕を与えてくれた。
「……手短に言え」
「はい。お父さん……人類補完計画を中止して下さい」
「…………」
ゲンドウは無言でシイを睨み付ける。娘から告げられた予想外の言葉に動揺していたが、それを表に出さずにゲンドウは威圧的に問い返す。
「何故お前がそれを知っている?」
「お母さんから聞きました。ゼーレの存在も、人類補完計画も、全部です」
「ユイ……何故だ」
同じ志を持っていた妻の行動に、ゲンドウは戸惑わずにいられない。ゼーレの補完計画は別として、自分の補完計画にユイは賛同していた筈。いや、そもそも補完計画の発案はユイなのだから。
それなのにシイへ計画を暴露する。ゲンドウの困惑は相当のものだった。
「ゼーレの人達は、人類をやり直そうとしてるんだよね。全てを一つにして」
「そうだ。だが……」
ゲンドウの言葉を先読みしてシイは言葉を紡ぐ。
「お父さんが違う計画をやろうとしてるのも知ってる。やり直しじゃなくてもっと先に。人類を神様にしちゃおうとしてるって教えて貰ったの」
「……その通りだ。そしてそれはユイの願いでもある」
「うん。だけどそれは人類みんなの望みじゃ無いの」
ユイは自らの望みをわがままだと言った。自分の目的の為に他者を巻き込むのならそれはエゴだ。ユイはそれを自覚した上でなお、決意を変えなかった。
「だから私は止める。お父さんとお母さんのわがままを。この世界で生きたいって言う、私のわがままで」
「……お前に何が出来る?」
「私一人じゃ何も出来ないと思う。でも私は一人じゃ無いから。みんなが力を貸してくれるから、きっと何とか出来る。補完計画とは違う、別の未来を見つけられるって信じてるの」
胸を張り真っ直ぐにゲンドウを見つめるシイ。彼女の言葉には何の根拠も無いのだが、その眼差しには一切の嘘も不安も無い。純粋に人として生きる未来を信じている目だった。
(ユイ……お前を変えたのはこれか。……シイに未来の可能性を見いだしたのだな)
かつてのユイの様に周囲に希望を与える何かを、ゲンドウはシイから感じた。子供だと思っていた娘の成長に、ゲンドウは両手で隠した口元に笑みを浮かべるのだった。
「もしそれでも私が計画を止めなければどうする?」
「ううん。もうお父さんの計画は上手くいかないの」
訝しむゲンドウに、これまで沈黙を守っていた冬月が満を持して言葉を発する。
「既にレイは自我を持ち、お前の手から離れている。融合は不可能だ」
「冬月、裏切ったのか? ……いや、貴方は元々計画に反対でしたね」
「ユイ君の望みを叶えるつもりだったが、この世界にはまだ未練がある」
「……なるほど。既に私は詰んでいたのか」
最大の理解者である冬月がシイについている以上、ゲンドウの手は封じられてしまう。シイとの会話の結果を問わず、ゲンドウは自分の計画が破綻していた事を悟った。
「私だけでは無いぞ。加持君も葛城三佐も、時田博士と赤木君もシイ君の協力者だ」
「アスカと綾波さん、鈴原君もです」
「……そしてユイも、か」
自嘲気味にゲンドウは呟く。だがシイは小さく首を横に振り、その言葉を否定した。
「お母さんには……ゼーレともお父さんとも違う、自分の計画があるんだと思う」
「何だと!?」
「ねえ、お父さん。ちょっと耳を貸して」
シイは机を脇から回り込み、ゲンドウに身体を近づける。そのまま娘の急接近に緊張するゲンドウへ、自分が考えるユイの目的を告げた。
「――これが、お母さんが目指している未来だと思う」
「ユイは……私を捨てたのか」
「お母さんは言ったよ。今でもお父さんと私を愛してるって」
シイはうなだれるゲンドウに、ユイの愛情は変わらずに存在する事を優しく告げた。
「でもそれ以上に自分の望みを叶えたいんだと思う」
ユイははっきりとシイに告げていた。これは自分のわがままだと。
「私はお母さんと一緒に居たい。お父さんとお母さんと一緒に暮らしたい。お父さんは?」
「……ああ、そうだな」
「なら戦おうよ、お父さん」
予期せぬシイの言葉に、ゲンドウは思わず顔を上げてシイを見つめる。自分よりも小さな少女は、この事実を知ってもなお希望を失っていなかった。
「譲れないものを守る為なら、戦う事を恐れちゃ駄目」
「シイ、お前は……」
「これは私のわがまま。お母さんと私、どっちのわがままが通るかの勝負なの」
シイの望みとユイの望みは相容れぬものだった。主張が対立した時、話し合いが通じない時、どうすれば良いのかをシイは母親から学んだ。
「人類補完計画を全部食い止めて、お母さんの計画も止める。その為にはお父さんの力が必要なの」
「老人達に嫌みを言われたまま、ユイ君の尻に敷かれたままでお前は良いのか?」
「……逃げていては駄目だと言う事か」
シイと冬月の言葉を受けて、ゲンドウは逡巡の後に決断する。サングラス越しの瞳にはいつもの冷たい光ではなく、未来を見据える明るい光が宿っていた。
「……シイ。お前の思うとおりにやると良い」
「うん。ありがとうお父さん!」
ゲンドウへ抱きつくシイ。父と娘が交わす抱擁は、二人の間にあった距離が無くなった証でもあった。和解した親子を見て、冬月は満足げに何度も頷く。
が、にやけ面のゲンドウを見ていて苛立ったのか、ゴホンと大きな咳払いをして二人を引き離す。
「さて、時間はあまりないぞ。死海文書で予言されている使徒は後二体だからな」
「……あ、ああ」
「今後の対策を決める会議を開くぞ。全てはゼーレの計画を阻止してからだ」
冬月の言葉にゲンドウとシイは頷く。ユイの事は家庭の問題とも言えるが、人類補完計画は人類全体の問題。必ず防がなくてはならないのだ。
「世界の陰で暗躍し、国連をも掌握している組織が相手だ。厳しい戦いになりそうだな」
「……対抗手段はある。問題ない」
碇ゲンドウと言う男、伊達にネルフの司令を務めていない。不敵に笑みを浮かべる姿も、味方となれば何とも頼もしく感じられる。
シイはかつては泣きながら見送った父親の背中を、今は満面の笑みで見つめるのだった。
色々ありましたが、無事ゲンドウの説得に成功しました。原作の彼ならこんな甘く無いんでしょうが、そこは大目に見て頂ければありがたいです。
これからはネルフとゼーレという対立の図式になります。旧劇場版にあったどっちの補完計画ではなく、補完計画の実現か阻止かを巡る戦いですね。
ユイに関しては少し誤解を招く表現だったかもしれません。別に物語の黒幕とかでは無く、原作通りの目的です。
ただそれがシイのハッピーエンドの障害になってしまうで……。シイの望みはもう一度家族揃って暮らす事ですから。
そろそろ物語も佳境に入って参りました。
今後の投稿ペースについて活動報告をさせて頂こうと思いますので、宜しければお目通し下さい。
次回もまたお付き合い頂ければ幸いです。