アスカの絶叫を聞いて我に返ったミサトは、使徒の攻撃を食い止める為に直ぐに指示を下す。
「レイ! 鈴原君! 使徒を撃って!!」
『……了解』
『了解や』
アスカを救うべく零号機と参号機は、射程距離外の使徒へ狙撃を行った。地上から放たれた二筋の光は、一直線に使徒を襲い……しかし使徒の目前でATフィールドに弾かれ四方へと拡散した。
「ATフィールドの展開を確認。貫通するには出力が絶対的に足りません!」
「ライフルの出力は最大。これ以上は無理です」
こちらから使徒へ有効な攻撃は無いと証明され、ミサトは舌打ちしながらマヤへ問いかける。
「ちっ、使徒の反応は?」
「ありません」
例え攻撃が通らなくても、使徒から弐号機への攻撃が止まればと期待したミサトだったが、使徒に変化は見られなかった。
『いや、いやぁ、いやぁぁ』
「精神汚染、Yに突入しました」
アスカの精神状態は乱れに乱れ、もはやまともな思考と行動が取れない状態に陥っていた。
『これ以上入ってこないで! あたしの心に入ってこないで!!』
「グラフ反転! これ以上はアスカが危険です!」
「このままじゃ精神回路がずたずたにされるわ」
マヤとリツコの言葉を聞くまでも無く、先程から絶え間なく響くアスカの悲鳴を耳にしていれば、彼女の危機的状況は十分過ぎるほどミサトに伝わっていた。
「ATフィールドは?」
「展開していますが、効果は確認できません」
「LCLの精神防壁はどうなってんの?」
「駄目です! 触媒効果もありません」
精神汚染だけは何としても避けなければならない。現状で打開策が無いと判断したミサトは、アスカを使徒の攻撃から逃がすことを最優先する。
「……ここまでね。アスカ、撤退して」
『いやぁぁぁぁぁ』
「アスカ?」
『こないでぇぇ、こないでぇぇぇ』
ミサトの顔が青ざめる。今のアスカには自分の声すら届いていない。あまりに危険な状態だ。
『……葛城三佐。これより弐号機の救助に向かいます』
『わしも行きますわ』
「駄目だ」
レイとトウジの提案を否定したのは、今まで沈黙していたゲンドウだった。
「今の弐号機に近づけば精神攻撃に巻き込まれる。お前達まで汚染される訳にはいかない」
『んな事言っとる場合ちゃいますやろ!』
「軽率な行動は慎め。これは命令だ」
代替案を提示する事も無く、ただ一方的に救助を却下するゲンドウ。精神汚染を避けるのは司令として正しい判断なのかもしれないが、友人を見殺しにしたくないトウジ達は強い不満を抱く。
『なら、どないするんや?』
『お父さん。私が出ます!』
トウジの通信に割り込む形で、シイの声が発令所に聞こえてくる。初号機の修復は既に完了しており、出撃自体に問題は無いのだが、ゲンドウは即座に却下した。
「駄目だ。初号機は凍結中……大体お前が出撃して何が出来ると言うのだ」
『そんなの分からないけど、黙って見てる事何て出来ないよ!』
「……初号機の凍結を解除するつもりは無い」
『だけどこのままじゃアスカが!』
泣き出しそうなシイの言葉通り、アスカの精神は危険域へと突入しようとしていた。
※
使徒はアスカの心に遠慮無く入り込み、彼女が心にしまい込んでいた物を引きずり出す。それは繊細な心を土足で荒らすような行為。ただでさえ不安定だった彼女の精神は、なすすべ無く蹂躙されていった。
『ほら、アスカ。新しいママにご挨拶しなさい』
『こんにちは、アスカちゃん』
『…………』
『どうしたんだい?』
『私もママは、ママだけだもん。他のママなんていらない!』
『こら、アスカ。あんまりわがまま言うんじゃ無い』
『突然言われて戸惑っているのよ。大丈夫。ゆっくり慣れていけば』
(……ママは……ママだけなのに……パパの馬鹿!)
『アスカちゃん。お姉さんがまた来てくれたわよ』
『…………』
『ねえあなた。この子アスカちゃんって言うの。仲良くしてあげてね』
『……ママ』
『私の娘はこの子だけよ。私はあなたのママじゃ無いわ』
『ママ……どうして』
『泣いちゃ駄目よ。ほら、アスカちゃんが笑ってるわ』
(ママ……どうして私を見てくれないの? 私はここに居るのに)
『家を出て行く?』
『あたしは一人で生きていけるの』
『でもアスカちゃん……』
『そんな風に呼ばないで! 虫酸が走るわ』
『アスカ! お母さんに何て事を!』
『もうあんた達と一緒に居たくないわ。さよなら』
(ママを捨てた奴なんて、もうパパじゃ無い。あたしに家族なんて必要無い。一人で生きてけるもの)
使徒は無遠慮に心の中に封じ込めた記憶を呼び起こさせる。自分を見てくれない母。そんな母を捨てて別の女を選んだ父と母と呼べない女、彼女のトラウマとも言える記憶。
既に精神の限界を迎えていたアスカは、プラグ内で胎児の様に身体を丸めていた。
(もう……嫌。こんな嫌な事ばっかなら……生きてても仕方ないじゃん……)
負の感情に支配されたアスカからは生への執着が失われ、思考が死へと向かう。
(あたしが居なくても……誰も悲しまないし……このまま死んでも……)
暗闇へと落ちていく意識。孤独な世界へと向かおうとするアスカに、また別の記憶が蘇っていく。
『君が惣流・アスカ・ラングレーだね』
『誰?』
『俺は加持リョウジだ。君のお目付役兼、保護者役かな』
『あたしは一人で生きていけるわ』
『そりゃ頼もしいな。けどな、一人だとつまらないぞ』
『はぁ?』
『人は一人でも生きていけるが、生きる以外の楽しい事を見逃してしまうからな』
『……くっさい台詞』
『ま、いずれ分かるさ。それが分かるまでは俺が一緒に居るよ』
(加持さん……ネルフであたしをパイロットとしてじゃなく、人間として接してくれた初めての人)
『やっほーアスカ』
『誰よあんた。馴れ馴れしいわね』
『あはは、ごめんごめん。私、葛城ミサトって言うの。これでもネルフの職員よ』
『あんたが?』
『ドイツ支部に来て間もないけど、よろしくね』
『はん。あんたとよろしくする理由が無いわ。で、何の用?』
『実は……迷っちゃって。道教えてくれない?』
(ミサト……馬鹿でだらしないけど……嫌いじゃ無いわ)
『ねえアスカ。ドイツの料理ってどんなのかな?』
『はぁ、何でよ?』
『アスカはドイツ育ちだよね? やっぱり故郷の味が食べたくなるのかな~って思ったから』
『別にそんな事気にしなくて良いわよ。……あんたの料理は、まあ、悪くないから』
『あ、うん。えへへ……今日はハンバーグに決めた』
(シイ……馬鹿でチビで弱虫だけど……ちょっとママみたいだった)
その後もレイ、ヒカリ、リツコ等大切な人達との、優しい記憶がアスカの脳裏に蘇る。生きていれば辛い事や逃げ出したい事は山ほどある。だが楽しい事や幸せな事も同様に存在するのだ。
暖かな思い出は壊れる寸前だったアスカの心を、ギリギリのところで踏みとどまらせる。そして生への欲求と死への欲求がせめぎ合う彼女は、母を失ってから初めて飾らない本心をさらけ出す。
「一人は嫌……誰かあたしを見て……あたしを愛してよ!!」
瞬間、ドクンと心臓の鼓動がひときわ大きく聞こえた。同時に何かに守られている様な安心感と、暖かな一体感がアスカの身体と心を包み込む。
(何……)
恐る恐る瞳を開けば、そこにはまばゆい光に満ちた世界が広がっていた。
(これ……天国って奴なの?)
『アスカちゃん』
動揺するアスカの耳に優しい女性の声が届く。姿を見ずとも分かる。それは彼女がこの世でもっとも求めていたものなのだから。
「ママ……」
アスカの呟きに答えるように、光の中から一人の女性の姿が現れる。毛先にパーマがかかったロングヘアーの女性。アスカの記憶にあるそのままの、惣流・キョウコ・ツェッペリンだった。
「ママ、ママ、ママ」
『アスカちゃん』
光の中をアスカは泳ぎ、キョウコの胸へと飛び込む。そのまま大粒の涙を流すアスカの身体を、キョウコは慈しむようにそっと抱きしめた。
忘れ得ぬ母の温もり。それを全身で感じながら、アスカの意識は薄れていった。
※
『だからこのままやと、惣流の奴がやばいっちゅうとるやろ!』
『そうだよお父さん。アスカを見殺しにするの!?』
『……勝手に動きます』
『わしもやるで』
一歩も譲らぬゲンドウに苛立つレイとトウジは、命令違反を承知でアスカの救出に向かおうとする。シイも初号機を強引に動かし、ケージを破壊してでも発進しようと決意した。
「……待て。レイ、ドグマを降りて槍をつかえ」
ゲンドウの発言を聞いてシイ達は思わず動きを止めてしまう。ロンギヌスの槍の使用。それをゲンドウが指示した事に少なからぬ驚きがあったからだ。
それは冬月も同様で、そっとゲンドウへ確認を行う。
「碇、良いのか?」
「衛星軌道の目標を倒すのにはそれしか手は無い。急げ」
『……了解』
レイは動揺を悟られぬよう平静を装って返答すると、ターミナルドグマへ下降するリフトへと向かう。ゲンドウの狙いは分からないが、今の彼女にとって大切なのはアスカの救出なのだから。
「まだ早いのでは無いか?」
「時計の針は元には戻らない。だが自らの手で進める事は出来る」
「……ゼーレが黙っていないぞ」
「今弐号機を失うのは得策では無い。老人達には理由があれば十分だ」
冬月の心配そうな声にもゲンドウは動じずに答える。そんな彼の様子に冬月は小さくため息を漏らす。
(アスカ君の救出は最優先だが……今ゼーレを必要以上に刺激するのは不味いな)
自分達の計画が狂い始めた事に、冬月は内心穏やかでは無かった。
零号機を乗せたリフトがゆっくりと下降を始めた、その時だった。
「え、エヴァ弐号機から強力なATフィールドが発生!」
「何ですって!?」
日向の戸惑い混じりの絶叫に、ミサトだけでなく発令所のスタッフが驚きの表情を浮かべる。つい今さっきまで、アスカの精神は限界まで引き裂かれ、行動不能状態だった筈だからだ。
「パイロットの精神グラフ、安定へ向かっています」
「弐号機のATフィールドは使徒の光を完全に遮断」
「一体何が……」
突然起きた事態の好転に、ミサトもリツコも理解が追いつかない。こちらが何もしていないのに何かが起こった。そう、まるであの初号機のように。
「マヤ、アスカのシンクロ率は!?」
「急速に上昇しています」
「……理論値の限界に到達、か。でも融合の心配は無さそうね」
シイの事態の再現を憂慮したリツコだったが、それが否定されて安堵のため息をついた。
「碇……どう見る?」
「弐号機の暴走などシナリオに無い。一体何故だ……」
(……キョウコ君と再会出来たのだね。よかったな、アスカ君)
戸惑うゲンドウの隣で冬月は気づかれぬように、優しい微笑みを浮かべるのだった。
四つの目に強い光を宿した弐号機は遙か遠方に、衛星軌道上に居る使徒へ意識を向ける。互いに有効打が無い現状では、このまま睨み合いが続くかと思われたが、不意に弐号機が動く。
野球の投手の様に右手を大きく振りかぶると、力を込めて思い切り振り下ろした。その瞬間、右手から圧縮されたATフィールドが刃のように使徒へ向けて放たれる。
重力も距離も、ATフィールドには何の影響も与えない。放たれた勢いそのままにATフィールドの刃は、使徒をフィールドごといとも容易く切り裂くのだった。
使徒は何の抵抗も出来ずに光り輝く身体を引き裂かれ、宇宙に四散していった。
「目標消滅!」
マヤの報告に発令所が歓喜の声で盛り上がる。
「アスカは?」
「無事です。意識はありませんが、全ての数値は正常域まで回復しています」
「精神汚染も心配ありません」
「はぁ~」
最悪の事態を免れミサトは脱力したように椅子へと腰掛ける。勝利よりもアスカが無事であることが、彼女にとって何よりの吉報だった。
雄々しく仁王立ちする弐号機を見ながら、ミサトは事後処理の指示を下す。
「救護班をケージに待機させて。弐号機回収後、アスカを直ぐに病院へ搬送するのよ」
「了解」
数値上は問題無くとも、一度は使徒の精神攻撃を受けたのだ。精密な検査を受けさせる必要があるだろう。
「レイと鈴原君も戻って。作戦終了よ」
『……了解』
『了解っすわ』
「シイちゃんも初号機待機を解除するわ」
『はい』
使徒との戦闘は物理的被害無しという奇跡的な結果を持って、幕を閉じるのだった。
アラエルは人の心を知るために、無造作に心の中を漁りました。掘り起こされる思い出にはトラウマもありますが、良い思い出もあったと言う事で。
ご都合主義かもしれませんが、ご容赦下さい。
アスカはリタイアを免れました。バタフライ効果がようやく表面に現れてきましたね。
次回もまたお付き合い頂ければ幸いです。