(ママ……)
幼いアスカは悔しさを堪えるように唇を噛みしめ、目の前の光景を見つめていた。
彼女が居るのはとある病院の精神病棟。廊下に面した壁がガラス張りになっている病室の中を、ジッと見つめるアスカ。真っ白な病室のベッドには、一人の女性が身体を起こして座っていた。
惣流・キョウコ・ツェッペリン。エヴァの開発に関わった女性科学者にして、アスカの母親である彼女は今、病室のベッドで人形を相手に楽しげな表情を浮かべていた。
「ふふ、アスカちゃん。今日はママね、貴方の大好物を作ったのよ」
人形は当然返事をしない。だが彼女だけには返事が聞こえたのだろう。
「あら、酷いわアスカちゃん。ママだってちゃんと料理出来るんだから」
(ママ……)
「ほら、駄目よ好き嫌いしちゃ。あそこのお姉ちゃんに笑われちゃうわ」
(っっ!?)
ガラス越しに見つめていたアスカを、キョウコは虚ろな瞳を向けてそっと指さす。そう、今の彼女にとっての娘は手に持っている人形であり、アスカでは無かったのだ。
こみ上げる感情を抑えきれずに、アスカは逃げるように病室の前から立ち去ってしまう。
「ふふ、私の可愛いアスカちゃん。大好きよ」
人形に語りかけるキョウコの顔は慈愛に満ちあふれていた。
※
「……夢、か。この夢見るのも久しぶりね」
目を覚ましたアスカは自分の部屋の天井を見つめて自嘲気味に呟く。身体を起こしてみるとパジャマは寝汗でびっしょり濡れており、夢見の悪さと合わさって非常に不快だった。
「はぁ、とにかくシャワーね」
アスカは大きく背伸びをしながらダイニングへと向かう。そこには朝食の支度をしているシイの姿があり、いつもより早い時間に起きた彼女に驚いた様子で声を掛ける。
「あれアスカ。おはよう。今日は早いんだね」
「まあね。どうも夢見が悪くてさ」
「怖い夢でも見たの?」
「……ある意味ね」
いつになくテンションの低いアスカに、シイは朝食の支度をしていた手を止めて心配そうに視線を送る。
「あー良いの。別に大した事じゃ無いから」
「そう……」
「てかあんた、片手で料理なんかして大丈夫なの?」
「うん、軽くは動かせるから、時間を掛ければちゃんと作れるよ」
シイは僅かながらも左手を動かして見せ、問題無いと笑顔を見せた。既に味噌汁の良い香りが漂っている事から、アスカを気遣ってのやせ我慢ではないのだろう。
「まあ、ミサトの料理を食べなくて済むのは何よりね」
「あ、あはは」
昨晩食べたミサトのカレーを思い出し、シイは引きつった笑いを零すしか無かった。
「もう出来てるの?」
「あと少し……二十分くらいで出来るよ」
「あ、そ。ならシャワーを浴びさせて貰うわ。汗かいちゃって気持ち悪いのよ」
そう言うとアスカはリビングにある洗面所への仕切りへと歩いて行く。汗はすっかり冷たくなり、冷えた身体を一刻も早く温めたかったのだ。
「ごゆっくり…………って、駄目! アスカ、今は……」
「ん、何……」
シイの制止は僅かに間に合わず、アスカは仕切りを開けてしまい、そのまま固まった。
洗面所には丁度シャワーを浴び終えた冬月の姿があった。下着をはこうとして片足を上げている姿勢、つまり全裸で。彼もまた突然のギャラリーに硬直を余儀なくされてしまう。
「あ、あ、あ」
「あ、ああ。おはよう、アスカ君」
「…………っっっ!!」
「ぬおぅぅぅ」
顔を真っ赤に染めたアスカに、冬月は男のプライドを蹴り上げられて、断末魔を上げながら床に倒れた。ビクビクと身体を痙攣させながら、声にならない呻きを漏らし続けている。
「最低! 信じらんない!」
冬月をダイニングまで蹴飛ばすと、アスカは勢いよく洗面所の仕切りを閉めた。後には芋虫のようにダイニングを這う冬月と、何とも言えず複雑な表情を浮かべるシイが残される。
「アスカ……ご機嫌斜めなのかな?」
「ひゅ~ひゅ~」
「冬月先生。服を着ないと風邪を引いちゃいますよ」
「ひゅ~ひゅ~」
男の苦しみを理解出来ないシイは、冬月の危機的状況に気づかない。結局冬月が救出されたのは、続いて起きてきた時田に発見されてからだった。
リビングにはシイの作った朝食が並び、全員揃っての朝ご飯となった。満足に左腕が動かせないため、簡単な朝食しか用意できなかったが、それでも昨晩のカレーとは比べるまでも無い。
美味しいご飯は食卓での会話を円滑にする。今回話題に上ったのは、犠牲者冬月の事だった。
「いやはや、災難でしたな」
「う、うむ。危うく男の誇りを失うところだったよ」
「ご無事で何よりです。あれは幾つになっても大切ですから」
「ほんまですわ。しっかし惣流も酷いやっちゃな」
男達は揃って冬月への同情を口にする。事情を聞けば冬月に一切の非は無く、しかも致命的一撃を理不尽に受けた。涙無しには語れない出来事だ。
「当然の報いよ。あんなものを、こんな可憐な女の子に見せつけたんだから」
「もう、駄目だよアスカ。ちゃんと謝らないと」
「はん、あの時間はあたしがシャワーに入るって決まってんの。居る方が悪いわ」
シイの注意にも聞く耳持たぬと、アスカは鮭の塩焼きを口に運ぶ。不機嫌なオーラを振りまくアスカに、シイ達は戸惑いを隠せないでいた。
(何か心当たりある?)
(昨日は普通だったんだから、その間に何かあったんじゃない?)
(……葛城三佐のカレー)
((ああ))
ひそひそと相談を交わす面々だったが、レイの一言になるほどと納得する。
(ちょ、ちょっと。確かに悪いとは思ってるけど、それでこんな不機嫌になる?)
(でも朝起きてきた時から、ちょっと様子が変でしたし)
(決まりね。ならミサト、早く謝ってしまいなさい。色々と不都合が出るわ)
内緒話を終えるとミサトは軽く頭を掻きながら、アスカへと向き直った。
「ねえ、アスカ」
「何よ」
「昨日のカレーは私が悪かったわ」
「……は?」
真剣な顔で突然何を言い出すのかと、アスカは思わずミサトを見返す。
「え? 貴方それで機嫌が悪いんじゃ無いの?」
「あんた馬鹿ぁ? そりゃ不味いカレーだったけど、作って貰った料理に文句つける程、あたしは子供じゃ無いわ」
心外だとアスカはミサトを睨む。カレーが不味かったのは否定しなかったが。
「なら、何でそんな機嫌悪いのよ」
「ちょっと夢見が……って、そんなのどうでも良いでしょ」
自分の失言に気づいたアスカは、それを誤魔化すように立ち上がるとリビングから出て行き、自分の部屋へと籠もってしまった。
「あ~あ。ありゃ相当きてるわね」
「夢見……悪夢でも見たのかしら」
「そう言えば、朝に怖い夢でも見たのって聞いたら、ある意味そうだと答えてくれました」
もしも夢が原因ならそれこそ誰の責任でも無く、自分達にはどうしようも無い。消極的な手段だが、時間が解決してくれるのを待つしか無いだろう。
「困ったわね。一度カウンセリングをした方が良いのかしら」
「おや、赤木博士はそちらも?」
「軽くかじった程度よ。気休め程度だけど、今アスカの精神状態が揺らぐのは避けたいもの」
現在初号機は委員会の指示により、無期限の凍結を命じられている。それでもネルフは三体のエヴァを有しているが、リーダーでエースのアスカの存在は、戦術面だけでなく他のチルドレン達の精神面においても重要だった。
「ただ、あの子が素直に応じるとは考えにくいわ」
「せめてどんな夢を見たのか、それだけでも分かれば……」
「多分、母親の夢だろうな」
加持の呟きにリビングに居る全員の視線が彼に集まる。この中で一番アスカとの付き合いが長い加持なら、何か知っているかもと期待が向けられた。
「アスカのお母さんは確か」
「惣流・キョウコ・ツェッペリンさん。ユイさんと同じく、エヴァの開発に携わった科学者よ」
「専門外の私でも知っていますよ。赤木博士や碇博士と並ぶ程、優秀な科学者だと」
「そうだ。そして彼女は今、心を病んで病院に入院している」
エヴァの起動実験で被験者となったキョウコが、ユイと同じくエヴァに心を飲み込まれ、精神病院に入院している事は、この場に居る全員が知っていた。
「ドイツに居た頃、アスカは良くうなされていた。その理由は母親の夢を見たからだそうだ」
「お母さんの事、大好きだったんですよね」
「俺も一度、キョウコさんを見舞った事があるんだが、あれは彼女にとってあまりに辛い姿だよ」
大好きな母親が自分を見てくれない。ただ人形に愛情を注ぐ姿を見ているしかない。母親にとって自分は他人でしかない。それがアスカの心にどれだけの傷を残したのか、シイには想像すら出来なかった。
「恐らくだが、その時の光景を夢でみたんだろう」
「ふむ。相当根が深そうだな」
「デリケートな問題ですからね。慎重に対応しないと」
大人達がアスカの対応に頭を悩ませると、不意にトウジはシイが何か考え事をしている事に気づいた。
「何や、シイ。ええアイディアでもあるんか?」
「……聞かせて」
「あ、そんな大した事じゃ無いの。ただ少し気になって……」
「……何?」
「あのね――」
シイが言葉を紡ごうとした瞬間、リビングに携帯電話の音が一斉に鳴り響いた。全員の携帯電話が同時に鳴り、着信メロディが不協和音を奏でる。
慌ててそれぞれが携帯電話を手に通話を行う。そして全員が同時に顔を強張らせた。
「「使徒!?」」
平穏な朝は、使徒襲来の知らせによって破られるのだった。
原作ではアスカにとって、エヴァを動かした最後の話になります(劇場版除く)。
タイミング悪く母親の夢を見てしまい、色々とフラグが立ってしまいましたが、果たしてどうなってしまうのか。
次回もまたお付き合い頂ければ幸いです。