こちらは東方蟲師本編の外譚となっています。本編をお読みいただいたという前提でお勧めする章ですので、まだ本編をお読みでない方は閲覧しないことをお勧めします。「私は一向に構わんッ!」という男気溢れる海王のような精神性をお持ちの方のみ、そのままお楽しみください。
山の向こうに大きな入道雲が浮かぶ夏の景色。ぎらぎらと照りつける太陽から逃げるように、森の一端の日陰に身を隠したギンコは、額に浮かぶ汗を手拭いで拭いながら、蟲煙草をふかしていた。
腰掛けるのにちょうどいい石があったのは僥倖だ。日陰でひんやりとしていたそれは、夏の時節には、氷など望めるべくもない旅の身に小さな幸せを届けてくれる。体にこもった熱を尻から石へと逃がし、ギンコは薄く煙を吐いた。
「ふぅ。今日は、特に暑いな」
里を出てはや数日。地図も土地勘もない土地を歩くのは神経を使うということもあり、最近の猛暑も相まって、ギンコの体力はかなり目減りしていた。夜毎に疲労が蓄積し、抜けていかないのだ。
そして暑さよりなにより、人に会わない。その方がかなり辛かった。歩けど歩けど行商人の一人も見えなければ、同じ旅の身なども望めるべくもない。旅の蓄えは減っていく一方だ。このままでは、旅を続けられない。
一旦人里に戻ることも考えたが、戻ったところで誰を頼ればいいのか。いや、頼ればいい人物は思い浮かぶ。ただ、数日で出戻りがごとく女の家を訪ねるのは、ギンコとしてもなんだか釈然とせず、できれば避けたいことであった。
「さて、どうっすかね」
ギンコは考える。とは言え、この暑さのせいで頭も満足に働かない。悩むだけ悩んで、あとはどうでもいいかと、日陰に体を投げ出した。
草の絨毯がひんやりと気持ちいい。懐かしくも浜辺を想起させる草の擦れる音がして、ここらで昼寝でもするかという気になる。それも悪くない。魔法の森の端っこで、ギンコは目を瞑った。
目が塞がれば、途端にいろいろな音が聞こえてくる。草の擦れる音、風鳴り。自分の呼吸音と、誰かの足音。……足音? ギンコは目を開けた。
「おっすギンコ。こんなところで何してんだ?」
反転した視界に映ったのは白黒の洋服を着たいつかの魔法使いだった。もっとも、それは自称であり、ギンコからしてみれば空飛ぶキノコ収集家と言ったほうがイメージとしては正しい。
白黒の魔法使い、霧雨魔理沙は、また籠を背負ってギンコの前に現れた。何をしているのか、と問われたギンコが答える。
「みりゃわからんか? 休憩だよ」
「そいつはいい。私も休憩しようっと」
ギンコの頭近くに籠を下ろし、魔理沙はギンコの腕を飛び越えると、帽子を脱ぎ去り、ギンコの腹の上に頭を乗せるような格好で仰向けになった。魔理沙は大きな三角帽子で風を起こすように自分を扇ぎ始めた。
「いやー今日も暑いなぁ」
「そうしてると余計に暑くなると思わんか」
ギンコは自分の腹の上に小さい頭を乗せる猫のような少女に聞く。
「知らないのか? 暑い時こそ暑いものを、っていうの」
「逆説的にすりゃなんでも健康法になると思ったら大間違いだ。暑かったら冷やせ。常識だ」
「態度は冷ややかじゃん。問題ないな」
「お前なあ……」
問答無用、と魔理沙は自分がかぶっていた帽子をギンコの顔にかぶせた。一瞬、花のような香りがした。顔に覆いかぶさったそれを、ギンコは剥ぎ取り、魔理沙の顔にかぶせた。
しばらくを無言で過ごす。日向ぼっこならぬ、日陰ぼっこで時間を潰す。
二度三度、風で前髪が揺らされた後、魔理沙が口を開いた。
「旅は順調かい?」
「正直、行き詰まってる。旅の蓄えがなくなりそうでな」
「まあ行商人とかもいないしな」
幻想郷で旅なんてしてるのはギンコくらいのものだ、と魔理沙は言う。だからと言って、ギンコも浮き草をやめるわけにはいかない。生来の体質なのか、ギンコは蟲を寄せる。寄せ続ければ、良くないことを引き起こしかねない。一つ所に止まるわけにはいかないのだ。
じゃあ、と言って魔理沙は頭を上げる。
「私が行商人役やってやるよ。へいお兄さん! 今日はいいの入ってるよ!」
思いついたように体を起こし、魔理沙は籠を引き寄せる。その拍子に、ギンコの顔に籠の肩紐がぶつかった。いて。ギンコは体を起こした。
「そうそう顔を合わせねえから行商なんだろう。今日はってなんだ今日はって」
「今日のオススメはこれ! 疲労回復に効きそうな毒キノコ!」
魔理沙の手にはおどろおどろしい彩色が施されたキノコが握られている。いや、そもそもキノコなのか? そう疑問に思わざるを得ない、名状しがたい何かが、禍々しいオーラを放っている。
「毒キノコじゃねえか」
ギンコはとりあえずそう言った。
「じゃあ解脱脱法間違いなし! マジックマッシュルーム!」
「解脱脱法とか肩書きが怪しすぎる。いらん」
「へいへい! わがままだなぁお客さん!」
膝を打ち、鼻の頭をこすりながら魔理沙が言う。威勢だけはいい行商人に、ギンコも嘆息した。
「ひでえ行商人もいたもんだ……もうちょいまともなもん売れよ」
「とは言ってもなあ。これしかないや」
「お前さんは誰かを毒殺するのが仕事なのか? まったく……」
休憩は終わりと言わんばかりにギンコが立ち上がる。ああ待った待った。桐箱を背負い直すギンコに、座ったまま手を伸ばした魔理沙が声をかける。
「ちょいと寄り道していかないか? どうせ急ぐ旅じゃないんだろ?」
「そりゃそうだが……寄り道ってなんだ?」
「私にかけられた疑いを晴らして欲しい。本当はそれが目的で声をかけたんだ」
そしてそんな誘い文句で、魔理沙はギンコに声をかけた。確かに急ぐ旅じゃない。寄り道も、この旅自体が目的地も定めないものである以上、行きづまり感のある今の道を逸れるのもいいか、とギンコは思った。なにより、疑いを晴らして欲しいということは自分の力を必要としている少女に手を貸すのは、ギンコとしてもやぶさかではなかった。
魔理沙は握手を求めるように手を伸ばしている。どう? と伺い立ててくる金色の猫目石。ギンコは少し口の端を釣り上げ、差し出された小さな依頼を握り返した。
思えばそれは唐突なものだった。
穏やかな朝の日差しに身を委ね、ふわふわの布団から染み出してくるようなまどろみから抜け出そうと、アリスがやんわり抵抗を続けていると、衣擦れの音だけが支配していた部屋に突如として闖入者が現れ「私への疑いを晴らしてやる! 首を洗って待ってるんだな!」と言い放ち、嵐のごとく去っていった。
その闖入者は、白黒の衣装に身を包んだ少女、霧雨魔理沙だった。
アリスが魔理沙に持つ疑いというのは、最近の妙な失せ物騒動の犯人なのではないかというものである。
それは戸棚を開ければそこにあったはずの食材や人形の材料なんかが忽然と消え去り、もぬけの殻になっているというアリスの家の異変であるが、その原因が、魔理沙の手癖の悪さにあるのではないかとアリスは思っていた。
もちろん、アリスにそれらを消費した憶えはない。だからと言って真っ先に魔理沙を疑うのもどうかとは思うが、彼女の手癖の悪さは幻想郷随一であることからも、疑いを持つのは無理からぬことであった。
しかし証拠があるというわけでもない。そんなわけで、最近は妙に物が無くなるという悶々とした日々を、アリスは過ごしていた。
魔理沙が疑いを晴らす、と言ったのは、自分は犯人ではない、と言っているということだが、どのようにして疑いを晴らすというのか。アリスにはそれがわからなかった。首を洗って待っていろと言われたが、何をしていればいいのかもわからない。
だからとりあえず、アリスは外出を避け、自分が昨日から続けていたある作業を再開していた。
「ふう……」
アリスは一息つこうと動かしていた手を止め、背筋を伸ばした。
アリスがしていた作業というのは、自分の操る人形の服を作成することだった。魔法で染色された絹糸を小さな洋服へと縫い上げていく。それは何度も繰り返された動作であることを象徴するように、見事な出来栄えであった。
アリスが休んでいる間も、人形は紅茶を淹れるために動いていた。アリスの肘から先程度の全長がある西洋の人形。木を削り、球体関節を器用に動かし、数人がかりで紅茶を入れるために奮闘している。その様子を、子供を見つめる親のような視線で、アリスは眺めていた。
アリス・マーガトロイドは魔法使いである。そして、魔力で伸ばした見えない糸を使って、人形をまるで生きているように操ることが彼女の魔法であった。
人形たちが紅茶を淹れ終わる。一体の人形が差し出すカップを受け取り、アリスはありがとう、とお礼を言った。
「……ん、おいし」
アリスの感想を聞き、人形たちは手に手を取り合って喜んでいる。本当に生きているようなその仕草は、人形を彼女が操っているのだということを、見るものに忘れさせる。
「さて、あ……」
しまった、とアリスは思った。縫製に使う糸が切れかかっていたのだ。洋服を縫う作業を続けるには、新たに糸を紡がなければならない。
アリスの紡ぐ糸は蚕からとれる生糸である。必要な繭は、昨日のうちに採ってきているのを見れば、自分の用意の良さに感心する。
窓際の糸車の横にある鍋を、火にかける。繭もそのそばに置いてあった。
糸を縒るべく窓際の椅子に腰掛けると、そこで家の扉を叩く音がした。
火をそのままに、玄関へと向かう。十中八九見知った顔であろう訪問者に、警戒心もなく扉を開けた。
「いらっしゃい……あら?」
変化は唐突に訪れた。それは目に見えた変化。景色が一変し、自分の部屋が消え去り、辺り一面に闇が塗りたくられている。何が起こったのか。思わず後ろを振り返り、次に右と左をくまなく見渡してみても、ここがどこだかわからないのは変わらなかった。
明かりをつける。魔法で灯したそれに、浮かび上がるのは驚愕の光景だった。
そこはどこかの洞窟だった。息を呑むような大空洞である。ごつごつとした岩場が縦横無尽に這い回り、深い闇を誘う洞の先へと、大口を開けてアリスを待っていた。
「何が、どうなっているの……?」
漏らしたつぶやきは、広く、広い空洞に、静かにこだました。
「ん? アリス?」
魔理沙は奇妙な思いだった。確かに今、自分の友人が扉を開けたと思ったのに、力なく開いていくそこには誰に姿も見られない。
「どうした?」
魔理沙のおかしな様子に、ギンコが声をかける。ん、いや……、と魔理沙も歯切れの悪い返事をする。正直何が起こっているのかわからなかったのだ。
魔理沙の誘いで、ギンコはアリスの家にやってきていた。急ぐ旅でもなし、寄り道感覚でお茶会とやらに参加しないかと誘われたのだ。だが魔理沙の様子がおかしい。ギンコも、目の前で揺れ動く半開きの扉を前にして、何か嫌な予感がしていた。
魔理沙が扉に手をかけてゆっくりと開く。
「アリス?」
呼びかけに応じる声はない。魔理沙は玄関で靴の泥を少し落とし、そのまま土足で家の中に足を踏み入れる。家の中には人がいない。
「家主がいないぜ」
「出かけてるんじゃないのか」
「じゃあ今中から扉を開けたのは誰なんだ?」
「それは……わからんが」
二人は首をひねった。
そうしても始まらないと、ギンコも家の中に足を踏み入れた。後手に扉を閉め、部屋の中を見回した。
先の出来事がなくとも、そこは奇妙な部屋だった。部屋のいたるところに、乱雑に人形が置いてある、はっきり言って威圧感のある部屋だ。威圧感というのは人形からの視線に他ならない。人形には魂が宿るという迷信もあるが、部屋にある人形はどれもが精巧に作られているが故に、その迷信に信憑性を付与して、ギンコの心に入り込んできた。
部屋の中央には、ギンコには馴染みのない紅茶と焼き菓子が白いテーブルに置いてあった。食事でもとっていたのだろうと、ギンコは解釈した。
「おいギンコ」
「ん?」
魔理沙がギンコに話しかける。ギンコが部屋の中心から魔理沙のいる窓際へ視線を移せば、魔理沙は火にかけられている鉄鍋を見ていた。
「鍋が火にかけてある。さっきまでここにアリスがいたんだ」
「それは?」
「繭を湯がく鍋だろうな。近くに繭も置いてあるし、何より糸車がある」
「なんだと?」
それを聞き、ギンコは顔色を変えた。そんなギンコの様子に気がついたのか、振り返った魔理沙はギンコに聞いた。
「何か心当たりがあるのか?」
「……もし俺が考えていることが本当なら、これはまずいことになったぞ」
とりあえず、そこらの扉を不用意に開けるな、とギンコは言う。そして魔理沙に事情を説明するため、滔々と語り出す。
「お前さんの友人は、虚穴にのまれたのかもしれん」
「うろあな?」
「ああ。ウロ、という蟲がいてな。こいつらは、密室を見つけては、虚穴という世の風穴のような異界への道を作る。もっとも、密室の外には長くいられん蟲だ。特定の場所で出会わなければ、別段害もない、が……」
ギンコは語る。重く、語る。魔理沙はその語りを聞き、ゴクリと喉を鳴らした。
「もし、密室の中でウロと出くわしてしまったら、その密室が開かれる瞬間に、逃げ出すウロと一緒にその虚穴に引きずり込まれる」
「じゃ、じゃあアリスは……」
「おそらく、玄関を開けた拍子に逃げ出すウロと一緒に……引きずり込まれたんだろう」
「どうしたら戻ってこれるんだ? いや、そもそも戻ってこれるのか?」
なあ、ギンコ、と不安げに聞いてくる魔理沙に、ギンコは冷酷に伝えた。
「虚穴に飲まれた後、その人物が戻ってくる可能性はひどく低い。虚穴とはこの世にあるすべての密室へと通じている大空洞だ。もし虚穴を出られたとしても、そこは中から開けることのできない密室へ通じているだけだ」
魔理沙は絶句した。ギンコも口をつぐみ、嫌な沈黙が、家主のいなくなった部屋に流れる。ぐつぐつと沸き立つ鍋の音だけが、アリスの痕跡を主張していた。
どうしたものか、ギンコは考えた。もし虚穴に飲み込まれたのなら、自力で戻ることなど不可能と言っていい。こちらも虚穴に潜り、探すという手も考えられるが、虫こぶを探すところから始めなければならないのは、現実的とは言えない方法だった。
「そうだ! ギンコ!」
同じようにアリスを連れ戻す方法を考えていたのか、魔理沙が何か思いついたように顔を上げた。なんだ、とギンコが返事をする。
「アリスは異界に飲み込まれたんだよな? ならスキマ妖怪に力を借りればいいんじゃないか?」「スキマ妖怪って言えば……八雲紫だったか」
ギンコは自分がこの世界、幻想郷に来るきっかけとなった人物のことを思い出した。確かに彼女の能力を使えば、虚穴への侵入も容易になるだろう。ギンコは魔理沙の提案に頷いた。
「いい案だ。だが俺は彼女がどこにいるのか知らんぞ」
「私も知らん」
「……おい」
ダメじゃねえか、とギンコが呆れると、魔理沙は大丈夫だ、と言い返した。
「博麗神社に行けばなんとか遭遇できるかも。とにかく行ってみようぜ」
そう言って家の玄関に手をかけた魔理沙を、ギンコが制した。
「おいちょっと待て、この部屋も今は密室だ。俺たちはお前の友人の二の舞になるかもしれんぞ」
「え? じゃあどうすんだよ」
「こうするんだ」
ギンコは蟲煙草を咥え、鍋の下で燃える火に近づいていく。そしていつものように先端に火を灯したその茶色い葉巻を吸い上げると、部屋の中に紫煙をまぶすように、薄く吐き出した。
「こいつが反応すれば、近くにウロがいるって事になる」
「へえ。便利なもんだな」
「……どうやらいないようだな。扉を開けていいぞ」
「お、おう」
言われた魔理沙が恐る恐る扉を開ける。そこには魔法の森の緑が、消える事なく目の前にあった。
「よし、じゃあ博麗神社に行かないとな」
「ここから歩くとなると、かなり距離があるんじゃないのか?」
「あ、それもそうだな。うーん、今は箒もないし……じゃあギンコはここで待っててくれよ」
そう言い残し、魔理沙は空中に浮き上がる。箒がないと飛べないわけではないようだ。一人残されたギンコはとりあえず、桐箱を下ろした。
「火でも落とすか……」
鍋にかけられている火を思い出し、ギンコはそう呟いた。家の中にとって返し、玄関は開けたままで火にかけられている鍋を見た。
「これはどういう仕組みなんだ……?」
ギンコはそこで困惑した。アリスが用いていた火元は魔法による焜炉だった。煌々と灯る炎らしきものに熱は感じられても、それを消す方法はわからない。
うーむ、とギンコが考えていると、部屋の中にある人形が動き出し、ギンコの目の前にやってきた。
「な、なんだ?」
人形が動いたことにも困惑したギンコだったが、人形がふわりと浮き上がって、焜炉へと近づいていくのにも驚いた。人形がその小さな手を火にかざすと、火はたちまち消え失せた。どういう原理かはわからないが、滑らかに動く人形を見て、ギンコは顎を撫でた。
「絡繰りでも使ってんのか?」
ギンコはますます困惑するとともに、人形に興味を惹かれていった。その時だった。
ごとごと、と両開きの扉が据え付けられたクローゼットが、ギンコの背後で揺れた。扉には金具が取り付けてあり、外から固定されている。つまりは、中からは開けられない仕様になっていた。まさか……とギンコは疑いつつも、金具をいじり、扉を開けた。
「はー、やっと出られた……あら?」
「よう、邪魔してるぜ。てかお前さん、魔理沙が言ってたアリス、という娘でいいのか?」
「そうですけど、あなたは?」
「……こりゃたまげた。どうやって虚穴から戻ってきたんだ」
ギンコは名乗りも忘れて、心底驚いた。アリスはそんなギンコの様子を訝しげに見つめ、首をかしげた。
「うろあな? なんのこと言っているのかわからないけれど、人に名前を聞いておいて、自分は名乗らないのはどうかと思うわ」
「こりゃ失礼。蟲師のギンコという。初めましてだな」
「はい、初めまして。アリス・マーガトロイドよ。でもむしし? のぎんこさん? がなんで私の家にいるのよ。もしかして泥棒?」
「いや、状況的にはそうかもしれんが……こっちも混乱してるんだ。ちょっと話をする時間をくれないか」
「いいけど……」
アリスの許しを得て、ギンコは空き巣の汚名を返上するべく、言葉を交わした。
「……ふーんなるほど。私が飛ばされた場所は、そんなに危険な場所だったの」
「ああ。迷い込んで、早々帰ってこられるところじゃない。俺がわからんのは、お前さんがどうやってここの部屋の密室まで帰ってきたのかってことだ」
ギンコは部屋の中にある白い椅子に腰掛け、テーブルを挟んでアリスと向き合っていた。
アリスが鍵付きのクローゼットの中に現れたのは数分前。ギンコはアリスに、アリスが迷い込んでいた場所の詳細を話していた。
アリスが淹れた紅茶を啜り、ギンコはアリスに疑問を投げかける。どうやって彼女は、自力で虚穴から抜け出してきたのか。アリスは少し考えた後、一つの答えをギンコに聞かせた。
「それは私が魔法使いだからでしょう」
「魔法使い……」
「そ、魔法使い」
そう言ってアリスは紅茶を飲む。白い陶器がかちゃり、と音を立て、ゆっくりと口元へ運ばれる。
ギンコはぽつりと呟く。魔理沙も名乗っていた魔法使いという職業。ギンコにはわからぬ、未知なる領域で己の知識を振るうものたち。その智恵で、今回のことも解決してしまったというのなら、この娘は魔理沙よりも高度な知識を持っているということになる。
ギンコはアリスの次の言葉を待っていた。目を瞑り、優雅に紅茶を飲むアリスを見る。そうしているギンコの頭の上に、ぽふり、と何かが覆いかぶさる感触があった。
ギンコは思わず頭の上に手を伸ばす。頭の上にあったのは人形だった。原理はわからないが、自立して動くそれ。
ギンコは人形を手に、じっと見つめる。魔法使い。未知なる知識。もしや、とギンコは思った。
「……この人形、お前さんが動かしているのか」
「あら、察しがいいんですね。そうです。私が目に見えない魔力の糸で操っている糸人形です」
「糸……そうか」
ギンコは人形を手放す。ふわりと浮き上がったそれは、もう一度ギンコの頭の上に陣取った。ギンコはもう一度それをどかそうとはせず、アリスに言葉をかける。
「その糸をたどってきたんだな。焜炉の火を消した人形の糸を」
「そうです。結構大変だったんですから。虚穴って広いんですね」
「……そんな簡単なことじゃねえんだがな」
あっけらかんと言い放つアリスに、ギンコは呆れて嘆息した。
「そういえばギンコさん? 虚穴どうのこうのはわかったけど、あなたがここにいる理由をまだ聞いてませんでしたね」
「ん、そうだったな」
アリスにそう尋ねられて、ギンコは自分がここに来た理由を思い返した。疑いを晴らして欲しい。そう、魔理沙に頼まれてやってきたのだった。
「魔理沙に誘われてきたんですよね? 魔理沙は何か言ってました?」
「ああ。私の疑いを晴らして欲しい、とかなんとか」
「なるほどね。じゃあ本人はいないけれど、もう疑いは晴れたってことで」
「そうなのか?」
アリスはこれまた簡単に言った。
アリスが魔理沙にかけた疑いというのは、窃盗の容疑。アリスの家の戸棚の中身が、忽然と消え失せるという異変の犯人が、魔理沙なのではないかというものだった。だがアリスは、自身が巻き込まれた不思議な体験と、ギンコがした蟲の話から、その疑いを晴らしていた。
「はい、ウロの話を聞いたら納得がいきました。戸棚の中身がなくなってたのは、魔理沙のせいじゃなかったみたいですね」
「そんな疑いをかけられていたのか。あいつは」
ギンコは、ここにはいない白黒の魔法使いに向かって嘆息した。
「でもギンコさん。そのウロという蟲に、これ以上振り回されるのも面倒なのですけれど、何か対処法はご存知ないの?」
「ん? ああ、そうか。そういうことは、お前さんにもわからないんだったな」
ギンコはやっと自分の本領になったかと、重い腰をあげるように語り出した。頭頂部から後頭部にかけてしがみついている人形が鬱陶しかったが、なるべく意に介さぬように、ギンコはアリスへと話しかける。
「お前さんは繭から採糸をしているようだが、その時、空になった玉繭を拾ってきたことはないか?」
「ええ。変だなとは思いましたけれど、蚕が中にいないのなら殺してしまうこともないし、便利だと思って持って帰ってきてました。それが何か?」
「ウロってのは、そういう繭に住んでいる。空の玉繭をとらんようにすれば、これ以上ウロがわくこともないだろう」
「へえ。そうだったんですか。知りませんでした」
「普通の繭を取っている分には問題はない。気をつけてみてくれ」
「わかりました。これからはそうすることにします」
アリスはギンコの話を聞き、指示を受け入れた。
「しかしこれで解決となると……魔理沙は無駄足ってことになるな」
「そういえば彼女、今どこに行っているんです?」
「博麗神社だ。お前さんが虚穴に取り込まれたと教えたら、スキマ妖怪に助力を求めようと言い出してな」
「まあ、そうでしたか。ふふ、ちょっと嬉しいわね」
そう話していると、噂をすればというタイミングで、魔理沙がアリスの家に帰ってきた。半開きだった玄関の扉を開けて、魔理沙が飛び込んでくる。
「すまんギンコ。スキマ妖怪はどこにいるか分からなかっ……てアリス!?」
「あら、魔理沙。ご苦労様」
ギンコと白いテーブルを囲んでいるアリスを指差して、魔理沙は言う。
「お前! なんかわけわからん穴に取り込まれたんじゃないのか!?」
魔理沙は驚きを隠せないといった様子で、ギンコとアリスを交互に見る。ギンコはそんな様子の魔理沙を見て、肩をすくめた。
「人形についた糸を手繰って戻ってきたのよ。ついでに、今はあなたが連れてきたギンコさんとも話し終わって、あなたへの疑いも晴れたところ」
「……はあ〜。なんだよそりゃ。私は文字通り、とんだ無駄足じゃないか」
魔理沙はその場にしゃがみ込んだ。ギンコの頭から離れた人形が、魔理沙の所まで飛んでいき、その沈む肩を叩いた。
「ええ。だから、ご苦労様」
口元を押さえて、くすくす、とアリスは笑っていた。
「いいのか? こんなにもたせてもらって」
「ええ。異常の原因を教えてもらって、対処法も教えてもらったんですから」
ギンコはアリスの家の前で、缶詰に入った焼き菓子を受け取っていた。ウロによる被害を知らせてくれたお礼だという。ちょうど日持ちする旅の糧食を求めていたギンコにとって、これは嬉しい報酬だった。
そんなギンコの隣で、頬を膨らませているものがいる。
「ちぇ、なんだいギンコだけ。私には何もないのかよ」
「あんたはさっき貪るように食べたでしょう。口元の食べカスをなんとかしなさいよ」
「うえ、まじか」
アリスに指摘され、魔理沙は右手の指先で唇を拭う。そのあと、小さな舌を出して、指先をペロペロと舐めていた。いちいち仕草が猫っぽいやつだ、とギンコは思った。
「ギンコさん、改めて、ありがとうございました」
「いやぁ、あんまり礼を言われるようなことはしてないと思うがね」
そう言ってアリスは丁寧にお辞儀をした。ギンコはその礼を受け取り、頬を少し掻いた。
まさしく、今回ギンコは何もしていない。蟲に関わったアリスへと、少しばかり助言をしただけだ。ああ、ほかにもあったか、とギンコは自分の功績を思い出し、アリスへと別れの挨拶をする。
「そんじゃ、まあ。くれぐれも、空の玉繭にだけは気をつけてくれ。今度は金具を開けてやれんからな」
「ふふ、ええ。心得ました」
笑顔のアリスに見送られて、ギンコは再び歩き出した。
魔法の森を抜けるまでの間、魔理沙はギンコについてきていた。アリスの家から、魔法の森を抜けるまでは、ギンコが魔理沙と出会った場所よりは比較的薄く茂る森を通ることになる。木々の切れ目から夕暮れへと傾き始めた空が見える。
「しかしあれだな。ギンコはさすがだな。私が説明する前に、私の疑いを晴らしてくれたんだから」
「それは偶然だろ。おい、あまり食うなよ」
魔理沙はぽりぽりと焼き菓子をかじっている。それはギンコがアリスに貰ったものであり、ついさっき魔理沙に掠め取られたものだ。
「ギンコはこれからどうすんだ?」
「とりあえず野宿できる場所を探す。まあどこでも変わらんけどな」
「ふうん。じゃあうち来るか? 反対側だけど」
「お。いいのか?」
いいぜ、と魔理沙はギンコに缶詰を返す。その中にはもう、焼き菓子は入っていなかった。
「……お前、全部食ったな」
「あはは、うまかったぜ」
「このやろう……」
さすがに申し訳なさそうな表情を浮かべる魔理沙を見て、手癖が悪いと言っていたアリスの心情を思う。確かに、真っ先に疑われる要素は備えているように、ギンコは思った。
じゃあうちに行くか、と踵を返した魔理沙に続くように、ギンコも足の向く先を翻す。
「夕食は用意してくれよ、頼むから」
「任せろ。きのこ汁作ってやるよ。……当たり外れはあるかもしれないけど」
「勘弁してくれ……」
後に続くギンコは、その一言でいきなり足取りが重くなった。
日は落ちる。夜が近づく。雨風が凌げるだけでも僥倖だと思うしかない。
調理には自分も立ち会おう。そう、ギンコは決意した。
はい。お疲れ様でした。今回はアリスの回です。本編でも出そうかと思っていたんですが……まあこういう形での登場となりました。ウロさんをものともしない感じが幻想郷らしくていいと思います。
それではまた次回、お会いしましょう。