幻想奇譚東方蟲師   作:柊 弥生

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※注意※
こちらは東方蟲師本編の外譚となっています。本編をお読みいただいたという前提でお勧めする章ですので、まだ本編をお読みでない方は閲覧しないことをお勧めします。「私は一向に構わんッ!」という男気溢れる海王のような精神性をお持ちの方のみ、そのままお楽しみください。


東方蟲師『外譚ノ章』
言海の代(第二章後幕間)


ーーーーー『言海(げんかい)()』ーーーーーーーーーーーー

 

 足の傷が塞がりかけている今、ギンコのすることはほとんどない。暇そうに、とある家の縁側で蟲煙草を吹かしながら、ギンコは足の具合を確かめていた。

 そろそろ歩けそうな具合だ。包帯を巻いた片足を立て、ちょいと力をかけてみる。鈍い痛みが走るが、力が入らないというわけではない。縁側から立ち上がり、庭先へと足を踏み出した。

 足を少し引きずるような格好になったが、問題なく歩ける。ふと空を見上げれば、そこには陽気な晴れ間が覗いている。だがしかし、よくないものも一緒に、視界の端に映った。

 それは庭に生える一本の木。夏の盛りも最高潮の今に青々と葉を茂らせるそれに、絡みつくように小さな存在がだまになっていた。

 ギンコは蟲煙草の煙を、そのだまになっている存在に吹きかけた。ぼんやりと光を放つそれらは、煙にまとわりつかれた後、豆腐を握り込んだみたいにだまが潰れて、ひとつひとつに分かれて散っていった。

 

「お、杖なしで歩けるようになったのか」

 

 そんな風に蟲を散らしていると、ギンコの背中に声がかかった。この家の家主である、寺子屋教師の上白沢慧音だった。家の中から、障子の敷居越しに、ギンコに話しかけたようである。

 

「ああ。そろそろ、ここも立とうと思う」

「そうか? 少し気が早いんじゃないか?」

 

 そう言いながら縁側に出てきた慧音の背には一人の赤ん坊が背負われている。蟲の子でありながら、人の子と変わらぬモノ。竹林に住む炭屋の少女に、筍の子供、筍子と名付けられたその赤ん坊は、今日は彼女に預けられているようだった。

 気が早いこともないさ、とギンコは慧音に言う。

 

「むしろ長居が過ぎるほどだ。ここらは蟲が少ないからどうにかなるかとも思っていたが、いよいよ集まり始めたようでな」

「そうなのか? 私は見えないからよくわからないが」

 

 よしよし、と慧音は赤ん坊をあやしている。

 ギンコはとある特殊な体質を持っていた。それは蟲を寄せるという体質。一つ所に留まれば、そこを蟲の巣窟にしてしまうという奇異なもの。それがあるから、ギンコは根無し草として流れ流れている。

 幻想郷にはどういうわけか蟲が少ないので、ギンコでも長居できる場所はあり、人里はまさにその土地だったが、さすがに長居が過ぎたようで、最近はよく、家の周りで蟲を見るようになった。

 ひょこひょこと少し足を引きずるように歩いて、ギンコが縁側に腰を下ろす。そして蟲煙草を地面に落とし、健常な足の方でそれを踏みにじった。どうも最近は子供の近くにいると、煙草を消す癖がついているらしい。最初から口うるさく注意していた炭屋の少女を思い出した。

 

「そうだ、ギンコ。頼みたいことがあるんだが、いいか」

「なんだ、改まって」

 

 日頃、というかここ最近は世話になりっぱなしの慧音の頼みならば、よほどのことでない限りは聞き入れよう、とギンコは構えた。

 

「足が治ったなら、ちょっと届け物をしてほしいんだ」

「届け物?」

 

 そうだ、と慧音は頷いた。その動きを、ギンコは座ったまま首だけで見上げる。

 

「私が書き留めた歴史の書物を、稗田家まで届けてほしい。頼めるか?」

「あー……」

 

 ギンコはその頼みで、慧音が満月時に見せた姿を思い出していた。陶器のような白さを持つ二本一対の長い角を頭から生やし、若草の汁で薄く染め上げたような色の尻尾を波打たせていた異形の姿。

 彼女いわく、満月の夜にその姿となって幻想郷の忘れられた歴史を紙に記すのだそうだ。一月にたまった仕事をまとめて片付けているらしく、気が立っているのであまり近づくなと言われたのは、満月の夜が終わった今目の前にいる慧音にである。事前情報が少なかったギンコは、その姿に驚き、気が立っていた彼女に撞木の如き頭突きを食らって昏倒してしまった。それはそれは、なんとも苦い経験だった。

 

「なんだ。満月の時は悪かったよ」

 

 それを察したのか、慧音は少し照れくさそうに謝罪した。

 

「いや、根に持ってるわけじゃねえよ」

 

 ギンコは慧音の謝罪に対し、少し口の端を釣り上げた。

 

 

 

 

 

 筆を手に取る、というのは、もう彼女に対して使う言葉ではないのかもしれない。それほどまでに、筆という存在は彼女にとって、自然な存在となりつつあった。

 珍しくも筆を置き、固まった背筋を伸ばす。今朝から硯に向かい続けて、もう昼過ぎだ。食事もとらずに、ここ最近は編纂ばかりしている気がする。こうして使命に没頭している間は、余計なことを考えずに済むからだろうか。彼女はとにかく、没頭することで何かを考えないようにしていた。

 鳥の囀りが聞こえる。メジロだろうか。中庭の木に、番の鳥がやってきた。

 立ち上がり、和室を出て、文字の海から逃げ出すように、日の光を仰いだ。手で作った庇の向こうには、雲がまばらに広がる青空が広がっている。陽光に照らされ、熱を持つ頰が心地よく、なんとなく、中庭に出てみようという気になった。

 縁側に座り、足袋を脱ぐ。汚してしまっては申し訳ない。そう思えるくらいの、輝かしい白。何度も履いているはずなのに、一向にすり減らない白い足袋は、ただ履いて脱いでを繰り返しているだけで、私の生き方を象徴しているようだと、彼女は思った。

 玉砂利の敷き詰められたそこは、少女の素足には少し熱いくらいの熱があった。思わず裸足で降り立ったことに後悔しながら、それでも彼女は、後ろではなく前に進んだ。

 薄く、苔のような草が生える土の地面に足を乗せる。熱を持った足の裏が、ひんやりとした土をつかんだ。目の前には、剪定されて整えられた松の木がある。切りそろえられた針葉樹は、人間には美しくとも、自然とはどこか離れているようで、鳥たちは落ち着かないように、枝から枝へと忙しなく移動していた。

 松の根に腰を下ろす。ごつごつした幹に触れる。私は何をしているのだろうか。こんなことをしても何の意味もない。それはわかっているのだ。

 編纂を続けなければ。そう思っていても、今日はなんだか気怠げな思いが胸中を占めていた。

 

 

 

「ここか……」

 

 表札に書かれている稗田の文字を読み、ギンコは目的の場所にやってきたことを確認した。

 稗田家は里の中心近くにあった。

 慧音に頼まれた歴史書は風呂敷に包んで左手に持ち、右手では杖をついている。門戸をたたくため、杖を左手で持ち直し、ギンコは立て付けのいい木の戸を右手で揺らした。

 しばらくして、はーいただいま、と戸の向こうから声が聞こえた。がたごと、と裏側で閂を外す音がして、戸の隙間から若い女が顔を出す。

 

「どちらさまでしょう」

「ギンコと申します。上白沢さんから、届け物を頼まれましてな。こちらを」

 

 そう言ってギンコは左手に持っていた風呂敷を少し持ち上げて見せた。深い緑色の包みに視線を落とし、ギンコの顔を見る。しばらく、その奇異な見た目を品定めするように、見つめた。

 

「……もしかして、蟲師のギンコさんというのはあなたのことで?」

 

 そして唐突にそんなことを聞いてきた。そうですが、とギンコが答えれば、木の戸は素早く開け放たれた。

 

「そうでしたか。あなたのお噂は伺っております。あの、宜しければぜひお上りください」

「いや、こっちは届け物しに来ただけだし」

「そう言わず。ぜひお願いいたします」

 

 頭を下げつつ、頼み込む侍女らしき女性の姿に折れたのか、ギンコは二度、断ることはしなかった。

 

「んじゃ、お言葉に甘えて」

 

 そう言って、ギンコは稗田家の敷居をまたいだ。

 

 

 

「少々お待ちください。今世話役を呼んで参ります」

 

 風呂敷を傍らにおき、ギンコは座卓の一端に腰を下ろした。

 通された和室は、床の間に飾られた書といい、壺といい、部屋全体の基調が抑えられつつも気品を感じさせる空間作りがなされていた。慧音の家とは違う雰囲気。とても格式高いと言えばいいのだろうか。不思議と落ち着くようだ、とギンコは思った。

 湯飲みを手に取り、ふと左を見る。開け放たれた障子戸の向こう側には、手入れされた松の木がある中庭が見えていた。

 素朴な庭。この部屋と同じように、丁寧だが派手さがない。そんな中庭を眺めていると、ギンコは松の木の根元に背を預けて丸まる、子供らしき人影を見た。ギンコの口元に近づけられた湯飲みが止まる。

 何をしているのだろう。日差しが穏やかな、過ごしやすい夏の午後に、午睡でも楽しんでいるのだろうか。じっとその様を眺めていると、失礼します、と男の声が聞こえた。声のほうを振り向くと、襖を開けて、一人の男性がギンコの方へ頭を垂れていた。

 

「ようこそお出でくださいました、蟲師のギンコ様」

 

 いきなり様扱いとは、仰々しい歓迎だとギンコは思ったが、とりあえず不快な思いはなかったので、湯飲みを置いて男性に向き直った。その間に、男性は敷居をまたいで襖を閉じた。

 その人は初老の男性だった。白髪の混ざり始めた頭髪は綺麗に整えられ、深く掘り返したような土の色の着物を丁寧に着こなした身なりのいい男は、頭を上げると皺の目立つ朗らかな笑顔を浮かべていた。

 

「里をお救いいただいたこと、里の者ら、また一族を代表して、改めて御礼申し上げます」

「いや、そんなかしこまるほどの事でも。俺はできる事をやっただけですよ」

「それでも、あなたのしたことは偉大です。里の医者も匙を投げた病を治したのですから」

 

 そう手放しに称賛を送られれば、なんだかむず痒い思いがする。ギンコは首を撫でて、へえ、と答えた。

 

「申し遅れました。私はこの稗田家で世話役を任されております、志辻(しつじ)と申します。どうぞ、お見知り置きを」

「んじゃあ、ご存知かとは思いますが、俺も一応」

 

 すでに歓迎された後だったが、ギンコは改めて名乗った。

 

「蟲師のギンコと申します。あの、稗田家っていうのは里の顔役かなんかで?」

 

 ギンコは初老の男性に尋ねた。周囲の民家とは一線を画す雰囲気に、つい尋ねてみたくなったのだ。しかし、志辻はギンコの言葉を否定した。

 

「顔役など、そんな大層なものではありません。うちは代々、幻想郷の歴史を編纂しておりますだけのこと」

「へえ」

 

 歴史の編纂。慧音に持たされた資料も、彼女が書き留めた隠された歴史だとか言っていたな、とギンコは思い出していた。

 歴史。ギンコには最も縁遠くも、身近な言葉かもしれない。それは過去として積み重ねられた記録のこと。自分の過去すら曖昧なギンコにとって、蟲師としての知識がそれに当たる。

 過去の人物たちの経験。ギンコはそれを知っているだけだ。自分の経験は、ある一時を境に綴られ続けているものの、そこから向こうは忘却という闇の中にある。

 

「歴史ってのは、この場合何を指してらっしゃるんで?」

 

 ギンコにとっての歴史が蟲師としての知識だとするなら、例えば上白沢慧音の歴史は寺子屋の教師としての経験だろう。歴史は受け止める側によって、その姿を変える。ギンコは稗田家が一体どんな歴史を記録しているのか聞いた。

 

「そうですね……幻想郷そのものの記憶とでもいいましょうか。ありとあらゆる記録、特に魑魅魍魎に関する勢力を調査したものが主です」

「へえ。妖怪とか、そう言ったものを?」

「ええ。人里において、危険区域の注意喚起を行うためには、必要不可欠なので」

「おお。じゃあここには幻想郷の地図が?」

 

 ギンコは地図が欲しい。これから幻想郷を旅して回る身の上なら、絶対に必要になる。ここでそれが手に入るなら、言うことはない。身を乗り出したギンコに、しかし志辻は首を横に振った。

 

「地図はありません。あくまで人里を中心と考え、どの方角に何があるか程度のものです。ご期待に添えず、申し訳ない」

「そうですか。いや、こっちこそ厚かましいことを言いました」

 

 ギンコの期待は空回りだったが、もともと手に入るとは思っていなかったものだ。厚かましいというのもその通りで、ギンコの謝罪で、この件はお互い様となった。

 

「そういえば、今日は上白沢様の代理でお届けものをしていただいたとか」

 

 思い出したように、志辻が言う。様付けの呼称は、この家では平常運転のようだ。

 

「ああ。なんでも歴史を書き留めたものだと」

 

 渡されたときこそ首をかしげたギンコだったが、今思い返せば風呂敷の中身は幻想郷についての資料ということになるのだろう。風呂敷を持ち、ギンコは志辻の前にそれを置いた。志辻はそれを受け取り、少し風呂敷を広げて中身を確認して、再びギンコに頭を下げた。

 

「ありがとうございます。確かに受け取りました。上白沢様にも、よろしくお伝えください」

「ええ。承りました」

 

 それとついでと言ってはなんですが、と風呂敷を縛り直しながら志辻は続けた。

 

「お時間よろしければ、これから会って頂きたい方がおります。よろしいですかな?」

「ええ、構いませんよ」

 

 ここまでくれば一人会うのも二人会うのもかわりはしない。ギンコは二つ返事で、志辻の申し入れを承った。

 どうぞこちらに、と志辻は座卓をまたいで向こう側、ギンコからすれば座卓の左側、中庭の見える通路へとギンコを促した。その途中、またギンコは中庭の松の木を見た。手入れされた根元にはもう、童の姿はなく、小さな足跡が付いているだけだった。

 中庭をぐるっと回るようにして、客間と真向かいの部屋を目指す。その途中で、志辻はギンコに言った。

 

「これからお会いいただくのは我が稗田家のご当主です。いつもは編纂に勤しんでおられますが、今日はどうも筆が乗らぬご様子でして、ギンコ様のお話をお聞かせ願えればと……」

「俺の話? あいにくと、こっちは語るべき過去も持ち合わせちゃおりませんが」

「ご謙遜を。蟲というものに対しての知識や理解は抜群でありましょう。そうでなくとも、ここまでの物腰を思いまして、知識人であるというのは明瞭です」

「へえ、じゃあ俺は、ご当主様の暇つぶしの相手をすればいいと」

「有体に申し上げるならばそういうこともなきにしもあらず、でしょうか。しかしギンコ様なら、ご当主様にお会いしていただければ私どもの意図を察していただけると思っております」

 

 つきました。と志辻は一つの障子戸の前で足を止めた。歴史書の編纂に勤しむ家系の当主。いったいどんな人物なのだろうか。ギンコは知らずのうちに深く呼吸をして、その障子が開け放たれるのを見送った。

 

 

 

 

 ハッとして、私は目を覚ました。どうやら少し眠ってしまっていたらしい。かくり、と重力に負けた首が地面に引っ張られ、少々驚きの目覚めだった。

 眠っていたのはほんの少しだろう。家の者にばれていないのが証拠だ。固まった背筋を伸ばし、きょろきょろと辺りを見渡す。誰もいない。よし、ばれていない。そうして静かに立ち上がり、ふと後ろを振り返った。

 中庭の向こう。障子戸の先にいる来客に視線を向ける。誰だろうか。遠目からでもわかる、白髪の男。志辻さんよりも年上なのだろうか。妙な雰囲気の男であるとは思った。

 そろそろ戻らなければ。玉砂利を踏んで、足の裏に少しついていた土を落とす。白いそれに、茶色いものが点々と残った。

 足袋を持って敷居をまたぎ、後手に障子戸を閉める。少女を待っているのは硯と筆と、書物の海。言の葉の海。

 硯に向かって座り、足袋を履き直す。思わず、ため息が出た。

 私は自分の仕事を、辛いと思ったことはあるが、嫌いになったことはない。幻想郷においての歴史の編纂者。歴史を体現する生き様を、嫌いだと思ったことはない。

 転生についても同様だ。辛いと思ったことはあった。転生までの数百年間で、人間関係は必ずリセットされ、顔なじみは死に、新しい顔ぶれが、変わらず私を愛で慈しむ。短い寿命と、それだけが辛く、不気味なことだった。

 だが今日はなんだか、自分の仕事が嫌いになりそうだった。なぜかはわからない。筆を持っていると妙にそわそわし、じっとしていられない。変化のない毎日に飽きてしまったのか。もしそうならとっくの昔に飽きがきているはずだと考え直す。

 やる気が出ない。やる気など必要としなくなっていた作業ができない。言うなれば、この言葉の海に、新しい風が欲しかった。波風を立てる風、あるいは、波紋を起こす小石の一つ。そう望んでいた折だった。

 

「阿求様。お客人がお見えです。入りますよ」

 

 はて、今日は客人の対応など予定に入っていなかった気がするが。いったい誰だろう。そこまで考えて、私は先ほどの来客の顔を思い出していた。

 障子がゆっくり開いていく。人一人通れる隙間に、ん? 入ってもいいのか? と男が言う。

 白髪の男。妙な雰囲気の男。言の葉の海に、一石が投じられたように感じた。

 

 

 

 

 

 

 ギンコが通されたのはとある一室。そこには硯に向かう、一人の少女がいた。長く伸びた巻物に何かを書き連ねている。あの時、松の根元で見た少女に相違ないように思った。

 ギンコは自分が持ってきた風呂敷を志辻から受け取り、敷居をまたいで室内に足を踏み入れた。

 

「どうも、蟲師のギンコと申します」

「ああ、あなたが蟲師でしたか。いつぞや里をお救いになられたという」

「救ったとか、そういうことじゃねえんだけど……まあいいか」

 

 邪魔するよ、とギンコは文机を挟んで腰を下ろす。目の前にいるのは齢にして十もいかぬほどの少女。短い髪と、重ねられた着物が着せ替え人形のようで、服に着られてしまっている印象を受けた。

 

「さっき松の木の根元で寝てただろ。見てたぜ」

「あらお恥ずかしい」

 

 見られていたのか、と阿求は思った。目を伏せて、少し崩していた足を正す。

 

「ご挨拶が遅れましたね。稗田家九代目当主の稗田 阿求(ひえだの あきゅう)です。蟲師のギンコさん、でしたか。今日はどういった御用向きで?」

「上白沢さんの代理で、資料を届けにきた。ついでに、歴史の編纂ってのは何をしているのか気になってな」

 

 これ、資料な、とギンコは風呂敷を文机の横に置いた。阿求はそれを引き寄せ、結びの口を解く。中には数本の巻物。それを膝の上で広げて、右から左へと視線を動かし、流し読みしていく。

 

「ギンコさんは、歴史の編纂にご興味がおありで?」

「ああ。これから幻想郷を歩き回るには、必要な知識かと思ってな」

「幻想郷を歩き回る、ですか。危険だとご理解いただけています?」

「俺はどうも、妖怪に襲われにくい質のようでね。心配はいらないと、八雲に太鼓判を押されている」

「八雲に? それはすごいですね」

 

 会話の最中も巻物に目を通し、八雲という単語が出てくる頃には一巻読み終えたようで、阿求は巻物をまとめ始める。その速さに、ギンコは目を丸くした。

 

「もう読み終わったのか」

「はい。一度目を通せば、私は絶対にその内容を忘れませんから」

 

 絶対に忘れない。その話を聞いて、ギンコはん? と違和感を覚えた。

 

「……その話、詳しくお聞かせ願えるかな」

「? ええ、構いませんが」

 

 一瞬、ギンコの眼光が鋭くなったのを感じた阿求だったが、ギンコが何故そうなったのかはわからなかった。巻物を風呂敷の上に戻し、少し考えてから阿求は続ける。

 

「どこから話したものでしょうか。稗田家の役割からですか?」

「いや、あくまでお前さんの話だけで構わんよ。記憶を保持し続けるというのは、どういう意味なのか、な」

「そのままの意味ですよ。私は見聞きしたものを、絶対に忘れることがない。元は阿礼という私の先祖が持っていた力なのですが……その能力は転生した私にも受け継がれている、ということですね」

「転生? 生まれ変わりだというのか」

 

 はい、と阿求はこともなげに答えた。

 

「我々稗田家では代々に渡り幻想郷の歴史を編纂しています。初代阿一に始まり、二代目、三代目とその役目は記憶と絶対記憶能力と共に転生という形で受け継がれています。そして私が九代目。稗田阿求というわけです」

 

 ギンコは阿求の言葉を聞いて考えていた。ここに自分が呼ばれた理由。察していただけると言った志辻の言葉を受けるなら、このことかとも思っていたが、どうやらギンコの見当は外れたようだった。

 

「……そうか、なら、問題はないか」

「何か?」

「いや、お前さんの記憶能力が、蟲によるものではないかと疑っただけだ」

 

 疑って悪かったな、と言うギンコに、蟲? と阿求は疑問符を浮かべた。それに答えるため、ギンコが口を開く。

 

「ああ。千馬(せんば)という蟲がいてだな。人間の脳には記憶を司る海馬のような形をした器官があって、そこに寄生する蟲なんだ」

「脳に寄生する蟲、ですか」

 

 阿求は興味深そうに耳を傾けた。ギンコの重く低い語りが聴こえてくる。

 

「千馬に寄生されると、宿主はどんなに些細なことでも忘れることができなくなるという。そして記憶が溜まりに溜まり、夜毎(よごと)夢を見るようになる。それは並大抵の情報量ではないらしく、そのうち生きているのと区別ないほどの体感時間を夢の中で過ごすようになる。そうしてどんどんと精神をすり減らしてしまう蟲だ」

「……恐ろしい蟲ですね」

「ああ。だから、お前さんもその蟲に取り憑かれているのではと思ってな。だが、全く違う事情らしくて安心したよ」

 

 安心した、というギンコに、阿求はどうしようもなく興味を惹かれた。蟲。自分の知らない話。ギンコが語る内容には、得体の知れない不気味さと、この気だるさを打ち払う何かがあると、阿求は思った。

 

「あの、蟲ってどういうものなんですか」

 

 阿求は聞いた。ギンコが答える。

 

「蟲とは、生命の本懐、すべての元の形と言える、微小で下等な生きモノのことだ。その辺に、結構いるぞ」

「え? 本当ですか?」

 

 阿求は思わず辺りを見渡した。しかし、見えぬ者には、見えんがね、とギンコが言うと、少し頬を膨らませて阿求は言った。

 

「からかってるんですか?」

「からかっちゃいねえよ。見えない奴には見えないし、見えるやつには見える。つまりは、見えても見えなくても、さほど変わらないし、気にすることもないってことだな」

「もういいです。見えないなら、他に蟲の話が聞きたいです」

 

 何かないんですか? と話を急かす阿求に、ギンコはああ、このために呼ばれたのか、と得心した。それは幻想郷に来る前の記憶。紛れもない、ギンコが出会った筆の海での記憶。そういえばあいつも、初めて会ってから随分と俺に蟲の話をせがんだっけな。

 ギンコは笑った。その笑顔を見て、阿求はどうかしたのですか? と聞く。

 

「いや、なんでもない。蟲の話だったな。じゃあ次は、記憶を食う蟲の話をしてやろう」

 

 目の前で目を輝かせる子どもを、いつかの知り合いと重ねる。墨色の痣を持つ女性。彼女も、子どもの頃はこんな風に誰かに話をせがんだのだろうか。

 

「記憶を食う蟲?」

「ああ。影魂(かげだま)と言ってな。ちょうど中庭にあるような古い木の影に潜んでいる蟲で、その影の中で動物が眠りにつくと、耳から体内に入り込み、宿主の記憶を食って成長する。そうして体内で十分に成長すると分裂し、体外に出て、また、古木の影で動物が来るのをじっと待つんだ」

「記憶を食べられるとどうなるんですか?」

「単純に、忘れる。影魂は宿主が死んでは困るから、生活に必要な知識には手をつけないが、それ以外の記憶、例えば親戚の顔と名前だったり、くしゃみという存在そのものだったり、と日頃思い出すようにしていない記憶から食われていくんだ」

「私もとりつかれれば記憶を失うのでしょうか……」

「さてね。だが、試してみようと思わんほうがいいだろう。だから、松の木の下で昼寝をするのは、もうよしたほうがいいな」

「もう」

 

 ギンコにからかわれたのだと知り、阿求は苦笑した。

 その後も、ギンコは阿求に様々な蟲の話を聞かせた。使命を帯びて、転生を繰り返す少女。一日中硯に向かい、編纂を続ける彼女にとって、ギンコの話は新鮮で、これ以上ないほどに刺激的なものだった。

 気づけば夕刻まで話し込んでいた。二人は時間も忘れて語り合った、というよりはギンコが一方的に聞かせていたのだが、そろそろ終わりの時間が近づいていた。

 障子の向こうから男の声がする。ここまで案内してくれた、志辻という男の声だろう。時間を聞かされると、阿求は驚いたようにつぶやきを漏らした。

 

「もうそんな時間でしたか……」

「いやぁ、結構しゃべったな」

「す、すみませんでした。長く拘束してしまったようで」

 

 途端に自分のしていたことの子供っぽさに恥を感じたのか、阿求は頬を赤らめて謝罪の言葉を口にした。そんな謝罪の言葉をやんわりと受け止め、ギンコは応じた。

 

「気にするな。俺も、ここに来る前のことを少し思い出して楽しかった」

「そういえばギンコさんは外からいらしたんでしたね。やはり恋しくなるものですか?」

「どうだろうな。恋しいとはまた違うんじゃないのかね。ただ……」

 

 ギンコは思う。それは一つの約束。これから先、決して守られることは無くなってしまった約束のこと。

 

『お前と……旅がしたいな』

 

 自分の歴史。積み重ねられ、結ばれたはずの自分自身の過去。とある女性と結んだ、その言葉だけが、今も少しだけ、気がかりだった。

 阿求は黙っている。少し寂しそうな表情を浮かべたギンコに、まずいことを聞いたかもしれないと口をつぐんでいた。だがギンコは、決して寂しかったわけではない。ただ、少し申し訳なかったのだ。約束を、破ることになってしまったことに。

 

「……いや、なんでもない」

「……そうですか」

 

 かくして、今日の座談会はお開きとなった。そろそろお暇するよ、と立ち上がるギンコに、阿求もついていく。

 そして玄関までついていき、履物を履くギンコの後ろで、阿求は聞いた。

 

「……その、またお話に来てくれますか?」

 

 伺うように聞いてくるその姿を振り返り、ギンコはまた、こう答えた。

 

「喜んで」

 

 約束は結ばれる。ギンコの歴史を聞きたいと、少女は話を急かす。

 約束は繰り返される。ギンコと共に旅がしたいと言った、彼女の面影を重ねる。

 約束は果たされる。それはまた、もう少し先のお話。
















 はい。お疲れ様でした。東方蟲師外譚、いかがでしょうか。一話完結のお話でした。
 もともとは稗田阿求が、どこか淡幽に似ているのでは思いながら想像を膨らませた結果、こういう話になりました。勢いがほとんどですが、楽しんでいただけたなら幸いです。





 それではまた次回、お会いしましょう。

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