幻想奇譚東方蟲師   作:柊 弥生

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<前回のあらすじ>
 神子との対話を終えたギンコは、次に沼に満ちる腐酒への対処法を探す






 幻想奇譚東方蟲師、始まります。








第八章 ふきだまる沼 拾《了》

 仙界を出ると、夜のうちに冷え込んだ朝の空気が鼻から肺に入り込んできた。山には曇天が覆い被さり、しかし地表には風ひとつなく、まるで洞穴の奥深くのような静謐さを保っている。

 ぎしり、と踏み固めた雪が鳴り、吐息の心細さと身を寄せ合っていた。

 日差しを遮る鈍色の天蓋からは今にも雪が降りてきそうだ。ギンコは空を仰ぎ、外套(がいとう)の襟を片手で引き寄せた。

 ふと視界の端に滑り込んでくる薄煙(うすけむり)がある。いつもなら、気にも留めない日常だが今日は違うとギンコは知っている。

 昨日の夜、相談の折りに譲り渡した蟲煙草を神子が燻らせていた。唇から少し離れた火種から白煙が流れている。隣で見下ろすギンコからは神子の詳しい表情は伺えない。しかし前髪の端から見える口元で、忌々しく煙草の苦みを嫌っていることは十分にわかった。

 

「太子様」

「なんですか」

「そんなにまずいんですかそれ」

「ええ……不味いです」

 

 よほどひどい表情だったのか、神子の様子を心配した布都がたまらず声をかけていた。

 円滑に会話をするため指先で摘んで口元から離した、やや緑がかった土色のそれは今の神子に必要なものだ。片利共生(へんりきょうせい)の蟲を体内に宿し、蟲患いとなっている神子は常に人を狂死させるほどの大音響を聞かされている。

 それは幾千幾万、那由多(なゆた)の小さな声の集積。蟲たちの声。ギンコや、神子の顔を興味あり気に覗き込んでいる布都や、静かに(そば)に控える屠自古には聞き取れないその大音響は、こんなにも静かな世界に満ち満ちて、神子の精神を、肉体を今も(さいな)んでいる。蟲煙草は蟲たちを遠ざけ、声を静め、神子にかかる負担を軽減していた。

 ギンコは彼女の抱える蟲患いを治療する知恵がある。当然治療を打診もした。治療法には確かな実績があり、神子がひとつ頷いて治療を受け入れれば、即座に苦しみから解放されるはずだった。

 しかし神子はギンコの申し出を断った。彼女は蟲という存在と向き合うため、声を聞き続ける選択をしたのだ。驚くべきことに神子は生来の才能で、常人にはただの狂騒の濁流としか聴き取れない蟲の声を、意味ある音として聞き分けることができ、そこから知識を得ることができた。

 自身が侵されて、蟲という存在に初めて向き合った神子はその異質さや超常性に畏れを抱き、我が身と、そして何より自分に仕える二人を守るために、声を受け止め、知を受け取ることを決めたのだった。

 

「そうですか……薬とはいえ、お辛いでしょう。おいギンコ。もう少しなんとかならんのか」

「そんなこと言われてもな……」

 

 布都につめられてもギンコにはどうしようもなかった。蟲煙草が不味いのは仕方のないことだし、現状を受け入れることを決めたのは神子自身だ。ならば、もうギンコに何をどうこう言う気はなかった。

 だがそれで考えを放棄し、布都の感情の想像を怠るほど、ギンコも鈍感なわけではない。側にある者が苦しみに顔を歪めているとき、例え本人が良しとしたことであっても、なんとかしてその原因を取り除けないものか、あるいは和らげることはできないものかと、思い巡らすのは自然なことだろう。

 挑戦に苦心する我が子を見守る親心のように、自然に湧き出ては心を満たす。それがどれほど尊く、ありふれつつも得難い感情であるかは理解する。そして理解するからこそ、神子の決意と現状に口を挟むことはできないし、選択による苦渋も受け入れるべきだと尊重する。

 布都の心を満たすものと、全く同じものを神子も抱えている。親愛から湧き出す憂いの実感は彼女たちだけのもの。ギンコは立ち入らない。鈍感なわけではないが、冬の外気のようにカラリとした心の温度を保っていた。

 

「そうだ。咥えるところだけでも飴に変えてしまうのはどうだ」

「バカか貴様は。煙草というからには管状に空気を通す必要があるというのに、飴で固めてどうする」

「むむ、ならば甘露を染み込ませるのはどうだ。歯で挟み込むたびにこう、甘みがだな……」

「なぜ甘くしようとするんだ貴様は」

「良いではないか。甘味。至上の喜びぞ?」

「浅いわたわけめ。太子様にあってこれから常にお口元にあるものなのだぞ。ここは醍醐味(だいごみ)に迫る味わいを追求すべきだ」

()か! むぅ……お前の名を連想しそうになるのは気に食わんが、あれが美味いのは認めるところだ……」

 

 やいのやいのと従者二人が議論を交わし始めるのを横目に、ギンコは歩き出した。正直に、関わる言葉を持たなかった。神子もギンコの歩みに合わせて、隣にやってくる。

 

「早いとこ慣れろよ。あの調子で毎日騒いでたら面倒だぞ」

「ええ、まったく」

 

 煙草を咥え直した神子が苦笑したのは、苦味だけが理由ではないようだった。

 一行は山道を歩いて、件の沼を目指した。腐酒が湧き出ている沼である。仙人たちの体を泥状に溶かしてしまう骸草を駆除するため利用されていたが、ギンコによって骸草の諸問題が一応の解決をみた今、そのままにしておく理由はなくなり、現状を看過することはできないギンコが対処をすべく、本格的に調査を始めようとしていた。

 神子がいうには腐酒が発生した時期は定かではないものの、沼は元から仙人たちが投棄した、精製された毒物や薬品によって環境破壊が進んでいたようだ。それが直接的な原因なのか、はたまた全く別の問題が隠れているのか、どちらにせよ、異常であることは確かだった。

 

「骸草の発生もあの沼周辺だったって話だが」

 

 隣を歩く神子にギンコが尋ねる。

 

「ええ、寄生された仙人たちが、一様に足を運ぶのはここしかありませんから」

「詳しく聞いておきたいとこだな。できれば金輪際、錬丹術とかでできた代物をそこらに捨てるなって警告せにゃならん」

「それは難しいですね。はいそうですかと従うかどうか」

「じゃあ『体が腐って死ぬぞ』って脅せばいいだろ」

「ひどいこといいますね」

「自業自得で死ぬのは事実だからな」

 

 冷酷な物言いだが、事実であるから仕方がない。ギンコのよどみない足取りと口調が重なった。

 沼の異変は十中八九のところまで原因を究明できていた。そして原因がこの山に住む仙人たちが日常的に行なっている修行にあるのだとすれば、ギンコが沼の問題を根本から解決することはできないと言えた。蟲と人、その間に生じる摩擦、あるいは肥大化した誤謬(ごびゅう)。ギンコの知恵が役立つ時があるとすればそれらを相手どる場合のみだ。

 ギンコは蟲に対する知識でもって蟲患いを対症療法的に解消することができる。これは例えば絡まった一対の紐を解く行為に似る。根気良く紐の端をたどり、難く綴じた結び目をほぐして一結一結をといていくこと。どちらの紐が輪を作り、どちらの紐がそれをくぐっているのか。注意深く観察しては緩んだ箇所に指を滑り込ませ、時には強引に力をかけていく。しかしこうしてギンコが解消できるのは絡まった紐を解くことだけなのだ。

 それがもう一度絡まることのないように気をつけるのは、ギンコの領分を超えたところにある。両手から離れたものを守り続けることなどできはしない。くれぐれも、と言い含めた言葉を裏切られた経験など、すでに数えきれなかった。

 今回の一件。真の解決に必要なのは原因の周知と、啓蒙(けいもう)だ。仙人にとって日々の修行が大切なものであることはギンコもよくわかっている。突然止めろ、と言われて今日明日に止めるものでもないだろう。ここ数日で仙人たちの目的意識の高さはよく理解した。先ほどは突き放すように言い切ったギンコだったが、そんな脅しまがいの方法に効果がないことは簡単に想像できた。

 

「自業自得だと言い切れるなら、沼はそのままでもいいのではないですか?」

「何言ってんだ。いいわけあるか」

「なぜですか?」

「くどいぞ。その話は昨日したろ」

「ふふ、そうでしたね」

 

 隣を歩く少女は少し楽しげだ。咥え煙草のまま口角を少し吊り上げる神子の笑顔は少し間抜けで、初めて下駄を履き鳴らす(わらべ)のような無邪気さを感じた。

 

 

 

 一行が沼のある場所に近づくにつれて、ちらちらと雪が降り始めた。風は吹いていない。上から下へと流れて、儚く消える。目立ち始めた立ち枯れの樹木を背景に、物悲しさが浮かび上がってくる。

 漂うのは腐臭。見えてくるのは、地面から突き出す針のような木々に囲まれた沼の(ふち)。赤黒く変色した汚泥の溜池。近づく命に強い忌避感を与えるそれは、時間が経った血液のように濁り、おどろおどろしい見た目をしている。周囲に降り積もった雪の白と不気味なくらいに対比がなされ、そこだけが深く、落ち窪んでいた。

 仙人が持ち寄って廃棄した薬品の影響か、あるいは、厭世(えんせい)の念を濃縮して吐き捨てるように、溜まった(よど)みそのものか。腐酒は語る口を持たない。それでも雄弁に、人の視線を受け止めていた。

 

「相変わらずひどい状態だな」

「うむ……ギンコよ。お主はこの沼をどうにか元に戻そうとしているのだったな」

「あてはあるのか」

「うん……まぁ、な」

 

 布都と屠自古の言葉に曖昧な相槌を返しながら、沼の縁にしゃがみ込み、ギンコはじっと沼の表面を凝視する。ギンコの肩に、そっと神子の手が伸びる。

 

「あまり顔は近づけない方がいいですよ。揮発性の薬品が捨てられているかもしれません」

「む、そうか。そうだな」

 

 神子の言葉に、ギンコも危険性に思い至り、少し身を引いた。

 

「おい屠自古。キハツセイ、とはなんだ」

「間抜けを晒すな。アホめ……通常は液体だが、時間の経過によって温度によらない気体への状態変化が著しい性質のことだ。今太子様は目に見えずとも、ギンコの体に毒になる気体が、沼から出ているかもしれないと警告されたのだ」

「なんと。おいギンコ、沼には近づかぬ方が良いぞ。毒霧が出ているそうだ」

「だからそれを今、太子様が仰られたばかりだと言っておろうが!」

 

 賑やかな従者二人の言葉を聞き流しつつ、ギンコの隣に神子がしゃがみ込んだ。腰巻の裾を膝の裏、(もも)脹脛(ふくらはぎ)の間にしまい込み、しかし袖なしの外套の裾は雪の上に投げ出して、沼の縁の泥に指先を伸ばす。

 細く、長い指で泥の一部を掬い取る。そのまま指を鼻先まで持っていき、匂いを嗅ぐと「とりあえず、即時の危険はないようです」と呟いた。仙人の体があればこその判定法だった。

 雪の中に指を突っ込み、汚泥を洗い落とす。濡れた指先は、取り出した薄手の手拭いで拭き取った。

 

「それで、どうされますか?」

「どう、とは?」

 

 神子の言葉に、ギンコは疑問符を返す。「とぼけても無駄ですよ」と神子はギンコの目を見つめた。

 

「貴方の思いはよくわかっているつもりです。しかし、やはりこの沼への対処はおすすめしません」

「……」

「貴方もわかっているのではないですか。たとえこの沼の大部分を占めている腐酒というモノをどうにかできたとしても、薬品由来の汚染を、直ちに除去する方法はありません」

 

 神子は淡々と事実を告げる。ギンコにも、その事実はよくよく響いてきた。そしてその事実こそが、やはり一番の問題だった。

 ギンコは薬学を専門としているわけではない。しかし薬物の取り扱いについては、多少なりとも心得があった。だからなんとか、自分にできることはないかと探る思いだった。だがどうしようもない。考えれば考えるほど、手立てがない。

 草木や茸、花、果実、球根などから抽出される薬毒はよほどの濃度でもない限り、土に埋めるなどの対処でも問題がないことが多い。草木を枯らして土地に残留するなど、確かに悪影響はあるが、それでも元はいずれ土に還る定めの命と紐づいた成分であるためだ。分解は早く、無毒化されるに、そう時間はかからない。

 一方で取り扱いに注意が必要なのは精錬や製鉄、製紙に用いられる薬品類だ。これらはよく、水のような見た目で無害を思わせるが、その性質は苛烈(かれつ)で劇的だ。蒸発した霧を少し吸い込んだだけでも危険だったり、数滴皮膚に染み込んだだけでも体調を崩したりする。それというのも、目には見えずとも、金属が溶け込んでいることが大きな理由であるらしい。

 これらの薬品は望んだ効能を得るために、特に強く、濃く、作られている。そしてその多くは、自然に分解されるわけではない。重ねればただ降り積り、さらに濃く、苛烈な性質を強めていく。

 神子の話を聞けば、どうやら仙人の修行に、後者の薬品がよく用いられることも確認が取れた。沼にも相当量が溶け込んでいるだろうことは容易に想像できる。問題は山積みだった。

 

「ギンコさん。時に、毒に侵された人間への対処法の心得は?」

 

 唐突に、神子がそう聞いてきた。いきなりの質問だったが、思考が煮詰まっていたギンコは良いきっかけになるやもと、神子に応えた。

 

「……詳しくはない。動物由来のものなら毒を抜き出すために瀉血をする、必要なら患部を切除する、毒を口にした場合は直ちに吐き出させる、手元にあるのなら解毒になるものを摂らせる、なければ水を摂らせる……あとは、安静にして様子を見る、くらいか。とにかく素早く対応することが肝要だと聞いている」

「すばらしい。医師でも薬師でもない人間が備える知識としては十分でしょう。では、すでに致死量の毒物に体を侵された人間に対しては、どうすればいいかご存じですか?」

「いいや。どうすればいいんだ」

「ふふ、知らぬことは知らぬと言い切れるのは、貴方の徳ですね」

 

 ギンコの素直な言葉に微笑んだ神子は、視線をギンコから沼に移した。

 

「この沼は、まさしく毒に汚染された状態。死に体です」

「……そうだな」

「致死量です。どう見ても。であるなら、復活など望めない。もう命はここを離れています」

「死者を蘇らせることはできない、と」

「そうです」

「だが、沼は人ではない。死んでいるかどうか、俺たちにははかれない」

「強情ですね。ではどうします? これだけ多種多様な薬物毒物に汚染されたモノを浄化する(すべ)はありません」

「……少し黙ってくれ。それを考えているんだ。大体、この沼は骸草の発生源にも等しい。お前たち三人はわからんが、山の仙人たちにとっても害がないとは言えんだろう。もうちと知恵を貸せ」

「……それはそうなんですけどね」

 

 結局、堂々巡りの思考は神子も同じだったようだ。ギンコへの問いかけも、自分の思考を反芻(はんすう)するように絞り出した彼女なりの抵抗のようだった。

 ギンコにとっては降って沸いた無理難題、仙人らにとっては先送りにしてきた山積みの問題。それが、この沼の現在地だ。

 風が出てきた。粉雪が横顔に吹きつけ、冷たい。

 

「あら、太子様? それと皆様お揃いで」

 

 濡れた手で首元を触られたような感覚があった。無論それは錯覚であったが、そんな感覚を共有したのか、思わず全員が声のした方を見た。雪と一緒に落ちてくる、一人の女性。ふわりふわりと羽衣(はごろも)をたなびかせ、沼の縁に降り立った。

 ギンコたちが沼の()(こく)の位置にいるならば、女は(とり)の位置にいる。さほど離れてはいない距離だが、目測よりも近い位置にいるような印象を受けた。

 あの女は人ではない、そうギンコは直感して立ち上がった。ピリピリと張り詰める空気が、その直感を後押しする。力の強い妖怪と対峙(たいじ)した時に、よく似ていた。

 ギンコを(かば)うように、同じく立ち上がった神子が一歩、女の方へ歩み出る。

 妖しい雰囲気の女だった。青白い肌と、明瞭な青の髪色とを合わせていつか見た氷の妖精に近しい種族なのかと、ギンコは考えた。

 

「お久しぶりです。奇遇ですね、こんなところで」

「ええ全く。そちらはお変わりないようで」

「うふふ。そうでもありませんよ? 特にここ最近は、幻想郷も新しい住人のおかげで騒がしくなって……ああそうですわね、そちらの御方が特に詳しいのではなくて?」

 

 神子と羽衣を纏った青い女は知己(ちき)であるようだ。気さく、とまではいかない挨拶が二人の関係性を想像させる。話をするには遠く、敵対するには近い距離を保っていた。

 さらにどうやら女はギンコのことを、蟲師のことを、ひいては蟲の存在を知っているような口ぶりだ。幻想郷の住人で蟲をよく知るものは少ないが、知っていること自体は珍しくもない。だがこの微妙な距離感が合わさると不穏な雰囲気が漂い始める。

 神子が警戒を強めているのが、ギンコにもよくわかった。理由まではわからない。ギンコは女をじっと観察した。

 周囲の白を固めて明度を下げたような水色の洋装。冬の寒空に身を晒すには心許(こころもと)ない薄着で、手足の肌が露出している。髪型が奇抜なのはこっちにきてもう見慣れたが、それをまとめる大きな(かんざし)は目をひいた。

 女は笑顔だが、どこか薄ら笑いのような表情でもある。胡散臭さは、どこぞのスキマ妖怪と似通っているがこちらは超然としつつも、人間に向けるある種の関心は強そうだった。ギンコは、自分も観察されていることに気がついた。

 

「初めまして蟲師のギンコさん。私は霍青娥(かく せいが)と申します」

「……どうも」

 

 やはりギンコを知っているようだ。青娥、と女が名乗ったあと、フッと空気が軽くなった気がした。見れば青娥(せいが)は、人当たりの良さそうな笑みを浮かべる女性にしか見えなくなっていた。

 妖しい雰囲気はどこにいったのだろうか。ギンコは会釈を返した。

 

「ふふ。ここにいらっしゃるということは、お噂通り、真面目な方なのですね」

「噂? 噂になってんのか、俺は」

「ええそれはもう。いつぞや妖怪の山で異変が起きた時にもご尽力なされたとか」

 

 妖怪の山。確かにギンコは以前、妖怪の山が光脈筋(こうみゃくすじ)としての目覚めを迎える折に、その環境の変調に巻き込まれた種々の妖怪たちの手助けをしたことがあった。その時数日山に逗留(とうりゅう)したが、鴉天狗(からすてんぐ)射命丸文(しゃめいまる あや)に取材だなんだと付きまとわれたのも憶えていた。

 確かシンブンとかいう、薄く、軽い障子紙の束のような情報媒体をばら撒くのが彼女の生業であるというところまで思い出し、噂の出どころは奴かと納得した。

 

「山でのことは成り行きだ。行きがかりにな」

「あらそうでしたか。新聞にはどこからともなく颯爽(さっそう)と現れ、為す術なく危機に喘ぐ天狗の里を救ったとありましたが」

「ほう、貴様そんなことを」

「やるではないかギンコよ」

「……大袈裟だ」

 

 布都と屠自古からの賞賛(しょうさん)の言葉を受けながら、一度あの娘には何か言っておいた方がいいのかもしれないと、ギンコはそう思った。

 

「それで。貴方はこんなところで何を?」

「ああ、そうそう。忘れるところでした」

 

 神子からの問いかけで、青娥は沼に視線を移した。

 

「私こちらの沼に用があって。ほら、ひどい有様でしょう?」

 

 言われてギンコたちも視界の端で沼を見た。よくない状況だ。同意しかなかった。

 

「まあ、そうですね」

「山で修行されている仙人の方々も、何やらこの沼が原因で苦しんでいるようですし、なんとかしなければと思いまして」

「この沼を? 貴方が?」

「ええ。私にとっても不都合ですし。ほら、芳佳のこととか……」

 

 神子と青娥が話す後ろで、ギンコは隣にいる布都に耳打ちした。背中を丸めて小柄な布都の耳元に口を寄せると、その動きを察した布都の方も少し、片足で背伸びをするように耳を向けた。

 

「なあ、あの娘はなんだ?」

「ん? さっき名乗っていたではないか。青娥娘々(せいが にゃんにゃん)だ」

「そうだな、名前はいいさ。お前さんらの太子様との間柄は?」

「彼女は太子様のドウキョウノシだ」

「へえ。楽器とか歌詠(うたよ)みのか? そりゃ結構。優雅なことで」

「ん? 楽器? 歌詠み? なんのことだ」

「いや、今言ったろ。ドウキョウノシって」

「言ったぞ」

「だから。太子様の趣味って、楽器やったり、梅酒漬けたり、歌詠んだりってことだと思ったんだが。違うのか?」

「? そうだぞ。太子様は雅楽と歌詠みを嗜んでおられるな。が、何か関係あるか?」

「ん?」

「ん?」

 

 ギンコと布都が噛み合わない会話の中で互いに顔を見合わせていると、呆れたように屠自古が会話に割り込んできた。

 

「……ギンコ。ドウキョウノシ、とは宗教のドウキョウ、つまり我ら仙人の修行でもあるタオの思想を(むね)とする教えのことで、そのシ、とはその師父であるということだ。つまり“道教の師”だ。青娥娘々、彼女は太子様の師匠であり、布都が言ったのは趣味趣向が似通った仲間を指す言葉ではない」

「あー……なるほど」

「む、なんだ。何か勘違いしていたのかギンコよ」

 

 しょうがないやつめ、と布都は言う。ギンコは“同郷の士”と言えば普通は先にこちらが思いつくだろう、とは反論しなかった。それよりも気になることがあったためだ。

 昨晩の神子との会話を思い出す。彼女の師匠、ギンコが光酒の存在を絶対に教えたくないだろう仙人。それが目の前にいる青娥のことらしい。神子が警戒する理由がわかった気がした。

 

「彼女は能力は高いが、邪仙(じゃせん)と呼ばれるほど行動原理や思想が破綻気味の危険人物だ。警戒しろよ、ギンコ」

「そうか。忠告は聞いておく」

「あらあら、私の話ですか〜?」

 

 屠自古のギンコへの耳打ちを聞いていたのか、少し間伸びした声で青娥が話かけてくる。にこやかで、友好的に見える。

 

「ねえ蟲師の貴方。この沼、どうされるおつもりですか?」

「どうってのは」

 

 忠告は聞いておく、と言ったギンコだが彼としても気になることを青娥は言っていた。無視をするわけにもいかない。

 

「いやですわ。このままというわけにもいかないのでしょう? 太子様御一行がただの案内役だけでついてきているとは思えませんし。目的は沼への対処、蟲師の貴方なら、私と同じく、この沼への対処法をお持ちなのではなくて?」

「ああ、まあこの沼はどうにかせにゃならんがね……ん? お前さん、今対処法があるって言ったか」

「ええ、言いましたけど」

 

 軽い調子で告げる驚いたのはギンコだけではない。ギンコの前にいる神子が、どういうことだと振り返る。ギンコはよくわからないと、黙って首を振った。

 幻想郷において、こと蟲に関しては最も有力な識者であるギンコが、今まさに直面し手をこまねいている問題に対して、手があると言い切った。それは稀なことだった。

 青娥はにこやかにギンコを見ている。そんな青娥の言葉と態度に、声を上げたのは布都だった。

 

「なんと。おいギンコ、よかったではないか。どうやらこの沼、なんとかできるようだぞ」

「あら〜? ということは、そちらはまだ何も思い付いてはいらっしゃらなかったのかしら?」

「うむ。太子様もギンコもどうしたものかと先ほどから困っておいでだ。解決策を教えることを許すぞ、青娥娘々」

 

 無邪気な尊大さを振り撒く布都の後頭部を屠自古が引っ叩いた。

 

「いた! 何をする!」

「マヌケ! そう馬鹿正直に彼奴に弱みを見せるな!」

 

 背後から聞こえてくるやりとりに肩を落とし、神子は苦笑した。その表情は背後にいるギンコからは見えなかったが、少し小さくなった背中から、普段の苦労くらいは想像できそうだった。

 ギンコは言い合っている従者二人の横をするりと抜け、神子の隣に立った。ギンコ自身にはもとより重んじるような体面などない。素直に事実を認めた。

 

「まあそういうわけだ。俺には良い方法が思いつかなくてな。よけりゃ、参考に聞かせてもらいたい」

「あらあら、そうでしたか。では準備したコレも無駄にならずにすみそうですね」

 

 言いながら青娥はギンコたちに近づいてくる。五、六歩歩み寄ったところで足を止め、ごそごそと取り出したのは小さな巾着袋だ。その中からさらに何かを取り出した。

 手のひらにころり、と転がったのは人の親指、その第一関節から上くらいの大きさの何かだ。石ころのようでもあるが、表面の質感からは、何かの種のような印象を受ける。胡桃(くるみ)のような表面だが、形はどんぐりをもっと扁平(へんぺい)にしたような感じの紡錘形(ぼうすいけい)だった。

 青娥はそれをつまみ上げて、興味深そうに視線を向けるギンコの眼前に晒して見せた。

 

「それは種、か?」

「ええ、まあ。そのようなもので」

「ギンコさん。おそらくは金丹です」

 

 ギンコの横から神子が答える。金丹。それは確か、仙人が修行の中で常用する薬のようなものだったか、とギンコは過去の記憶を探った。

 外丹術によって不老長寿をもたらす、毒物紛いの霊薬。そう聞くと、先ほどまでただの種に見えたそれが急に恐ろしいもののように見えてくるのだから勝手なものだ。

 

「それで。その金丹をどうするんだ」

「ふふ。こうします」

「あ」

 

 言うが早いか、青娥はその種のような見た目のそれを、沼に投げ入れた。ぽい、と放られ、沼の中心部くらいに落ちたのだろうか。急な動きだったために、ギンコは種を空中で見失ってしまった。

 沼に変化はない。何をしたのか、とギンコは言いかけたが、種を沼に投げ入れただけだと自己完結した。行動の背景はさっぱりわからなかった。

 

「これでしばらくすれば大丈夫でしょう」

「すまんがお前さんが何をしているのか、どうも俺にはさっぱりでね。今放ったものも含めて、詳しく教えてもらいたい」

「あら、実物を見たことはありません? さっきの種……“実”と言った方が正しいかしら。アレは蟲師の貴方の方が詳しいと思うのだけれど」

 

 なんだと? とギンコが返す。その言葉に反応するように、どういうわけか、徐々に沼の表面が泡立ち始めた。その変化は青娥が投げ入れたものを中心に起こっているようで、泡立つ沼からは白い蒸気も立ち上り始めた。その変化に、全員の視線が集まる。

 

「おお、なんだなんだ」

 

 つい今まで屠自古と言い合っていた布都も驚いている。屠自古も同様だ。神子もその変化にどんな理由があるのか、ギンコに尋ねようとして、しかし言葉はかけられずに黙ってしまった。

 ギンコの表情は険しかった。強く、敵意のようなものすら含ませて、青娥を睨みつけている。その表情を見て、神子は黙ってしまった。

 

「ところで太子様、いつからお煙草なんて始められたのですか?」

「え?」

 

 ギンコの視線をよそに、青娥は神子の口元で煙の筋を立てるそれについて言及した。自分に言葉がかけられるとは思わなかった神子が普段らしからぬ声を上げる。

 

尸解仙(しかいせん)に健康など説くのは無意味ですけれど、それでもあまり良いことではないのではありませんか?」

「おいあんた。さっきの……実、って言ったか」

 

 ギンコの静かな問いに、人を食ったような態度で神子に話しかけていた青娥の視線が向けられる。ギンコはようやく、彼女のにこやかに作られた表情の意図を汲み取る。これはこの女の仮面なのだ。人当たりの良さそうなそれは、無表情と変わらない。屠自古の忠告が思い出された。

 ぐつぐつと沼が煮立っている。それに呼応するようにギンコの心も泡立ち始めている。

 沼がどういう変化を迎えているのか、ギンコにはよくわかった。だがその変化から導き出せる事実は、到底認められない。だからこその、青娥への視線であった。

 

「あら。思い至りました? じゃあ知識はあったんですね」

「……まあな」

「ならご想像の通りです。普段の金丹づくりとは少々勝手が違ったので時間がかかってしまって……それだけが反省点ですね」

「ギンコさん……これはどういう」

 

 ギンコは神子の方を見なかった。少しだけ視線を伏せて、努めて何処かを見ようとはしなかった。代わりにギンコの口からは、重たく、低い響きが聞こえてくる。

 

「……さっきの種、あれはおそらく、蟲師の間でも禁忌とされる代物だ。いや、それに近いものだな」

「禁忌……?」

 

 不穏な意味の言葉に、神子も思わず身構えた。青娥は、不敵に口の端を吊り上げる。

 

「今、沼は浄化されている。腐酒が土地に還り始めているんだ」

「本当ですか」

「ああ。もともと腐酒を消滅させるには、一定量の光酒で中和する手段がある。ご存知の通り、俺には手持ちの分はないし、お前さんらに渡した分でも全く足りないから、解決策としては勘定に入れてなかったんだが……」

「さっきの種で、それが成っている、と?」

 

 沼は蒸気を上げている。ぐつぐつと煮立っている。ぼこりぼこりと水音を立てて、今にも何かが這い出してきそうな錯覚をする。

 

「ナラズの実、というものがある。とある蟲師が、光脈を封じ込めたという実でな。埋め込んだ土地に豊穣をもたらし、その恩恵に預かった生命体をひとつ奪っていくというものだ。無論、光酒の塊のようなそれだ。性質はおいておいても、大量の腐酒を浄化する手段として、理屈は叶う」

「ではさっきの種が」

「いや、ナラズの実は普通人には見えないものだ。見えるのは、蟲を視る性質の者だけだ。さっきの種は、お前さんにも見えたんだろう?」

「はい。珍しい形ではありましたが強い力を感じて……彼女が持ち出したものですし、それで金丹だと直感的にあたりをつけたのですが」

「なら、おそらくはそうなんだろう。ただ、腐酒が浄化されているのを見るに、お前さんらのよく知るそれとは少し違って、蟲師の間に伝わるものとの混ざりモノ、と言ったところか……」

 

 ギンコの語りを区切るように、ぱちぱちと乾いた音が鳴る。青娥が無遠慮に手を叩いた。

 

「ご明察ですわ。流石です」

「青娥。では貴方はすでに、光酒の存在を」

「ええ、ええ。存じています。妖怪の山が光脈筋として目覚めたことも」

「なんだと」

 

 ギンコの表情に一層の警戒が浮かぶ。今や青娥の印象は邪悪のそれだ。仙人が光酒の存在を知る。考えられるいくつもの未来が、赤黒く腐れていくような気がした。

 

「お怒りですか?」

「愉快そうに見えんのかい」

「あら怖い」

「青娥」

「太子様もらしくありませんね。こんなに繊細な方と親しくされるなんて。光酒のお話を聞けば、喜んでくださると思ったのに」

「それは……」

 

 神子はギンコを見る。確かに、神子はギンコから力ずくでも光酒を手に入れようとした。それは、決して利己的とは言い切れない事情があったのかもしれない。それでも事実は事実であり、過去とするには新しすぎる昨日である。

 光酒は救いだ。良い資源だ。うまく使えれば、多くの利を生み出すだろう。それは変わらず、神子の胸中に渦巻いている価値観だ。指摘されれば、その通りだと認めるしかない。仙人とは利己的なもの。ただ、それでも。

 

「青娥、人は恥を知ります。光酒は救いですが、欲にかまけて身を滅ぼすのなら、その行いは獣の所業。私は、恥を知らぬ獣にはなりません」

 

 毅然(きぜん)とした態度で突き放す。それはギンコは知る由もない、いつかの為政者(いせいしゃ)矜持(きょうじ)だったのだろう。多く人の間を渡り、欲を見届けてきた彼女の矜持。煙が音を遮り、暗い道を照らす(しるべ)が隣にあるのなら。もう迷えなかった。

 

「そうですか……」

 

 青娥は心底残念と言った態度で神子を一瞥し、次の瞬間にはくるりと背中を向けた。立ち去ろうとする青娥に、ギンコが声をかける。

 

「おい待て」

「私、ここにもう用はありませんわ。なんだかきな臭くなってまいりましたし」

「太子様!」

 

 布都が声を上げる。ギンコは気が付かなかったが、いつの間にかギンコらと沼を取り囲むように多く雪を踏み(なら)す足音があった。風雲急を告げる、軍靴(ぐんか)の響き。いや、そんな物々しく、明瞭な敵意ではない。

 ずるずると引き()り、()はい寄る、蛇行のようにまとわりつく視線があった。敵意として開花する直前の、粘着(ねばつ)くような悪意、恨み。ぼこりぼこりと泡を立てる赤黒い血の池地獄の音に誘われ、亡者の群れが近づいてくる。沼を取り囲みつつあるのは、山に住む、仙人や世捨て人に相違なかった。

 風が吹く。沼の蒸気が流されて、ギンコの前髪を洗うところまできた時、ギンコの目と鼻に激痛が走った。

 

「ぐふっ……!」

「ギンコさん!!」

 

 何が起こったのか、ギンコにはすぐ理解できた。反射的に息を止めて顔を外套の裾で覆い、体を丸め、沼の近くから飛び退いた。激痛は一瞬だったがそれでも涙で視界はぼやけ、頭痛がしてくる。

 うずくまるギンコの側に駆け寄る神子も、何が起こったのか直感的に察する。

 

「あらまあお可哀想に。いえ、お気の毒……かしら?」

「沼の蒸気……! 毒性の霧になっているのか! 布都! 手を貸しなさい! ギンコさんを沼から離します!」

「は、はい!」

 

 神子と布都に支えられながら、ギンコは立ち上がり、沼から少し離れた。その様子を見届けることなく、青娥は来た時と同様に、するりと粉雪の向こうに消え去った。

 

 

 

 立ち枯れて頼りない樹木は、それでもギンコを支えることにいささかの問題もないようだ。体重を預けるようにして座り込み、新鮮な空気を二度三度大きく肺に取り込めば、頭痛も引いて気分が楽になってくる。

 

「大丈夫ですか」

「ああ……助かったぜ」

「お礼など。それより、もっと早く思い至るべきでした。光酒による腐酒の浄化は薬品のあれこれには作用しない。青娥の対処で沼から腐酒は消え去り、骸草の発生源としては一応の解決をみるでしょうが……沼は汚染されたまま、なのですね」

 

 神子の言葉に、ギンコは頷いた。自分も青娥の存在に気を取られていなければ、すぐに思い至っただろうに。ギンコは少し後悔していた。

 

「あいつは……あの娘は?」

「青娥は、もう何処(いずこ)かへと……」

「……そうか」

 

 ギンコは息を整えながら、思考を巡らす。しかし、うまく考えがまとまらなかった。だからぽつりと、ただ感じたことを口からこぼした。

 

「痛快だったぜ、太子様よ」

「え?」

「『人は恥を知る』。全く、その通りだ。そんな当たり前を、もっといろんな人間がわかってくれりゃ俺も楽なのかもしれねえな……」

 

 ギンコの皮肉に一瞬きょとんとした表情を浮かべ、次に、神子は吹き出して少し苦笑した。

 沼から離れても、災難の気配は去らない。ずるりと沼を取り囲むように集まっていた人影は、今や中心点をギンコらに移している。もとよりこちらに用があったのだろう。座り込むギンコに、寄り添うようにしゃがみ込む神子とそこを守るように二人の従者が立つ。

 ぬ、と人影が一つ歩み出る。その人物は、ギンコも見知った顔だった。

 

「あんた……あの時のじいさんか」

「若者よ。儂らの同胞が世話になったようじゃな」

 

 ギンコがこの辺りの山に入った時、初めて出会った山小屋の老人だった。ギンコが出会った時には既に、近頃の蟲患い、骸草の影響を受けて、治癒の代償に片足を失っていた。

 老人の後ろに続く人影も、見ればほとんど片足を失っている。事情は皆同じ。共通項がわかりやすい集団だった。不穏な雰囲気を察したギンコが起きあがろうとする。それを神子がやんわりと制した。

 老人はギンコを一瞥し、次にその傍らにいる神子に視線を向けたあとその視線を伏せ、恭しく礼をした。

 

「豊聡耳様。此度は死を運ぶ奇病のふちより、我らをお救いくださったこと、深く感謝申し上げる」

「世辞はよい。用向きを申せ」

 

 神子はギンコや布都らに見せるような柔和な態度を引っ込めて、威厳を感じさせる怜悧(れいり)な口調になった。剣呑な態度だったが、それも仕方のないことだった。

 

「……では恐れながら」

 

 老人が伏した視線を上げる。その目は深く、濁りを(たた)える沼のよう。

 神子は先ほど、ギンコを助け起こす際に蟲煙草を落としてしまっていた。だから彼女の耳には、今ざわざわと蟲のさざめきが近づき始めている。人を発狂させ、死に至らしめる大音響の走り。しかしそれらの音に負けないほど、目の前の者たちから強い声がする。馴染みのある、欲の腐れた声がする。

 

「豊聡耳様。なんでも此度の奇病、治癒した者のうちには足を失うことなくすんだ者もいるとか」

「そうだ。それがどうかしたか」

「聞けばその者らは、儂らが受けた治療法とは別のものを試されたそうで」

「そうだ。それがどうかしたか」

 

 一を聞けば十を知る神子にとって、その問答は既に無意味であった。

 

「……豊聡耳様。お答えいただきたい。何故儂らは片足を失う必要があったのか」

「それは治療のためだ。放っておけば死に至る病を治すため、副作用のある薬を使ったために、お前たちは片足を失くした」

「しかし片足を失わずに治癒した者もおりまする」

「その点はこちらにおられる識者のギンコ殿に礼を言うが良い。新たな治療法は全て、彼の智慧(ちえ)によってもたらされたものだ」

 

 神子が淡々と老人に答えるたび、ぼそぼそとつぶやきがこだまする。後悔の念を含ませたつぶやきが訥々(とつとつ)と耳に届く。煩わしい。

 

「なるほど。では豊聡耳様が考案なされた治療法では片足を失くし、そちらの識者が考えられた治療法ではなんの代償もなく病を治せると、そう仰るのですね?」

「貴様……(わきま)えろ! 太子様への無礼は……」

 

 神子は立ち上がり、激昂(げっこう)しそうになる屠自古の肩を叩いて一歩前に出た。ギンコもその背中を見守る。

 

「いかにも。私の治療法は片足を失う。しかしギンコ殿の治療法ならなんの代償もなく病は治る」

「……ならば、なぜ」

「くどいぞ。凡骨(ぼんこつ)

 

 神子が強く言い切ると、それに呼応するように足元の雪が少し舞い上がった。神気か、妖気か、霊力か。蟲を視るギンコをして目に見えない、圧力のようなもの。濃密な気配。それでも言い表すのなら、この時は、怒りが一番近かった。

 神子の耳に、ごうごうと音が轟き始める。煩わしい。

 神子は蟲煙草を取り出す。束の中から一本摘んで、口に咥えた。咥えたそれの先端がバシリ、と爆ぜるように火がつく。雷光のような一瞬の明滅だった。

 

「貴様らは不満に思っている。なぜ自分達だけが、代償を払う羽目になったのかと。貴様らは不平を唱えている。なぜ後の者だけが、よりよく救われたのかと。貴様らは疑念を抱いている。救われるばかりの我が身が、もたらされた不幸が、実は全てまやかしだったのではないかと」

 

 細く棚引く白煙は雪の白さにも溶け込むことはなく、妙に神子の周りにまとわりついて、輪郭をぼかしている。蟲の声を遮り、神子の耳を、心を守っていた。

 ギンコにも、全容は掴めない。彼らはなぜここにきたのか。これから何が起きるのか。不平、不満、疑念が渦巻く空気は粉雪のように軽くはない。どこまでも重苦しく、冷気のように下に留まり続ける。

 例えば、ギンコがもっと早くにこの山にやってきていたのなら。例えば、神子が完全な知識をもって治療法を探していたのなら。例えば、仙人たちにも蟲の姿が、声が、届いていたのなら。あるいはこうはならなかったのかもしれない。

 最初こそ神子を追及するような言葉を並べていた老人だが、神子の言葉には思うところがあったのだろう。口ごもる。

 

「儂らはただ……」

「光る酒が欲しいのか」

 

 その言葉に、ギンコは息を呑んだ。何かを言いかけた老人も、続く言葉を失った。全てを聞き分ける神子だけが、淀みなく言葉を紡いでいく。

 

「……皮肉な話だ。一度は私も、貴様らと同じように探し求めたものだが、今はこうしてそれを守る立場にあるとは」

「やはりその若者が、光る酒について知っているのですな。豊聡耳様!」

 

 老人が語気を強めた。それに同調するように、周囲の人影からもおお、おお、と声が上がる。そいつを寄越せ、どこにある、そう叫ぶ声がする。

 じりじりと人垣が迫ってくる。気がつけば、足がない者ばかりではない。ギンコの治療で光酒を口にした者もいた。光酒の性質に触れたことで、何かを察したのだろうか。巧妙に言い繕うばかりではない。神子の言うところの人の獣性が、ギンコの前で口を開ける。

 ギンコにもわかる形で、欲望が肥大化している。異様な執着心と熱気を孕んだ視線は、暴徒の一歩手前まで膨らみ、きっと今すぐにでも、泡が弾けるように走り出すのだろう。

 ギンコも流石に身の危険を感じて立ち上がる。まだ目は霞むが、体の動きに支障はない。

 そして彼らはきっと、ギンコを帰すつもりはない。それが容易に想像できた。

 

「一応忠告をしておこう。やめておくがいい。あれは、貴様らの手に負える代物ではない」

「ではその若者にのみ、扱えるものと? ならばその若者と話をさせていただきたい。その光る酒とは如何なるものなのか」

「やれやれ。誰に(そそのか)されたのかは……まあ大体見当はつくが……浅ましいことだな」

「浅ましい? 失礼ながら、それは御身(おんみ)も同じことでしょうに」

 

 老人の言葉に神子は自嘲して、口の端を吊り上げた。

 

「そうだな。その通りだ。ならば察しの悪い貴様らには、はっきりと告げてやらねばなるまい」

 

 蟲。仙人たちは、その存在を明確には知らずとも、その価値は明確に理解する。片足を失い、修行も満足にこなせるかわからない。これまで失ったものを補填するために、これから価値あるものを求めるのはある種必然だ。

 ひときわ強い風が吹く。神子の外套が翻る。

 

「ならぬ。あの光る酒も、そしてこの男も、全て私のものだ。貴様らに渡すものなどない」

 

 決定的な断絶だった。まだどうにか、人の体裁を保っていた者たちが退路を断たれる。ならば、仕方ない。そんな言葉が集団の足元からじわりと染み出してくるような気がした。

 たとえ浅ましかろうと。知ったことかと、求め、這い上がろうとする。光ある場所を求め、蜘蛛の糸をたぐる。そこに倫理も道徳もありはしない。押し退けてでも、掴もうとする。彼らは失ってしまったのだ。もう引き返せない。

 

「布都。屠自古」

「「はい」」

 

 従者二人の返事が重なる。

 

「ギンコ殿を今すぐ山から下ろしなさい。ここは、私一人で抑えます」

「なあ、あんた……」

「ギンコさん」

 

 ギンコにはもう、言葉がない。膨れ上がった欲望は、ギンコが背を向けた瞬間に飛びかかってくるのだろう。

 自分は考えが浅かったのかもしれない。そんな絞り出すような、後悔を滲ませた言葉は、しかし神子に遮られた。

 

「今度は春にお会いしましょう。新しい梅を摘んで待っています」

「……ああ」

 

 短くギンコが答えると、有無を言わさぬ勢いで布都と屠自古が両脇からギンコを抱えて飛び上がった。速度を上げて小さくなる彼を見送る視線はない。その代わりに神子は、口に咥えたそれを摘んで、薄く煙を吐いた。

 

「さて……戯れじゃ。聞かせてみろ。貴様らの(こえ)を」

 

 

 

 

 

「ギンコよ。我らはここまでだ」

「ああ」

 

 神子を一人山中に置いて、飛んできたここは山の麓だ。木々が開け、平坦な道が伸びている。わかりやすく人が通るための道だ。進めばどこかしか、人の気配のする場所に出るだろう。足跡が全くないことが、少しだけ心細い。

 天気は相変わらず、曇天から粉雪が舞い、寒さが横たわっている。道の一方を指差して布都が言う。

 

「こっちに進めば人がいる。少し距離があるが、お主の足なら日の入りまでには着くはずだ」

「わかった……世話になったな」

「何を言う。こちらこそ、お主には感謝している。まあ、こんな別れにはなってしまったが……」

 

 布都は残念そうにつぶやく。さっきの光景を思い出しているのだろう。ギンコもその気持ちはよくわかった。

 この山に、自分が来たことは間違いだったのではないか、とギンコは思った。骸草におかされている仙人を治したことは、結果として光酒の存在を含め、ただ悪戯に混乱を招いただけのような気がしていた。

 沼のこともそうだ。ギンコは沼が人の手によって汚染されている現状をどうにかしようとしていた。それは、今思えば、余計なことだったと言えなくもない。

 あの沼に近づく者は、仙人ばかりだ。彼らにとって、廃棄する薬毒は直ちに体に影響を与えない。腐れ、侵されるは自然ばかり。それは彼らにとって関心の浅いこと。だからこそ真に彼らの目的に沿うならば、腐酒さえ、蟲さえ、どうにかできればよかったのだ。そういう意味で、青娥は実にうまく問題に対処したと言えた。

 沼にはまた、誰かが捨てにいくのだろう。そしてまた、いつか確かな破綻を迎える時まで、沈黙を保ち続けるのだろう。

 思えば神子の考え方もそうだった。共存など端から考えていなかった。いや、仙人らにとってそれは、第一義ではなかったのだ。ただそれだけのことが、大きな(へだ)たりだった。

 それでも、神子は最後には、ギンコの思いを汲んでくれた。あるいはそれは、そうした方が都合がいいと判断しただけなのかも知れない。ただ、また会おうと言った別れの言葉を信じたいだけなのかも知れない。そんな疑念を抱えつつも、記憶の中の梅の香りだけが、優しい約束であるような気がした。

 人は恥を知り、後悔を抱える。あまりいい気分ではなかった。それを察したのか、布都が明るく振る舞おうとする。

 

「心配するなギンコ。太子様はお強い。あの程度は者の数ではないわ」

「そうだな。まったく……恩知らずどもめ。今頃は太子様にキツイお灸を据えられているに違いないわ」

 

 屠自古も同調し、パリパリと帯電している。ささくれ立った感情を表すようなそれは、わかりやすい共感にもなった。

 だが気分は晴れない。ギンコは二人に、曖昧な返事をした。

 

「落ち込むなギンコよ。お主のせいではないぞ」

「ああ……」

「太子様も仰っていたろう。次に会うのは春だ。餅は好きか? 雑煮は? 美味いものも楽しいことも、春にはたくさん待っている」

「……ああ」

「花見もあるな。陽気に包まれ、花を愛でながら飲む酒は格別ぞ。酒飲みは塩気を好むようだが、我はもっぱら甘味と合わせるのが好きだ。それから……」

「布都。もう良い。そろそろ戻るぞ」

 

 布都の言葉を、屠自古が遮った。

 

「屠自古……しかしな」

「……いや、すまんな。心配をかけた。こっちは、もういい」

「そら、ギンコもこう言っている。この男は太子様と対等に付き合える賢者だ。そうそうヤケは起こさん。それよりも、我らは太子様をお守りせねば」

 

 屠自古はそう言うと、布都の返事を待たずに空中へと浮かび上がった。

 

「先に行く。達者でな蟲師殿。また会おう」

 

 短い別れの挨拶を残して、もう屠自古は振り返らなかった。布都はそんな屠自古とギンコを交互に見やり、しばらく黙っていた。だがそれも長くはなかった。

 

「……屠自古の言う通りだな、ギンコよ」

「ああ」

「我も行く。者の数ではないにせよ、やはり太子様が心配だ」

 

 布都が中空に印をきる。その奇妙な指の動きは旋風を呼び起こし、それは次第に強くなっていく。

 

「さらばだギンコよ! 道中達者でな! また会おうぞ!」

 

 風と共に布都が飛び上がる。わずかに足下に積もっていた細雪を巻き上げて、旋風が山向こうに消えていく。突風に目を細め、舞い上がった雪が視界を塞ぐ。晴れて目を開ければ、残されたのはギンコ一人。あとにはもう静寂が寄り添うばかりだった。

 言葉もない。落胆もない。ただ今は、孤独が慰めのような気がする。ギンコは歩き出した。ぎしりと雪を踏み締める。何か重いものを背負っているような音だった。

 遠くで(おろし)が鳴いている。粉雪はいつの間にか勢いを増し、密度濃く降り始めた。肩も頭も、白で覆われる。どのくらい歩いたのだろう。道はまだ続いている。

 山から離れる。それが少し後ろめたくて、ギンコはここまで振り返らなかった。どうしようもなかったのだろう。ギンコはギンコで、やれることをやったはずだ。それがどこか言い訳じみていたとしても、人の身では春を待つことしかできなかった。足が止まっている。ギンコは振り返った。

 山があった。大きな輪郭。空に引かれた稜線が見える。あそこには人がいる。それもここからでは確認できない。さっきまでの全てが、もう山の一部だった。

 不意に影が差した。雲を透かした陽光を、さらに遮る何かがギンコの頭上にかざされる。それは大きな茄子色の傘だった。振り返ると、大きな傘の小さな持ち主がギンコを見上げていた。

 

「人間さん寒そうだね。傘、使う?」

「……ああ、そうだな」

 

 ギンコは歩き出す。冬はまだまだ終わらない。それでも春の訪れを胸に秘め、耐え忍ぶ。

 山で颪が鳴いている。嘲るように、鳴いている。その身を隠すように、ギンコは少し、深く傘を差した。


















 これにて第八章完結です。4年越しなのはまあ、まあ……ね。許されたい(願望)。
 最後はとても長くなりました。どこかで区切ろうかとも思いましたが上手い引きが思いつかず、最後まで行ってしまえと開き直ることにしました。それなりに納得のいく終わり方になったかと思います。楽しんでいただけたら嬉しいです。

 皆様の感想は全て目を通しています。復帰直後からたくさんのお声をかけていただき、恐縮です……。本当にありがとうございます。
 第九章はそれなりに近いうちに。4年後とは”もうしません“のでご安心ください。

 それでは、またお会いしましょう。

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