幻想奇譚東方蟲師   作:柊 弥生

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<前回のあらすじ>
 妖夢はついに半霊の自分を見つけ出した。





 幻想奇譚東方蟲師、始まります。







第七章 迷い繰る日 拾壱《了》

 目の前に突然、もう一人の自分が現れたとき、人はどんな行動を取るのだろう。狼狽える? 恐怖に足がすくむ? そのどちらもが去来して、自分を見失い襲いかかる? どれもありそうな話だ。しかし実際にその場面を体験した魂魄妖夢の行動は、心境こそどうあれ、とにかく立ち尽くし静観するという単純なものだった。警戒する。それが彼女の出した結論だった。

 鏡合わせの実像。それは自分の動きに追従する光の反射とはわけが違う。濃密な存在感と、言いようのない違和感を纏った現実だった。音、温度、香り。光には付随しない環境情報が明確に飛び込んでくる。緊張しているのだろうか、唾を飲み込んだ喉が鳴る。受け入れがたい現状に警戒心が反応し、思わず靴の裏で地面を擦った。

 一方で妖夢の目の前に現れた妖夢らしきモノは泰然としてそこにいた。髪の色、瞳の動き、姿勢や仕草が浮き上がり、本物に語りかけてくる。いや、この場合はどちらが本物なのか、それは問題ではなかった。

 

「そう警戒しないでください。危害を加えるために姿を見せたわけではありませんので」

「……あなたは誰ですか」

 

 警戒の色を隠さない自分自身に、妖夢らしきモノは落ち着き払った声で答える。

 

「私はあなた自身です。いえ、あなたの半身と言った方がわかりやすいですか」

「え……じゃ、じゃあ」

「はい、こうして言葉を交わすのは初めてですね。もっとも、自我を手に入れたのがつい先日のことである私にしてみれば、物事全てが初めてのようなものですが」

 

 妖夢らしきモノは微笑をたたえてそう言った。その言葉を聞いて、妖夢は肩の力を抜いた。いつの間にか腰に据えていた刀からも手を離し、背筋を伸ばすようにゆっくりと姿勢を正す。

 妖夢の前に現れた妖夢らしきモノ。それは妖夢自身。廻陋に囚われていた半霊だった。

 二人は向かい合う。微笑みを浮かべて、余裕を見せる妖夢。眉を下げ、困惑を隠せない様子の妖夢。未だ現状を正しく理解できていなさそうな自分に、半霊の妖夢は優しく言葉をかけた。

 

「私を探しに来たんですよね? お疲れ様です。無事見つけていただけて何よりでした」

「……色々と事情を知っていそうな態度ですね。少し質問しても?」

「ええ。私自身に隠すことなどありませんとも」

 

 なんでもどうぞ、と両手を広げた半霊の妖夢はどこか幼く見える。姿形は半人の妖夢と相違ないが態度、仕草に柔らかさと穏やかさが共存し、半人の妖夢には演出できない少女らしさのような雰囲気がそうさせているようだった。

 その雰囲気を半人の妖夢も感じ取れたようで、年相応、あるいは少し幼いくらいのその態度を見て、咳払いを一つ挟んで質問した。

 

「……ここはどこですか。幻想郷の一部とも思えませんが」

「ふふ。ここは異空間ですよ。廻陋、と聞いてわかります?」

「知っています。では私は廻陋に囚われたんですね……不覚です」

 

 黒一色の視界を眺めてため息をつき、額を押さえた。祖父が今の私を見たらどう思うだろう。妖夢はふとそんなことを思った。

 

「囚われたと言うのは適切ではないですね。『迷い込んだ』とするのが正しいでしょう」

「どちらでもいいです。とにかくここを出なければ。ギンコさんもドレミーさんも心配してるでしょうし」

「あなたがここにくるまでの協力者ですか? お世話になったんですか?」

「ええとても。廻陋のことも教えていただきました」

「それはそれは。奇特な識者も居たものですね」

「……さっきからまるで他人事のようですね。本当に私の半身ですか?」

 

 先程からにこにこと笑顔を崩さない半霊の自分に、妖夢は鋭い視線を向けた。不意に半人の自分に睨みつけられ、妖夢の表情が固まった。しかしそれも一瞬のうち。すぐに調子を取り戻したように笑顔を作って、妖夢に言った。

 

「ええ。半身も半身、私はあなたの半霊ですとも。同じ時を生き、同じ人生を歩んできた、ね」

「それにしては幼さが残る成長ですね。私はそんなに落ち着きのない子供のような印象ですか?」

「それはご愛嬌。と言うより、肉体を持たない自意識でしか存在してこなかった私ですから。あなたより成長が遅れるのはやむなしかと」

 

 そんなことが聞きたいんですか? と半霊の妖夢は言う。肉体のようなものに付随して、自我の芽生えた半霊は今の状況を楽しんでいるのかもしれない。なぜ半霊に肉体が付与されるのか。謎が頭をよぎる。

 

「……あなたはなんなんですか。廻陋とは獲物の後悔や残念を足がかかりに精神を縛り、行動を縛ることで捕食するだけの生き物ではないんですか?」

「概ね間違ってはいませんが少し違いますね。でも本質の輪郭だけは捉えているようで。これは識者様の知力が伺えます」

「茶化さないでください。これ以上の回り道は御免です」

 

 にこやかに、和やかに会話を続けようとする半霊の自分の言葉を断ち切るように、半人の妖夢は一歩踏み出した。腰に下げられた白楼剣が揺れる。

 

「怖いですね。今にも斬りかかってきそう」

「お望みならばそのように」

「性急ですねえ……まあ廻陋に対する認識は間違っていませんよ。それは獲物を食し、数を増やす営みをしています。ですが精神を縛っているわけではありませんし、ましてやこの空間に迷い込んだ動物を直接捕食しているわけではありません」

「? どう言う意味ですか」

 

 どう言う意味も何も、と半霊の妖夢は半人の妖夢に背を向けて両手を広げ、天を仰いだ。

 

「ここは生き物というより、そういう現象の中、と解釈した方がしっくりくると言っているだけです」

「現象?」

「はい。一度迷い込んだが最後、後悔や残念を抱えたままでは出口にたどり着けない異空間。それがこの場所です」

 

 自分自身が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。半人の妖夢の理解を待たずに、なおも半霊の妖夢の語りは続いていく。

 

「この空間の呼び名は決まっていません。誰もこの空間を認識できず、誰もこの空間から智慧を持ち帰ることができないのですから、当然ですね。ですが私に知識を与えてくれた人曰く、阿頼耶(あらや)、とそう呼ぶのが最もらしいそうです」

「あらや……仏教世界における集合無意識のことですか」

「名付けの原因はそこにあるそうですが、今回は単純に『蔵』という意味ですよ。意識の源泉。後悔や迷いに代表される衆生の苦しみを生み出す大元……無明が浮き彫りになる空間。仏教的に解釈するとそうなるらしいです。わかりやすく、端的に言えば『過去と向き合い、迷いを断つことを促す精神活動世界』だそうです」

「……途方もない話ですね。荒唐無稽、と言い直した方がいいですか」

「ですよねー。私もそう思います」

 

 やはりどこか幼さの残る口調で、半霊の妖夢は楽しげに言った。両手を広げて、足を軸にくるくると回っている。あっちこっちによろよろと落ち着かない様子のせいで、はじめこそ鏡合わせの自分として警戒心を抱いていた半人の妖夢も、今は全く性格の違う双子の妹を見つめているような心境になっていた。

 

「とにかく、ここはそういう場所なんです。そして現世とこの場所を繋げる回廊として機能し、この場所の暗闇に潜み、香りで獲物を誘い込んではその精神活動から栄養を得ている存在こそ、廻陋というわけですね」

「ん、じゃあここは……」

「性質や由来を考えなければ『廻陋の住処』ということです。ここに迷い込んだ生物は空間そのものの性質によって特殊な精神活動状態になる。そういう状態になった生物から栄養をもらう。廻陋とはそういうモノです。やっていることは夢魔と大差ありませんね」

「……私たちが特殊な精神活動状態に陥らない理由は?」

「半人半霊という特殊な体質と白楼剣の影響です。普段から白楼剣に触れている私たちは霊体の一部と後悔や迷いを一緒にして、肉体から切り離すことができているようです。常に自分の精神活動を客観視できる才能があるんですって。現世では稀に幽体離脱という現象で一時的な半人半霊を体験する者もいるとか」

 

 半霊の自分が語る新たな事実を、妖夢は徐々に飲み込んでいく。

 廻陋の正体はギンコが考えていたようなものではなかった。過去を繰り返すという症状、それ自体は廻陋と関係がない。後悔や迷いの原因となる過去の出来事を繰り返し再生するその症状は異空間の性質に起因し、廻陋とは異空間に潜み、空間内での精神活動を糧としている蟲だった。ギンコが聞けば驚きそうな内容だと、妖夢は思った。

 もう疑問は解消されましたか? と笑いかけてくる自分自身を前に、妖夢は最後の疑問をぶつける。

 それは妖夢にとって、あるいは現状の理解以上に重要な疑問であったかもしれない。おぼろげな記憶が言葉を急かす。おおよその見当はついていた。だがしかし、きちんと確認せずにはいられなかった。目の前の半霊、自分の半身に知識を与えた人物のことを。

 

「……あなたはどうしてそんなことまで知っているんですか」

「教えていただいたからですよ。私たちのおじいちゃん……魂魄妖忌に」

 

 その名を聞いた途端に、桜の香りを伴って鮮やかに蘇る記憶があった。

 腰に差している白楼剣へと手を伸ばす。いつの間にか無くしてしまっていたこれを再び授けてくれた人。この空間に迷い込んですぐ、妖夢を導いてくれた人。緑の着物の、白髪の老人。ああ、久しく見ていなかった、祖父の温顔。

 

「……なぜ、祖父はここに?」

「修行だそうです。時を斬ることができるようになったから、今度は業を斬るため修行を積んでいるとか。呆れますよね」

「……まったくです」

 

 自然と笑みがこぼれる。少しの呆れと一緒に息を吐き、すぐに表情を引き締めた。

 

「……もう聞きたいことはないんですか?」

「ええ。もうありません。私にも帰る場所がありますので、ここから出ます。どうすればいいのか知っていますか?」

 

 

 

「ええ。わかりますとも」

 

 あっけらかんと言った半霊の妖夢はスッと指をさす。その先を追いかけると、それは半人の妖夢の腰にさしてある刀を示していた。

 

「白楼剣で私を斬ればいいんですよ。私はあなたの迷いを受け持っていますので。そうすればここから出られます」

「白楼剣であなたを?」

「この空間から出るには過去の後悔、迷いを清算する必要があります。本来は過去の繰り返しを体験し、時間をかけて自ら啓蒙を得る必要がありますが、白楼剣はその過程を省略してくれるので。まあスパッと断ち切っちゃってください」

「そんな簡単なことでいいんですか?」

「簡単なことと言いますが、これは半人半霊という体質に加え、白楼剣がなければ実行できない超例外的な脱出方法なんですよ? 普通ここに迷い込んだら二度と出られないんですから」

「……なるほど。魂魄の家系がどうして廻陋の記述を後世に伝えられたのか、わかった気がします」

 

 さあひと思いに。と両手を広げて構える半霊の自分に近づきながら、一応刀を抜いて構えた妖夢はなんとも言えない表情を浮かべた。

 

「……なんか自分を斬るって複雑な心情ですね。大丈夫なんですか?」

「何がですか?」

「いや、ほら。白楼剣で幽霊を斬ると成仏しちゃうので……」

「白楼剣は魂を切り分けられるほどの霊力を持つ刀ではないですよ。私はあなたの半身なので、問題なしです」

「はあ……じゃあ」

 

 一呼吸置いて、妖夢が袈裟斬りの構えをとる。肩口からばっさりと対象を切り捨てる上段の構え。そうして構えた時、ふと、ひらめくように思い至ることがあった。

 

「……そういえばあなたは私の後悔や迷いの一部を持っているんですよね?」

「? ええ、それが何か?」

「私の迷いってなんですか? 自分では祖父の教え通り日々後悔がないよう努めて生きているつもりなんですが」

「ああ、それは単純ですよ。誰でも持ってるものです」

「単純?」

 

 半霊の妖夢は答える。半人の妖夢よりも幼い仕草、表情、態度で応える。それはいつかありえたかもしれない自分の姿。役目も目標も持たず、ただ桜の樹の下で、大切な人と笑って悠久を過ごしていたらという妄想。

 

「“もしも”を焦がれる思い。今の自分とは違う人生を歩んでいたら、という根源的な望み。誰しも今の自分が、過去現在未来の時間軸全てにおいて、完全完璧だとは思いませんよね? そういう、どうしようもない欲望という名の、廻陋の餌です」

「……そういうことですか」

 

 そういうことです、と笑った自分は、果たして半人半霊のどちらだったのか。刀が振り下ろされ、無明の世界に白刃が煌めいた。

 

 

 

 

 

「それで。結局、いいとこなしで終わったと」

「……まぁな」

「はぁ、情けないですわね。幻想郷唯一の専門家としての矜持はないんですの?」

「へいへい、すいませんね」

 

 小言の発生源から目を逸らし、仰向けの体をひねりながら、小さな和室の中にありったけ光を取り込むように開け放たれた障子戸の方を見る。戸に縁取られ、軒に大部分を遮られながらも、奥行きのある自然の光景が目に入る。それらの最奥にちぎれ雲がひとつ、ぽつんと浮かぶ秋晴れの空を見て、心の在り処を見出したような気になった。

 こんな風に戸を開けっ放しにして外の風景を眺めていられるのもあと少しの間だろう。もう幾日も経たぬ間に、すぐ木枯らしが吹き付け、山颪が雪を呼んでくる季節になる。流れ流れて土地を行く、旅の身の上には厳しい厳しい冬の時節の到来だ。そう思えば、自分の体を覆う布団の温もりに有り難みを感じずにはいられなかった。

 

「……あの」

「なんだ」

「寒いのですけれど! もう戸を閉めてもらってよろしいかしら!?」

「……へいへい」

 

 惜しむようにのそのそと布団を剥ぎ取り、温もりに守られた綿の結界から這い出すと、なるほど室内は冷え切っていた。息も白む、ほどではないにしろ手を擦り合わせて首をすくませる仕草が絵になるくらいの肌寒さだった。

 客人の要望通り、障子戸を閉める。新たな冷気の侵入はこれで防ぐことができるが、火元のないこの部屋が温まるのはまだ当分先だろう。そそくさと暖を求めて布団に戻ろうと振り返ったところで、ぴたりと動きが止まる。

 

「……何してんだ」

「はぁ〜。ぬくぬくですわ〜。本格的にお布団が恋しくなる季節になってまいりましたわね」

 

 ちょっと目を離した隙に、楽園への侵略者が現れた。さっきまで自分が収まっていた布団を首まで被り、顔を綻ばせているそいつを見て、幻想郷唯一の専門家、蟲師のギンコはため息をついて、畳に腰を下ろした。冷たい畳に触れた尻が冷え、温もりの離散に拍車をかけた。

 ここは白玉楼の一室。冥界の主人、西行寺幽々子がおわす御殿。輪廻転生の順を待つ、霊魂が死後の安念を享受する場所に、幽玄と佇むお屋敷。本来ならば命あるものが立ち入る機会などない幽世に、なぜ人間の、とりわけ生者であるギンコがいるのかといえば、最近起きたとある事件、蟲に関する諸々のためであった。

 片膝を立てて抱き込むように座り、自分の体を少しさすって、ギンコは布団を奪った首魁の顔を恨めしそうに見つめた。

 

「布団返せよ」

「嫌ですわ」

 

 ギンコの要求をバッサリと切り捨てたのは神出鬼没の大妖怪、八雲紫だ。ちろりと小さく舌を出して、可愛らしい仕草を見せつけているが、ギンコにはあまり効果がないようでじとりとした視線が緩和されることはなかった。

 

「そんな怖い顔なさっても譲りませんわよ、私」

「もとよりお前さんのものでもないだろ。どけよ」

「まあなんて言い草。昏睡状態で衰弱していた貴方の体をここまで運び、保護して差し上げたのはどこのどなた様だったかしら」

 

 心底傷ついたとでも言わんばかりに布団に顔を埋め、その隙間からちらりと流し目を向けてくるわざとらしい紫の態度に、半分呆れ混じりの息を吐く。

 夢と廻陋の世界が交差する精神世界から帰還したギンコはこの部屋で目を覚ました。一週間以上の昏睡と絶食による衰弱、筋力の低下で体も満足に動かせない覚醒だったが、最低限の命の保証はなされていたようで、健康状態に致命的な問題はなかった。

 覚醒の折、側にいたのは他でもない、ふてぶてしく布団を占拠するこの八雲紫とその一派、いつぞやの狐と山猫の式神二人に、屋敷の主人である西行寺幽々子、そして未だ眠り続けていた魂魄妖夢の体だった。

 

「よく言うな。俺を探して運んできたのも、その後甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたのも、狐の姉さんと山猫のお嬢ちゃんだってことはわかってんだぞ」

「従者の徳は主人の徳。だから私に感謝するのは自然なことでは?」

「……左様で」

「ええ。だからどうぞ感謝してくださいな」

 

 さも当然と言うように得意気な紫に、もう何も言うまいとギンコは早々に諦めた。布団を被っている状態での彼女の得意顔はなんとも間抜けな感じがしたので、それでおあいこにしておこうとも思った。

 

「ですが今回は本当に驚きました。幽々子に庭師の子が目を覚まさないと相談を受けて、永遠亭を頼る前に貴方に所感を求めようと探してみれば、同じく昏睡状態になっているんですもの」

「だろうな。俺も予想外だった」

「かいろう……でしたか? 今回遭遇した蟲は?」

「ああ……してその廻陋だが、興味深いことがたくさんあってな」

 

 言うが早いか、ギンコは部屋の片隅、床の間付近に置いてある薬箱に這い寄り、妙に興奮した手つきで、近くに転がしてあった巻物を手に取った。紫から見てもその仕草は普段のギンコとは違うと感じられた。

 寝物語でも聞かせるように、ギンコは慣れた手つきで巻物の紐をほどき、手の内でするすると広げた。寝転がる紫の目に、巻物のまだ新しい表紙が映る。最近新しく書き記されたのであろうそれには、ギンコの目の色を変える情報が綴られている。

 

「廻陋の資料は少なかった。花の香りで獲物を引き寄せ、誘い込んだ獲物の時間を円環状に歪める漆黒の筒状の蟲、というのがわかっている全てだった。だが今回のことでその情報は大幅に修正された」

「そうですわね。私も対応しなくてはいけないことができましたし」

「廻陋の正体……阿頼耶という異界に巣食い、迷い込んだ獲物の精神活動を糧とすること。その異界と現世を繋ぐ通い路としての役目。知らないことばかりだ」

 

 もっとも、と前置きしながらギンコは残念そうに巻物を畳にそっと下ろす。

 

「これら廻陋の性質がわかったところで、迷い込んだ者そのものに打開策はないことが問題だがね」

「半人半霊という体質がなければ異空間に迷い込んだことも認識できず、白楼剣がなければ早期の脱出は望めないという二段構えですものね。今回のことは幸運だったということでしょうか」

「そうだな」

 

 そこでギンコは半人半霊の少女のことを思い出す。廻陋に半身を誘われ、夢の世界で過去の繰り返しを体験していた少女。知恵を貸し、問題解決の手段を授け、しかし後一歩のところで彼女はギンコの手をすり抜けていった。

 

「藍の報告ですとその異空間……阿頼耶と思しき空間の入り口をいくつか発見したようですわ。無理に塞いで不特定の箇所に別の穴が開いても面倒ですし、幸い幻想郷を広く活動する人間はほとんどいませんから、主たる人外妖魔に伝達し、静観することに致します。それでよろしくて?」

「ああ。それがいいだろう」

 

 蟲の営み、引いては理を捻じ曲げようとすればどんな歪みが生じないともわからない。そこだけはギンコと共通の認識を持っていた紫は、幻想郷内において廻陋との共存の道を選んだ。排斥するでもなく、無視するでもなく、共存。隣人となってしまった以上、もう蟲たちとは適切な距離を保っていくしかない。

 ぎちり、と木の軋む音がする。大きくはないその音が、部屋の外から規則正しく聞こえてくる。徐々に近づいてくるそれはギンコが背を向ける障子の向こう側でぴたりと止まり、次に控えめな女性の声が紙の壁をすり抜けてきた。

 

「失礼致します。お昼をお持ちしました」

「ん。もうそんな時間か」

 

 どうぞ、とギンコが促せば、するりと衣擦れのような滑らかな音を伴って戸が引かれた。数種の小鉢がのった膳が部屋の中に差し入れられ、次いで水色の着物を纏った女性が腰を低くして部屋の中に入ってくる。目を伏せ、静々と余計な音を立てない仕草の端々には気品がちりばめられ、指先一つ、呼吸一つとってもたおやかで絵になる所作だった。

 

「どうぞお召し上がりくださ……って、あら? どうして紫が布団に?」

 

 配膳をした女性、白玉楼の女主人であるところの西行寺幽々子は布団を被って寝転がる友人に向かって、当然の疑問を投げかけた。

 

「まあ色々と……そういう貴女こそ、どうして配膳なんて?」

「え? いや、ね。たまにはいいかなって思っただけよ。いつも同じ人が来るのもつまらないじゃない?」

 

 自分に都合が悪い話題から意識を逸らすため、すぐに返しの疑問を投げかける紫。それとなく布団から這い出しつつある友人から質問され、先ほどまで纏っていた気品をどこぞへとしまい込み、破顔した幽々子は自然な口調で答えた。

 ギンコが尻を引きずって膳の前に移動する。その気配を察知して、幽々子も笑いかけていた友人から本来の意味での客人へと意識を戻した。膳を挟み、お互いに軽く会釈を交わす。

 

「すみませんね。長い事、ご厄介になりまして」

「お気になさらず。受けたご恩を思えば当然のもてなしをさせて頂いているだけのこと。どうぞお体の調子が快復いたしますまで、ごゆるりとお過ごしくださいな」

 

 にこやかに、穏やかに、幽々子はギンコに笑いかける。幽々子の言うところの恩とは、彼女の従者である魂魄妖夢が受けた恩のことだった。

 ギンコが昏睡状態から目覚めてすぐ、体感で半刻もしないうちに妖夢も同じように目を覚ました。妖夢は廻陋によって夢の世界から阿頼耶に引きずり込まれ、そこで自身の半霊と再会し、白楼剣をもって異界から脱出した経緯を皆に話し、そうして状況を整理して身体の異常はないかと慌ただしくしているうちにひょっこりと半霊も戻ってきて、今回の騒動は終局を迎えた。

 終わり方こそあっけないが、事実だけを見れば二度と目覚めないこともありえたのだから、端的に言ってギンコは妖夢の命の恩人である。その事を幽々子も重々承知していて、ギンコが体調を快復するまでの間、白玉楼での滞在を勧め、もてなしをしているというわけだった。

 そして今回の騒動の言わばもう一人の被害者である魂魄妖夢はというと。

 

「幽々子様。すみません、配膳をお願いしてしまって」

 

 前掛けを手元で畳みながら忙しなく縁側を小走りで駆けてきて、戸の間から顔を出してはそんなことを言った。

 昏睡状態からの覚醒時、妖夢ももれなく身体が衰弱していたが、そこは半人半霊の体質が効いたのか、ギンコより随分と早く復調し、こうして元気に日々の仕事に勤しんでいた。もちろん、幽々子が運んできた膳の上を彩る小鉢の料理も、妖夢が自身で手がけたものである。

 台所の片付けをして妖夢が部屋にやってくると、幽々子に気にすることはないと言われ、では遠慮なくと手を合わせたギンコがちょうど小鉢に手をつけているところだった。

 

「あ、ギンコさん。もう召し上がっていたんですね」

「そりゃもう有難く。ここ数日で、随分と舌が肥えた気がするよ」

「ふふ。そう言っていただけて何よりです。あ、紫様もお変わりなく」

「はいどうも。お元気そうですわね。これなら幽々子も一安心かしら」

「おかげさまで。重ね重ね、この度はご迷惑とご心配をおかけいたしました」

 

 深々とお辞儀をする妖夢に、布団の横できちんと正座をしていた紫は軽く手を振って応えた。

 

「ねえ妖夢。ギンコさんのお昼を見てたら私もお腹空いてきちゃったわ」

「そう仰ると思いましていつものお部屋にすでにご用意が。紫様もご一緒されるのでしたら、すぐに用意いたしますが」

「いいえ、私は遠慮いたしますわ。ギンコさんから今回の騒動について一通りの説明していただくという目的は果たせましたし、冬に向けて備えることも多々ありますので」

 

 そう言って紫はゆっくりと立ち上がり、指先を軽く振るった。途端にぴりぴりと空間に裂け目が生じ、ぞろりと目玉が覗くスキマが口を開く。

 それでは皆さま、御機嫌よう。と言葉を残し、八雲紫はずぶずぶと異空間に消えて行った。

 

「じゃあ私もお昼食べてくるから。妖夢はこのままギンコさんのお話し相手になって差し上げたら?」

「え? ですが……」

「いいからいいから」

 

 じゃあ、あとはごゆっくりー。と言葉を残し、八雲紫に次いで西行寺幽々子も退室する。何に気を遣われたのかいまいち理解が追いつかない妖夢ではあったが、ここですぐさまギンコ一人を残していくのもなんだか申し訳ない気がして、所在なく、ちょこんとギンコの前に座り込んだ。

 幽々子を目線だけで見送り、もりもりと食事を再開するギンコと目が合う。何を誤魔化したいのかわからぬまま、何かを誤魔化そうと笑ってみせた。そんな妖夢の心境を知ってか知らずか、ギンコは表情を変えぬまま口の中のものをごくりと飲み込んで、気軽に声をかけた。

 

「最近は特に冷え込んできたな。そろそろ冬か」

「あ、はい。そうですね……ってそう言えばこの部屋寒くないですか?」

 

 今更気がついたという風に妖夢は少し自分の肩をさすって部屋を軽く見回した。確かに寒い。それは先ほどまで部屋に晩秋の外気を惜しげもなく取り込んでいたからに他ならないのだが、さらに言えば先ほどよりも少し寒くなっているような気がした。ここまでくると流石に暖房が欲しくなってくる。それくらいの寒さだった。

 

「まあさっきまで外が見たくて戸を全開にしてたからな」

「部屋が冷え込むまで何してるんですか。これじゃあ温まるまで時間かかりますよ?」

「布団の中は暖かかったから部屋が冷えてるのに気づくのが遅れてな。まあ温まるまで、また布団にくるまって大人しくしとくさ」

「もう……待っててください。火鉢を持ってきますので」

「……なんかすまんな」

 

 ギンコの子供のような言い訳に、いいえと満更でもなさそうな微笑みを浮かべて、妖夢は立ち上がり、火鉢を取りに行くため部屋を後にした。

 結局部屋に一人取り残されたギンコは、妖夢の足音が遠ざかっていくのを聞いてから止まっていた箸を再び動かした。小鉢の中身を摘み、次々口に放り込んでいく。もう残り少なかったそれらを食べ終えるのに、そう時間はかからなかった。

 そうして腹も満たされ、もう後はくつろぐだけとなったギンコだが、ちょうど少し前から気になっていることがあった。そう、ちょうど妖夢が火鉢を取りにこの部屋を出ていったあたりから気になっていたことだ。

 

「……で、お前さんはなんでそこにいるんだ?」

 

 とりあえず声をかけてみる。ギンコの視線の先。そこには妖夢の半霊がふよふよと浮かんでいた。

 そいつは声をかけても動く気配がなかった。雲のようであり、白磁のようでもあり、白玉のようでもある質感のそれは、時折揺らめいて形を変え、いつまでもギンコの前を動かなかった。

 手をかざしたり、見つめてみたりと色々試して反応を伺う。そうしているうちに、わかったことが一つだけあった。

 

「お前さん、なんかひんやりしてるな」

 

 半霊は冷たかった。周囲にひんやりとした冷気を放っていたのだ。

 火鉢が欲しくなるくらいに、室温低下に拍車をかけていたのはお前だったのか。ギンコは思わぬところで思わぬ気づきを得たが、だからと言って寒さが緩和されるわけでもないので、妖夢が火鉢を持ってくるのを待たずに布団に温もりを求めた。

 

「この寒さには付き合えん。悪いな」

 

 まだほんのりと温みが残っている布団を被る。もうすぐ冬だ。間近に迫る、風雪に泣く季節だ。だから今だけは、もう少しだけは温かい寝床の恩恵に浴することを許してほしい。

 夢のような時間をもう少し。誰かに、そう願いをかけながら目を閉じた。



















 はい。お待たせしました。これにて迷い繰る日、完結となります。
 かなり長くなってしまったので時間かかりました。許してください。




 ループものに初めて手を出したのでお見苦しいところも多々あると思います。特に廻陋の解釈については原作と大きな差(ほぼ独自設定)があり、さらに細かな講釈が作品の雰囲気を今までとは違ったものにしているのではと恐々しております。肌に合う、合わない、と賛否両論あるでしょう。抑えきれない思いはどうぞ感想欄へお書きください。





 さて、話は変わり次章のお話ですが……以前もちらと言った通り、原点に立ち返り、蟲師らしさを前面に押し出した作品を目指して書こうと思っています。たぶん神霊廟の面子が出てくると思いますので、お暇な人はまた、是非お付き合いください。





 それではまた次回、お会いしましょう。

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