幻想奇譚東方蟲師   作:柊 弥生

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<前回のあらすじ>
 古明地こいしに端を発する一連の蟲についての出来事が線となり、古明地さとりにつながった。ギンコによる治療を拒むさとりが、緑の杯を傾けた。

最近はまっているアプリがあります。イベントも運営もぐだぐだなアレです。それでは。




幻想奇譚東方蟲師、始まります。








第五章 恋し糸愛し夢 陸

 さとりがいたところには、緑の杯が落ちる。乾いた杯が無情に立てる音色に、ギンコが慌ててその場に駆け寄る。

 

「くそ! 飲み干しやがった」

 

 緑の杯は乾いている。たった今満たされていた光酒はもうない。そう量は多くなかったはずだが、今まで同調していた分もあったのだろう。今まさに、これが最後の一押しとなり、さとりは消えてしまった。向こう側に行ってしまったのだ。

 

「さとり様! ねえさとり様はどこに!?」

 

 ペットのお燐が慌てた様子で聞いてくる。無理もない。目の前で主人が突然消え去ったのだ。取り乱すのも当然だろう。さとりがいた場所にしゃがみこんで、無駄だと知りつつも、お燐は必死に赤い床を撫でている。ギンコは努めて冷静な口調で言った。

 

「……お前さんらの主人は、この杯を使って光脈のそばまで降りてきていた。それはとても危険な行為なんだ。第二の瞼を閉じるなんかよりも早く、体に変調をきたす。半糸で引かれていた分も合わせて、もう向こう側に行ってしまったんだろう」

 

 そんな……とお燐が絶句する。さとりは戻ってこない。少なくとも、自分自身の力では、戻って来たくても戻ってこられないところまで入り込んでしまった公算が高い。

 だがこのままにするつもりはない、とギンコは乾いた杯を持って立ち上がった。

 

「おい。この近くに古井戸はあるか」

「古井戸ですか? ありますけど……」

「そこに案内してくれ。すぐにだ」

 

 はい、とギンコに促されたお燐はギンコを井戸へと案内するべく立ち上がった。

 

「どうするんだい?」

 

 萃香が問う。

 

「あいつが向こう岸までいかなければまだ可能性はある。ほら、お前も来い」

 

 そう言ってギンコが手を引いたのは蟲となったこいしだった。側から見れば、その行動は何もない虚空を掴んで歩き出すという滑稽なものだった。

 こいしの指先からは長く伸びた赤い糸がある。それはさとりが蟲になりそうな今、結び直されようとざわざわ蠢いていた。

 

 

 

「ここです」

 

 お燐の案内で、ギンコは古井戸にやってきた。そこにはとある妖怪が住み着いていた。

 

「キスメ。じゃまするよ」

 

 お燐がそう挨拶すると、井戸の中から顔を出したのは桶に入った子供だった。

 

「おおう、何やらお揃いで、何事?」

「悪いが説明している時間はないんだ。ちょっとあなたの寝床、借りるよ」

「え?」

 

 邪魔するよ、とギンコは古井戸を覗き込んだ。桶妖怪はお燐に引きずり出されて、戸惑っているようだったが、余裕がないのはギンコの方だった。

 水脈はまだ生きているようだ。そこの方で、ぱちぱちと光がハジけるような様が見える。

 

「よし、井星がいるな」

「いせい?」

 

 ギンコは土色の羽織を脱いで、こいしを井戸のそばに引き寄せた。その手にある半糸を井戸の底に差し入れるように手を出させると、ギンコは疑問符を浮かべる萃香に井星とは何か、説明する。

 

「井星とは光脈のある井戸の底に、稀に見る現象のことだ。光脈が近いことを暗示する、火花みたいなもんだな」

「それが今回の事とどう関係しているんだい?」

「これが見えるって事は光脈がそばにあるって事だ。……ここから光脈のそばまで行ってさとりを連れ戻す」

 

 古井戸には先の途切れた縄がかかっていた。錆び付いた滑車からそれを取り外し、一端を妖怪たちに預ける。

 

「俺が下まで降りる。支えていてくれ」

「了解しました!」

 

 妖怪一同を代表して、美鈴が返事をする。そしてギンコは朽ちた縄の片側で輪を作り、そこに自分の片足を引っ掛けた。

 

「お燐」

「は、はい!」

「この杯を持っていてくれ。そして、こいしをなるべく井戸の縁に立たせてくれ」

「え、でも私にこいし様の姿は……」

 

 お燐がそう言った時、ギンコは大丈夫だと言って緑の杯を手渡した。

 

「あ……」

「その杯を持っている間だけは、こいしの姿が見えるようになるはずだ。どうだ?」

「はい……はい! 見えます。こいし様の姿が……!」

「なら、頼んだぞ。さとりを蟲の世界に引き込んだのがそいつなら、こっちの世界に引き戻せるのもそいつなんだ」

 

 ギンコはそう言い残し、井戸の縁に足をかけた。

 

「下ろしてくれ!」

「はい! 行きますよぉ!」

 

 朽ちた縄が軋みをあげる。ギンコは、この朽ちた縄もまだ一人分の体重なら支えて降りる事ができると踏んでいた。ぎしぎしと今にも千切れそうな縄に体重を預けながら、ギンコはお燐とこいしに見送られ、深い井戸の淵にその身を沈みこませる。

 井星のいる井戸。ここから光脈に降り、半糸の一端をたぐって連れ戻す。ギンコがやろうとしている事は、つまりはそういう事だった。

 ギンコの視界に闇が降りてくる。陽の光の届かぬ地底の、さらに奥深く流れる光の川を目指して、現世の身は闇に溶ける。

 

 

 

 ギンコを支える地上の妖怪たちは、事の成り行きを心配そうに見守っていた。実際、ギンコ一人分の体重を支えるのなら美鈴一人でも全く問題はない。それよりも事態の急変についていけないのは釣瓶落としのキスメであった。

 

「ねえねえ、いったい何事?」

「わかんない。さとりさまが消えちゃって、あの白髪の人がそれをどうにかしようとしてるって事くらいしか……」

 

 事態の急変についていけていないのは何もキスメだけに限った話ではない。ペットのお空こと霊烏路 空(れいうじ うつほ)もその一人だ。そんな二人に、鬼の伊吹萃香が慰めるように声をかける。

 

「その理解でいいんだよ。蟲師の領分は、見えない私らが知る事じゃない。あの人に全部任せる事以外できないのは、今も昔も、変わらないんだよ」

「?」

 

 二人は首をかしげた。懐かしそうに語る萃香に、今度は美鈴が言葉をかけた。

 

「そう言えば、萃香さんは蟲師についてよく知っていたようですね。どうしてですか?」

「ふふ、ずいぶん昔の話さ。この伊吹瓢(いぶきびょう)の作成者が、それこそ蟲師だったってだけさね」

 

 萃香は嬉しそうに、瓢箪(ひょうたん)を振ってみせた。ちゃぷちゃぷ、と水音がする。

 

「ご自分で作ったのではないのですか?」

「作ったのは自分さ。でも、酒虫の存在を教えてくれたのは蟲師だ。当時私らは蟲師の光酒が欲しくてねえ。たびたび襲っていたんだけど、それを解決するために”無限に酒が湧き出る瓢箪”なんて謳い文句で蟲師の連中がこれの考案をしたのさ」

 

 再現するのには、かなり骨が折れたけどね、と萃香は言う。もしかしたら、そうして時間を稼ぐ事自体が蟲師の狙いだったのかもしれない。作れもしないような難しい言葉だけを並べ、鬼たちを拘束しておくのが目的だったのかもしれない。しかしこうして酒の湧き出る瓢箪は完成し、萃香の手元にある。

 ずいぶん昔の話さ。萃香はそう繰り返した。

 

「じゃあ萃香さんはこれからギンコさんが何をしようとしているのかもお見通しってわけですか?」

「それはわからないよ。ただ、やろうとしている事はわからなくもない」

 

 それはなんですか? と美鈴は萃香に問う。萃香は口の端を釣り上げて答えた。

 

「あいつは諦めが悪い蟲師だ。私が会ってきた中でも一等ね。だから奴は、覚妖怪の姉妹を助けるために動いているのさ」

 

 

 

 

 お姉ちゃん……どうしてここにきてしまったの?

 

 光の川を挟んで、二人が向かい合う。一人は古明地こいし。蟲の宴により自身の体と能力、つまりは妖怪の力を乖離させ、第二の瞼を閉じ続けることでその身を夢野間と共に光脈のそばに置き続ける者。唾の広い帽子の下は暗闇になっていて、もう二度と、光を見ることはない。

 

 こいしに……会うためよ。

 

 光の川を挟んで向かい合う。もう一人は古明地さとり。蟲の宴により能力が乖離して、自分を求めて彷徨ってきた蟲のこいしを受け入れて、緑の杯を受けた者。その身は蟲に近づき、もう現世の者では連れ戻すことは叶わない。

 

「……こんなことにはなって欲しくなかったんだけどなあ」

「何を言うの。私はこれで良かったと思っているわ。こいしと一緒に、この場所で二人で生きて行く。素晴らしいじゃない」

 

 盲目的に、さとりは語る。すでに盲目の少女は、それは違うと首を振る。

 

「違う、違うよ。そんなことは幸福じゃない。どうしてここにきてしまったの? お姉ちゃんなら、気をしっかり持ってくれると思っていたのに」

「私は正気よ? いつだってこいしのことを考えている。あなた、一人じゃ寂しいんじゃないかと思ってね。現に私のところにやってきたじゃない。恋しがっているのでしょう? 私、すごく嬉しかったんだから」

「それは蟲の私。本当の私じゃないの。本当の私はここにいる。お姉ちゃんには無事でいて欲しかったっていう私がね」

 

 でも、それももう遅いか、とこいしは呟く。こいし、と言って、さとりは踏み出す。容易には渡りかねる光の川に、一歩踏み出す。しかし。

 

「行かせんよ」

 

 踏み出したさとりの手を掴むのは、ギンコだった。さとりは驚いて振り返る。対岸ではこいしも、驚いたように顔を上げた。

 

「驚いたわ。こんなところまで付いてくるなんて」

「わかってんならさっさと戻るぞ。光の川に入れば、もう二度と戻っては来れない。半糸が繋がっている今しかないんだ」

 

 そう言ってギンコは強引にさとりを引き戻す。さとりは抵抗するが、その足取りは弱く、もろい。蟲に近づいている彼女に、ギンコの力を振りほどく術はなかった。

 

「いや、帰りたくない! こいし!」

「しっかりしろ! お前さんの帰るべき場所はこっちだ!」

「こいし!」

「……ありがとう、ギンコさん」

 

 こいしの短いお礼に、さとりの声が重なった瞬間、二人は水の中に投げ出された。

 

 

 

 

 息ができない。水の中にいる。魚でも山椒魚でもない二人は、至極当然に空気を求めて上へと這い出した。

 

「ぶはぁ!」

「げほげほ!」

 

 そこは古井戸の底。ギンコとさとりは光脈の縁から戻り、半糸をたぐって地底へと舞い戻った。ぽっかりと空いた上空の穴から、覗き込んでいたお燐が叫ぶ。

 

「大丈夫ですかー!」

「お、おう! 引き上げてくれ!」

「こいし……」

 

 ギンコの腕の中ではさとりが力なくしな垂れかかっている。朽ちた縄では二人分の体重を支えることができない。一人ずつ引き上げようにも、さとりの脱力を想定していなかったギンコは、さてどうしたものかと思考を巡らせた。

 そんなギンコの目の前に、小さな手が差し出される。それは井戸の上から伸びてきていて、それはそれは長い腕だった。長い腕はギンコの服の首根っこを手探りで探り当て、掴みかかると、ものすごい力で二人を地上へ引っ張り上げた。

 

「うおっ」

 

 驚く間も短く、さとりを傷つけぬよう腕の中にしっかりと抱いたまま、ギンコは背中から地面に落ちた。

 

「二名様ごあんなーいっと」

「はぁ……なんとか、なったか」

「さとりさま!」

 

 ごろり、とギンコの腕の中からさとりが転げ出る。気絶してしまったようだ。その水死体がごとき挙動に、お空が血相を変えて近寄る。

 

「さとりさまぁ!」

「落ち着け! ……、気を失ってるだけだ」

 

 ギンコは呼びかけつつも、さとりの表情を見た。顔色は悪いが、呼吸は規則正しく行われている。それよりもギンコは、この娘の心にある固執のようなものの方が気になっていた。

 こいしを前にした時の取り乱し。半糸によるつながり、蟲になる事を受け入れようとするその精神状態。

 ここから先は、本当に立ち入るべきではないのかもしれない。ほとんど衝動的に引き戻してしまったが、井戸の水をかぶったこともあってか、ギンコの頭も冷静になってきていた。

 ギンコは思い出す。さとりの言葉を。私と妹の問題なのだから、深入りをされたくない。

 ギンコは思い出す。自分の言葉を。個人的な理由で、調べているだけさ。

 ギンコは思う。このまま首をつっこむのなら、それは覚悟をしなければならないということ。さとりという少女が持つ闇に触れる、その行為を、ギンコはもう、戻れぬところまで踏み込んでいた。





















踏み込ませぬようにと走ったはずのギンコが踏み込んでしまったというね。あ、前書きのアプリですが、わかる人にはわかると思います。そうですあれです。茶器集め面倒くさいので、放り投げてますけど、是非もないよネ!





それではまた次回、お会いしましょう。






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