「終わっ……た……」
そう言って、ガクッと机に倒れ伏した不良娘を無視して、俺はゆっくりと席を立つ。
そして、台所へと向かうついでに、机に座る生徒&教育実習生達へと声を掛けてやる。
「飲み物欲しい奴居るか~? 今なら俺が立ったついでに、何か飲み物入れて来てやるぞ?」
「ちょっと黒先生! 私のことスルーするなんて酷い! でも、ジュースが欲しい! 何かジュースをプリーズ!」
「く、黒センセに飲み物を運ばせるなんて……わ、私が代わりにやるべきじゃ……。でも、待って……このシチュエーションはまるでお嬢様と執事みたいな感じじゃ……く、クロ先生! 私にも何か飲み物を!」
「……で、飲み物が欲しい奴は居るか~?」
俺は面倒な不良娘と、頭の痛くなる教育実習生の発言を軽くスルーしつつ、もう一度声を掛ける。……誰かあいつらの暴走を止めてくれ。
しかし、俺にスルーされた二人はわざわざ自分達のコップを手に持つと、わざわざ俺の方まで持ってきていた。
「居るよ!? 私にジュースをプリーズ~!」
「わ、私もです! く、黒センセ、ぜひ私にも飲み物を……あ、出来れば執事風な感じで―」
「……お客様、当店では飲み物はセルフサービスとなっています」
「ついさっき『飲み物居るか?』って聞いてたのに!?」
「こ、この際、店員さんバージョンでも良いので、ぜひ私に飲み物を!」
「申し訳ありません。うちはマナーの悪い客の出入りを禁止しておりますので……お帰り頂いても良いですか?」
迷惑客に、俺がにっこりと笑って対応していると、すぐ後ろから聞き慣れた声が掛けられた。
「兄さん」
「藍菜……?」
俺は迷惑客(不良娘と教育実習生)の二人を無視して、妹の方へと向き直ると、手にしていたトレーを持ってコップを置くように顎で指した。
「何が飲みたいんだ? 俺が淹れて来てやる」
「良いから、兄さんは座ってて。さっきは白唯さんに先をこされちゃったけど、今度は私が兄さんに飲み物を持ってきてあげるわ」
そんな俺の行動に対し、藍菜は俺からトレーを奪い去ると、周囲を魅了する笑顔で俺にトレーを向けてきた。
「はい、どうぞ?」
「いや、別にお前は座ってて良いぞ? 勉強して疲れただろ?」
「私のことを心配してくれるなんて……兄さんって本当に素敵……」
俺がいつもの調子で返すと、どこかうっとりとした様子でそう返す妹。……いや、別にそこまで大したこと言ってないと思うんだが。
しかし、藍菜は表情を切り替えると、片目を閉じて俺にウインクを返してきた。
「でも、大丈夫よ? 一応、私は居候の身だし、これくらいはした方が良いと思うの」
「居候って……妹なんだし、そんな風に言うなよ。家族だろうが」
いや、普通、家族に向かってウインクとかしたりしないけど……とか、そんなことを心の中で考えていると、ふと目の前に居た藍菜が何やら熱い溜息をもらし始めていた。
そして、どこか潤んだ瞳を向けながら、まだ何も置かれていないトレーを抱きしめる。
「兄さん……兄さんはどれだけ私の心を射止めれば気が済むの?」
「いや……そんなつもりは全く無いんだが……」
わざわざオーバーアクションというか……なんか、兄妹に向ける視線じゃなくない?
俺が妹から危険な雰囲気を感じ取っていると、これまた聞き慣れた声が耳についた。
「藍菜さん、それなら私がお菓子を出すよ」
我が娘の白唯はそう言うと、ゆっくりと腰を上げて台所へと向かおうとする。この娘、相変わらず全部自分でやろうとするなぁ……父さん、白唯が働き者過ぎて心配だよ。
そんな白唯に気付いた藍菜は、台所へと向かおうとした白唯の前に体を滑らせると、藍菜の行動に困惑した表情を浮かべる白唯に片目を閉じて言い聞かせ始めていた。
「良いから、白唯さんも座ってて? これは私がやりたいことだし、私に任せてくれないかしら?」
「まあ……そこまで言うなら……」
「お菓子の場所だけ教えておいてくれる? 棚か何かに入ってるのかしら?」
「食器棚の下にいくつか入ってると思うから、そこから適当に持って来てくれれば良いよ」
「じゃあ、取って来るわね? あと、みんなの飲み物も淹れてきてあげる」
「うん、お願い」
藍菜はすぐに沙奈原、柿村、見梨とコップを回収していく。そんな中、沙奈原が一人「執事が……」とかなんとか言ってたが、あえてスルーしておく。
そして、白唯からもコップを回収すると、最後は俺の所に来て「はい♪」とトレーを差し出して来た。
「ほら、兄さん早く」
「……まあ……頼むわ」
娘や妹にばかり任せるのはどこか釈然としないものの、そこまで強引に迫られたなら断るのも悪いというものだ。
俺は藍菜の持つトレーにコップを置くと、藍菜はそれを上機嫌に受け取った。
「ふふ、じゃあ行って来るわね♪」
「お、おう……」
妙に上機嫌な藍菜に俺は首を傾げる。果たして、今のやり取りの中でテンションが上がるようなことがあっただろうか……。
俺はその理由を探るべく、白唯へと目を向けたのだが……どこか、白唯は悔しそうな目で藍菜の背中を追っていた。
(……もしかして、自分の役割を取られたのが悔しいのか?)
日頃から白唯は家のことを任せきりだし、大変だと思っていたが……。
そんな俺の視線に気づいた白唯は、どこか気まずそうに頬を赤らめながら俺を睨んできた。
「……何?」
「いや、なんかこう……悔しそうというか……自分の仕事を取られたのが嫌だったのかな、と」
「……藍菜さんがやりたいって言うんだし、譲ってあげるよ」
やはり予感は的中したようで、白唯は目の前のお茶をゆっくりと飲みながら、時折チラリと台所へ視線を向けていた。
そんな中、台所から飲み物を淹れ終えた藍菜が現れると、一人ずつ飲み物を配っていった。
「はい、兄さんも」
「おう、サンキュー」
そして、最後に俺に飲み物を配り終えたのだが……何故か藍菜は自分の座っていた場所に戻らず、ニコニコとしつつ俺の隣に座っていた。
「ふふ」
「……藍菜? 飲み物はもう全員に渡ったし、自分が座ってたところに戻らないのか?」
「ねえ、兄さん? 今日は皆に勉強を教えてお疲れなんじゃない?」
「いや? 日頃から授業でクラス全員に教えるのに比べたら特に……まあ、少人数で教えるのは家庭教師もやってたし、そんなに疲れたりしてないが……」
やたらと甘い声で俺に囁く妹を不審に思っていると、ふと藍菜は片手でお菓子をつまみ、そのお菓子を俺へと向けてきた。
「はい、どうぞ?」
―その瞬間、部屋の空気が凍り付いたのを、俺は肌で感じてしまった。
「……藍菜? 一体何をしてるんだ?」
「何って……そんな、わざわざ皆の前で私に言わせるなんて……兄さんって意地悪よね」
「やってるのはお前なんだけど!? お前より俺の方が百倍恥ずかしいんだけど!?」
「日頃、頑張ってる兄さんを労ってあげようと思ったの。ほら、あ~ん♪」
恥ずかしがっていたはずなのに、いともたやすく『あ~ん』と口にする藍菜に、様子を伺っていた沙奈原が飛びつくような勢いで制止してきた。
「ちょ、ちょっと黒センセ!? い、妹さんに何をさせてるんですか!?」
「いや、どう見ても俺がさせてるんじゃないだろ!? これは藍菜が勝手にやっただけで―」
「そ、そんな不純な兄妹関係は許しませんよ!? そ、それなら僭越ながら私が立候補します!」
「なんでそうなるの!? いや、立候補しなくて良いから! 普通に自分で食べるから!」
ここまで来ると、『勉強会』どころではない。
半ばお祭り状態になったやり取りに、柿村まで参加してきてしまう。
「じゃあ、私も『あ~ん』ってしてあげよっかw」
「……お前のような子娘にそう言われて浮足立つほど、俺は若くは無いんだよ。出直したまえ」
「ちょっとマリ~、シロ~、黒先生ってば、あんなこと言うんだよ~? こうなったら、三人で黒先生に『あ~ん』ってしちゃわな~い?」
「ちょ、ちょっと綾……」
「あ、綾ちゃん!? そ、そんなの駄目だよ!? ほ、ほら、そういうのは恋人同士でやるものだし……」
「えぇ!? ま、マリって付き合ったら『あ~ん』ってするの!?」
「えっ!? ふ、普通はしないんですか……?」
そう言って、見梨はどこか期待するような眼差しで俺を見てきた。
まるで、縋るような瞳につい「誰でもやるぞ?」とか言いたくなるが……さすがに現実は違うと教えてやらねば、このまま俺は全員から『あ~ん』という行為をされてしまうかもしれない。
俺は心を鬼にすると、見梨に真実を告げてやる。
「いや、普通はどうかは知らんが……俺は恥ずかしくて出来んな」
「っ……!?」
そう言うと、見梨は顔を真っ赤にして俯いてしまった。許せ、優等生……。
「じゃあさ~? シロはどうなの~? やっぱり『あ~ん』とかする感じ~?」
すると、不良娘はあろうことか、我が娘にまでその矛先を向けてきた。白唯もやるのか? 父としては気になるが……。
しかし、白唯は柿村の質問に対して一瞬だけ俺に視線を向ける。
「……」
「な、なんだ……?」
「……別に」
そう言うと、白唯は少しだけ意地の悪い笑みを浮かべて柿村の質問に答えた。
「……教えてあげない」
「ちょっと~、それ卑怯じゃ~ん。ちなみに、私はやっても全然オッケーだからw」
「いや、お前の情報は別に要らんし……」
「ちょおっ!? 黒先生酷くない!? 私、JKだよ、JK!」
「そんなに必死にアピールしなくても知ってるよ……お前のクラスの担任だし」
「それなら、シロの時みたいに少しくらい気にしても良くない!?」
「ばっ―お、俺がそんなの気になるわけ無いだろ!?」
「く、黒センセ、わ、私も……」
「兄さん、もう一回やりましょう?」
「やらないよ!? あんな恥ずかしいの二度とやらねぇよ!?」
そうして、騒がしい『勉強会』は幕を閉じた。
ついでに、俺の貴重な休日が幕を閉じた……あぁ、俺の平和な日常が今日も荒らされていく。