「―ということが昨日はあってな」
朝の職員室で俺は昨晩の地獄を口にしつつ、その時を思い出して大きくため息を吐く。
昨日予想していた通り、おかげで若干筋肉痛気味な俺は、その凝ったその体を少し伸ばして痛みを和らげる。……あんな地獄、もう二度と味わいたくない。
すると、俺の隣の席で話を聞いていた人間が肩をわなわなと震わせていたかと思うと、絶望した表情を見せていた。
「わ、私が筋肉痛で動けなかった時に、そんなラッキーなイベントがあったなんて……」
「いや、全然ラッキーなイベントじゃねぇよ……地獄だよ」
その名を沙奈原という教育実習生は、呆れた俺の言葉を聞いた途端、その顔に若干の涙を滲ませて俺に詰め寄ってきた。
「すごいラッキーじゃないですか!? 黒センセの体をタダで拝めるんですよ!?」
「タダって何!? 金取るの!? っていうか、人の体を拝むとか、なんの話してるの、この人!?」
「私だって……私だって、もう少し若ければ、筋肉痛になんて悩まされずにそこに参加出来たのに……あ痛っ!」
そうして背中を曲げた途端、腰を持って痛がる沙奈原。……いや、筋肉痛が早めに来るだけ若いよ、お前は。
「はぁ……で? 沙奈原先生、湿布は貼ったんですか?」
「い、いきなり先生モードで話されると反応に困りますね……。一応、市販の物を貼ってますけど……。はぁ……こんなところで年齢を感じさせられるなんて……若いあの子達が羨ましい」
「お前も十分若いだろうが……それを言ったら俺の方が年取ってるっての」
「黒センセはいくつになっても大丈夫です!」
いや、その大丈夫の基準ってなんなの……。
しかし、余計なことを言ってやぶ蛇になるのはごめんなので、俺は早々に話題を切り替えることにした。チキンと笑いたければ笑え、職員室で変な空気を作るのは後で面倒なのさ。
俺が心の中でそんな風にぼやいていると、ふと沙奈原は「あ」と何か思い出したかのように呟いてきた。
「そういえば、除草作業は終わったわけですけど、本格的なのもやるんですよね?」
「ん……? まあ、そりゃな」
「……今からこんな感じで私乗り切れるんでしょうか」
そう言って、またも落ち込みモードになってしまう沙奈原。……相変わらず忙しい奴だな。
「当日は基本的には生徒がメインで作業するから心配は要らないと思うぞ?」
「それは分かってるんですけど……なんて言うか、若い子に負けたくないって気持ちもあるんですよ……」
「……何に張り合ってるんだ、お前は」
というか、数年前までお前も高校生だっただろうが……。
「張り合っても仕方ないのは分かってるんです! ……でも、なんかこう……負けたくないんですよ……」
沙奈原はそんなことを呟きながら俺のことを見てくる。
どこかその視線に居たたまれなさを感じつつも、俺はため息と共にぶっきらぼうな返事を返す。
「……負けたくないなら好きにやれ。やる気があるなら俺は止めないし、湿布くらいは用意してやるよ」
「黒センセ……」
俺がそう返すと、目を少し潤ませる沙奈原。大袈裟な奴だな……。
教育実習生のいつもの暴走ぶりにため息を吐きながら、朝のホームルームの準備の為に机の上に荷物を置いていくと、ふと沙奈原が珍しく静かになっていたことに気付く。
よく見ると、沙奈原は俺が手にした携帯電話を目にしたまま硬直していたようだ。
「どうした? いきなりそんな静かになって……いつもはもっとうるさいのに」
「う、うるさいは余計ですよ!? ……いや、なんて言うか……前に見た黒センセの恋人さんの写真を思い出しまして……」
「写真? ……あぁ、待ち受けのか」
俺は落ち込んだように少し声のトーンを下げる沙奈原を見た後、机の上に置いてあった携帯電話を手にする。
そして、その画面を表示すると、今は亡き恋人―白唯そっくりな桃佳が視界に入ってくる。
あれから数年、どれだけ泣いたか分からないが、今もこの画面の笑顔に救われることも多い。
「写真なんて思い出してどうしたんだよ? ま、そんなに興味があるなら、生前に会わせてやっても良かったな」
「え、遠慮しておきます……。黒センセを虜にするくらいの女性って……そんな人を前にしたら多分、私が女性としての自信を無くしそうなので」
「え? そこまで?」
いや、まあ、確かに惚れてたけどさ。というか、それ以外の女性に惚れたこと無いけど。
「……私の見立てでは歩くだけで男性を虜にしたり、炊事洗濯とか色々と万能な大和撫子だと思うんですよ」
「大和……撫子……」
白唯と一緒に料理をしたら皿を割り、三人で一緒に出掛けている時に大人なのに一人だけ転んだり―
「……うん、大和撫子って多分人それぞれだよな、うん」
「え? 違うんですか?」
「……俺は多少出来ないくらいの女性の方が好きかな」
「……すいません、なんかその『多少』っていう言葉がずいぶんと重く聞こえるんですけど……私の気のせいでしょうか?」
「……なあ、沙奈原。……ゆで卵って、どうやったら焦げるんだろうな」
俺は在りし日の恋人との出来事を思い出し、職員室の窓から見える青空を見上げる。……多少の料理下手は愛嬌だよな、うん。
そんな俺の様子で悟ってくれたのか、沙奈原は妙に納得した顔で俺を見ていた。……恋人を料理下手って言わせないでくれてありがとう。
「……なんか思っていた人とは違いますけど……それも多分、その人の魅力の一つだったんじゃないですか?」
「まあ……実際、それはある」
「やっぱり、黒センセを虜にするには胃袋を掴むだけじゃ駄目なんですね……」
いや、言い方。
「―あ、そうだ!」
しかし、沙奈原は落ち込んでいたかと思うと、突然大きく声を上げ、ここが職員室だと気付くと周囲の先生方に恥ずかしそうに頭を下げていた。……やめてくれ、俺が恥ずかしいから。
「……で? どうしたんだよ、唐突に」
「前のリベンジですよ、黒センセ」
「……リベンジ?」
そう言う沙奈原はどこか自信満々で……俺は異様な不安に駆られていると、そんな俺を笑うように学校のチャイムが鳴り響くのだった―。