「た、ただい……ま……」
俺は放課後の地獄(ただの除草作業とも言う)を終えて家に帰ると、玄関先で突っ伏してしまう。……まだ夏前だというのに、力仕事やった所為で暑さで死ぬかと思った。
「お帰り」
「お帰りなさい、兄さん」
教頭先生へ除草作業を完了した報告をする為、職員室へ寄った俺より一足先に返っていた白唯と藍菜が迎えてくれたのだが……瀕死に陥っている俺に対し、その顔には少しの疲れしか見えなかった。
「……元気だな、お前ら」
「いや、あれくらい授業中の運動に比べれば別に……」
「そうね~、少し着ていたジャージが汚れちゃったのが嫌だったけど」
ここに来て、年齢という壁を感じてしまうのだった。……おかしい、それなりに俺も鍛えてるはずなのに。
とはいえ、いつまでもここで寝ていては父親&兄としての威厳は保たれん。
俺は疲れた体を無理矢理起こそうと、顔を上げて立ち上がろうとしたのだが―
「はい」
「……なあ、妹よ。……その構えは何かな?」
真っ先に顔を上げて目に飛び込んできたのは、俺の目の前に座り込んで笑顔でこちらに向かって手を広げる藍菜の姿だった。
あまりに唐突な出来事に対して思わず問い返した俺に、藍菜は首を傾げながら問い返してきた。
「見て分からないの?」
「いや、分からんが……というより、分かりたくないというか……」
「疲れたなら私が兄さんを運んであげるから寄りかかって良いわよ、って意味なんだけど?」
まあ、そうだろうね。
その構えからなんとなく想像が付いてたよ……こんな時に兄妹のテレパシーみたいなもんは発揮してほしくなかったけど。
「大の大人……それも男がそんなことするわけ無いだろうが」
「ねえ、兄さん? 私は大人の人だって、時には休息も必要だと思うのよね。普段、人に甘えられない男の人ならなおさらじゃない?」
「藍菜、そういう台詞は男を駄目にしかねないから自重しなさい……」
兄さん、将来の藍菜が怖いよ……。
そんな駄目人間製造機になりかけている妹の将来を気に掛けていると、この場に居るもう一人の同居人が「ンンッ!」と大きく咳払いしていた。
その声に俺と藍菜が振り返ると、白唯はいきなり振り返られると思っていなかったのか、俺達二人の視線を受けて恥ずかしそうに頬を染めていた。……我が娘、相変わらず可愛いな、おい。
「……そういうのはやめようよ。この人ももう大人なんだし、そういうことされると困ると思うからさ」
「どうして? 私は疲れた兄さんを癒してあげようとしてるだけじゃない。大人だからこそ、誰かが癒してあげるべきだと思うでしょ?」
「そ、それは……」
言葉に詰まった白唯が困ったような表情で俺の方を見ていた。いや、別にそこまでたいそうな話じゃないんだけど……。
しかし、娘が困っているなら助けるのが父親の務め。
俺はどうにか体を起こすと、腰に手を当てながら大きく体を逸らして伸びをすると、藍菜と白唯の方へと向き合う。
「ちょっと大袈裟にしてみただけだ。実際はそこまで疲れてないから安心しろ」
実はかなり疲れてるけどね。
とはいえ、娘を困らせるのは時と場合によるわけで、今みたいに喧嘩っぽい雰囲気の時は頂けない。だから俺は娘を守る為ならどんな虚勢も張ってみせるさ……後で湿布は貼っておこう。
俺がさり気なく白唯へ目配せすると、白唯はほっと小さく息を吐いていた。
このまま藍菜に押し切られると、白唯の機嫌も損ねるし、ある意味俺も疲れるからな。
「というわけで、一旦俺は部屋で着替えてから居間に戻るから―」
俺はもっともな理由を付けてこの場をやり過ごし、自分の背中に湿布を貼ろうと部屋へと向かおうとしたのだが―その手に細い腕が絡んできた。
その腕が誰のものかはすぐに分かったものの、俺は視線をゆっくりとその相手に向けながら、確認するようにその相手に呟いていた。
「……あの~、藍菜様? この腕はなんでしょうか?」
「兄さん、さっき大きく体を伸ばしてたでしょ? つらそうだったし、私が湿布を貼ってあげようかとお思って♪」
しまったあああああああああああ!
誤魔化そうとして、大袈裟にリアクションしたのがかえってアダになったかあああああ!
「……いや、大丈夫だ。兄さんは一人でも湿布を貼れる歳だからな」
「それくらい知ってるわよ? 私がどれだけ兄さんを見てきたと思ってるの?」
そうじゃなくてね、自分で貼りたいと遠回しに言ってるんだよ?
「あ~……そうだ! 兄さん、お腹空いちゃったな~。出来れば今日は早めにご飯を食べたいかもな~」
俺は藍菜から逃れようと、わざとらしくそう言葉にした。
これで藍菜が料理に行ってくれれば、その間に部屋に戻って自分で湿布を―
「あ、白唯さん? 今日は白唯さんの当番だったわよね? 今日は早めに作ってもらっても良いかしら?」
「え……? う、うん……それは良いけど……」
そっちかああああああああああああ!
俺は混乱した表情で俺と藍菜を交互に見つつ、自分の発言を後悔してしまっていた。……くそ、娘を余計に困らせてどうするんだ、俺。
「じゃあ兄さん、行きましょ♪」
「いや、行かないよ!?」
妹に湿布を貼られるとか……もうそんな歳じゃないし、なんか恥ずかしいわ。
というか、それでなくても藍菜一人に貼らせるのは……なんか危険な感じがする。そんな風に俺が抵抗を見せると、藍菜はその表情をむっとさせて抗議の声を上げてきた。
「どうして行かないのよ! 私が湿布を貼ってあげるって言ってるのに何が不満なの!?」
「行為は嬉しいけど、なんか危険を感じるんだよ!?」
「兄さんと二人きりで湿布を貼るだけじゃない!」
「湿布を貼るだけなのに『二人きり』っていう表現を持ってくるところとかが危険なんだよ!?」
なおも食い下がろうとする危険な妹への説得に頭を悩ませていると、ふと一緒に居たはずの白唯から特に言葉が発されないことに気付いた。
この場に居る常識人は白唯くらいだが……しかし、そんな俺の唯一の希望は、その『常識人』である娘によって砕かれてしまった。
白唯は俺と藍菜が押し問答をしていた隣で伏せていた顔を上げると、その顔をどことなく赤くさせながら小さな声でこう告げてきたのだ。
「……じゃあ、私も湿布を貼るのを手伝うよ」