―俺が好きになった人は、俺よりも少し年上の女性だった。
いかにも仕事が出来そうで、頼りがいがありそうなその女性の名前は『野々瀬 桃佳(ののせ ももか)』。
腰まで伸ばした茶色で長い髪は毛先まで手入れをされていて人目を奪うし、屈託なく笑う姿は男女問わずに魅了されてしまう。
仕事は必ず定時までにこなし、仕事仲間からも頼られていた彼女。そんな才色兼備とも言える彼女に憧れていた俺が出会ったのは本当に些細なことだった。
「あの―お隣良いですか?」
俺が教師を目指して喫茶店で受験勉強に励んでいたある日、彼女は俺の隣の席に座った。
本当にただそれだけ―しかし、たった一つのその出会いが俺の人生の全てを奪い、変えたのだ。
何この可愛い生物……なんでこんな可愛い人が俺の隣に座ってるの? 何これ、俺死ぬの?
そんな彼女と出会った俺が惹かれるのは時間の問題だった―というか、ほぼ一目惚れだけど。
しかし、出会いとは残酷なものだ。
俺が決死の覚悟で告白する為に決意を固めていた矢先、その思い人である彼女からとんでもない言葉を聞かされたのだ。
それは、俺が彼女を遠回しにデートへ誘った時のことだ。
「野々瀬さん、次の休日、少し街を案内しましょうか?」
「え? ……あー、えっと」
お分かり頂けただろうか?
こんな風に視線を逸らされて断られた俺の心境を察して頂けるだろうか。……穴があったら入りたい。
「あ、ごめんなさい。嫌ってわけじゃないんですよ?」
「……慰めなくて良いです。かえって余計に惨めになるので」
「ですから、そうでは無く―その……娘が心配なので」
「……娘?」
そして、告げられた『娘』というワード……その言葉の意味することの残酷さを俺は考えたくなかった。……生きるってつれぇな。
「それなら仕方ないですよね。休日は家族で居るのが一番ですから……」
「……はい。すいません、娘にはいつも寂しい思いをさせているので」
他人の奥さんが初恋相手とか……何この人生、ハードモード過ぎじゃね?
しかし、落ち込む俺を申し訳なさそうな目で見てくる彼女。やめて、そんな哀れみを向けないで!
そんな彼女の励ましを受けていたところ、ふと彼女の声のトーンが落ちていくことに気付いた。「まさか、地雷を踏んじまったか……?」と戦々恐々としていたところ、ふと顔を上げた彼女と目が合ってしまう。何この可愛い(以下略)。
「『人工授精』―」
「……え?」
「―って、知ってます?」
様子の変わった彼女の目を見ていた途端、あまり聞きなれない言葉が耳をついた。
『人工授精』……その言葉の実感が湧かず、驚く俺を見ながら彼女は続けていく。
「そんなに大したことじゃないんですよ。私の父がそういった研究をしていて……遺伝子で作った精子から受精し、子を成した。それだけです」
「なら、その娘の父親は―」
「居ないんですよ……どこにも」
これが、俺が彼女―桃佳と、そして、『あの子』と一緒に過ごすことになる為の大事な出来事だった。
俺はあの時の自分を今でも誇って良いと思っている。
あの時、俺が桃佳にその言葉を言わなければ、『人を失うという本当の痛み』も『人を本気で愛するという本当の意味』も、まだ知らなかっただろう。
「なら尚更です。一緒に出かけましょう」
「でも、娘を一人には―」
「違います」
俺と桃佳、そして、何よりも大事な娘の『白唯』の、短いながらも三人での幸せな生活はこうして始まったのだから―。
「俺と、あなたと―あなたの娘の三人で、です」