我城壮一郎。
一身上の都合により本日付けで退職致します――――――。
何度読み返しても文面は変わる訳が無い。
たった一行の退職届けの写しを広げながら、くそったれ、と男は吐き出した。
男の吐息に混じり、辺りに酒気が立ち込める。相当飲んでいるようだ。
男の向う先から歩いて来る女子大生が、眼を合わさないようにして足早にしてすれ違った。すまんね、と男が振り返って声を掛けたら、小さく悲鳴を上げられた。それに対してもまた、すまんね、と男は声を掛ける。とうとう女子大生は走り出した。
はて、婦女子に悲鳴を上げられる程、自分はそこまで人相が悪いのだろうか。男は考え、悪いのだろうなと頬を伸ばした。
酷い顔をしているのは自覚していた。
先日のことである。
取引先の会社で、嫌な上司の見本とも言える脂ぎったハゲ親父が、恐らくは新人であろうOLの尻を揉みしだいていた。
デスクの影となって他の社員には死角となった場所での行為。
常習犯か、などと考えるよりも早くに男の右拳は唸りを上げていた。拳先はハゲのツラミ(頬肉)にクリーンヒット。一撃で奥歯を散らし意識を刈り取ったのは、学生時代に日本格闘技研究サークルの部長であった男の面目躍如というところ。
さてOLは不安がっていないだろうか、と出来る限りにこやかに手を差し伸べた男が喰らったのは、痛烈な平手打ちだった。そしてこれでもかと言う程の罵倒の嵐。
これは後で知ったことだが、どうやらこの二人、不倫関係にあったらしい。
それも社内で公然の秘密として黙認された。
ハゲは離婚秒読みで、協議離婚が成立し次第、このOLと籍を入れるつもりだったのだとか。そして周囲はそれを知っていて、祝福もしていたのだとか。
なんだそりゃあ、である。
つまり男が目撃したのはプレイの真っ最中だったということだ。
暴力沙汰を起こした男に待っていたのは、自主退職という形での、平たく言えばクビ処分である。
警察沙汰にならなかっただけ有り難いと思え、と上司から、否、元上司から丸めた書類で頭を叩かれた男。なんだそりゃあ、と胸中でもう一度繰り返す。
しかし社会人である以上、手を出してしまえば例えどんな状況であっても負けなのだ。
頭に血が上った馬鹿が痛い目を見ただけだ。仕方ないと諦める他はない。
これで俺も晴れて自由人かあ、と男は笑った。
めでたい、めでたい。
こんなにめでたいのだから、雀の涙程の退職金で、真昼間からしこたま酒を飲んでもいいだろう。
酒は魔法の水だと思う。
こいつを飲んでいる間は嫌な事はきれいさっぱり忘れられる。
明日の苦痛に目をつむればこれ程有り難いものはない。有り難過ぎて涙が出て来る。
へらへらと笑い始めた男に、通行人達は気味の悪そうにして進路を変えていく。そう時間を待たずして、男の周囲には誰もいなくなった。
誰もいないんだからいいか、などと酔っ払いの理屈で男は道路に寝転がる。
かつん――――――と手に当たる、硬質な感触。
深く考えずに引っ掴んで目の前に。
桃の種を思わせる大きさと形のそれは、散々にヒビ割れて砕けた黄色の宝石――――――。
否、どうせイミテーションだろう。こんな所に宝石が転がっている訳がない。
しかし、その石には不思議と心を惹きつける輝きがあった。
石を掲げ、月の光に透かしてみる。気付けばもう夜だった。
黄色の輝きを透して、夜空を見る。
万華鏡を覗いたように、ヒビ割れた石の中を星の光が反射して、ほうと息を吐くくらいに綺麗だった。
酒で霞んだ目にもきらきらと輝いていて、手を伸ばせば星に届きそうなくらい。
まだやり直せるよな、と男は石を握りしめた。
夢も希望も願いすらも何もないけれど、こんなにも綺麗なものが世の中にあると知っているのだ。
だから俺は大丈夫だ、なんて根拠の無い自信に酔っ払い男は勢いきって体を起こした。
「やばい吐く」
さて、これが男の第一声である。
腹筋を使って跳ね上がったのが仇となったか。
込み上げる酸味を手で封じながら側溝にまで這いずる男。道路を汚してはいけないという意識が働いているのだろう。そもそも路上で寝転がるなと言いたい所だが、そこは酔っ払いである。常識など通用しない。
ふうふうと破水した妊婦のように苦しげな吐息を吐きながら、しかし今産まれてはいけないといきむ男。
「あれ?」
「坊や、まだ駄目よ。まだ産まれちゃ・・・・・・おえっぷ。な、何だあ・・・・・・?」
途中で暗闇に浮かぶ二つの紅い光と、一瞬、眼が合ったような気がした。
眼が合った、のだ。
視線が絡んだのである。
その二つの紅い光点は知性を宿していて、つまるところその正体は、その正体はなどと言うのもおかしいが、正体不明の生物だった。
パシッ、と音を立てて街灯が明滅する。
途切れ掛けの人工灯の下に晒されたのは、白色光よりもなお白い、四足歩行の獣だった。
白い獣も男と視線が合ったのに気が付いたのだろう。
興味深そうに小首を傾げながら、男の下へと近付いて来る。
「君、僕の姿が見えるのかい?」
「見えない」
しかし男と眼が合ったのも、先の一瞬だけのこと。
男の視線は道端の側溝に固定されていた。
幼児向けアニメのカレーパンを模した戦士と男が化すまで、あと数十秒である。
男にとっては獣が喋ったのどうのよりも死活問題だった。
酔っ払いは文字通り世界が自分を中心にして回るのである。
自分のことで精一杯で、それどころではない。
「やっぱり見えてるんじゃないか。今返事したよね?」
「見えない。聞こえない」
脂汗を流しながら、ずりずりと肘だけで這いずるようにして先に進む男。その進路を塞ぐ白い獣。
どうあっても男を逃すつもりはないらしい。
仕方ないなと言いた気に、ガラス玉のように透明な瞳をまったく表情の変わらない顔に浮かばせて首を振る獣。
呆れたような気配が伝わるが、こいつに感情と呼ぶべきものが存在しているかは疑わしい。
「やれやれ。君達人間はどうしてそう未知との遭遇を否定したがるのかな。まったく、わけがわからないよ」
「やかましい。白まんじゅうの分際で、人様の言葉を喋るなよボケ。そこをどきやがれ」
にべもない男の一蹴を意に介したこともなく、白い獣は男に一歩近付く。
仕草は小動物のようであったが、白一色に紅い二つの球が浮かんだ能面を至近距離で見詰めさせられれば、可愛いなどと言う感想は抱けない。
「僕にしても初めてのケースだけれど、だからこそ試してみる価値はありそうだ。ねえ君、何か願い事はないかい?」
「はあ?」
さも煩わしそうに返す男。
付き合わなければ解放されないと思ってのことだった。
この不快感に男は職業柄、前職業柄よく覚えがあった。
首を縦に振るまでしつこく食い下がる、性質の悪いセールスに捕まったのと同じ感覚だ。
「叶えたい願いは無いかい? 届かなかった夢は無いかい? 実現したかった想いは無いのかい? 全部僕が叶えてあげるよ」
「何でもか?」
「もちろんさ」
「酔っ払いの幻覚にしちゃあ都合が良すぎるこって」
もう男はこれが現実であるとは微塵も思っていなかった。
酔っ払った脳みそが見せる都合の良い幻覚であると断じていた。
そうでなければ、動物が口を利くなど、ましてや願いを叶えてやろうなどと言いだすものか。
「だから僕は現実に存在しているんだってば。あ、願い事だけれどね、願いを叶える数を増やせっていうのはやめて欲しいかな」
「不可能だと言わない辺りなるほど俺の脳内妄想だな。じゃあお前、キタロウ袋もってこいや」
「キタロウ袋・・・・・・? なんだい、それは?」
「げげげのげと、知らねえのか。エチケット袋だよエチケット袋。おらさっさと行け」
「本当にそれが君の願いなのかい? そんな願いじゃあ宇宙のエントロピーは・・・・・・」
「じゃあそこ退け」
「もっとよく考えるんだ。君の思うがままに願いを叶えられるんだよ? 君の希望をありったけ込めた願いを教えてよ。さあ」
また一歩近付く白い獣。
もう男の視界は白と赤の二色で塗りつぶされていた。
吐き気が込み上げるのは呑み過ぎたから、それだけが理由なのだろうか。
「うるせえなあ。何なんだよお前は。幻聴に律儀に返事してるとか俺もなんだよ、くそったれ」
「そういえば自己紹介がまだだったね。僕の名前はきゅうべえ。きゅうべえって呼んでよ」
「やかまし、白まんじゅうが。人様の言語を口にすぶぇぷぷぷ・・・・・・すっぱい、もう駄目」
少し漏れた。
慌てて手で押さえたが、レモンの果汁のような体液は指の隙間から滴り落ちる。
「ふう、わかったよ。僕が君たちの言語を話す事がお気に召さないというのなら、君の流儀に合わせよう。【これでいいかい?】」
「あああ頭の中に声が響くぎぎぎ」
「【うん、問題無く聞こえてるね。やっぱり、君には素質があるみたいだ】」
「もう駄目、もう無理、限界」
急に脳髄に響いた声がトドメとなって、男の堤防は決壊する。
テレパシーだとか、そんなことはどうでもいい。
どうろはみんなのものです。
こうきょうぶつなのです。
だからよごしてはいけません。
ゆえにわたくしめにふくろてきなものをぷりーず。
もうだめ、でる。
「【ねえ、君にお願いがあるんだ】」
「おおおおい白まんじゅう! 俺の名前を教えてやるぅあ!」
「【いや、もう知ってるからいいよ。繋がった時に、少しだけ覗いたからね。それよりも、ねえ、お願いがあるんだ】」
「僕の名前はゲロゲロげろっぴ!」
男がやけっぱちになって白い獣を鷲掴みにすると、背中の一部がぱかりと開いた。中は空洞になっているようだ。
そうなれば後は早いもの。
白まんじゅうの台詞が言い終るよりも早く、男はその空洞の両端をむんずと掴むとぐいと引き広げた。
白い。そして空洞である。つまり、ビニール袋。わあい。
とはその瞬間に男の頭を占めた思考である。
「ワンダフル投下しべぺぺぺぺぺぺpppp」
「【僕と契約しべぺぺぺぺぺぺpppp】」
「べぺぺぺぺぺぺpppp」
「【べぺぺぺぺぺpppp】」
男と白い獣の間に描かれる黄土色のアーチ。
辺りに立ち込める眼に染みる程の発酵し切ったチーズ臭。
聞くに堪えない醜い効果音を発しながら、男は熟成させた我が子をワンダフル投下した。
「ひいいっ!?」
人体と麹菌とが織りなす腐浄のハーモニーたるや、獣の後をこっそり着けていた同時間軸を五週くらいしていそうな元ロング三つ編み赤縁眼鏡っ娘を即時撤退させる程度の威力はあったようで。
「や、いやっ、かかった! 跳ねてかかったあ! 臭っ、臭いよう! まどかぁ、まどかぁー!」
黒髪ロングのクール系少女を元の引っ込み思案で気弱な人格に一時戻す程度の威力はあったようで。
「べぺぺぺぺぺぺpppp」
「【べぺぺぺぺぺぺpppp】」
少女の叫びを副旋律にして、魔の演奏は一層激しさを増すのであった。
魔法少女マジか☆マミさん
第一話「スtomakエイク」
朝である。
爽やかな日差しが瞼を撫で、意識を浮上させる。
段々と覚醒していく意識に、男は次第に記憶を蘇らせた。
ハゲ親父。OL。拳骨の痛み。商談を白紙に戻され怒りに震える上司の顔。自主退社勧告。事実上の首。居酒屋。酒。白いまんじゅう。すっぱ味。
「・・・・・・ああ、そっか」
枕元の時計は何時もの時間を刺している。
今日からもう出勤などしなくてもいいというのに、しかも記憶があいまいになるほど酒を飲んでいたというのに、普段通りの起床時間。
律儀な体内時計に男は何だか笑ってしまった。
「自由さいこー」
再びベッドに身を沈める。
そうとでも思わなければやっていけない。
男は自分が小心者であるという自覚があった。
暴力に訴えておきながら、酒に逃げた。
でっかくなるんだと息巻いて社会に飛び込んだはいいが、これだ。
結局のところ、そんな程度のちっぽけな男でしかなかった。我城壮一郎という男は。
深く溜息を吐けば、昨晩から残った酒精が失せていった。
鈍い痛みを訴えるこめかみを揉みほぐしながら、壮一郎は記憶を辿る。
はて、自分はどうやって帰宅したのだっけ。
眼前を占める天井の染みは、間違いなく毎朝眺めている自室として与えられた社宅のそれだ。
首になった以上はここも引き払わなければならないが、今は置いておこう。
明確に覚えているのは、最後に梯子した居酒屋を出た辺りまで。
その後は、背中にごつごつとした硬い感触がしたのも覚えている。路上にでも寝転がったのだろうか。
何やら白まんじゅうの悪夢を見たような気もするが・・・・・・。
硬質な感触と言えば、もう一つ、何かを握り締めたような気も。
「ああ、そうか、思い出した」
何か珍しい石を拾った、はず。
その辺りになるとかなり記憶も曖昧で、夢であったのか現実であったのか、判断付け難い。
まんじゅうが口を利くなんてのは確実に夢だろうが、綺麗な意思を拾ったのは確かだ。
子供のころに石集めをしたのを懐かしみながら、ひび割れて砕けた表面を撫でていたのを覚えている。
不思議な触感のする石で、撫でつければ撫でつける程、ひび割れが消えていった。
石に見えて粘土質なのかもしれないなー、などとも思っていた覚えもある。
どこか柔らかい感触を指先に感じながら壮一郎が閃いたのは、プランターに入れる半固形の肥料にそっくりだということだった。
特にすることもなく枯れた青春を過ごした壮一郎は、ベランダガーデニングを趣味としていた。
やや前時代的な考えのある壮一郎はそれを女々しい趣味であるとして隠していたため、誰にも知られたことはない。そして、誰に相談したことも、学んだこともない。全て書物から取り入れた知識でもって、独自のやり方で草花を芽生えさせてきた。
ある時は卵の殻を撒いてみたり、またある時は焼いた土を混ぜ込んでみたり。
昨晩も酔っ払った頭であの石が有機肥料であることを疑わず、植木鉢に放りこんでいた。
あちゃあと壮一郎は頭を抱える。
何でもかんでも放りこんで、それで多くの失敗を経験しているのだ。
植物は生き物である。
石ころ一つとっても、たったそれだけで土壌の性質は変わり、そこに根差す植物は当然影響を受ける。即刻取り除かねばならない。
仕方が無い、と痛む頭を抱えながら、壮一郎はベランダへと足を向けた。
からり――――――軽い音を立ててアルミサッシが開かれる。
あくびを漏らして腹を掻く壮一郎。
大口を開けた間抜けな顔は、しかしその瞬間に凍りついた。
「・・・・・・え? 何」
いつもならば朝鳴きの鳥のさえずりが聞こえるはず。
しかし町は凍りついたかのように無音でいて、静かだった。静かすぎた。時折遠方から響く長距離トラックのエンジン音が、返ってシュールに聞こえる。
まだ酔っ払っているのかと頬を思いきり張る。
痛い。
幻覚でも夢でもない。
目の前のこの光景は、現実だ。
いや、わけが解らない。
確かに自分の中にある幼稚な部分で、美少女が急に家に来たら――――――なんて妄想をしたこともたくさんある。
だが実際そうなってみると、素直にラッキーだと喜べるわけがない。
何だこれは、何かの陰謀か。
異様に手の込んだドッキリだろうか。はたまた嫌がらせか。
何だこれは、俺は死ぬのか、死んじゃうのか。
これは本当に覚悟をしないといけないのかもしれない。
「あ、おはようございます。この家の方ですか?」
「ひっ・・・・・・ぎっ・・・・・・」
喉が引き攣る。
壮一郎だってそれなりに経験を積んだ社会人である。
滅多な事では思考停止に追い詰められるまで取り乱す事はないと自負していた、はずだった。
だがこれは無理だった。
「不躾でごめんなさい。私、こんなだから、出来れば運んでいただけるとありがたいのですが。お願いできますか?」
「は、は、はい・・・・・・」
「わ、わ! わー、すごい、高い! 男の人ってやっぱりすごいですね」
ひいひいと息を引きつらせながら笑う膝を叱咤し、それを卓上まで運びいれる壮一郎。
腕を下ろすと同時、どっと尻餅を着いた。腰が抜けたのだ。しばらく立ち上がれそうにはない。
「あの、大丈夫ですか? どこか打ってませんか?」
「ひい・・・・・・・!」
ここらが壮一郎の限界である。
こちらを心配そうにうかがう、優しさに溢れた瞳。
壮一郎がベランダから招き入れたのは、色素の薄い茶色の巻き髪が良く似合う、可憐な少女――――――。
そんな可憐な少女が、ふっくらとした桜色の唇から、壮一郎の体調をおもんばかる台詞を紡いでいた。
見ていてこちらが申し訳なく思ってしまうくらいに、見ず知らずの男の身を気遣う少女の心根の清らかさ。
きっとこの少女の心根は、などと、根っことはよく言ったもの。
少女は今にも壮一郎に駆けよって、背中に手を当てて介抱しそうな程だ。
彼女に自由に動く身体があれば、間違いなくそうしていただろう。
そう、身体さえあれば。
「ぎ、ぎっ、ぎぃいやああああああっ!」
「え、わ、わーっ! きゃあーっ!」
「ぬがあああああっ!」
「やーっ! やーっ! いやーっ!」
「どっせーい!」
「ちょいやーっ!」
壮一郎が招き入れたそれは。
復活した壮一郎が執ったファイティングポーズに、精一杯の威嚇を返す、それは。
大きめの植木鉢に可愛らしくちょこんと乗っかっている、それは。
まるで女神と見間違う程に可憐な少女の――――――。
生首――――――だった。