春、授業も始まり、最初の一週間を終えてのこと、瀬々たちはその週末に少し遠出をしていた。ちょっとした透華の所要に付き合う形で、衣と瀬々が外出することとなったのだが、その際のこと。
偶然にも瀬々達の行く先に見知った顔が通りかかったのだ。
彼女の名は依田水穂、龍門渕を率いる者の一人にして、透華が唯一認める麻雀部の雀士。
そんな彼女が、衣の様相を見ていったのだ。
「何この子……趣味が超古い!」
その事自体を衣は自覚はしていなかった。そも認識すらしていなかったため首を傾げるほかなかったのだが――とかく、実のところ衣の持つ衣類は全て、衣が曽祖父に引き取られた先の子どもたちが着ていた、いわゆるお下がりというやつなのだ。
無論、衣の身長はそんな子ども等の小学生頃の身長をずっと維持しているわけで、その服が買われたのはもう既に十年近い前、ということになる。
「というわけで、買い物に行こう透華! アタシがこのこをおにんぎょ――じゃなくて、立派なレディにしてみせるからさ!」
「え、えぇ、それはかまいませんが、何時行く気です? さすがに今からというのは……」
「明日にしよう! 部活はノルマこなせばいいからさ、――確か貯金あったよね。だったら一回二回半荘こなして、直ぐにジャッコに突入だ!」
気圧される少女たちの面前で、あっという間に明日の予定が決められていく。
もはや理解の追いつかなかった状況に、すぐさま反応したのは瀬々だ。少なくともこの三人の中では、特にこういった日常的なことに対する対応スキルは最も高い。
「あ、いやさ、確か透華、明日も用事が無かったっけ? そうなると透華は無理じゃないかな」
「え、あ、そうですわね。その時は一もついて来てもらうことになっていますから、行くとしたら衣と瀬々だけで、ということになりますわ」
「おぉ了解。お二方もそれでいいかい?」
確かめるように視線を向ける二人に、瀬々は少しばかりの愛想笑いを乗せながら、その視線を衣に向ける。
「衣がいいって言うならいいんじゃないかな。あたしからは特になんもないですよ」
そうなると、この話は衣の一存ですべてが決まることとなる。水穂の言葉に気圧されていた衣も、どうやら平常に運転を稼働し始めたようだ。
となれば、
「ころたん、れでーになってみるきはないかい?」
「れっでーか! それは悪くないな、あところたんじゃない、衣だ!」
そうやって軽く笑みを交わし合うと、水穂は楽しそうに言うのだ。
「じゃあ決定! 衣が楽しんでくれるよう、私もデートコース考えとくよ!」
パチン、と、少しだけスカしながらも指を鳴らして、それから勢いのまま衣とハイタッチをする。それが瀬々、透華へと対象が映り――
「あぁそうそう、先輩、今はジャッコではなくてイオノですわよ?」
「……どうしてそこでオチを用意するかな…………」
♪
「それにしてもさー」
その日は、生憎というほどの天気ではないものの、やや曇り空が目立っていた。流れるような風はどことなく春の肌寒さを感じさせ、比較的薄着である衣には、些か辛い。
――あれから平日へと日にちは移り、衣達は普段着へと着替えて人通りの多い街並みへ繰り出していた。――当然時刻は夕刻に近づいているため、夕飯などは三人で纏めて済ませてしまう予定だ。
帰りにはハギヨシの車が期待できるため、あまり時間的な制約はない。
「――瀬々って割りとオシャレだよね、意外に」
「おしゃれは付き合いですよ、先輩。自分を飾るんじゃなくて、飾っている周囲に溶け込むための擬態みたいなもんです」
「……苦労してんだね」
瀬々の様相を上から下まで眺めて、それから嘆息気味に言葉を吐き出す。
どちらかと言うと余り目立たないような、青地のショートパンツにあった色彩の地味なシャツを、ダッフルコートを羽織って、若干子供らしくはあるものの、愛らしいという評価に収まるようなコーディネートだ。
前日、偶然出会った際も、これとは違った流行のファッションを瀬々は身に着けていたはずだ。
それを趣味ではなく人付き合いと言い切るのは、彼女らしいといえばらしいが。
「瀬々のやつ、相変わらず衣や水穂達以外には壁があるし、今日も普通にそういう私服だからな」
「まぁ、性分なもので」
そうやって自嘲的に笑う瀬々を、衣が寂しそうに見やる。それを察したのだろう、すぐさま水穂がその空気を書き換えた。
「ま、でも私の場合、あんまり着飾らなくてもいい雰囲気があるんだよね、なんでだろーねー」
肩までないほどの髪の長さに、どちらかと言えば勝気でスポーティな顔立ちだ。ラフな格好の方が映えるのだから、それを好んできるのは彼女らしいスタイルと言える。
単純にそれほどお金を掛けたくないというのも在るだろうが。
「それじゃぁいってみヨーカ、どう?」
そういう意味では、潤沢な資金を持つ衣と買い物ができるというのは、端から見ているだけであっても、ショッピングを楽しむには十分なのだ。
ある意味、渡りに船のようなものである。
「いくいくー!」
衣が元気に両手を上げると、軽く歩を踏む水穂の後ろを、カルガモの親子が行進を始めたかのように、ひょこひょこと付いて行くのだった。
♪
「そういえばだな、これは透華にも言ってなかったんだが、今度秋一郎がこっちに来るらしいのだ。じいじのところに寄ったついでにな」
「……誰? ってかどういうこと?」
――移動中の何気ない会話、それが発端だった。衣がそんな風に、瀬々に言葉を投げかけたのだ。当然、唐突に出てきた人物の名前に、瀬々は大いに戸惑うこととなる。
「衣の師匠で、じいじの友達だ!」
それで察しろというのだろう、かなりアバウトな説明だが、瀬々であれば十分理解の及ぶ範疇だ。――隣で聞く水穂は、盛大にはてなマークを浮かべているのだが。
――じいじ、衣を引き取って育てた彼女の祖父、それは間違いないだろう。そして問題はその前、衣の師匠という一言。もし衣が、瀬々の思う通り、もっと化け物じみた闘牌をするものだったとして、それを矯正、もしくは変質させる切っ掛けになった人間がいたはずだ。
もしその人間が、衣の心に大きな楔として、尊敬の念として残っているのだとすれば、そんな呼び方をするのは至って当然のことである。
と、これはあくまで瀬々が感覚によって受け取った答えを理解するための理由付けであるのだが、恐らくは当たらずも遠からず、そっくりそのままであるとは、瀬々も思ってはいないが――
「……ん? ――秋一郎?」
そんな中、情報の中から瀬々はさらなる感覚を呼び起こさせるワードを引き上げた。――衣を打倒しうる雀士。――じいじといわれるほどの高齢である祖父と友人である人間。――“実歴としては”麻雀初心者の瀬々であろうと知っているプロ雀士の一人――
「ねぇ衣、その秋一郎って、苗字が大沼、だったりしない?」
恐る恐る、といった体で問いかける瀬々。そんなはずはないという思考を、感覚によって打ち消される混乱の極み、――それに衣は、さらなる火種を投下する。
「――? そうだが?」
至極当然のように、それこそ疑問であることこそが疑問だとでも言うかのように、衣はそれを肯定した。――愕然とするのは瀬々だ。更に、そこから驚愕へと思考を持っていくのが、水穂だ。
「え? え? ……えっ!?」
一度、二度、確かめるように三度、認識した事実を驚愕によって発散する。理解できないといった様子の少女が、やがてそれを驚きだとか、狂喜乱舞だとかに満ちた、モノへと替える。
「大沼プロ、っていえば、多分日本で特に有名なプロだよ? あたしでもしってる」
「ほう! そうなのか! 奇矯なりとはおもってはいたが、そのような肩書きを持っていたのだな」
両者の会話に、置いていかれた水穂はその場で急停止、あんぐりと口を空けたまま、どう反応していいのかわからないような対応をしている。
「それじゃあなんだ、アタシ達も会っていいのかな? 色々聞いてみたいんだけど」
「秋一郎は瀬々みたいなのが大好きだからな、少し手ほどきを受けるくらい、嬉々と引き受けてくれるだろうさ」
「――エッッ!?」
それに激しく反応したのは、大沼秋一郎を名前程度にしか知らない瀬々ではなく、むしろ麻雀に深く関わり、その名を心に留めている、そんな水穂の方だった。
「じゃ、じゃあ私とかもいいかな! 部活で、とか!」
興奮気味に言葉を連ねて、思わぬ大声に、衣は目を塞ぎ体を遠のける。爆風に圧されているようだ、と表現すれば良いだろう。
「……あ、あぁいや、部活で、は無理かな。透華が許してくれないだろうし。…………だったら、アタシもおじゃまさせてもらっていい? 龍門渕のお宅に来るんだよね」
「正確には離れにしかこないだろうが、いいのではないか? 友人を招くというのは衣としても憧れるものがあるし、一挙両得というわけだ」
自身を持って応える衣の言葉、それならばと水穂はすぐさまケータイを取り出す。歩みは再開しながらも、どこか意識は上の空、といった所だ。
瀬々の怪訝な様子にも、気がつく雰囲気はない。
まぁ、ムリもないことではあるが。
「――ってわけだからさ、どうかな? え? あぁうん、衣からの了承は取れてるから、衣から連絡を取ってもらえればいいと思うよ、向こう側の返事次第だけどさ」
なにやら激しい会話が成されているようだ、どこか興奮気味な水穂の口先からは、いつも以上の早口で会話が紡がれていく。
「そうそう、そういうこと。あはは、羨ましいよね、透華のお宅はさ。……あぁいやいや、恨み節は三割くらいだから、気にしないどいて」
どうやら話題自体は簡素に済んだようで、雰囲気は世間話のそれだ、先程まで見せていた瀬々達に対する自然体と全く変わらないように思える。
そんな水穂の楽しそうな様子を眺めながら、瀬々達は衣の話題で盛り上がっていた。
「――なるほどねぇ、小中合同の分校なんて、今時聞かないけど。それでも全学年の人間が一緒のクラスで過ごすのか、なんか楽しそうだな」
「あぁ、光陰矢のごとしといってな、気がつけば衣はもう、こんな場所にいる」
――全校生徒、最大時で七年、衣の上に三人、衣の下に二人、どちらも四年の年差があったそうだ。そこで衣は――麻雀をしながら、遊びまわりながら、過ごしていたのだとか。
(――あたしには、そんな思い出になるような友達なんて、いなかったんだよな。ほんと、うらやまし)
衣の口から語られるかつての友の事、上級の三名は、三人がかりであれば衣が手も足も出なかった、状況が状況であるが――そんな相手も居るのだな、と心に留める。
今は全員インカレに進んでいるそうだ。会ってみたいというのは、瀬々にしては些か意外な感覚だった。
(ほんと、衣にあって、随分たった気がするな。家族なんて言葉も、友なんて言葉も、もう使い古してしまったような気がする)
――ふと、気がつけば瀬々は一人、建物の陰に佇んでいることに気がついた。
衣は隣にいる。水穂は、前にいる。しかし彼女たちは、陰の灯らない場所にいる。――そんな気がした。
(……でも、その中に、あたしがいる価値って、あるんだろうか)
随分と自分らしい態度を取れるようになった気がする。中学の時は、自分は他人に合わせてばかりの人間だったはずなのだ。それが、気がつけばこうして、誰かに引っ張られ、自分の意思でそれを甘受している。
(衣が楽しそうに笑ってる。一がいて、透華もいる。水穂先輩だって――先輩は、そうやって悩むあたしを、つまらないと思うんだろうか)
思い浮かべるのは依田水穂、瀬々が関わる唯一の先輩だ。――彼女はあの明るさで周囲を引っ張り、その責任感で周囲を導いている。その裏に、何があるのかを感じ取らせずに。
……知っている。瀬々は瀬々の周りに居る者達が、何がしかの過去を引きずっていることくらい。その中身にまでは触れることはないが、それでも瀬々は、感じることがある。
――彼女たちは、自分と同じだ。けれども、
(――どこまでも、あたしとは違うことばかり)
少女たちは前向きで、ひたむきだ。それなのに、渡瀬々という人間は、どこまでも弱く、もろく、そして受動にまみれている。
それはきっと、――枷なのだと、自分に言い訳をしながら。
(先輩、きっと貴方は、“明るくなければならない”理由があった。――麻雀のスタイルだとか、オカルト的な特徴だとか、そんなものは一切関係なく、貴方は、きっと明るく振る舞うことを、自分に必要とした)
渡瀬々が、周囲に溶け込もうとしたように。そしてそれを、この数年間、中学の時の瀬々と同じように、日常の隅から、その外まで、ずっと続けてきたのだろう。
だとすれば、
(――だとすれば、先輩なら解るのかな。あたしがここに、居てもいいのかどうか)
多分、水穂は瀬々以上に強い、水穂のチカラは、明るくあろうとする水穂の意思から生まれたものだ。だとすれば、水穂は――――
(……その時、なんて答えを、あたしは受け入れたいとおもうのだろうか。なんて思いを――抱けばいいのだろうか)
――そんなものは、分からない。
解るはずもない。
ただ、それでも。
――目前に居る依田水穂は、隣にいる天江衣は、瀬々とは違う場所にいる。――渡瀬々という存在が生んだ、彼女の中にある鎖は未だ――瀬々を一人、捉えたまま――――
前振りの回、大沼プロの闘牌やいかに。