『導照らす月』衣VS瀬々①
学校が始まっても、すぐに授業が始まるわけではない、少なくとも新入生である以上、一日二日は猶予があるし、今は学校へなれる、校舎や友人と親しむ、そんな期間だ。
それもあってか、渡瀬々を始めとして、クラスの者達は、未だ学校の風景を日常としないまま、どこか浮き足立った団練に足を向けていた。
そんな一日の日程を終え、瀬々と衣、麻雀部へと向かう二人の足が、対照的でありながらも、共通のものが在るのは果たして、
「――だっるいなぁ、まったく」
「えー、楽しいじゃないか、今日から初めて麻雀を始めるんだぞ? 楽しいんだぞ?」
ふりふりと頭部の耳型リボンを揺らしながら、振り返りながら文句を言って、それからまた立ち直る。不思議なものだが、天江衣には、どこか超然とした人ならざる部分と、どこまでも人らしい、子どもらしいとも取れる純粋さを併せ持っているのだ。
「衣は麻雀をしている時が好きなんだ。一番好きなのは勝った時で、負けた時はちょっと楽しくないけど、でもムキになってもっと頑張りたい、って思うようになる」
麻雀とは、人の心をさらけ出す遊戯なのだからして、負ければ悔しいし、勝てば嬉しい、かつて――少なくとも、今はそんな話、聞くことは少なくなった――麻雀が賭博の対象であったことからも、それは知れる。
「んー、っと。まぁわかってるよ、楽しい麻雀、打ちたいからね」
気のない返事ではあるが、誠意の無さは感じられない。瀬々のそんな語気に、満足気に衣は頷くと足の勢いを早める。
「それじゃあいこう、すぐ行こう。巧達は拙速に如かずだ。きっともっと楽しくなるぞー!」
やがてそれは速度の乗ったものへといたり、テンポの良い駆け足へと変わる。それがもたらす瀬々の表情は嘆息に似たものであったが――
それでもどこか、安堵を浮かべたものだった。
(――眩しいやつとか、めんどくさい奴とか、苦手なんだけどな。……衣は、多分そういうんじゃなくて、きっと――――)
そうした思考は己の隅に差し置いて、瀬々は前を行く衣に引き離されながらも、それを胡乱げな目つきと声音で咎める。
「子どもじゃないんだから、廊下ははしるんじゃあない」
「こ、子どもじゃない! 衣だぁ!」
即座に帰ってくる憤慨。ころころと変わりつづける衣の仕草を、瀬々は嘆息とともに、ただ眺めているのだった。
♪
麻雀部入り口、大きく開け広げられた扉は、人が居座っていても全く邪魔にはならない。少なくとも、人の行き来を、人の会話が遮ることはないのだ。
だから、麻雀部に入った直後――麻雀卓を目にした時点で、瀬々は在ることを思い出し、気兼ねなく足を止めた。
「あぁ、そうだ――衣、これ、返してなかった」
取り出したのは、肩がけのバッグから一冊の本を取り出す。古ぼけたものだからか、そこに感じた感覚などを考慮して、ただごちゃごちゃとした雑多なカバンには収めず、堅苦しいケースからそれを取り出した。
「おぉ、なんだかこうしてみると、衣の掌中の珠が什宝に見えてくるな」
もとより衣はいろいろなモノが雑多に入った手提げから取り出されたものが保管されているのを見ると、思わず感じ入るものが在るようだ、若干の興奮を交えてそれを受け取る。
「……おや? 衣に瀬々ではありませんの、どうしたのです? こんなトコロで」
そんな折、現れたのは二人のチームメイトだった。
立ち尽くす瀬々達を不思議そうに見つめる龍門渕透華と、その後ろにつく国広一である。どこか一が済ましているために、先程まで面倒があったのだろうと、なんとなく瀬々は嘆息する。
透華は嫌いではないが、あって面倒と思うタイプの人種だ。
「はぁ……」
気のない返事をして、手にした衣の本を軽く揺らしてみせる。本に意識を向けていた衣の顔が、釣られるように上下した。
「あれ? それって……」
一が何かに気がついたようにその本に反応を示す――よりも早く、透華の顔がみるみる驚愕へ染まってゆく。
「こ、これって――『麻雀のハジマリ』じゃありませんですの! あの、大沼プロの!?」
「……え?」
こんどこそ、そんな透華の反応に瀬々は首を傾げた。なんとなく答えはわかる。しかしそれが、麻雀というものをよく知らない瀬々には、ピンと来ないものだったのだ。
「え? ほんと? ほんとに『麻雀のハジマリ』?」
「えぇ、えぇ間違いありませんわ、……ちょっといいですの?」
問いかけるのは、瀬々ではない。瀬々が関わるなというオーラを噴出させているし、衣が問いかけを待ちわびているのが、近くにいてひしひし伝わってくるのだ。
「いいぞ! ただ衣の珠玉だから、大事にしてくれ」
確か、昨日瀬々に手渡した時も、あとからそんな風に言われた。だが、反応は瀬々の気のないものと比べて、劇的としか言いようが無い。
「えぇ! えぇ! もちろんですわ! だって、だって一、ねぇ!」
「うん! そうだよ透華! これは、これは、ねぇ!」
ずずいと前に出る透華のあまりの気迫に、衣と瀬々は揃って思わず後ずさる。――後ろに控えていたはずの、一まで揃って二人分、もはや威圧としか言い様がないそれに、瀬々も衣も、性分に似合わず困惑するしかない。
「て、ちょっとまって透華! これって、これってまさか……」
「えぇ、間違いありませんわ、――これ、初版でしてよ!」
更に驚愕し、もはは慄きとすら言える感情の爆流に、瀬々はおいおい、と呆れ気味な嘆息を漏らす。それは主に目前の両名に対してであったが――
これはこの二人の反応が正しいのなら、かなりのプレミア物――瀬々は五十万前後だと断定した――であるのだ。
(あたし、なんてものを扱ってたんだ?)
これが衣の思い出に関わるものだとすれば、思いの外自分は衣にとって、大変な立ち位置にいるのかもしれない。――彼女と自分をつなげるものはなんだろう、その答えは麻雀で問いかけるのが早いだろうが、それでも瀬々は問いかけるて初めて知れるはずのものを、憂いを込めて思案するのだ。
(――同類、か。……あたしはそんな、衣みたいに上等な人間じゃぁ、ないんだけどな)
思考は、己の何処かにこびりつきながら――痕をひたすら残しながらも、そっとどこか遠くへと霧散していく。感情に答えはない。人間の感情を、瀬々は完璧には察知できない。
だからこそ、瀬々は自分の中に浮かんだ、何かに気づくことが――できないでいたのだ。
♪
麻雀部に足を進めて、すぐに瀬々達は卓につく、顔見知りが四人、メンツは足りているし、4月はレギュラー決めの学内リーグ戦があるものの、現在は仮入部期間、対局に制限はない。
故に瀬々たちは広すぎるほどに広い設備の一角を陣取って、早速麻雀を始めるのだ。
「――瀬々はこれが初めてですの?」
「んー、まぁ実際に麻雀牌にふれるのは、そうだよ」
麻雀自体は、昨日のうちにネットを使って軽く練習している。だが、現実の麻雀牌を触れるのはこれが初めてということになる。
――それでも、瀬々の手つきに一切のよどみはなかった。
「牌の動かし方や点数計算、いろいろ面倒だけど大丈夫?」
「ん、大丈夫」
覇気のない声で一の問いかけに答えながら、実際に牌を動かして試してみせる。――場決め、配牌は終えた。あとは対局を始めるだけ。
そこにいたって、一と透華は問題はないと判断するにたる行動を、しっかり見せつけられた。
これなら問題はないだろう、そうお墨付きを出して、闘牌を始める。
――席順は東家、透華。南家、瀬々。西家、衣、そしてラス親を務めるのは――瀬々が初めて目にした対局と同一、北家が一、という順になった。
ちらりと行き交う視線の端に、回転を終えた賽がある。――半荘の始まりを、瀬々は感じていた。
――東一局、親透華、ドラ表示牌「{西}」――
振るわれる隻腕、透華の流れるような打牌は、迷いというものを産まないことが多い。それは透華の打牌が、彼女にとって疑いようのないものであるためだ。
長い麻雀打ちとしての練磨とデジタルスタイルの完成度が故といえる。
――透華手牌――
{一三四五⑥⑧⑨23667西} {8}(ツモ)
(健全な精神は健全な手牌から、メンタンピン、いただきですわ!)
透華/打{西}
――そして、それに合わせての瀬々の打牌。一瞬逡巡するように視線を牌へと奔らせ、そしてそれを手にする。これが瀬々の、最初のツモとなるのだ。
(さて、わたくし、あまりこういった初心者が牌を握る瞬間、とはあまり縁がありませんでしたの。不思議な感覚ですわね――これが母性、というものなのかしらね)
冗談めかして、ふと笑う。
瀬々の手つきにはよどみがない、初心者とは思えないほどしっかりとしたものではあるが、どこか初々しいものであることは、気のせいではないだろう。
(さて、魅せてもらいますわよ、渡瀬々、あなたの選ぶ――最初の一打を)
対局中に、透華が浮かべるのは笑みであることが多い。彼女のそれは敵意のあらわれであり、ポーカーフェイスの一環でも在る。
しかし、今は違う。
初めて牌を握る人間が、初めて選ぶ第一打。――ルールに関して、透華は問題はないだろうということを知っている。だからこそ、瀬々がどのような闘牌を見せるのか、それが楽しみで仕方がない。
たったいま、透華が浮かべているのはまさしく、慈愛と、呼ぶべきものこそが、ふさわしいのだろう。
そして、瀬々は今、手牌を前に思考を終える。
(――よし。始めるか)
瀬々にとって、何かを始めるというのは億劫でしかたがない。――それでも、この麻雀卓の前に座ることは、牌を握ってそれを振るうことは些かの違和感もない。
だからこそ、だろう。――漏れだす呼吸が、いつもより興奮に濡れていたのは。
(これが、あたしの)
――瀬々手牌――
{二三八九①④⑤⑥⑧5東白} {七}(ツモ)
(渡瀬々の――第一打)
――瀬々/打{①}
始まった。
――闘牌が、――――物語が。
♪
静かな卓の進行だった。通りゆく者は、その中身を軽く見やって、ふむと頷き、自身の居場所へと戻っていく。――そこは、世界のどこにでもある場所で、世界で唯一つ、彼女たちだけが、許された場所だった。
ゆったりとした打牌、思考を伴ったものだろう、そこには確かな余裕がある。
(――さぁ、)
国広一が、
(……ここまで、来ましたわよ)
龍門渕透華が――
自負に満ちた顔を、浮かべた。
ここまで、両者の手牌は、安いながらも好配牌という、絶好の初手を、一向聴まで早々に進めたのだ。――五巡目、未だ河は、一段目の切り返しをも迎えていない。
それが、果たして――
「――リーチ」
最初に動いたのは――果たして彼女たちではなかった。
動いたのは、渡瀬々、鋭く、斬りこむような流線型のカーブを伴って、リーチ宣言牌を曲げて示す。振り下ろされたリーチ棒が、跳ねてそれからすっと収まる。
(――来ましたわね)
先制リーチは、瀬々のものだ。おかしなことではない、透華のそれを上回るほどの手であるのなら、
衣/打{6}
(さて、こちらもテンパイ、ですけれど)
――透華手牌――
{三四五⑥⑧⑨2346678} {⑦}(ツモ)
(ここはこれ、ですわね)
透華/打{6}
現状、{⑨}を切る理由はない、無筋のヤオチュー牌、切らない理由はないが、衣の{6}切りが、全くの無意味であるなどとは思えなかった。
そして――
「ツモ! メンピン一発ツモは、1300、2600」
――ツモは、{⑨}、瀬々の手は、単なるクズ手を、一発とツモできっちり中庸といえる手に仕上げた。
ふむ、と透華の感心がそれを呼び、一はそれを驚きもなく受け入れる。――速くある、それは初心者の打てる麻雀ではない。それでも、それ以上はない。
点棒の行き来を行いながら、それぞれは次の卓へと移る。
それを眺めるものはただ一人、その場に在りながらその存在を誇示することを忘れたもの。闇に溶け、かすみに紛れた白の月、そう、語るまでもない。
――月は、ただそれを見ている。
天江衣はその対局を、感情を共わない――否、感情を湖のそこへ沈めた深淵から、そっとその半荘を臨んでいるのだ。――そう、今はただ。
・渡瀬々 『30200』(+5200)
↑
・天江衣 『23700』(-1300)
・国広一 『23700』(-1300)
・龍門渕透華『22400』(-2600)
――東二局、親衣、ドラ表示牌「{⑥}」――
(――どうやら、うまく言ったみたいだ)
続く二局の手牌に、そっと視線を映しながら、瀬々は自身の中で生まれる感覚を捉える。
(まぁ、よくあることだ。どれだけ答えがはっきりしていようと、その最適解っていうのは幾つもある、それを選定するのがあたしの仕事、なんだけどね)
それは瀬々のもつ、他者とは違う特別な感覚によるものだ。
生まれながらにして瀬々が
――麻雀はけっして単純なものではない、ルールを覚えるにしても一日では絶対に不可能だし、よしんばできたとしても、さすがに点数計算まで開始からできるものはそういないだろう。
それを可能にするのが瀬々の力。
(――これがあたしの、“答えを知るチカラ”)
瀬々には、物事に対する答えを見つけるというチカラがある。超心理学的な人の理解が及ばない、どこかずれたチカラであるそれは、この麻雀という舞台でも作用する。
むしろ、麻雀にこそこのチカラはあるのだと、
(そう思ってしまうくらい、あたしのチカラに、麻雀はしっくり来るんだ)
それこそが瀬々の感じた感覚の正体。
実際に牌を握って、打牌して、和了してわかる。――麻雀は、ひとつの答えだけでまかなえる競技ではない。幾重にもその配牌には可能性があり、結果を残すことは、あまりにも難しい。
(単純計算で、上がれるのは五回に一回あれば十分。でも、あたしのチカラなら、もっと、もっと和了れる)
吹き上がるチカラの感覚。
――目前にある手牌は、一見すれば単なる三向聴の手、時間をかければ仕上がるだろうし、それが高くなるか、安くなるかは出来上がらなかければわからない。
それを瀬々は、最も正しいと思える、感覚の行き先で決定づける。
「――ポン!」
まずは、一つ。
この手は、ただ進めていたのではゴミ手にしかならない。
瀬々はまず衣から鳴けていたはずの風牌をスルーすると、その直後に飛び出た透華の打牌を喰いとる。オタ風のポンであるが、その目的は容易に知れる。
――瀬々捨て牌――
{二八⑨}
そして、打牌は{⑥}。――バレバレにも程がある染め手、この場合バカホンと呼ぶのが正しいだろう。それを瀬々は――強引に強固な手へと仕上げていく。
(ここは――スルー。この次のツモから、更にその次は鳴いて一向聴、テンパイはそのままでいいな)
ためらいなく展開した感覚から、瀬々は次を、さらにその次を見通す。
(……こんな盛大にこのチカラを、意図的に使ったのはいつ以来だろうな)
そんな思考を嘆息気味に漏らして、それでもどこか納得したような表情で自身の、すでに知れたツモを手にする。
――瀬々手牌――
{13899白白} {白}(ツモ) {横312} {北北横北}
瀬々/打{8}
(まぁいいさ、利用できるものは利用する、それが私の生き方で、そうすることが私の過去だったんだ――これもつまり、そういうものに、近いだろうな)
正確には違うだろう。
望んでチカラを振るうことと、結果としてチカラに頼らざること、それは大きな過程の隔たりがある。それでも瀬々は、そのことを同一視し、嘆息を隠さない。
そして――
瀬々/ツモ{1}
(ここ、だな)
見せてやろうじゃないか、そう息巻いて瀬々は牌を持つチカラに勢いを加える。
自身の中に“生まれない”ためらいに、そっと後ろ髪を引かれながら、瀬々はその牌を、放つ。
――瀬々/打{
見るものがいれば、その選択は首を傾げるか、瀬々の正気を疑うか。
だが、瀬々はそれを不思議とは思わない。
それが答えだからだ。
直後――生牌である{白}が切られたことにより、それに打牌を合わせるものがいた。
一/打{白}
それは当然といえば当然の帰結だ。生牌として切ることのできなかった牌が、現在最も危険視するべきである瀬々の元から飛び出たのだ。
だからこそ、瀬々はそこに答えを見つけた。
「――ポン」 {白横白白}
「――え?」
思わず一から声が漏れたのは、まったくもって致し方ないことだろう。
絶対に、とは言わない。結果としてそれがあり得る状況は在るだろう。しかし、これはそうではない、――わざわざ自身が手にした有効牌を“鳴き返すために”切るものがどこにいる。
――瀬々/打{3}
息を呑む。
これが、瀬々の麻雀であることは、一は否が応なく理解させられた。
普通じゃない。
――そう思わせるだけの、力はあった。
「――ツモ、4000オール」
思い描いた答え。
そして、その結果、瀬々の持つそれは、まさしくそれによるものだった。
・渡瀬々 『42200』(+12000)
↑
・天江衣 『19700』(-4000)
・国広一 『19700』(-4000)
・龍門渕透華『18400』(-4000)
――東二局は終わり、続くは親の連荘一本場。
動きゆく卓上、しかし衣は未だ動きを見せない。――そこにあるのは、果たして単なる沈黙であっただろうか。
答えを知るのは、たった今、彼女が伏せた手牌のみ――――
――衣手牌――
{四六八①⑧⑨2227899}
瀬々のチカラに一番近いのは、多分エイスリンですね。
受動的か能動的かの違いはありますが、理想の配牌を作るという意味では一番近いかと。
まぁ、ようするにそういうことです。次回、ころたんは如何に。