Was yea ra sonwe infel en yor… 作:ルシエド
キャロルが叫び、柱が倒れる。
倒れる柱とジュードの間に向けたキャロルの手には、黄金の紋章が浮かんでいた。
「ジュードっ!」
天体を象徴する
何とか即死こそ免れたが、ジュードがもう一本の柱に押し潰されそうになっている以上、ほんの数秒の延命にすぎない。
だがその数秒が、彼の朧気な命運を繋いだ。
「―――ったく、想定外に次ぐ想定外にもほどがあるわ」
その数秒が、ガリィ・トゥーマーンが駆けつけるまでの数秒、彼を生き長らえさせたのだから。
ガリィが手を振るえば、ガリィが温存していた想い出が一気に焼却され、大規模なエネルギーが瞬間的に錬成される。
放たれたのは、総数108の氷の刃であった。
氷の刃はジュードを押し潰そうとしていた柱を吹き飛ばし、接着という一時しのぎの対応をされていた天井を粉砕し、適宜水に姿を変えて火を消して、ジュードの周りを円周回して彼の身をあらゆるものから守るよう動く。
たった一撃。ガリィが放った一撃で、ジュードの命を脅かしていた燃える家屋は跡形も無く消え去っていた。
ガリィは地に降り立って、一秒の間も置かずジュードの傷を癒やしにかかる。
以前彼の擦り傷を治した時と同じ、人体の治癒能力を促進させる水の錬金術だ。
……だが、これはあくまで治癒能力の促進でしかない。
案の定、回復に特化しているわけでもないガリィの錬金術では、完治させられないようだ。
ジュードの失血死だけは回避できたようだが、それだけ。
「チッ……目を離したつもりはないのにこれ? ざっけんなっての」
「が、りぃ……」
「寝てなさい。起きてても苦しいだけよ」
ガリィの言葉に頷いて、ジュードは気が緩んだのか気を失う。
村の火を消すために飛び回りながらも、ガリィは二人から目を離していなかった。
だと、いうのに。
たった一瞬だけ目を離した隙に二人は動き、そのせいでガリィはほんの僅かな間二人を見失ってしまい、結果ジュードは大怪我を負ってしまった。
「はぁ……"これ"は変わんないのね。
マスター、こればっかりは流石のあたしも謝りますわ」
「……ガリィ?」
「やんなっちゃうわぁ」
ガリィは人のように眉間を揉んで、忌々しげに表情を歪め、ジュードを抱え上げる。
村の火がだいたい収まったのを確認しつつ、ガリィとキャロルはどこかジュードを安全に寝かせられる場所を探し、歩き始めた。
ガリィとキャロルが急場しのぎの避難所にジュードを寝かせ、イザークが村で出来る支援を一通り終わらせて村長達との話を終え、彼らが合流したのは夜になってからだった。
「ねえ、ガリィ、治せないの……?」
「結局、錬金術は錬金術なんですよ。これそのものは魔法でも奇跡でもありませんので」
「ガリィ君でも、流石にこれは難しいか……」
合流してからというもの、いつもどおりの調子を崩さないガリィに対し、ディーンハイム親子の表情は曇ったままだ。
三者三様の視線の先に居るのは、呻きながら横になっているジュードその人。
腕には痛々しく包帯が巻かれていて、包帯の変色がその傷の深さを物語っている。
そしてその怪我をガリィですら治せないのだということは、ガリィの錬金術よりも旧式なこの時代の錬金術では、ジュードの腕を治せないということでもある。
イザークはそれを確信し、キャロルもそれに薄々感づいていた。
(そうなると、この手はこれ以上治しようがない。以前のように動くことは、もう……)
奇跡を生み出す手は焼け爛れ、失われてしまった。
キャロルのことをジュードに任せたイザークも、"ジュードが何のために両手を捨てたか"をちゃんと分かっているキャロルも、後悔せずには居られない。
もしも時間を巻き戻せるのなら、とすら思ってしまう。
「わたしのせいで、ジュードが……」
「マスターのせいじゃないですよ。
結局のところ、マスターを助けに行ったのはこいつの意志です。
こいつは好きで自分の体を投げ打って、結果的に死に損なった。それ以上でも以下でもなく」
後悔の言葉を吐くキャロルを、ガリィはジュードを馬鹿にするような、キャロルを慰めるような言葉で否定する。
「それに"わたしのせいで"って言うのは、男の覚悟に失礼だとあたしは思いますけどね」
「ガリィ……」
「ま、あたし個人としては自己満足と心中するなら好きにせえやって感じですが」
自分の身を犠牲にしてまでキャロルを助けたジュードの選択を、ガリィは快く思ってはいないようだ。言葉にいつもより何割増しか棘が多い。
「ジュード君の状態は?」
「感染症……簡潔に言うなら、火傷で皮膚が無くなった所から病原体が入ってますねえ。
まだ明確な症状は出てませんが、時間が経つにつれて洒落にならなくなってきますよ」
今のジュードは、怪我のダメージに加えて合併症まで引き起こしてしまっている。
皮膚というフィルターが無くなってしまったことで、病原体の侵入が防げない・体液がどんどん体外に出てしまう脱水症状・体温が体外に出てしまい正常な体温調節ができない、などの悪影響が多重に彼を苦しめているのだ。
特に、体力が弱まっているこの状況で体内に病原体が入ってしまっていることが最悪だ。
ガリィの錬金術に、細菌やウィルスをピンポイントで弾くものはない。
「ジュードにも薬は要るでしょうね。錬金術の補助を受けた皮膚がある程度治るまで」
「流行り病の件もある。あまりもたもたはしていられない、か……」
俯くキャロルをよそに、ガリィとイザークはこの先のことを話し合う。
話はそれなりに纏まって、ガリィが引き継いだジュードの薬管理の仕事のことへと移る。
「ジュード君の仕事を引き継いでもらってすまないね。手持ちの在庫はどうなってる?」
「あと丸一日の間は大丈夫じゃないですかあ? ただまー、本丸はまだ先ですし」
「そうだね。今夜はここに一泊して流行り病の原因を特定、明日の朝一で移動しよう。
この村の患者も、ジュード君も、一旦戻らないと助けることはできなさそうだ」
イザークの言葉に反応し、キャロルが顔を上げる。
彼女が反応したのかこれからどうするのかということに関する言葉か、それともジュードを助けるという言葉か、果たしてどちらなのだろうか。
「パパ、どうするの?」
「少し研究を前倒ししよう。『仙草アルニム』の採取と調査を優先しようと思う」
「仙草、アルニム?」
「万病に効くとされる希少な薬草さ。近い内に採取しに行こうと思っていたんだ」
イザークはジュードから、未来における医療技術に関する話も聞いている。
ジュードも一般市民相応の知識しか持ち合わせてはいなかったが、未来において研究を重ねられた医療概念は、イザークの研究には大いに参考になった。
そしてその結果、イザークが研究予定だったものの中から、すぐにでも研究すべきと判断していたものがある。
それが、仙草アルニムだ。
「アルニムの薬効成分は病・怪我・細菌・ウィルスのどれにも効くものだと考えられる。
勿論、調べてみなければ分からないし、彼の話を参考にして推測しただけなのだけれどね」
「え!? そ、そんなものが……!?」
「伝承に伝わる万病薬アルニムの逸話は幅広い。例えば―――」
イザークいわく、アルニムはメジャーな薬草でない代わりに、使われるたびに信じられないような効果をもたらしてきたらしい。
ある文献には、鉱山から川に流れた毒を飲んでしまった人達をたちどころに治したという。
ある伝承には、ちぎれた肉も短期間で完治させたという。
またある時は、悪質な風邪が流行した時にそれをすぐさま治しきったという。
更にはこれで蔓延した黒死病を治療したという医師の証言まであった。
毒素、負傷、ウィルス、細菌。
話を聞く限りでは本当にアルニム一つであらゆる病気を治している。
ジュードの知識を参考としたからこそ、彼はアルニムのデタラメさが理解できたのだろう。
同時に、この状況に対する最高の一手となりうると考えたのかもしれない。
この状況を仙草アルニムから抽出した薬効成分で打破することができれば、他の地方で同じように拡散している流行り病を治すこともできる。
その後、別の病気にもその薬効成分が有効ならば即座に使用することもできる。
ジュードの感染症も確実に治すことが出来るはずだ。
仙草アルニムはハリムという土地の渓谷にあるらしい。
この村からハリムに向かい、アルニムを確保し、拠点に戻って薬を作って戻ってくるだけならば丸一日はかからない。
イザークの言う通り朝一に行動を始めれば、日が高い内にこの村に戻って来れるはずだ。
「そういうわけだから、二人共あまり夜更かしはしないように。朝起きれなくなるからね」
イザークはそう言ったものの、キャロルが早く寝ることはないだろうなと思う。
キャロルは後悔をにじませながら、苦しみながら眠るジュードのことをじっと見ていた。
ジュードが起きなければ、徹夜してでも彼をずっと看病するつもりなのだろうと誰にだって分かるくらいに真剣に、彼のことをずっと見ていた。
それから一時間ほど後に、ジュードは目を覚ました。
「……う」
「おはよう、ジュード君。君は間がいい男なのか間が悪い男なのか判断に困るね」
「イザークさん……?」
苦笑するイザークを前にして、ジュードはぼーっとした顔で焦点の合っていない目を向ける。
ずっとずっと看病してくれていたキャロルが、夕飯を作るためにちょっとだけ席を外していたほんの少しの間に起きたジュードを見て、キャロルの父としては苦笑せざるをえないのだろう。
イザークも、ジュードが目覚めた時最初に見るべきは、キャロルの顔なのだと思っていたに違いない。
人が起きる時無意識にそうする動きで、ジュードは腕をついて体を起こそうとする。
そこで両の腕に、鈍くぼんやりとした激痛が走った。
「づっ」
「ああ、腕は動かさない方がいい。痛み止めだけで抑えられる痛みじゃないはずだ」
今のジュードの両手は、火傷で酷いことになっている。
その痛みが鋭敏に彼に突き刺さっていないのは、イザークが錬金術の粋を集めて作った痛み止めの効能と、感染症により彼の思考が混濁しているからだ。
少年は腕をゆっくり持ち上げ、包帯でぐるぐる巻きにされたほとんど動かない腕を見て、淡白な声を漏らす。
「……腕……」
ボロボロの腕を見ている内に、ジュードは何が起こったのかを思い出し、思考も徐々にハッキリしてきたようだ。
格好良くキャロルを助けて、キャロルが助けようとした子供も助けるつもりだった。
怪我をするつもりなんてなかったし、痛い思いをするなんてごめんだとも思っていた。
だが蓋を開けてみれば、キャロルを庇って大怪我をして、手はもうほとんど動かない。
咄嗟にキャロルを庇うために体が動いてしまった結果がこれだ。
……だというのに、"キャロルを守れた"という事実だけで、全く後悔していないというのだからもう本当に筋金の入ったスタンスだ。
「あー、なんて格好悪い……」
もうちょっと格好良く、痛い思いもせずに助けたかったなあと思いつつ、ボヤく。
だがジュードの自嘲の言葉を、イザークはやんわりと否定した。
「格好悪いものか。それは勲章さ」
イザークはジュードの腕の包帯が癒着しないよう、新しい包帯へと換える。
その際に痛み止めで多少和らいだ地獄の痛みがジュードを襲うが、何とか歯を食いしばって耐えた。
「その腕を見て、私は祖父によく聞かされていた話を思い出したよ」
「いづづ……イザーク
「東欧出身の人でね。
希望の西風を運ぶ竜の神様の話など、祖父の故郷の伝承をよく聞かされたものだよ。
その中でも、祖父が特に好んでいたものがあってね。"火傷は勇気の証、勇者の証"だと」
火は恐ろしいものだ。
文明が未熟な民族においては、痛みや苦痛を課す試練を乗り越えることで勇気を示し、その人間を勇者と認めるという文化があることが多い。
その試練に、火を用いることも珍しくはない。
獣は本能的に火を恐れる。人も本能で火を恐れ、理性でその恐怖を打倒して初めて立ち向かうことができる。
イザークの祖父が住んでいた地域にも、そういった風習があったのだろう。
『火傷』を火に立ち向かった勇気の証として、讃える文化が。
「先祖代々、『焔に立ち向かうものこそ勇者である』と家訓のように言い伝えてきたらしい」
……あるいはもっと別の理由で、"恐ろしい焔"に立ち向かう者を勇者とする文化があり、それが長い時の流れの中で形を変えたという可能性もなきにしもあらずだが。
なんにせよ、それはこの話とは関係のないことだ。
大切なのは、イザークが火傷を勇者の証として褒め称える文化の存在を知っていたということ。
そして前世では勇気なんてものを持てなかったジュードが、今世でキャロルのために勇気を振り絞り、腕を焼かれたのはその結果でしかないのだということ。
彼の腕の消えない傷、消えない後遺症は、キャロルのために振り絞った勇気の証。
「この腕は、誇っていい腕だ。少なくとも、私はそう思う」
「イザークさん……」
それをイザークが肯定してやらずして、誰が肯定してやるのか。
助けられたキャロルはそう言いづらいだろうし、誰も言ってやらなければジュードはそう思わない。だからこそ、彼が言ってやる必要がある。
少しだけ自分の腕を誇らしく思えるようになったジュードの視界に、また新たな見舞い客が一人現れた。
「ジュード!?」
それはずっとジュードを看病していて、イザークの分も含めた夕食を作るために離席していたキャロルであった。
キャロルはジュードが起きたらすぐに「ごめんなさい」と謝るつもりで居た。
だから扉を開けて、その向こうでジュードが起きているのを見て、すぐに駆け寄ろうとした。
なのに、足は意志に反して動いてくれない。
足が固まって、廊下と部屋の境界線を越えられない。
謝らなくちゃと思うのに、口が開かない。
それはキャロルの中のとても大きな罪悪感と、"謝っても許してもらえなかったらどうしよう"という気持ちが生んだ、彼女の足を止める見えない鎖だった。
(謝らなきゃ……わたしのせいで……わたしのせいで……!)
キャロルが足を止めた一秒か、二秒か。その逡巡が終わる前に、ジュードの方が先に口を開く。
「無事で良かった、キャロル」
「―――っ」
恨み言でもなく。然りの声でもなく。許さないという糾弾でもなく。
ジュードがキャロルに向けた第一声は、キャロルの無事を喜ぶ声だった。
彼が彼女に見せた表情は、彼女の無事を嬉しく思う表情だった。
喉の奥まで出かかった謝罪の言葉を、キャロルはグッと飲み込む。
(わたしは―――)
キャロルは考える。
助けてくれた恩を返すには、まずここで何を言うべきなのだろう?
そのためには自分が言いたいことではなく、ジュードが言われたい言葉を言うべきだ。
ならそれは、「ごめんなさい」じゃない。
ジュード・アップルゲイトは、キャロル・マールス・ディーンハイムに罪悪感を抱かせてしまったと知ってしまえば、それだけで申し訳なく思ってしまう少年だ。
だからキャロルは、自分の罪悪感を紛らわす言葉ではなく、ジュードの心を満たす言葉を選ぶ。
彼に"甲斐があった"と思わせる、そんな言葉を選んだ。
「ありがとう、ジュード。ジュードが居なかったら、わたしきっと、大変なことになってたよ」
「どういたしまして。キャロルが無事で何よりだ」
「本当に、ありがとう」
キャロルに『ありがとう』と言われるだけで、ジュードは幸せだ。
それだけで彼は、両の手を犠牲にした甲斐があると、そう思える。
彼女が選んだ言葉は文句なしに正解だった。
それでもキャロルの胸に後悔は残る。
ジュードの腕を見るたびに、彼女は"あの時にもう一度何かをする機会があれば"……と思わずにはいれらない。今日もそうだし、明日からもそうだろう。
「食欲はある?」
「あんまり、無いな」
「オートミールだけど、ちょっとでも食べた方がいいよ」
いつの間にか、イザークは部屋から消えていた。
若い二人でごゆっくり、と気遣ったのだろう。流石のナイスガイだ。
キャロルが腕を使えないジュードの代わりに、彼の口に粥のような食事を運んでいく。
こうして誰かの手を借りないともう食事もできないジュードを見て、キャロルの胸は痛む。
ジュードはキャロルに食べさせて貰えて、それだけで結構幸せだった。
食事のさなかに二人でなんでもないことを話し合う。
だが次第に、ジュードの眼の焦点が合わなくなってきた。
会話も噛み合わなくなってきて、意識もハッキリしていない。
病魔がその身を侵しているのだと、専門知識がないキャロルにも明確に見て取れた。
「ジュード」
「……どうした?」
「わたし、頑張る。わたしが、きっとジュードを助けてみせる」
「……そっか」
そして、ジュードの意識は正常な形を保てなくなった。
気絶するわけでもなく、意識が覚醒した状態でもなく、ただ単純に『痛い』『苦しい』『まともに思考ができない』という状態が続く。
苦しくて眠れない。苦しくて意識を保てない。
病魔が全身を侵食し、体のいたる所がじりじりと焼けるように痛む。
(頭が熱い……体が火照る……どこもズキズキして、苦しい……あれ、何考えてたんだっけ……)
完治というゴールはまだ見えず、眠りという逃げ道もない、苦しむだけの時間。
苦痛から逃れられず、唸りながら悶えるジュード。
今の彼に何を見せても、彼の目はそれを正しく認識しないだろう。
今の彼に何を言っても、彼の耳はそれを正しく認識しないだろう。
だからこそ、彼の耳と肌を震わせる『それ』は、この場で唯一彼の救いとなりうるものだった。
(……歌……)
言葉が通じなくたって、歌は万国共通の統一言語だ。
言葉が理解できなくなった頭にだって、優しい旋律は届く。
キャロルが歌い聞かせるそれは、今は亡き母に寝かしつけられるたびに聞かされていた、明日を想う子守唄だった。
旋律は血液一滴残らず響き、彼の血に満ちる病魔を掻きむしるが如く痛みを抑える。
苦しみに満ちる彼の心を落ち着けて、彼の意識を眠りに誘う。
君のために歌いたいと、少女から少年へと思いが届く。
"安らぎをあげたい"という気持ちを歌にして、メロディーにして願う。
旋律はジュードに足りていない命を、健全な血を注ぐように、ほんの少しだけ彼の体調を持ち直させた。
(……キャロルの、歌……)
優しい気持ちで紡がれた歌に包まれながら、ジュードはようやく眠りについた。
翌朝、太陽がようやく登り始めたくらいの早朝。
ジュードを含めた村の人々の多くがまだ寝ている時間帯に、村の入り口にてイザーク・キャロルは出立の準備を終え、ガリィに送り出されていた。
「ガリィ、ジュードをお願い」
「はぁい、ガリィにおまかせですっ」
ジュードをガリィに任せ、彼らは村を立つ。
目指すは仙草アルニムが群生しているという、ハリムの深山に位置する渓谷。
この村の流行り病の患者、及びジュードを一緒くたに救うことができる薬草をまず確保する。
それが彼らの第一目標だった。
「キャロル、彼の側に付いていてあげなくてもいいのかい?」
「いいの。わたしは、わたしにできることをしたい」
この村に留まっていてもいいと、暗に言うイザークの勧めを彼女はぴしゃりと跳ねつけた。
キャロルは既に覚悟を完了している。
ジュードがキャロルのためならば強くなれる人間であるように、キャロルもまた、自分が大切に想う誰かのためならば強くなれる人間だった。
「わたしが、助けてあげなくちゃいけないんだ」
今、ジュードのために踏み出すキャロルを止められるものなど居まい。
イザークは、娘がこれほどまでに強く自己主張をするのを見たことがなかった。
娘の成長を実感し、自然と父の顔には微笑みが浮かぶ。
「急ごう、パパ!」
真剣な顔で走り出した娘の後を追い、イザークもまた、人を救うために駆け出すのであった。
「……ん」
イザークとキャロルが村を出立してからしばらく後。
窓から差し込む木漏れ日が顔に当たって、ジュードは目を覚ました。
「あら、起きたの?」
「……ガリィ?」
「そこに朝飯置いてあるから、好きに食べなさい」
寝かされているジュードの横で壁に背を預けるガリィは、分厚い本を読んでいた。
ジュードが横合いに置かれた皿に手を伸ばせば、すっかり冷えた粥のようなものがあった。
一晩ぐっすり寝たからか、体力はそれなりに回復している。
だが症状は更に悪化したようで、体調は差し引き多少良くなった程度の回復に留まっている。
一口、二口、と口にして、ジュードはそこでスプーンを置いて横になった。
食欲が無いジュードに手ずからちょっとでも食べさせて体力を回復させようとしたキャロルと、食欲が無いなら食べなくていいと放置するガリィの対比が光る。
「本読んでるなんて、珍しいね」
「手っ取り早く想い出溜めてんのよ。ちょっとばかり有事に足りるか不安になってきたから」
「想い出……」
「あたしもあんたも、
使い切ったら動くこともできなくなるあたしはあんたらより死活問題なの、分かる?
昨日はちょっとばかし派手に使い過ぎちゃったしね……ちまちま回復してんのよ」
オートスコアラー、及びキャロルの錬金術の使い手のパワーソースは『想い出』だ。
ガリィは本を読むことで情報を物量で叩き込み、雀の涙ほどの回復を行ってる様子。
彼女は錬金術さえ使わなければ日々の中で想い出を溜めていけるため、回復量が消費量を上回っている状態を維持できるのだが……村一つの消火とジュードの救助に、それなりの想い出を消費してしまったらしい。
「そっか……お疲れ様」
「そりゃこっちの台詞よ。頑張っちゃったからあんたもそうなってんでしょうが」
ガリィは本を閉じ、椅子に前後逆に座って背もたれに顎を乗せる。
その視線の先には、もう二度と正常には動かないであろう腕があった。
それどころか、イザーク達が持って来た薬で感染症を治せなければ、そのまま死にかねない真っ赤な顔があった。
「ったく、なんであんたはマスターのことにだけそんな頑張れるんだか」
ガリィの問いに、ジュードは苦笑で応えて口を開く。
「僕、さ。前の人生では、勇気を出したことも、本気で頑張ったこともなくって」
病気で弱った心から漏れてきた気持ち。
朦朧とする意識の中、口から漏れてきた言葉。
それは何一つとして取り繕っていない、嘘偽りのないジュードの本音。
「でもキャロルと出会ってから、本気で頑張れるようになった。
自分のためじゃないことにも、勇気を出して挑戦できるようになった。
今までできなかったことが、"キャロルのため"って思えば、できるようになったんだ」
思い返すは、21世紀のキャロルと出会ってからの日々。
17世紀のキャロルと出会ってからの日々。
前世で頑張らず、勇気も出せず、何もできなかったジュード。
彼が本当の意味で『生まれ変わった』のは死んだ時ではなく、キャロルと出会った時だった。
「キャロルが、僕に勇気をくれた。
キャロルが、僕を変えてくれた。
キャロルのためなら何だってできて、何だって頑張れたんだ」
ジュードが体を張って一方的にキャロルを救っている? とんでもない。
キャロルがジュードを救ったからこそ、今があるのだ。
どちらが先に救ったかなど、この際考えることすら無粋というものだろう。
「あの笑顔を見れるなら、って、思ったら……けほっ、げほっ」
病がジュードの命を脅かし、言葉を紡ごうとする彼をむせこませる。
ガリィがコップの水を飲ませてやり、濡れタオルで軽く首周りを拭いてやると、少しだけ楽になった様子だ。ガリィはそのまま、呼吸を整えたジュードに問いかける。
「それはマスターへの恩義? 感謝? 優越感?」
「違うよ」
ガリィの問いに、ジュードは熱に浮かされた顔で答える。
過去のキャロルではなく、未来のキャロルが浮かべていた、儚げな笑みを思い返しながら。
「僕が、キャロルを好きだからだ」
迷いなく、そう言った。
「あの人を好きになったから、いつかあの人になるキャロルを、守りたかった」
ジュードはこの時代のキャロルも人として好んでいる。
だがそれ以上に、自分が元居た時代のキャロルが好きだった。
過去のキャロルと未来のキャロル。二人のキャロルに対し違う種類の"好き"があって、それが合わさって、まぜこぜになって、今の彼の好意がある。
「好きな人だから、守りたかった。理由は、それだけなんだ」
それは兄が妹に向ける好意であり、少年として少女に向ける恋慕であり、二つの気持ちは一人の少女に同時に向けられつつも矛盾しない。
「ノロケがうざすぎてあんたが怪我人じゃなかったら蹴り殺してたわ」
「はは、冗談に聞こえないなあ……」
ジュードの聞いているだけで恥ずかしくなるような台詞を、ガリィは嫌そうな顔で聞き流す。
「ったく、どうしてこーあたしの身内は言ってもわからないバカばっかなんだか」
嫌そうな顔で、それでも確かに、笑いながら。
イザークとキャロルは一刻も早く帰らなければならなかった。
村の病人も、ジュードも、いつ症状が悪化するか分からない。
ガリィならばある程度は対応できるだろうが、それでも"ある程度"でしかない。
少しでも早くアルニムを確保し、少しでも早く薬を使って帰還しなければならない。
だというのに、彼らは道中で立ち往生を喰らっていた。
「参ったな、これは回り道をするしかないか……」
どうやら川の堤防が切れてしまっているようで、道が大量の水でぬかるんでいるのだ。
舗装されていない天然の道は、地面の質と水の量が相まって下手したら膝まで沈みかねない。
しかも相当に広範囲にわたってぬかるんでいた。
これでは歩いて通れない。
時間はかかるが、回り道してこのぬかるみを避ける以外に道はないだろう。
「? キャロル?」
だが覚悟完了したキャロルは、そう考えるイザークの予想を遥かに越えていく。
キャロルは足を止めることなくぬかるみに向かい、その手をかざす。
そして思考・手・口を同時に動かした。
「Safty device cancelation:.Leading to the Material:.Ready to operate Code-M」
両手の指と口、三つの出力端子から空間に
紋章の色は赤。四大元素の一つ、火の属性だ。
キャロルの意志から生まれる一瞬の想い出を焼却し、天体からエネルギーを引き出した術式は、地面を炙るように熱して固める。
たった一瞬で、ぬかるんだ地面は人が歩ける強度にまで焼き固められていた。
(! 足りない技量を、口頭詠唱での術式構成で補って……!)
キャロルの技量はガリィには遠く及ばない。
だが両手のみならず口頭での術式制御というプロセスを追加することで、キャロルはガリィに迫る術式規模と術式精度を手に入れていた。
無論、口などという処理プロセスの遅いものを使っている限りガリィには届くまい。
だがキャロルが自身の未熟さを埋めるため『応用』でこの発想に至り、実用レベルに昇華させたという事実そのものが、この少女の恐るべき天賦の才を知らしめる。
練習の時間など無かったはずだ。
なればこそキャロルが今用いているこの『応用』は、ジュードへの想いと気合が生んだものに他ならない。
彼女もまた、大切な人への想いを原動力に不可能を可能にする者だ。
「急ご、パパ」
「……ん、そうだね。急ごう」
足を止めず、キャロルとジュードは突き進む。
(待ってて、ジュード)
今のキャロルは、一人の少年のことだけで頭の中がいっぱいだった。
一方その頃、ジュードの体調は順調に悪化していた。
ガリィの見立ててでは、放置しておけば三日ほどで確実に死に至るだろうという体調。
顔が真っ赤で思考がボーッとする状態は脱したが、その代わりに顔が土気色で相当に気分が悪そうに見える。
イザークが残した薬を適宜彼に呑ませながら、ガリィは彼の体調が急変しないように見張りを続けた。
「ガリィはさ、造り主であるキャロルはまだしも、なんで僕を助けてくれるんだ?」
そのさなか、ジュードは何度か苦しそうにしながらも話しかけてきた。
気分の悪さを紛らわせたいのだろう。
会話ですら体力を消耗しているというのに、無理をして口を開く様子が痛々しい。
ガリィはため息を吐きながら、ジュードの気分転換に付き合ってやろうとする。
人は病床で心細くなるものなのだと、遠い昔にインストールされた彼女は、人の気持ちが分かるから。ジュードになら、少し付き合ってやってもいいかと考える。
「一説には世界最古の奇術の名前はね、カップ・アンド・ボールって言ったらしいわよ」
「?」
「その説の次に有力な説でも、世界最古の奇術は
ガリィにとって、キャロルこそが唯一無二のマスターだ。
されど彼女は、ジュードも唯一無二であると認識している。
自分の製作者でもなく、自分のマスターでもないというのに。何故?
「奇術こそ杯。杯こそ奇術」
その答えは、最初から彼女の名の中にあった。
「あたしにマスターが与えてくださった名はガリィ。意は水を司る大天使。
あたしにあんたがくれた姓はトゥーマーン。意は杯を示す小アルカナ。
オートスコアラーの名が無意味に付いてるとでも思ってたのかしら?」
彼女の名は、『ガリィ・トゥーマーン』。
水を司る
「僕が……?」
「そーよ、それがあたしの始まり」
ガリィはジュードにかかっている掛け布団を肩までかけ直してやり、デコにデコピンをかます。
そして想い出を補給するために、また本を読み始めた。
「見捨てやしないわよ。あたしがこの名を名乗っている限りはね」
問いたいことはまだまだあったが、病魔に侵されているジュードにその余裕はない。
彼はまた、削られた体力を取り戻すため、眠りに落ちた。
イザークとキャロルは、砕けた岩の上を行く。
山が噴火し、岩が積み重なり、それが途方もない時間をかけて砕かれて、苔だらけの岩だけで構成された道ならぬ道を作る。そんな道の上を行くディーンハイム父娘であったが、キャロルはここでまたしても転んでしまった。
「きゃっ!?」
「キャロル!」
強かに打ち付けた腕は痛み、尖った岩の先はキャロルの肌を傷つけ、血を流させる。
以前のキャロルなら、ここで泣いていてもおかしくはなかった。
パパ、と叫んで父に甘える理由にしてもおかしくはなかった。
「痛くない……」
だが、今のキャロルにそんな弱さはない。
「こんなの、痛くない!」
ジュードがキャロルを理由に勇気と力を振り絞るように、彼女もまた、ジュードを思う度に勇気と力が心の中から湧いてくる。
「ジュードの方が、きっともっと痛かった……!」
キャロルは両手を岩の破片だけで構成される地面に当てて、口頭で補助した術式をぶち込む。
「Safty device cancelation:.Conduct a symphony:.Optimized Secret-Code-G!」
紋章の色は茶。四大元素の一つ、土の属性だ。
大地に干渉する土の錬金術は、岩の破片だけで構成された地面を一瞬で平たい道へと錬成する。
水浸しの地面と違い、"水をどこにやるか"を考えなくていいこの地面なら、火ではなく土の錬金術の方が効率的に道を作り出せる。
錬金術の基本は理解・分解・再構築。
"一刻も早く"という思考が、彼女の状況を理解し最適な錬金術を使う能力を磨き上げていく。
「負けない……! ぜったい、負けない! ジュードを助けるまで!」
困難に一つ立ち向かう度、キャロルの錬金術は洗練されていく。
病気の影響、及び寝たり起きたりを繰り返しているこの状況のせいか、ジュードは起きているのか寝ているのか自分でもよく分かっていない状態で薄目を開けていた。
そんなジュードの腹を布団の上から優しくぽんぽんと叩き、ガリィは彼を寝かしつける。
「もうちょっと寝てなさいな。体力が低下してるから、寝てないと保たないのよ」
うとうとと、ジュードは何度目かも分からない睡眠を始める。
こうして寝て、浅い眠りで体力を回復して、病の苦痛で目が覚める。
ガリィも今日何度も見ている繰り返しだ。
唯一違ったのは、今回は病で心細くなっていたジュードが、寝る直前に言葉を遺したこと。
「ねえ、ガリィ……」
「なぁに?」
「……僕達、友達かな……?」
言うだけ言って、ジュードは寝てしまう。
聞くだけ聞いて返答は求めないとは、彼が今どういう状態にあるのかよく分かるというものだ。
ガリィは席を立ち、呆れて顔でジュードに背を向ける。
「何バカなこと聞いてんだか」
そして部屋を出て、家を出た。
「嫌な空気ねえ」
今ここにイザークが居れば、ガリィと同じ感想を抱いていただろう。
村の空気がおかしい。
明確な言葉にできないのだが、おかしいのだ。
人々のヒソヒソ声が時折聞こえて、一人一人の視線の向きに違和感しかない。
(……さて)
家の前に出たガリィの眼前に、村人が二人歩み寄ってくる。
「失礼ですがディーンハイムさん、あなた達の荷物を改めさせてもらってよろしいでしょうか?」
「あらー、申し訳ありません。あたしあの三人とは違ってディーンハイム姓ではありませんの」
「む、そうでしたか」
「要件があるならあたしが承りますよぉ?
一人は病人、二人は外出中。理由を話していただければ、お通し致しますわ」
「あなた方の潔白を晴らすためです。やましいことがなければ、荷物を調べさせていただきたい」
「あらあらー、お引取り願えますか?」
「……それは、やましいことがあると判断しても――」
「お引取り願えますか? ああもういいやめんどくせえ、『帰れ』」
ガリィが拳を開けば、そこには極小の青い
それを村人二人に向けるやいなや、ガリィは被っていた猫を投げ捨て強い言葉を叩き付ける。
するとどうしたことか?
先程まで確固たる意志を宿していた男二人の両目の焦点が、合わなくなったではないか。
「……そうですね、今日は帰ります」
「……ええ、何も異常はなかった」
ガリィがやったことは、"脳内水分の操作"である。
一見洗脳にも見えるが、ガリィは適当に脳内の水に干渉して脳の働きを鈍らせただけだ。
判断能力を低下させ、夢見心地にしたともいう。
そこに強い言葉を叩き付け、命令を叩き込めばこうなるのは当然である。
そも、離れた場所にある水分を操れるという時点で、ガリィは人に対して無敵に近い。
人体の何%が水であり、人体急所のどこに水があるかを考えれば、それは当然である。
彼女が即殺で勝てないのは、マスターが"殺すな"と言った人間、あるいは聖遺物のエネルギーを身に纏うような反則だけだ。
ガリィの基幹プログラムには、"人を殺すな"と"人から想い出を奪うな"の二つがある。
この二つがあるかぎり、残念ながら頭蓋骨を内側から破裂させるような技をガリィが使うことは許されないのである。
「……どーしたもんかしら」
できればここで殺して埋めておいた方が良かったわよねアレ、なんて去り行く村人二人の背中に呟くガリィは、とんでもなく物騒な考え方をしていた。
仙草アルニムは、深山奥地の渓谷にある。
見つけたまではいいものの、生えている場所が人の手に届かない場所にあったのも、ある意味必然だったのかもしれない。植物は、人間に摘み取られるために摘み取られやすい場所に生えようとするわけではないのだから。
「まだ尽きてない、まだ、折れてない……!」
イザークの体重では崩れてしまう崖の壁面を、キャロルは父の警告を無視して登っていく。
目指すは壁面の一区画にある、仙草アルニムの群生だ。
キャロルは声を出して自身を鼓舞し、身体能力の限界すら超え、アルニムを目指す。
「キャロル! 無理はするな! 落ちそうだったら戻ってくるんだ!」
下から聞こえる父の声。
それがまたキャロルの体に力をくれるが、あいにく天然の壁面は力があれば登れるというものではない。
運良くアルニムの近くまで辿り着いていたキャロルだが、そこでとうとう掴んでいた岩が外れてしまった。
「! キャロルッ!」
イザークの悲鳴が響く。
その一瞬、ほんの一瞬、死を覚悟したキャロルの脳裏に走馬灯が浮かび上がる。
それも何故か、ジュードとの想い出だけが浮かび上がる走馬灯だ。
初めて出会った時、キャロルはジュードに何かを感じた。
それは自分の危機を救ってくれたジュードに対する、形にならない気持ち。
あの日抱き留められた時、ジュードに感じた言葉にならない気持ち。
それは少女にとって初めての――― 一目惚れという名の、恋だった。
最初から好きだった。
途中でもっと好きになった。
きっと未来でも好きなまま。
外見で好きになった? 救ってくれたから好きになった? バカバカしい。
そんな要因でキャロル・マールス・ディーンハイムが一目惚れをするはずがない。
彼女が彼と出会った時、彼に感じたのは『運命』。
一生の内で出会う人々の中にたった一人だけの、小指の赤い糸の先だ。
永遠に自分だけを見てくれる、自分だけを愛してくれる一人の存在だ。
一目惚れは、その人がそれまでに積み重ねてきた人生の反映そのもの。
どう生まれたか、どう生きたかが、一目惚れする運命の相手を決定付ける。
十年を生きたキャロルの初恋・一目惚れならば、それは十年の片思いに等しい。
運命さえ感じたその初恋は、きっと数百年の時を経ても色褪せない。
「―――ッ!」
心と口で、同時に吠える。
キャロルは一瞬の走馬灯で大量の気合を獲得し、それを意志として一気に燃焼し、錬金術を発動した。
「Safty device cancelation:.Conduct a symphony:.Install Forbidden-Code-F!」
紋章の色は緑。四大元素の一つ、風の属性だ。
風は圧縮した空気に指向性を持たせて開放し、キャロルの軽い体を浮かび上がらせる。
口と両手を使っても今のキャロルでは3mほど浮かび上がるのが限界だが、それでもアルニムに近い位置から落ちたという前提があれば、それで十分だった。
キャロルは何とか、アルニムが群生していた崖の出っ張りに辿り着く。
「やっ、た……!」
「キャロル、すごいぞ! よく頑張った!」
下からイザークの歓喜の声が響いてくる。
キャロルは切れる息を整えながら、仰向けになって空を見上げた。
(……わたし、こんなに頑張る子だったっけ……)
空に手を掲げると、崖を登る際にボロボロになった手が見える。
ジュードと違い、この程度の傷なら傷跡も残らないだろう。
キャロルはそこに少しの罪悪感と、"おそろい"という少しの嬉しさを感じる。
その手の傷もまた、他者のために傷付くことを恐れない心が刻んだ、勇気の証だった。
キャロルはその手をギュッと握り締め、ジュードを想う。
「ぜったい、ぜったい、死なせてたまるもんかっ……!」
そしてジュードと村人を助けるための薬草を握り締め、崖から飛び降り、風の錬金術で減速しながら父の前に着地した。
一方その頃、ガリィは自らの身を水鏡による光の屈折で隠しながら、村の様子を調査していた。
無論、最優先事項であるジュードの護衛もバッチリこなしながら、だ。
村の様子がおかしいことは目に見えて明らかなことだった。
何か一つきっかけがあり、膨れ上がれば、最悪の展開にも転がりうる。
(さて、あんだけ『証拠』をでっち上げられる可能性を見せられると、ちょっと焦るわね)
ガリィは人の流れを監視し、不自然な部分を洗い出していく。
そして自分の当たって欲しくない予想がドンピシャで当たったことに、表情を歪めた。
ついつい独り言を口走ってしまった彼女を、誰が責められようか。
「うっへぇ」
彼女が見たものは、この村に立つ教会。
加えて教会で屯する、殺気立っている数人の人間。
そしてその者達に何かを吹き込んでいる、怪しい一人の男の姿だった。