今年も色々あるとは思いますが、どうぞ最後までお付き合いください。
久しぶりの八色回です。ご賞味あれ。
<<--- Side Hachiman --->>
落ち着きのない珍妙な文字列が、鮮やかな液晶の上を次々と横滑りしていく。肺の腑から零れた空気が、傷一つないモニターとそこに映し出された少女の姿を、白く曇らせる。
『運が良かったっていうか…たまたま前の日に…はい』
暴力的なまでに漂白されたベッドシーツは、蛍光灯の光を拒絶するかのように跳ね返してくる。視覚的にも触覚的にも優しくないこの布地の感触にも、随分と慣れてきた。手の中で動画を垂れ流し続ける真新しいスマホを横目に、俺は本日何度目かの重苦しい空気を吐きだした。
「…………はぁ……」
溜息の百や二百も出ようというものだ。
どこぞの犬を助けようとした途端、二年ほど未来の世界に飛ばされてしまったのだから。
聡明な諸兄であればこのあたりで「ああ、コイツは頭の病気で入院しているんだな」と思われるかも知れないが、それで半分正解だ。小町から聞かされている経緯をダラダラと繰り返すのは簡単なのだが、混乱しているのは俺ひとりらしいので、そのあたりは割愛させてもらう。
大怪我をした上に記憶を失い、入院中。
それが高1改めもうすぐ高3を迎えんとする、比企谷八幡の現状まとめである。
記憶喪失。
英語で言うとメモリーズオフ。ちょっと違いますね。
ライトノベル界であればまず間違いなく、失われた過去には壮絶な秘密が隠されているものだ。暗殺業に従事していたり生き別れた妻子が居たりと、展開に合わせて自在に過去を捏造できてしまう。何なら健康な主人公よりも好まれる傾向さえある、かなりメジャーな疾患である。
男子であれば一度くらい「ぐっ…あ、頭が…っ」とかやってみたくなるものだが、ならば実際に体験した場合、どんな感じかと言うと…そうだな…。「風邪で学校休んだらいつの間にか飼育係にされていた」ってのが一番近い。ただの欠席裁判じゃねーかと思うだろうが、本当にそんな感じなのだ。口裏を合わせているのがクラスメイトか世界かの違いでしかない。もともと全方位ぼっちである俺にとって、それは誤差だ。あってないようなものである。
ただ、いくらハブられるのに慣れていると言っても、家族にすら置いてけぼりを食らっていたのは堪えた。あの小町がもうすぐ高校受験だという。俺だってこの前終わったばかりのはずなのに…。
『えっと、そういうのは考えてる余裕なかったです。ぜんぜん冷静じゃなかったし──』
高一の春にいきなり二年分の記憶を失う──これが一体どういう意味をもつのか、ちょっとだけ考えてみて欲しい。
あったかもしれないイベントやラブコメ的展開。青春の代名詞とも言える高校生活のメインディッシュが全て無かったことにされ、終わったばかりの高校受験の次に待ち構えるは大学受験…。そりゃもうブラック企業も真っ青の過密スケジュールだ。
この事実を両親に告げられた時の俺が、幸いにも生き延びられたことをちょっとばかり後悔したからって、そうそう責められる事ではないはずだ。
しかし、そうして地を這っていた俺のメンタルは、とある人物によって一瞬で衛星軌道まで打ち上げられた。さっきからスマホに映っている、こちらのお嬢さんだ。
『あの時はとにかく必死で──あ、はい。お世話になってる先輩なので、なるべく早く良くなって欲しいです』
耳の後ろをくすぐられるような声色で、固めのはにかみを見せる、画面の中の女の子。マイクを向けられて、一生懸命マスコミの質問に答えている。彼女は最近ネットを(そしてごく一部の住民を)賑わせている、スーパーJKだ。
何でも、ナイフで刺されて大出血した男子生徒に対し、自らも血塗れになりながら適切な応急措置を施術、見事にその命を救ったのだとか。なるほど確かに、とても同じ高校生とは思えない。度胸と愛嬌を兼ね備えた女性主人公だなんて、まるで流行りのドラマみたいではないか。
ただ世間的に…というか主にネット民の反応としては、その偉業を差し置き、主にルックスに対する反応の方が顕著であるように思えた。ソースはこれ、今も目の前を流れ続ける数多のコメントである。
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この子は俺の嫁 むしろ俺の嫁むしろ俺の妹
prprしたい prpr prpr prpr
prpr prpr ビッチかわいい prpr prpr
ちな総武高 ↑処女だろjk 誰か凸ってこい
prpr prpr ↑厨乙
千葉ハジマタ ゆるふわ美少女降臨 prpr
prpr prprみんなごめんな俺の彼女だから
prpr 太ももでオギャりたい
↑通報しました
ピーナツ美人ww 千葉ディスる香具師は氏ね prprさせろ
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何でもいいけどprpr多いな。どんだけ舐めたいんだよ気色悪い。あと千葉ディスるやつは逝ってよし。
けどま、お前らの気持ちも分からんでもないよ。うん、これは仕方ない。
庇護欲を掻き立てる小柄な体格。
柔らかなピーナッツ色──もとい、亜麻色の髪。
薄いメイクでも存分に映える、あどけないながらも整った目鼻立ち。
ゆるふわ清楚系って言えば通じるだろうか。ちょっとムカつくくらい可愛い、というのが第一印象だ。驚くべきことにこの女の子、
これほどの圧倒的美少女力に晒された
…で、ここからが本題。
実は彼女、驚くべきことに、俺の知人であるらしい。
この時点で十分過ぎるほどに「妄想乙ww」なのだが、より正確にはただの知人ではなくて……改めて言葉にするのはキツいな。アレがアレ過ぎて心が痛い。暗黒時代の自作ポエムを音読させられているようだ。だって自分でも未だに──
「ただいまでーす♪」
動画に流れていたトーンをじっくりコトコト煮込んだような、甘ったるい声。ノックと共に病室の入り口から聞こえてきたそれを耳にした俺は、慌てて動画のブラウザを落とし、何食わぬ顔で相手を迎えた。
「…おう。お疲れ」
「むっ。今なにか落としました。アダルトサイトですか?」
部屋に入ってくるなり俺の行動を目敏く見咎めた声の主。ブレザーを白いコートですっぽり包んだ小柄な女子だ。それは先程の動画でコメントの弾幕に埋もれていた人物、その人だった。コートを脱ぎながらトコトコと歩み寄ると、カバンを床に下ろしてスツールにぽふんっと腰を下ろす。座面には、幾分ヘタれた安っぽいクッションがセットされていた。
「人聞きの悪い。わざわざこの時間帯を狙って危険を冒す必要がどこにある」
「わーこのひと全然反省してなーい♪ データ通信解約してもーらおっ」
「すいません冗談です」
断じてエロなど見ていない。見ていないけど全面降伏だ。俺は素直に両手を上げた。
下手に機嫌を損なうと、こんな冗談半分の脅しすら現実になりかねない。少なくともこの御仁、その程度にはスマホの契約主──つまりは俺の両親に対し、発言力を備えているのである。
彼女はふにゃっと眉尻を落とすと、俺のベッドに顔面ダイブを敢行した。かき乱された空気と共に、人肌に温められた甘い香りがふわりと立ち上る。
「はー、疲れましたー。せんぱーい、わたしちょお疲れましたー」
「毎日こっち来るからだ。疲れてるなら真っすぐ帰って休んでいいんだぞ」
「違いますー、疲れてるから来てるんですー。…ふへぇ~生き返るぅ~」
彼女は俺の手を取って自分の頭の上に据えると、その上から自分の両手を重ねて気の抜けた声を上げた。ベッドに鼻先を埋めつつ、ひとっ風呂浴びているかの様な愉悦の吐息を漏らしている。
一見すると、俺が女子の顔面をベッドに押し付けている──拡散されれば炎上不可避の、この光景。けれどもこれは、
俺が命を救った女の子。
俺の命を救った女の子。
ネットに数多くのにわか信者を擁し、
俺になでなでを強要している、亜麻色の美少女さん。
名前は一色いろは。
俺の「彼女」である。
* * *
時刻は午後の六時を少し回ったところ。
既に日も落ち、蛍光灯の明かりが室内を照らす中、鼻をくすぐるような愛らしい声が、
「──で、今日はついにそのグループとお昼を一緒することになったんですけどー、これが案外話が合うっていうか、わりと盛り上がってですねー」
「マジか。そう思ってるのはお前だけってオチじゃないよな」
「そういう
夕方になるとこの病室にやってきて、花瓶の水を変え、俺の冴えない相槌を肴に取り留めもない事をつらつらと話し、面会時間の終わりと共に帰っていく。それが俺の知る、一色いろはという女の子の、平日の過ごし方だった。
時の人である彼女が、どうして俺ごとき虫けらの為にプライベートの大半を費やしているのか。そこには当然、やんごとなき理由がある。彼女にとって俺は正真正銘、"恩人"なのだ。
事の発端は、ボランティアで人助けをしていた俺の部(ここからして違和感が酷いのだが先に進むとして)に、この子が転がり込んできた事だった。御覧の通りの見てくれだったので、変な男に粘着されて困っていたところに紆余曲折あって、最終的には俺がナイフで刺される超展開に。
証明問題の証明部分をごっそり端折られたような雑な説明だが、実は俺もまだあまり事細かには聞いていない。まあ聞いたところで納得できるかどうかは妖しい話である。大体、高校で唐突に護身術デビューを果たしたとも思えないし、凶器相手では勝ち目など皆無だったはずだろうに、俺氏は一体何がしたかったのだろうか。もしも無為無策で挑んだというのなら、同じ八幡として「アホなの?」と突っ込む他ない。と言うか実際に声に出してしまい、ダイジェストを語っていた小町から真顔で睨まれたりしたのが、つい先日の話である。
そんな火サスみたいな事件が、よりによって千葉随一の進学校で起きたというのだ。小町の語りをありのまま受け入れるのは、比企谷家のさすおにと呼ばれたこの俺でもかなり骨が折れた。ネットを冷やかした感じ、
それでもやっぱり、俺が「身体を張って女生徒を守った」という美談の方は、どうしても府に落ちない。「比企谷八幡がストーカー行為に及んだため、成敗された」の方が、余程しっくりくるというものだ。
(ぐ…い…てぇ…)
時おり脇腹を襲う、きりりと引き攣るような感覚。教えられた
刃物で腹を裂かれて、しかも内臓まで達していたのだ。ぬいぐるみじゃないのだから、針と糸で縫い合わせたところで無かったことにはならない。しばらくこの痛みと付き合っていかなければならないのかと思うと、どんどん気分が滅入ってくる。本当に、どうしてそんな命知らずな真似をしたのだろう。失われた二年間の中で、妙なヒロイズムにでも目覚めたのだろうか。
「──先輩?」
「…ん…わり。一瞬眠くなった」
事あるごとに走る痛みに思わず顔をしかめたくなるが、それを目の前の女子にバレないようにするのが、入院中の俺に与えられた唯一の仕事である。
「今日はもう休みますか?」
「いや、まだいいわ。昼間とかほとんど寝てんのに、何でだろうな」
「傷の回復ってけっこう体力使うそうですから。眠かったらいつでも寝ちゃってくださいね」
そうそう、傷と言えば──。
損傷した内臓というのは主に大腸のことだったらしく、手術こそうまく行ったものの、はみ出した内容物が腹部に広がったため、感染症をこじらせれば死に至る可能性もあったのだそうだ。医者の話を理解した俺は、心底震え上がった。
だってさ、医学的にはそれらしく聞こえるけど、つまりは腹の中でウンコを漏らしたって事じゃないですか。ナイフに耐えてもウンコに殺されてたら世話ねーよ。そんな業を背負ってあの世デビューとかハードル高すぎだから。口コミだとお化けにゃ学校も試験もないそうだけど、苛めがないとは言ってないし。生き残れてホントに良かった。
ともあれ、これだけ大きなトラブルがあったのだ。別世界の住人である彼女が俺なんかの病室に足しげく通っている摩可不思議な現状も、その恩返しだと思えばギリギリ納得出来ないでもない。ただ、俺達の間には恩義以外にもう一つ、無視できない関係性があった。
「──でも予習とかちょおダルいじゃないですかー。クラスで話せる女子も全然やってなくてー」
(…………)
相も変わらず楽しげに話し続ける彼女に返事をしながら、ちらりと脇に目線を投げる。その先にある俺の左手はいつも通りだ。特に汗もかいていなければ乾燥もしていない。
「そしたらですね、先生が当てようと──……?」
彼女はおしゃべりに夢中のようでいて、意識の中心を常にこちらに向けている。ぼうっとしている分には放っておいてくれるが、何かに注意を向けていれば、必ず追いかけてきて確認する。甲斐甲斐しくて、可愛らしくて、ほんの少しだけ鬱陶しくて…。高性能なアシストAIってこんな感じなんだろうか。
俺の目線を追って、しかしその先に特別変わったものを見つけられずにいた彼女に、話の続きを促してやった。
「…で、先生が?」
「…でー、先生が問題当ててくるじゃないですか。その度に忘れたフリが──ってそーだ!わたしも忘れてました!」
おもむろにゴソゴソと傍らのバッグを漁る。取り出したるは瓢箪にも似た形状の果物だ。
「じゃーん。実は今日、洋ナシ買ってきてるんですよー。許可もちゃんともらってます。どうですか?」
「…悪いな。んじゃありがたく」
「はーいよろこんでー♪ ではではー、ちょっと失礼しますねー」
彼女は腰を上げ、
そう。彼女はこの病室にいる間、ずっと俺の手を握っているのである。小さくてスベスベの、俺の体温よりちょっとだけ冷たい指。握っていればすぐにぽかぽかと温かくなり、手離した瞬間、ゾッとするほどの寒気を感じてしまう。雪のように白いシーツの上にぽつんと取り残された自分の手を、俺は妙な心持ちで一瞥した。
「…………」
× × ×
初めてこのスキンシップを求められた時、言うまでもなく俺は死ぬほど恥ずかしがり、戸惑い、心臓を鳴らし、リアルに滴り落ちるほど大量の手汗を流した。ベタベタを通り越してもうビショビショ。自分でもドン引きの
『汗をかくってことは、生きてるってことですよ』
一層強く手を握り込み、彼女は嬉しそうに笑ったのだ。
『何でこんな…』
『先輩のこと、大好きだからです』
本来、比企谷八幡が続けるべき次の言葉は『嘘つけ』なのだが、その台詞が実際に俺の口から出ることはなかった。出せなかったのだ、物理的に。
『…んっ』
『んむっ!?』
彼女宣言の際に貰った3連発に続く、通算4度目の打ち上げ。彼女の行動は常に、全てを疑ってかかろうとする俺の、一歩も二歩も先を行っていた。体現される感情は、嘘や冗談で済まされる領域をとうに踏み越えている。それに──
(事情はどうあれ、一生の宝だろ)
たとえ詐欺や罠だったとしても、こんなのは拒めない。
こんな可愛い子が健気に尽くしてくれるのだ。抵抗とか無理に決まってる。
これほどに甘美な毒ならば、いっそ飲んで死ぬのも悪くない…。
とうとう悟りへと至った俺は、理性的な追及を諦め、剥き出しの好意に対する抵抗力の大半を放棄してしまったのである。
納得はしていない。理解も及んでいない。頭のどこかは常に冷やかだ。それでも彼女を遠ざけることが出来るほど、俺の心は平常ではなかった。
ほぼ二年──これまでの人生にして10%以上。それを失ってしまった事が恐ろしくて、でも、誰に泣き言を言えばいいのかも分からなくて。だからこそ、こうして確かに触れている彼女に、伝わってくる火傷しそうな程の情動に、必死に取り
× × ×
「食事制限、はやく明けるといいんですけどねー」
物思いに耽る俺をよそに、彼女は制服の上着を脱ぎ、壁に掛けられたエプロンへと手を伸ばした。目で追って、ふと、それがこの部屋に持ち込まれた日のことを思い出す。
彼女がバッグからそれを取り出した瞬間、俺は思わず「何それ」と漏らしてしまった。だってそうだろう、いくら個室とはいえ、料理をするほどの設備もスペースもないのだし。けれども、そんな何気ない突っ込みを聞いた彼女が一瞬だけ見せた感情に、俺はぎょっとさせられた。いつも楽しそうに笑っていた顔が、今にも泣き出しそうにくしゃりと歪んだのだ。
次の瞬間には笑顔に戻っていたが、あんなものを見てしまった後で「持って帰れ」などと言い出せるはずもなく──それから今に至るまで、壁の一角に堂々と居座っている。
「洋ナシって、お菓子にするともっと美味しくなるんですよ。タルトとか」
「リキュールに漬けるアレ?」
「ですです。普通にパウンドケーキに入れるだけでもちょお美味しいですしー。今度作ってあげますね」
「なに、ケーキとか作れるの? すごくない?」
「他にも色々と。退院が待ち遠しいですね~?」
彼女はしばしばそれを身にまとい、こうして術後にも食べれられる様な果物なんかを饗してくれる。世界に軟禁されているような気分の俺にとって、それはひどく心安らぐ時間だった。
無味乾燥な病室にひょっこりと咲いた、てんで場違いな一輪の花。このエプロンを片してしまったら、彼女がもう来なくなってしまうんじゃないか──そんな妄想さえするようになっていた。
それに、こっ恥ずかしい感情論を抜きにしても、これで案外いいインテリアだったりする。白一色で味気なかった病室の壁に、ライムグリーンの布地が少なくない彩りを与えてくれるのだ。
そんなこんなで、今となっては引っ込めてもらう理由など何ひとつ見当たらなかった。
「しかし相変わらず、反則的だよな…」
制服エプロン。もう名前からしてチート臭が香しい逸品である。か細い腰にするりと帯紐を回し、後ろ手に蝶々を結ぶ可憐な姿。控えめに言って最高かよ。
裸エプロンが事実上ファンタジー世界の住人である一方で、制服エプロンとは確かにその恩恵にあやかる事が出来る
「え? なんですかー?」
「いんや、なんも…」
「…ふふっ」
白のブラウスを包むパステルカラーがスレンダーな体型を浮かび上がらせ、裾からはチェックのスカートがヒラヒラと視線を誘う。こんなん童貞じゃなくても瞬殺されるわ。むしろレベル1デスだわ。
どう見ても今風ガールの彼女が、エプロンを纏うだけで清楚指数3倍増し。原理はさっぱり分からないが、きっと名のある概念礼装に違いない。垢抜けているのに清楚。二つの相反する要素が今、ここに共存していた。
「~♪ ~~♪」
彼女は小さな鼻歌を奏でながら時折チラリとこちらを伺い、自らに向けられる視線を再確認する。そして満足げに目を細めては、果物ナイフを滑らせるのだ。その手の平でくるくる踊るフルーツに今の自分を見た気がして、要らない負け惜しみが口をついて出てしまった。
「いつもありがたいけどさ、わざわざエプロンって要る?」
折角俺のためにやってくれているというのに、なんと余計な一言だろうか。しかし彼女は手にしたナイフを左右にチッチッと揺らして──危ねえな!──余裕の笑みをもって答えた。
「分かってませんねー。こういうのは雰囲気が大事なんです」
「雰囲気、ね…」
「だって可愛くないですか?」
クイっと小首を傾げる仕草は、一つ間違えればただ痛いだけだ。けれども彼女は一つたりとも間違えはしない。こんな露骨なアクションに反応するのは悔しくもあるのだが、つつこうにも重箱の隅に至るまで、粗ひとつ見当たらない。どこからどう見たって、やっぱり可愛いのである。
「そういうの見せる為に、わざわざ着るん?」
「そういうのを見て欲しくて、わざわざ着るんです」
ちょっとした言い回しさえ、いちいち理性を切り刻む。こちらの考えを見透かしたような上目遣いがこそばゆくて、俺は天井を睨む勢いで視線を上へと逃がした。
「…その色は…嫌いじゃない、けど」
「ぷっ…でしょうね…ぷぷっ…」
「へ?」
「いえいえ。わたしのお気に入りですから、当然です」
お気に入りと言えば──
この色、確か小町も好きなんだよな。こんな色のパンツ履いてんの、前に見たことあるし。
ライムグリーン。和名で言えば
証明終了。
俺は悪くない。日本人の血が悪い。
* * *
本日は土曜日。
翌日もお休みという至福の一日であり、誰もが夜更かしに歯止めをかけられない日だ。だが、通学の義務を免除されている今の俺にとって、言うほどありがたいものでもない。
苦痛をデフォルトに設定することで、ニュートラルを幸福だと錯覚させられている哀れな現代人。知りたくなかった、こんな真実。滅びろ
ただ、この変わり映えしない病室の閉鎖環境にも、休日なりの変化というものはあった。普段は夕方しかいない人物が、一日中入り浸っているからだ。今日も今日とて、彼女はこの部屋に朝から顔を出していた。呆れたことに弁当まで持参して。もうどっちが入院患者なのか分からない。
「ここ! ここに文字入れられるんですよ。"H to I"とか。ちょお可愛くないですか?」
「刻印ねぇ…」
「HからI…まるでアルファベットのお勉強だな。次はちゃんとJの人に回せよ?」
そしてJの人が
「なんでそういうこと言うんですかー! バツとして先輩がプレゼントしてください」
「…最初からそう言ってるでしょ」
随分世話になっているから、礼の一つもさせてくれ、と──。
細々と世話を焼いてくれる彼女にそう切り出してからというもの、今日は一日中こんな調子だった。
彼女は「お礼だなんて」みたいなめんどくさい遠慮は一切言わず、それはもう大喜びで品定めを始めた。あちこちのWEBサイトを絶え間なく梯子し、ひたすら可愛い可愛いと頬を緩めている。本人楽しそうだからいいんだけど、なんで指輪オンリーなんだろう。ペンダントとかブローチってオワコンなのかしら。下手な見栄を張らずに自分で選ばせたのは正解だったな。
「あ、これ! わたしこれ系ちょお好みですー!」
「んじゃそれで」
「なんですぐ決めちゃうんですかー。もっともっと悩みましょうよー」
「何時間掛ける気だよ…」
ついさっき、選ばせて正解だと思ったが、やっぱりそうでもなかったらしい。とかく女の買い物は時間が掛かるものと言うが、寝転がっているだけの俺の方が先に音を上げることになるとは。
時計を見れば、短針は彼女の出勤時刻から既に半周を過ぎていた。冬の太陽は帰宅部ばりに逃げ足が速い。既に日差しは勢いを失いつつあり、冷たい風が窓を揺らしている。家路を送ってやることも出来ない身の上としては、少しばかり据わりが悪い。
「なあ。暗くなるし、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか」
「えー? なんでですかー、まだ夕方ですよー? むしろこれから本気出します」
「夜行性かよ。うちのカマクラ見習え。あいつ夜もちゃんと寝てるんだぞ。昼もだけど」
「イヌかネコかっていうなら、わたしって断然ネコだと思いません? にゃー」
「………………っ」
油断してたところに一色流ねこ☆ぱんちが炸裂。しかも萌え袖エンチャント。
脳がぐわんぐわんと揺さぶられる。
可愛いなこんにゃろうぎゅっとしたいナデナデしたいもっと色んなことしたい──。
あらゆる葛藤を奥歯で砕いて飲み干して、余裕の振る舞いを見せる紳士がそこにいた。
「…はいはい、にゃーにゃー。でもほら、今日はこれから冷えるらしいぞ。氷点下」
「あ…ごめんなさい。ご迷惑ならすぐ帰ります」
ケラケラとおどけていた彼女は突然、叱られた幼子の様に居住まいを直した。普段はふてぶてしいくらいなのに、たまにこういう顔をするから迂闊に強く出られない。何か地雷でも踏んでしまったのだろうか。
「いや、迷惑とかは全然ないけど…」
「ホントですか…? なら良かったですー」
ふーやれやれ、と再度リラックスモードにシフトする彼女。仕切り直してんじゃねーよ。
「てか、一色は大丈夫なワケ? 今日だけじゃなくて、色々と。俺の相手ばっかしてたらさ…」
「………………」
「一色? 一色さーん? もしもーし? 聞いてるー?」
俺との距離はおよそ1メートル。聞こえていないはずもない。やがて彼女は不意に顔を上げ、ついっとこちらを向いた。
「先輩」
心なしかいつもと違う声音に、ドキリと心臓が音を立てた。スマホを手放し、彼女は真正面から俺の目を見つめてくる。すぐさま目線を逸らしたものの、顔面に振り注ぐ熱視線の圧力が弱まる気配は微塵もない。
「なんで名前で呼んでくれないんですか?」
「え」
この数日の間でしつこいくらいに繰り返されていたこの要求。名前で呼んで欲しいという、彼女であれば当然のお願いを、俺は未だ叶えてやれずにいた。
「いや、だからそれは…」
「わたし、先輩の彼女です。あなたの恋人です」
「それは、まあ、うん…。そう、ですね…」
最初は「嫌だ」「恥ずかしい」の一言で一蹴していた。しかし次第に頻度が高くなり、それでも「お前」だの「一色」だのと呼び続けていたのだが…今日の彼女は適当にあしらうのが困難なくらい、前のめりだった。直視するのも恥ずかしくなるような単語を並べ、自分達の繋がりが特別であることを繰り返し主張する。
「彼女のこと名字で呼ぶ人、居ませんよね?」
「それ言ったら、彼氏のこと先輩って呼ぶヤツも──」
「それはいっぱい居ると思いますけど」
「………そうですね」
むしろ憧れの呼び方ランキングで常連っぽい響きですね。まあ普通は
「そもそも前って名前で呼んでたの? 俺に限ってそれはないと思うんだけど」
「……………」
どうせ俺には分かりゃしないんだから、「名前で呼んでいた」と返ってくるかと思ったのだが…。意外にも、彼女は目を逸らして黙りこんでしまった。案外、根は正直な子なのだろうか。
「違うんだろ? だって俺は死んだじいさんの遺言で、女子を下の名前で呼んじゃいけないことになってるからな。今みたいに名字で呼んでいたはずだ」
「へーそーなんですかー。でも亡くなってるならバレないから平気ですよきっと」
どうしてそこまで固執するのだろう。そりゃ、世間一般ではそうするものだって常識くらいはある。俺だって内心、そうしてみたいという憧れがないわけでもない。羞恥心と彼女の機嫌を秤に掛けるのならば、折れてやってもいいとは思っている。
ただ、少しだけ気にかかるのだ。うっかりココアを焦がしてしまったかのような、甘味に混じった僅かな苦み。彼女の態度の奥に、微かな焦りのようなものを感じていた。全身全霊で気持ちを表してくる相手に対して、些細な要求すら突っぱねてしまうほどの強い抵抗でもないのだが──。
「呼んで欲しいです。今すぐ。いろはって」
キシッとベッドの軋む音に身体が固まる。傍らを見れば、彼女はいつの間にか俺の間合いの内側まで急接近していた。嗅ぎ慣れた香りが一際強くなっている。体温を感じるほどの至近距離から甘痒い声が届き、
「ね…? 呼んでください……じゃないと…べろちゅーの刑ですよ…?」
何それこわい。まんじゅう超こわい。
意識の底で感じていた不確かな苦みが、ひとまわり濃くなったような気がした。それでもなお、甘露な誘惑は
「いいんですか…? しちゃいますよ…?」
「……ここで呼んだらそれ、嫌がってるみたいだし…」
「あは…その返し、ずるいです…。するしかなくなるじゃないですか…」
さっきより大きく、ベッドが音を立てる。
蛍光灯の光を亜麻色の影が遮っていた。
零れ落ちたやわらかな髪がさらりと頬をくすぐり、痺れるような感覚が腰を駆け抜けていく。
「────いろは」
流されまいとする理性が言わせたのか、単に感情のままに零れた言葉か。
酩酊感に任せて口にしたその名は舌を心地よく震わせ、彼女の大きな瞳が感情に潤むのがはっきりと目に映った。
「うれし…い……うれしいです……」
刑罰はいつしか褒美へとすり替わり、陶酔に溺れた瞳には妖しい光が色濃く満ちる。
彼女はもう止まらない。名前を呼ばれようと、呼ばれなかろうと。
「……すき…です……だいすき……」
小さな手を俺のそれに重ね、そっと押さえつける。壊れ物を扱うかのような繊細さと、逃がしはしないという無慈悲さを伴った手つきは、まな板の上の鯉に添え手をする料理人を思わせた。
目前に迫った瑞々しい唇に、触れ合う前から記憶が刺激される。思い出すのは
「……せん…ぱい……」
瞳の色。
くすぐったい声。
甘い香り。
暖かな体温。
柔らかい感触。
五感の全てが、一つの色で染められていく。
捕らわれた羽虫のように、俺はまた、貪られる快楽へとこの身を投げ出した──。
え、朝チュン? はっはっは、ご冗談を。
この作品が更新をまたぐ時に、何もしないとでも?
なお、次話からは有料コンテンツとなります(嘘)