そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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いろはすが使いそうにない表現がしばしば混じってしまいますが、彼女の国語力を上限にすると、頭軽い文章にしかならないので(酷
この辺のバランス感覚が難しいです。

キモ男の名前は適当に路線から。
同姓の方、他意はないので何卒ご勘弁下さい。


■1話 世界に八幡ただひとり

 休み明けっていうのは、いつだって気が重い。

 

 総武高校は県内でも有数の進学校。ただでさえ高い授業のレベルはわたしの身の丈に合っているとは到底言えなくて、おまけに生徒会の仕事なんてものもある。

 

 あ、一応わたし、この学校の生徒会長さんなので。

 うんうん、よく言われるんですよー、信じられないって。

 まーそうですよね、わたしも未だにちょっと信じられませんし。

 

 そんなわけで、クラスの女子が雑誌片手にネイルの話で盛り上がってるのを横目に、次の朝会で披露するトークのネタを必死に搾り出している月曜日。

 

 …おっかしいなー、わたしもあっち側のはずだったんだけど。

 どうしてこうなったんだっけ? ちょっと整理してみよう。

 

 ん。どっかの先輩のせいですね。整理おわりー。

 

 

 この状況を勧めてきたすべての元凶。

 あのひとのこと、逆恨みしかけたりもしたっけなー。

 けど、カッコつけて「自分から乗せられてあげます」なんて台詞を吐いた手前、引くに引けなくて…結局そのまま今に至るって感じ。

 

 でも…最近はまあ…そこまで気が重いってことはない、のかな。何ならむしろ楽しんじゃってるかも。たぶん、仕事内容とか、メンバーとの距離感とか、そういうものにやっと馴染んできたんだと思う。

 

 

 一年の女子が会長という事実への風当たりは、まだまだ弱いとは言えなくて。

 

 クラスでも、うまく溶け込めてるとは言い難い。

 

 難問だらけ、ハードな毎日。

 

 だけど、学校に来ればあのひとが居るんだと思うと、仕方ないから覚悟決めて行こうかな、なんて思ってしまう今日この頃なのでした。

 

 

 さってと! 今日はなんて声掛けようかなー。

 いやいや、まずはあの部屋に顔出す理由を考えないとだよね。

 

 浮ついた思索に耽っていると、今日も頭のどこかからか、冷ややかに蔑むような声が聞こえてくる。

 

(葉山先輩にフラれたばかりで、もう他の男の子に夢中なんだ?)

 

「う~・・・」

 

 そう、最近の悩みはコレ。

 

 いくらなんでも、切り替え早すぎじゃない?って話ですね。

 

 そりゃまあ、うじうじ悩んで引きこもるよりかは健全かもだけど。それにしたってどうなんだろ、この軽さ。今となってはフラれたショックより、大して気持ちが塞がなかった事の方がショックなくらいだよ。

 

 ま、そっちはあんまし深く考えないようにはしてる。

 

 先輩と居ると楽しい。

 好きか嫌いか聞かれれば、それは迷わない。

 でも、それなら、わたしは新しい恋をしているのだろうか。

 

 ──わかんない。

 

 今まで惹かれてきた男の子とは、何もかもが違って。

 感じている気持ちだって、全然違って。

 これが何なのか分からないけど、少なくとも今までとは違うってことだけは分かってる。

 

 ──よくわかんない。

 

 ──ただ、消してしまいたくない。

 

 だから分かるまで、わたしはやりたいようにやろうと思う。

 

 

* * *

 

 

 野暮ったい、けど待ちに待ったチャイムが鳴り響く。全ての生徒を祝福する、授業の終わりを告げる音だ。本日の授業、これにてオールクリア。

 

 うう…今日もついていくのがやっとだった…。一年の今からこんなんで大丈夫なのかなあ。生徒会長なんてやってる場合じゃなくない?

 あんまり勉強も得意くないし、いっそ先輩に教えて貰えばいいかなぁ。

 

 …あ、意外と名案?

 うんうん、それなら勉強も悪くないかも。

 

 身体と頭はクタクタに疲れているけど、わたしにとってのお楽しみは正にこれからが本番なのだ。荷物をカバンに詰め込む手捌きさえも、心なしか軽やかに感じる。

 

「昨日の残りは…まあ副会長にでも押し付けてっと」

 

 例の部室に遊びにいくための算段をしていると、不意にわたしに向けられる視線を感じた。

 

「い、一色さん」

 

 顔を上げると、見覚えのある男子が目の前に立っている。

 

「うん?」

 

 この人、たしか夏の終わり頃に、帰り道で待ち伏せしてて、急に告白してきた男子だ。たしか…中原くん…だっけ?一応同じクラスのはず。

 

 その手の経験は初めてじゃなかったけど、あれはけっこう参っちゃったなあ。だって同じ教室で毎日顔をあわせる相手だよ? いくら特別な感情が無いっていっても、やっぱりやりにくいじゃん。

 

 そんな相手にも関わらず名前がうろ覚えなのは…えへっ☆ 察してほしいなー、なんて。

 

 んでね、ついでにもう一つだけ言わせて貰うと──

 

 ものすんっっごく、キモいんだよね、目つきが。

 

 特別フケツっぽいとか、ちょおブサメンだとかいうんじゃないんだけど。あれかな? 生理的にナイっていうやつなのかな。見られてるだけで気分が悪くなるし。

 

「気持ちは嬉しいんだけど」なんて決まり文句を言わなければ良かったのかなー。

「気持ちが悪いんだけど」って言えたら楽だったんだけどなー。

 

 あれっ? そう言や、そんな罵声を素で浴びせまくってる相手も一人いたっけ。あはは、酷いなーわたしも。

 

 ま、先輩にはあれだけ言っちゃってるけど、実際のとこガチでキモい相手に直で言ったり出来ないんだよね。言ってもあの人のゾンビちっくな目つきは(ギリギリ)笑って許せるレベルだし、そもそも先輩って、あれで根っこは熱い人情家っぽいんだよね。

 

 そういうネタ的な意味じゃなく、目の前の彼のは根本的に「アブない」目つきってヤツなんだと思う。

 

「ちょ、ちょっと聞きたいんだけど」

 

 話したくない。

 というか、近くに居たくない。

 よーし、奉仕部に避難しよ! そーしよ!

 

 背筋を走りまわる嫌悪感を隠して、にこぱーっと営業スマイル展開。

 

「ごめーん、ちょっと用事があってー、すぐ生徒会室いかなきゃなんだー」

 

 これでたいていの男の子は引き下がってくれる。

 

「あ、あいつと、その、つつ、付き合ってんの?」

 

「え?」

 

 あなたと話をする気がない、という言外のアピールは、残念ながら通用しなかったみたいです。

 それどころか、彼はとんでもないモノをわたしに投げつけてきた。

 脈絡も主語もない──けれど威力だけは無駄に高い──好奇心という火が引火したバクダンをだ。

 

 あちこちに散らばりざわめきでしかなかった教室内の視線が、わたしという一点に縛られるのを肌で感じた。

 

 うわ…一瞬で教室の中が変な空気に…。

 

 あーこれ。対処間違えたらヤバいヤツだ。

 

「急にどうしたの? だれの話?」

 

 きょとん、とした顔。こんな感じでどお?

 

 じょぶじょぶ。ちょっと驚いたけど、この程度のトラブルはぼちぼちあるレベル。ぜんぜん対処できる範囲だ。

 

「あいつだよ、2年の。最低野郎って有名じゃん」

 

 あーはいはい。なるほどなるほど。だいたい分かりましたよー。

 

 こないだの先輩とのデートのことか。

 

 別にお忍びって意識じゃなかったし、誰かに見られたんだなー。この、友達少なそうな男の子の耳にも届いてるってことは、もうかなり拡散しているって考えるべきかな。

 

 まーね。それはいいよ。

 

 ウワサになっちゃいましたねー。てへり☆

 そう言って片目を瞑れば、先輩はどうせ苦笑いひとつで済ませてくれるから。

 

 それはいいけどさ。

 

「…最低野郎ってなに」

 

 っとぉ! かなーりフラットな声でちゃった。

 貼り付けてる営業スマイルとのギャップでエライことに…。

 

 だってさー。悪意隠そうともしないからさー。

 ついつい反応しちゃった。てへりこ☆

 

 やははー。

 でもでもー、ちょーっとだけ、マズったかなー。

 

 くーるだうん。くーるだうん、おーけー。

 

 辛うじて顔まで強張ってないのは、日ごろの鍛錬の成果だね。面の皮が厚いって陰口は、なかなか良いとこ突いてるかもです。

 

「だってその話、有名じゃん。一色さんも聞いたことあるだろ?」

 

「あー、まあ。あのひと、悪目立ちするしね」

 

 中原くん(仮)はわたしの声色の変化に気付かなかったみたいで、一歩踏み込んでまくし立ててくる。

 

 この強気な物言い…もしかして、写真か何かが出回ってるのかな。

 ならリスクを考えると、ここで下手に否定するのは逆効果になるかも。

 

 だったら──

 いっそ肯定しちゃって、その程度なんでもないってアピっておこう。まーた同性からの好感度が下がりそうだけど…。

 

「でもでもー、こないだのはそういうんじゃないしー。だいたい、一緒に外歩いただけでそう言われたら、戸部先輩まで彼氏候補になっちゃうしー」

 

 『あはは! とべっちととか超ウケる! 絶対ないしー!』

 

 『それは流石に同情を禁じえない、辛辣な誤解ね』

 

 一瞬、よく知る二人の声が聞こえたような気がした。

 

 こういう時、女の子同士のチームワークがあれば、そんな風に笑い話に流せるんだろうけど…。今の状況に介入してくるような物好きは、もちろん我がクラスに居るはずもありませんよーっと。

 

 はぁ…。あの二人がいたら余裕なんだけどなぁ…。

 

 しっかし、わたしってほんと、泣けてくるほど友達少ないよね。誰一人としてフォローしてくれないし。

 

 ──ってか、まさかとは思うけど、戸部先輩にも手を出してるとか思われてないよね? 今のもジョーダンに聞こえない、とか?

 

 え。待って、ちょっと待って。

 それだけは許せない勘違いなんだけど。

 何をおいても正しておきたいんですけど。

 

「いや、付き合ってないにしてもさ。あ、アイツだけは関わらないほうがいいって言うか」

 

「えっと…」

 

 噂だけ聞いていれば、確かに先輩は極悪非道のクズ男かもしれない。それくらい、ご大層な噂が一人歩きしているのは分かってる。そしてその一部──いや大半が事実であろう事もだ。

 

 それでもわたしは実際に知っている。

 あのひとは、理由も無くそんなことをしない、と。

 きっと噂になるくらい酷いことを、しなければならない状況だったのだ。

 

 それに何より、噂というレベルで言うんなら、わたしの噂だって相当のものだ。彼に負けず劣らずのレベルで構内を闊歩しているに違いない。

 

 あ、そうだ。

 生徒会長で、しかもルックスもそれなりのわたし。

 わたしがいま彼を上手いこと庇えば、先輩の評価をひっくり返せるんじゃ──

 

 そんな考えがふっと浮かんで、けれど次の瞬間には笑い飛ばした。

 あのひとは図太くて、孤独で、自分の評判を気にしない。またどこかで誰かのために、もっともっと凄いことをやらかしてしまうかも。

 だったら、ここでわたしが騒ぎ立てるのは筋違いだ。

 

 先輩は気にしていない。

 わたしも噂は気にしない。

 

 おっけー。この場はスルーしちゃおう。

 

「とにかく、特別なことはなにもないよー」

 

「だ、だったら、もう、あ、アイツには近づかないって、約束してくれ!」

 

 ──は?

 

 なんでだよ。

 なんでお前にそんなこと約束しなきゃいけないんだよ。

 

 おっとっと! 一瞬素に戻りかけちゃった、いっけねー☆

 

 しかし中原くんとやら。これまたイヤな暴走の仕方してくるじゃん。

 ここでわたしが「実はいま先輩に興味津々なんです☆」なんてカミングアウトした日には、何しでかすか分かったもんじゃないよ。

 

生徒会と奉仕部の関係知らないくせに(テメまじ関係ねーだろ)酷い事言わないで(すっこんでろボケ)

 

 ふーむ…。理屈から言ってこの一言は通るハズ。

 

 けど、こういう興奮状態にある相手に対して正論で対処すると、ロクでもない居直りや更なる状況の悪化が起きうるのだという事を、わたしは実体験から知っている。

 

 とりあえずは感情論が入らないよう、事務的な側面からやんわり拒否ってみよっと。

 

「あのね? 先輩には生徒会でお世話になってるし。多分これからも一緒にお仕事するだろうから、しばらく付き合いはあると思うよ?」

 

「でもさ! し、心配なんだよ! 俺、まだ一色さんのこと諦めたわけじゃないし!」

 

 うえぇ…。

 さすがにこれには作り笑顔も曇るわー。

 

「…えっと。でも、そういうの、困るっていうか──」

 

 マジでキモいっていうかー。

 

「なんかアイツと関わってから帰るのも遅くなったよね。クリスマスの前くらいから。さすがに海浜とのイベント中は仕方ないと思って黙ってたけど」

 

「ちょっ…なんでそんなこと知ってるの?」

 

 別に隠していたわけじゃないけど、いちいち行動を把握されてるのは気味が悪い。

 

「だって俺、いつも一色さんが帰るの玄関で待ってて、家まで見送ってるから」

 

「…え」

 

 一瞬の沈黙。

 

 そして彼が言ったことの意味を理解したとき、わたしの身体に鳥肌がざぁっと立つ音を聞いた。

 

 無意識に、あるいは意識的に。

 少しでも彼から距離を取ろうとして、身体が後ろに反っていく。

 

「や、やだ…っ! じょ、冗談、だよね…?」

 

「いや、ホントだって。あ、雨の日だって頑張ってるぜ!」

 

 誇らしげに主張する姿は、まるで憧れのお姫様のナイトにでもなったかのよう。

 一方わたしの頭の中では、真っ赤なサイレンが警報と共にぐるぐる回っている。

 

 毎日、見張られてた…?

 家の前まで…?

 じゃあ、家の場所も知られてる?

 一日中、家でも学校でも、見張られてる!?

 

 もう気持ち悪いなんて生易しい次元じゃない。

 

 単純に「怖い」。

 

 青ざめて言葉を失ったわたしを見かねたのか、クラスの男子が割って入ってきた。

 

「中原ー、おま、マジそれストーカーっしょ。通報したら冗談抜きで逮捕されるレベル」

 

「ああ? んだよテメー。出来るもんならやってみろよ! 俺の父さん県警のお偉いさんだから余裕だし?」

 

 注意した男子に対して歯をむき出し、唾を散らして怒鳴る。その態度も口にした内容も、どちらも正常とは思えない。

 

「い、いや、そういう問題じゃねーし…。つかコイツ、目ェヤバくね?」

 

 周りの空気も、傍観から警戒へと色が変わってきた。

 

「んだよ、どうせおまえも一色さんのこと狙ってんだろうが!」

 

 中原くんはわたしとその男子の間に立ち塞がるようにすると、こちらを振り返って言った。

 

「い、一色さん、大丈夫、俺が守ってあげるからっ」

 

「―――っ!」

 

 粘着質なその声を聞いた瞬間、わたしは机の上のバッグをひったくると、声も上げずに廊下に飛び出した。

 

 怖い──

 怖い──

 怖いッ──

 

 助けて、先輩ッ──

 

 

 気が付けば、わたしの身は凍てつく空気に満ちた廊下にあった。

 その冷たい風を切って、息を荒げて駆けていく。

 

 後ろからさっきの声が追いかけてくるような気がして、何度か振り向き、つんのめった。

 

「…っ!」

 

 踏ん張って体勢を立て直し、固まりそうな脚を更に動かす。

 すれ違う、事情を知らない生徒たちの好奇の視線が、わたしに無遠慮に突き刺さってくる。

 

(なにあれー、超必死っぽい)

(生徒会長様が廊下を全力疾走とか)

(まじウケるし)

 

 うるさい! ばか、ちっともウケない。

 ううん、それどころじゃない。

 

 あの部室へ。

 奉仕部へ。

 

 もう、それしか頭には浮かばなかった。

 

 

 ちなみに──。

 これは、後で気付いたことなんだけど。

 

 その時間、間違いなくグラウンドで部活に励んでいるであろう葉山先輩に助けを求めようという考えは、なぜだか一瞬たりとも浮かばなかった。

 

 

* * *

 

 

 ノックも忘れ、スライド式のドアを力いっぱい引いた。

 

「せっ、先輩、せんぱいっ!!」

 

「んぉっ!」

 

 相変わらず澱んだ目つきでこちらを振り返る先輩。

 …ええと、これは驚いてる──で合ってるんだよね?

 

 死人が間違って起き上がってしまったような、そんないつも通りの彼の姿を見て、急に肩の力が抜けるのを感じた。戸を握り締めた手に、べっとりと冷や汗をかいているのに気付く。

 

「な、なんだ、どした?」

 

「や、やっはろーいろはちゃん。何かあったの?」

 

 見知った先輩たちの顔。

 聞きなれた声。

 

 あ、ヤバ…。

 安心したら、急に脚が震えてきた…。

 

「……あ、その…」

 

「…とりあえず中入れよ。そして閉めろ、寒い」

 

「…あ、ども、です。えと、お邪魔、します…」

 

 ハンカチでこっそり手汗をぬぐいつつ、暖房の効いた部室へと身体を滑り込ませた。

 

 ゾンビに追われて建物に逃げ込んだ人の気持ちって、こんな感じかな。逃げ込んだ先にもゾンビが居るって、なんか映画みたいで可笑しいな、なんて。

 

「…随分と慌てていた様子だけど。何事?」

 

「えと、はい、まぁ、あの、その…」

 

 何といったらいいのか。

 何から説明したらいいのか。

 

 この部屋に入って安心はしたものの、まだ頭がパニックから抜けきれていないみたい。

 声を掛けてくれた雪ノ下先輩はじっとこちらを見ていたけれど、ふと手にした文庫本を閉じると、静かに席を立った。

 

「まあ、お掛けなさい。お茶くらいはご馳走するわ」

 

 その言葉はいつもより一回りほど優しげで、わたしが平常ではないことを見抜いているみたいだった。

 さすがです、雪ノ下先輩。

 

「その。いつもすみません…」

 

「そう思うなら少しは遠慮しなさいよ」

 

 あんまり興味なさそうな声の先輩。こんな慌ててるわたしを見てもぜんぜん動じていないのにはちょっぴりショック。

 あ、でもよく見たら、本を閉じて読書を中断してた。やっぱり、気にしてくれてるんだ。

 

「ぶう。べつに先輩、お金も手間も掛けてないじゃないですかー」

 

 言いながら、空いている椅子をずりずり引っ張ってきて、先輩の左隣──教室の入口の反対側へと陣取った。

 

 わたしの定位置はここじゃない。

 けど、様子がおかしいことを察してか、その事を指摘する人は居なかった。

 

「…手間は元より、金を掛ける理由なんて微塵も思い当たらんし」

 

「そんな事ないです。ちょっとのお金で可愛い後輩の歓心が買えるんですよ? ちょおお買い得じゃないですか」

 

「あら、比企谷くんにおもてなしの心を期待しているのなら、それは無駄というものよ。彼の世界には彼ひとりしか存在していないの。他者の存在が無いのだから、歓待という概念だって成立しようがないのよ。悲しいわね」

 

 コト、と丁寧にわたしの前におかれた紙コップ。

 あったかい琥珀色の液体が湯気を立てている。

 

「あ、いただきます」

 

 カップに触れると、手がかじかんでいた事に気付いた。

 両手で持って一口含む。

 

 はー。おいし…。

 

「世界に八幡ただひとりってどんな実話だよ売れねーよ。つか、ちゃんと俺以外も居るからね。ほら、戸塚とか小町とか。あと戸塚な」

 

「ぜんぶで四人しかいないんだ…。しかもさいちゃんが二人…」

 

 相変わらず先輩を弄ることで成立しているこの空間。わたしにとってもすごく居心地がいい。

 

 それにしてもこの…ね。弄られている先輩を見つめる、結衣先輩の目がね。

 足を滑らせてひっくり返った子犬でも見てるっていうか…同情一つとっても、彼女が先輩に向けるそれは、根本的に温度が違うんだよね。分かっちゃうとこれ、もうすっごい露骨なの。

 

「あら、それって四捨五入したらゼロじゃないの。ごめんなさい、最初から誰も居なかったのね」

 

「俺の世界なのに俺まで居なくなっちゃうのかよ。まぁその方が良いかもな。世界に人なんぞ居なければ、悲しみもまた生まれてはこない」

 

「いえいえー、わたしは悲しいですよ、先輩が居ないと」

 

 いちいち俺にまでアピらなくてもいいから、と雑に手を払ってみせる先輩。

 

「もー、だから素ですってばぁ」

 

 わりと本音ですし。

 昼間のこともあって、今はあんまし先輩の自虐ネタは聞きたくないかんじなので。

 

「あ、あたしも悲しいし!」

 

 いやー結衣先輩のそれは、アピール通り越して好き好きオーラにしか見えないんで。も少し遠慮してくれないと、勘違いっていうか先輩が暴走しちゃいそうで心配です。

 いちおう年上なんだけど、なんか微笑ましいなー。

 

「っていうか──」

 

 むーっと可愛くむくれた結衣先輩が、不満げに豊かな胸を揺らす。

 

「あたしやゆきのんも入れてくれたっていいじゃん。ヒッキーワールド」

 

 ねぇ?と振られた雪ノ下先輩はというと

 

「別に…。私は遠慮しておくわ。何だか空気が悪そうな世界だし」

 

 とそっぽを向いていた。

 先輩の世界に入れて貰えなかったのが寂しかったのかも。まるで、構ってもらえなくて拗ねちゃった猫みたい。

 

 

 そんなこんなで、コップの紅茶が半分ほどになったところで「こほん」と雪ノ下先輩が小さく咳払いをした。

 

「それで──この世に比企谷くんの居場所がない件はさておき」

 

「さておくには致命的過ぎる議題じゃねえの、それ」

 

「そろそろ一色さんの用件を伺おうと思うのだけれど」

 

「何があったの?」

 

 思い出すだけで身震いしそうだけど…。

 うん、今は充分落ち着いてる。

 これなら話せそう。

 

「実は…」

 

 わたしは姿勢を正して、教室での出来事を報告したのだった。




適度な量で話を区切るってのは、案外と難しいものですねー。
何文字くらいが読みやすいのでしょうか。

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