瞬きを一つ、二つ。そしてゆっくりと三つめを刻んだ後、目を大きく見開く切嗣。
理不尽な怒号を向けられているのは他ならぬ自身らしいと彼はようやく理解した。肩を震わせながら対峙する少年は、その視線を切嗣から“しろう”へと移し、眉間に刻んだ皺を更に深くする。
「――――シロウ、か。あぁ、もう畜生! そういうことかよ。だから」
「おい坊主、急にどうした?」
「どうしたも、こうしたもっ!」
宥めるライダーへヒステリー気味へと噛みつく少年は、ライダーのマスター。名はウェイバー・ベルベットだったかと切嗣は記憶を巡らせる。
「しってるひと?」
幼いとはいえ、向けられた理不尽な敵意は察しているのだろう。瞼をせわしなく擦る彼は切嗣へと身を寄せながら問いかける。
「……少しだけね」
小さな肩を抱きとめながら切嗣は答えた。無論データ上でなら知っている。だが直接の面識はなかった。少なくとも向こうは衛宮切嗣が聖杯戦争に関わっていること自体知っているはずもない。下手をすれば「魔術師殺し」の名さえ知らない様な素人魔術師だったはずだ。ならば初見で「アンタ」呼ばわりされるような原因は、彼女しか思い当たらない。
「貴様が衛宮切嗣で相違ないな?」
「あぁそうだ。アイリが世話になったみたいだな。こちらも色々あって迎えに行けなかった。すま――」
「そこの子供のせいだよな」
謝罪を遮り、少年は俯き加減で呟いた。
「どんな思いでアイリスフィールがアンタを待っていたと思っているんだ。なのに、当の本人は隠し子と遊んでいるなんて。どこまで裏切れば気が済むん――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 隠し子だなんて誤解だ!」
思わぬ批難の口上に慌てた切嗣の方が今度は口を挟む。傍から見れば確かにそう見えない方がおかしい状況だ。舞弥との不倫という形でアイリスフィールを裏切っていたのは事実だからだ。しかしその不倫さえも、やがて訪れる決別の時のための予行演習であり、決して本心から望んだ行為ではない。ましてや隠し子を儲けるだけの心の余裕など、切嗣は持ち合わせていなかった。
「妾を囲うのは漢の甲斐性ではないか。そんなことで気を立てんでも」
「時代が違えば倫理観も違うんだよ。ややこしいからオマエは黙っててくれ!」
少年はライダーの弁を金切り声で封殺する。理性よりも感情が先走っているのを必死で彼も押さえようとしているのが切嗣の眼にも見て取れた。切嗣も落ち着いて話そうと一つ深呼吸をした後に再び口を開いた。
「この子と僕は何の血の繋がりもない。偶々バーサーカーの魂食いに巻き込まれていたところに遭遇して保護しただけだ。事後処理のために駆け付けて来た教会に、預け次第すぐにそちらとコンタクトをとる予定だったが」
「こう言っておるが、坊主よ。勘違いだったということはないか?」
切嗣の筋の通った弁を聞いたライダーは首を幾度か縦に振る。納得した彼はウェイバーを諌めようと切嗣を弁護しようと試みた。しかし当の本人は靴底で足元の雑草を捩じり切りながら、一つのキーワードを忌々しげに吐き出した。
「エミヤシロウ」
この第四次聖杯戦争における最重要事項とも呼べるであろう言葉に対し、場に居る各々の反応は様々だった。しろうは首を傾げ、切嗣は眉をひそめ、ライダーは重力をなぞる方向に口元を弛緩させた。
「ライダー、覚えているだろう? アイツと同じ名を持つ子供が目の前に居る。それがどれだけの確率だと思う?」
「はははッ!もはやそれは偶然とは呼べん。必然であったか。だがそれなら、あの妙に見透かしたような態度も納得が行く」
巨木の幹の様に厚く固い手が、少年の背中へと勢い良く叩き付けられる。
「おい、馬鹿! ったたたっ、止めろってば!」
前へ転げそうになっている彼は制止を要請するが、すぐさまもう一つ、景気の良い音が追加された。
「よくぞ気が付いた。やはり我がマスターは優秀であったか。流石この時代で英霊に至れるだけあるな!」
「なな、なっ! オマエ……気付いてたのかよ。でも、オマエの臣下になってるとか色々と腑に落ちないところがありすぎて」
「余も今確信したところだがな。アレは貴様の可能性の1つに過ぎん。それ位に考えておけ。良くも悪くも、今の坊主は今の坊主だ」
「……なんだかなぁ」
突然糾弾されたかと思えば、切嗣には理解不能な会話を始め出した主従。必要足る情報を持っていない切嗣であったが、“しろう”と切嗣が先程の隠し子騒動と異なる形で問題となっており、その内容が盗聴対策の欠片もない状態で軽々しく話していい事でないことだけは確かだと考えた。更に言えば、この冴えない少年が英霊に至る可能性も眉唾ものだが、その考えに至った根拠が見えない。アイリスフィールの引き渡しについても話さなければならない以上ここに居るのは得策ではないはずだと切嗣は判断する。
「さっきから会話に付いていけないんだが、それは教会に聞かれてもいい内容なのか?」
遂にに痺れを切らした切嗣が場所を一度変えないかと口を開き、ごくごく当然の提案に二人は無言で気まずそうに頷いた。
× ×
「ほう。この白いのは砂糖だったか。センベイの塩っ気が繊細な甘味を引きたてておるのか。悪くない」
煎餅を豪快に齧る音が、早朝から重い空気を漂わせていたウェイバーの部屋に響く。そして、いそいそと次の包装を開けながらライダーは切嗣に質問を投げかけた。
「この時代、いや特にこの国の食文化は驚嘆することばかりだ。受肉した暁にはまずニホンの料理人を臣下に加えねばならんな。貴様、そういえばこの国の出身と言っておったな。腕利きの料理人を引き抜きたいのだが、どこか良い店は知らんか?」
アイリスフィールの現状、大きく変わった勢力図、そして教会前で繰り広げられていた推論の詳細。押し寄せて来る情報の洪水に呑まれ、しばし無言であった切嗣もようやく口を開いた。
「生憎とね。ボクはあまり食事には興味がないんだ」
「食に興味がないと……随分と損な生き方をして来たのだな」
「必要とされる栄養が取れればそれで十分だ。迅速ならなお良い」
哀れむように目尻を下げるライダーに対し、溜息混じりで答える切嗣。両者のやりとりを聞いていたウェイバーも、彼に続けるように溜息を一つ。そんなウェイバーの頭を押さえ付ける様にしながらライダーは新たなプランを持ちかける。
「ではマスターよ。昼は景気づけを兼ねて街の有名店を一通り征服しに行くとするか」
「なんでそうなる!? どれだけ勝手にボクの財布を使うつもりなんだオマエは。昨日だって山ほどタコヤキを買ってきたばかりだろう!」
ウェイバーは昨日の手痛い出費を思い出し、その細い左腕でライダーの手を跳ね除けながら憤慨してみせるがライダーは意に介さない。
「サーヴァントの腹を満たすのもマスターの甲斐性ではないか。タコヤキか、アイリも気に入っておったようだしな。うむ、あそこの店主をまずは臣下に――――」
アイリの名に反応した二人が目に入り、途中で言葉を濁すライダー。気まずい沈黙を埋めようと、彼はそれぞれへとソレを投げて寄こした。
「ほれ、貴様らも食え。腹を空かせては頭が回らんだろう」
「あぁ、そうだな」
「ありがたく頂こう」
切嗣は固く焼き上げられた煎餅を両手で割った。半月状になったソレを手に持つと、ゆっくりと奥へと押し込んでいく。いつも好んで食べているファーストフードとは違う。飲み込もうにも特有の固さがそれを許さないのだ。
食べているときは無言でも間が持つ。助けられたと思った切嗣だったが、それは違った。彼の左手に残る半分の煎餅を与えるべき人物が今この場にいないのだ。無論その相手とは、下の階で老夫婦に世話になっている未来の養子らしき少年の事ではない。切嗣にとっての本来の家族の事だ。
アイリは煎餅の味を知らない。クッキーとは違う食感に喜ぶであろう彼女の顔は容易に想像できるが、それを実現させることは容易ではない。
ましてやイリヤに至っては煎餅やタコヤキはおろか、外の世界のことを何一つ体感することが許されていないのだ。アインツベルンとの約定を果たさねば、イリヤは一生籠の鳥のまま。それは父親として、彼女の母親であるアイリの夫として、決して許されないことだ。だが今の自分にはこの状況を打破できる力はない。
「……煎餅なんていつ振りだろうな」
舌先の上に残るのは塩味の奥にある柔らかな甘み。それが消えきらないうちに、残りの半分も彼は口へと押し込む。
救いようがないほどに致命的な失敗をしたし、さらなる失敗を知らぬ間に見逃しもした。独りよがりな思想よりも本当に大事なものを、セイバーが倒れた後には気付いていたはずなのに。なのに今のこの様はなんだと、切嗣は自らに対して憤る。
まさかそんな事になっているなんて……切嗣は喉元まで出かかった言葉をグッと腹の底へと押しこめる。そんなこと無責任なを言っても状況は何一つ好転しないのだ。自己の怠惰により状況は刻々と悪化しているが、まだ取り返せる位置に居るという様に思いなおす。
アイリを連れ去ったのはサーヴァント2騎を抱える上に、強力なマスターが“最低でも”二人いることが分かっている陣営だ。“切嗣と舞弥だけ”では状況を打開できる可能性は万に一つも残っていない。
「ボクはアイリスフイールへの義理を充分果たしたと思っている」
ウェイバーは煎餅を先に食べ切っていたようで、唐突に彼は短い言葉を発した。
「残っている陣営で同盟を組んでいないのはボクたちだけだ。魔力の無駄遣いが許される状況なんかじゃない」
力を貸してくれと懇願する前に釘を刺された形である。ライダー自身は強力だがマスターであるウェイバー自身は非力だ。だが非力ではあるが、それが分からない程に彼は愚かな人間ではない。この手の人間を動かすには「本心」に従わせるための建前が必要だ。だからこそ建前として、切嗣は「とある情報」を提示した。
「あぁ理解しているとも。だから教えよう――――聖杯の使用には、アイリスフィールが有する技術が必要だ」
これは魔術師同士の等価交換ではない。ただの騙し合いだ。決してアイリスフィール自身が聖杯であることを誰にも知られてはいけない。故に切嗣は巧みに嘘を言の葉に織り込む。幸い相手は御三家とは無関係かつ未熟な魔術師であり、隣の英霊も魔術に疎い。それを切り口にするしかないと切嗣は判断する。
「アインツベルンは他の陣営が聖杯を使えないように細工をしていたというわけだ。これなら例え敗退しても他の陣営の勝利もありえない。あの老害たちが考えそうなことだよ」
「その細工がある事を奴等は知っておったということか。それならば倉庫街での狙撃や、夜のことも説明が付く」
「僕は家族が無事ならばそれで良い。アイリスフィールを奪還する代わりに、聖杯の使用を補助しよう」
「アンタがそれで良いならこちらも願ったり叶ったりなんだが、どうにも……あだぁっつ!! 何するんだよオマエ!」
歯切れの悪い言葉でライダーの顔色を伺うウェイバーに対し、デコピンで一発喝を入れた様だ。デコピンと言えども巨人とも言える体躯から繰り出される一撃である。相当な威力であることがみみず腫れの額から容易に想像ができる。
「坊主、何を迷っておる! 答えはもう自らの中にあるのだろう」
「言われなくても分かってる。情が移ったのは認めるよ。損得なしでもきっと動いていた」
やけくそ気味に唾液混じりの声を飛ばす少年と、ますます笑みを深くする巨漢。裏表のないこの二人を眺めながら、彼らを味方にすることができた幸運に切嗣は感謝する。アイリスフィールの奪還後、この主従の目を潜って海外へと脱出。戦力を整え直して、イリヤの救出を行う。それ以外に道はない。
「きっとその細工の存在がアイツらにばれたから攫われたんだろう? なら行動を急がないと不味い」
「あぁ。動くなら今夜しかない。幸い別で動いている僕の部下がアイリの居場所を掴んでいるはずだ。手持ちの戦力をお互い確認して策を練ろう」
「策、と言ってもできることは余りなさそうだけどな。アンタが何らかの陽動をしている間にライダーが奇襲して奪い返すと共に離脱」
「それが一番安牌と言ったところか。でも一捻り必要だな」
両者腕組みしながら首を捻るが余り建設的な案は“言葉に”出て来ない。
「ここはいっそ、ランサーの言う通り正々堂々と身柄を賭けて決闘するか……それはないな。細工の話を流してアサシンとアーチャーをぶつけると、逆に難易度が上がりそうだ」
「アーチャーからライダーは敵視されているみたいだからね。混戦に持ち込んだ場合でも危険は高い」
成功する可能性はどれもゼロではない。しかし固い策とは言い難い。もちろん三人とも分かってはいるのだ。彼らの陣営にとって最も重要な存在がこちらの手元にある事を。
「最悪の場合、こちらで強制契約書の用意も可能だ。だがあくまでも最終手段と考えてくれ。相手は複数だ。裏をかかれる可能性も少なくない。僕の養子なら、きっとその手の対策も仕込んでいるだろうしね」
「貴様の技能はおそらく全て奴に見通されている、そう考えるべきか」
「だよな。だから未来から来たアイツに手の内がばれていない方法を――――未来、か。そうだ。ライダー!」
何かを思いついたのかウェイバーはライダーに対し次々と質問を浴びせかける。そうして得られた情報から新たな切り札を彼らは一枚得ることに成功した。彼らはその後半日を費やし夜への決戦へとその身を投じることになる。
× ×
「舞弥、そちらの準備は万全か?」
『はい、滞りなく。しかしやはり目標は帰還していないようです』
「それでも構わない」
『了解。では、いつでもどうぞ』
闇夜に溶け込むコートを風になびかせ、切嗣は指定場所に待機させていた舞弥と最終確認を行う。自身はウェイバーと共に戦車の荷台で構えている。
「ライダー、ウェイバー、君たちが要だ。僕らの命、預けるぞ」
「あぁこのイスカンダルに任せておけ」
「アンタこそその花火ってやつ失敗するなよ」
「勿論だ。では始めるぞ」
そう言った切嗣は手に持った携帯電話でとある番号を打ち込む。その着信先はC4プラスチック爆弾へと接続されたポケットベル。夜の静寂を引き裂くのは、着信音ではなく数多の断末魔。
「ほ、ホテルが、えっ!!? ホテルが崩れた!? おい、これはいくらなんでも……」
「敵の工房を潰すのに何の容赦が必要だ? 宿泊客の避難は確認済みだ。神秘も絡んでいないから教会も手を出せない」
「うむ、問題ないな。何とも景気の良い狼煙ではないか! まぁ少し勿体ないがのぅ」
崩れ落ちる瓦礫の弾幕、巻き上がる粉じんの渦。冬木ハイアットホテルがあった場所に今あるのはそれだけだ。
「問題大ありだっ、この馬鹿ぁ!! アンタもやり過ぎだっ! でもあのマンションからもかなり近いし、この光景は見えるはず。行くなら今しかない。駆け抜けるぞライダー!」
「応、だが待て。魔術師よ、急に手を抑えてどうしたのだ」
斜め上の事態に半ば常識を投げ捨てたウェイバーであったが、ライダーの指摘で隣の切嗣の様子がおかしい事に気が付く。現象は一目了然だった。しかし理屈がわからない。二人以上に切嗣はもっと戸惑っていた。
「何で……また令呪が僕の手に!?」
痛みと共にその手に再び刻まれたのは覚悟の証。世界を救う一画の光であった。