.hack//SAO FIFITH Crisis 作:かなかな
Side; Net 二〇二二年十一月六日 第一層『はじまりの街』
未だに、はじまりの街の広場では、プレイヤー、いや、生きている人々が右往左往していた。事の現実感を素直に飲み込めず、当り散らしたり、ただ泣いたり、反応は様々だ。
その、荒れ狂うまでの、感情の波の中。
不敵に笑う男が一人。
「なるほど、晶彦も中々面白い事を思い付く……」
周囲の不気味なまでの感情の発露など、彼にはそよ風なのだろうか。異常なまでに冷静に、いっそ何も感じていないかのような調子で男は笑っている。
左手の全てを、覆い隠すような鋼鉄製のギブス。首を覆う青いマフラー。全体的に青い色をした男は、黄昏の中にあって尚、異様な存在感を放っていた。
この絶望的な状況の中にあってなお、男は異様とも言えるほどに落ち着いていた。
「まったく、実に、困った男だ……」
言葉では、困っていると言っているが、まったく持って、声音にも表情にも、困惑しているようには思えない。寧ろ、楽しんでいる。笑っているかのような、そんな風に見える。
その彼の傍を、悲痛な顔をして、すり抜けていく柔らかな印象の少年。
街の外へと脚を急がせる彼を見送った大男は、赤い巨人が消えた黄昏の空を、再び見上げた。
どうせ、監視されているに違いない。
鼻に掛けるだけのサングラスの奥から鋭い眼光を覗かせ、男は語る。
「なるほど、つまり、これは俺とお前の勝負と言うことか」
その勝負の始まりが黄昏とは、何とも粋な演出である。
おそらく、茅場晶彦は、丁度、この時間に宣言をするべくスケジュールを組んでいたのだろう。彼も天才だが、そんな風に思考を巡らせる事が出来る自分もまた天才なのかもしれない。そんな風に男は独りごちた。
「いいだろう。その勝負、受けて立とう」
地面まで届きそうな青いマフラーをはためかせ、男は歩き出す。
「愛奈の件、俺が清算していると思ったら、大間違いだ」
歩くたびに、カチャカチャと金属同士が触れ合う、無機質な音が鳴り響く。
男は、すぐに走り出した。
先程、過ぎ去った少年を見つけ出すためである。
幸いなことに、少年はすぐに見つかった。粗末な皮の胸当てに、また粗末な長剣を備えている。街の外に出た瞬間、現れたモンスターを一撃で屠っていた。
「中々、素晴らしい腕前だな、少年」
「!」
男が、歓声を持って話し掛けると、少年は、バネ仕掛けのように振り返った。
まるで少女のようにも見える線の細い顔だ。その顔が明らかに警戒の視線を向けている。
「あんたは?」
「何、大したものじゃない。少々、君に頼みたいことがあってね」
警戒感からか、少年は剣を構えた。
この命賭けのゲームには何故か、PK(プレイヤーキラー)システムが搭載されている。つまりは、自分以外のキャラクターを殺す事が出来る。極限状態に陥った人間が、どんな行動を執るのか。自由すぎる世界で彼は実験したいのだろう。
「頼みたいこと?」
「君は、βテスターだ」
その言葉は、少年の精神を激しく揺さぶった。
「その淀みない動き方。迷いのない走り方。テスターでなければ出来ないだろう」
「だったら、どうだって……」
「私を隣の村まで案内して欲しい」
少年は、しばし考え込んだ。
繰り返すが、これはMMORPGである。つまり、他人を案内するのが、精神的にノーマルな上級者の務めと言っても良い。だが、デスゲームとなった今、彼らも生き残りに必死だ。いかな場所に危険が潜んでいるか、解ったものではない。
「いや、俺は、さっき……」
「知っている。初心者のチューターを請け負って、その彼と彼の仲間を置いてきた事は」
「!」
少年の剣を握る手が緩くなる。
「いや、俺は……」
ドンと男は、少年に詰め寄った。あまりの恐怖と威圧感に、剣を構えなおすが、それより先に、男の切先が、少年の頭を掠め、後ろの狼モンスターを貫いていた。腹を抉るように貫かれたモンスターは、微塵に砕けて、ポリゴンとして世界へ帰っていく。
「何、案内してくれるだけでいい。こう見えて、腕には覚えがあるんでね」
「……なら、迷わずに着いてきてくれ」
「感謝する」
そう言って、少年は歩き出した。
一度だけ振り返って、尋ねる。
「そういや、あんたの名前聞いてなかったな」
「俺か?」
「他に誰がいるんだよ?」
「オーヴァンだ」
「そっか、俺はキリトだ」
そんな短い遣り取りを終え、黄昏の空の下、キリトの案内で隣の街へと急ぐ。
Side; Real 二〇二二年十一月六日 埼玉県 桐ヶ谷和人の自宅
「和人は!」
三十分後、亮は、桐ヶ谷家に飛び込んだ。
出来るだけ、信号無視をしないよう、警察のご厄介にならないようにと、必死になって東京から、埼玉まで飛ばしてきたのだ。ヘルメットを脱ぐ間もなく、玄関を開けた。
家の中では、直葉が青ざめた顔で泣いていた。
母親である桐ヶ谷翠も、気丈に振舞って入るが、今にも泣き出しそうなのは、間違いない。父親が帰宅していないが、この調子ならば、すぐにでも帰ってくるだろう。何故か、そんな風に冷静に亮は考えていた。
「和人は?」
もう一度、息を落ち着かせて、泣いたままの少女に尋ねた。
「亮さん……」
普段、見せることのない泣き顔。
彼女の頬には、幾筋もの涙の跡があった。
「部屋……、二時間だけ回線切断の猶予を与えるから、その間に病院へ移せって……」
事実上、彼らは植物状態である。
生きてはいるが、意識の無い状態。
意識全て、オカルテッィクな言い方をするならば、魂、霊魂が、ゲームの中に取り込まれた状態なのだ。これでは、外部から一切の手出しが出来ない。
本体破壊、電源切断、回線切断、どれを取っても、黒い騎士の兜を脱いだ瞬間に、被っている少年の魂は、電脳世界で、霧か霞の様に儚く消え去る。
彼の容態を見て亮は素早く、電話を取り出し、番号をプッシュした。
「もしもし、火野か?」
掛けた相手は、困惑したような素振など微塵も見せる事無く冷静に応対してきた。
その様子に、亮は幾分苛立った空気を発しながらも、用件を伝える。そして、手に入れた情報を二人に渡す。
「この番号に掛けろ。知り合いの名医のいる大学病院だ」
「でも、お金……」
「気にすんな。何とかなる」
確証はないが、何とかなる。
今は、そういうしかなかった。その結果、自分がどうなるのか、ということもうっすらと亮は予想が着いていた。絶対に使うことの無い緊急回線を使用したのだ。そのリスクくらいは重々承知している。その上で、助ける為に使ったのだから。
そのまま動かなくなった桐ヶ谷和人の体は、病院へと担ぎこまれたのである。こんな体験などした事がない救急隊員にコードの外し方、そして、病院へと付き添い、ネット回線の配線も整えた。
後は、神に、祈るしかない。可能性に、賭けるしかない。
無事に彼が現実世界へと帰参する事を。
Side; Net 二〇二二年十一月六日 第一層《ホルンカ》
周りを見回しても、誰もいない。
辿り着いたのは、都市のような街並みだった、《はじまりの街》とは打って変わって、牧歌的な雰囲気の漂う農村だった。瑠璃色の空の下、良い匂いが漂っている。
「ここが、《ホルンカ》だ」
言われた通り、オーヴァンと名乗った男を次の村まで、キリトは案内した。
道中は、確かに平坦な道ではあったが、困難な道でもあった。低レベルとはいえ、大勢で襲い掛かられたら、一溜まりもない。現に何度か、狼や猪の群れに襲われた。
何度も、死にそうになった。恐らく、クラインやその仲間を連れていたら、彼らと一緒に、キリトもこの世界からサヨウナラを告げねばならなかっただろう。
「何、助かったよ」
だが、無事に着いた。
キリト自身の力もあるが、何よりも気になるのが、このオーヴァンという男だ。
鋼鉄のギブスに左腕を包み、青いマフラーを巻いた大男。どこで、こんなアイテムを手に入れたのだろうか。疑問は、尽きない。持っている剣も、片手剣だが、どこか、キリトの持っている剣、市製品の《スチールソード》とは違う。この付近の村やモンスターからは落ちそうにない、青い刀身をしたサーベルである。
何よりも、その技術。どこかの中世の騎士様が乗り移ったかのような剣裁きは、とてもではないが、今日、初めて、ゲームをプレイする初心者には思えなかった。
「キリト。君は、これからどうする」
「俺は、これから、一つ、クエストを受ける。片手剣使うなら、あんたも受けるか?」
こういう利点があるのが、βテストプレイヤーだろう。
既に、踏破済みのマップにおけるクエストの位置や、発生条件などは全て把握している。それを利用して、この村に来たのだ。他にも色々な街や村はあるが、今回のクエストのために、キリトは一直線に、この寂れた農村を目指したのだ。
「いや、生憎と、この剣以上の品は、この世界には存在しないだろう」
「……?」
それは、剣への愛着なのだろうか。
不思議な言い方をする、オーヴァンを怪訝そうに睨みながらも、キリトはとある民家を目指して、歩き始める。何故か、その後ろをオーヴァンが付いてくる。正直、見上げるだけの身長差のある相手なので、多少大股で歩いても、直に追いつかれる。成長期の体が恨めしい。エディットした時は、すらっとした体型にしていたのに。
「何で、付いて来るんだ?」
「案内してくれた礼だと思ってくれ。俺も、そのクエストを手伝おう」
気にしていても仕方がないので民家に入る。手伝ってくれるというならば、素直に受け取るべきだろう。彼は怪しい雰囲気を纏っているが、悪いプレイヤーでは無さそうだ。
中に入ると同時、鍋をかき回していた、おばさんNPCが此方を振り向き話しかけてきた。
「今晩は、旅の剣士さん。お疲れでしょう」
ありがちな会話の切り口。
だけども、何だか、悲しそうな顔をしていた。
「食事を差し上げたいけれど、今は何もないの。出せるのは一杯のお水くらいのもの」
「それで構わない」
キリトが、そう返事をすると、おばさんは水をカップに注ぎテーブルに置いた。
一気に飲み干すところを見届けると、NPCは、料理の準備にと、台所に戻っていった。
暫く、待っていると奥の部屋から咳き込む声がした。NPCの女性が肩を落とし、それから数秒すると女性の頭上に金色のクエスチョンマークが点灯した。
クエスト発生の合図。このマークを浮かべているNPCに話しかけると、クエスト開始だ。
「何か困ったことが?」
そうNPCクエストの受諾フレーズを口にすると、頭上のクエスチョンが点滅し始め、話しかけてくる。
「旅の剣士さん、実は私の娘が……」
SIDE; Real 二〇二二年十一月六日 東京赤坂 NAB日本支部
急遽、降って湧いた出来事に、職員たちは上を下への大混乱だった。
「至急、アーガスへ連絡! プレイヤーの名簿を出して!」
その陣頭指揮を取るのは、佐伯令子であった。
薄黒のショートヘアーをガリガリと乱暴に掻いて、彼女自身も自ら、各地の店頭ゲームショップ、ネットショップの購入履歴などを確認して、必死に、手に入れた一万人のデータ収集に、尽力している。せめて、どこに居るのかなどが解らなければ、特に、一人暮らしの若者は、たとえ、ゲームの中で生き残ったとしても、身体が衰弱死するだろう。
だからこそ、ここの面々は、事件発生直後、日本国総務相に連絡を取り、病院の手配と一万人の捜索に、協力を依頼している。総相も最初は笑っていたが、NABが手に入れていた、すでに脱落している、二百十三名のうちの十人のデータを見せたら、笑わなくなった。
だが、一万人。
結構、大人数にも見えるが、日本の人口は、一億二千万人。比率で考えれば、一万位千分の一しかいないのだ。一校の国立大学の総学生数と、ほとんど変わらない。それを探し出すなど、正直、気の遠くなるような作業だった。
「急いで! 時間がないわ!」
Side; Real 二〇二二年十一月六日 神奈川県 横浜市 横浜港倉庫街
汽笛が聞こえる。
既に、東京湾は黒に染まっていた。
湾を挟んで対岸にある浦安のCC社のサーバー管理事務所は、どうなっているのだろう。ふと、十二年前のクリスマスの出来事を思い出しながら、佐藤一郎は、電話を受けていた。
「昴を始め、『紅衣の騎士団』を召集、ですか……、ヘルバ様」
『ええ、出来るだけ、カードは残しておきたいの』
電話の相手である女性は、クスクスと上品に笑いながら、そう言った。
ヘルバ。
本名は、佐藤も知らない。
いや、知る必要など、ない。
広い、広い、ネットの世界にもアンダーグラウンドがある。
決して、一般人は立ち入らない、立ち入ってはならない進入禁止区域。
その禁止区域に、悠然と、泰然と、君臨する女王。
それが、ヘルバという女だ。名前の由来は、とある詩人が書いた叙情詩の登場人物だ。彼女は、その叙情詩における「ヘルバ」をロールプレイしている。言った通りの闇の女王。ハッカーやチーターたち、そして、最早、本当にプレイヤーが居るのかどうかも解らないクズデータキャラクターたちを従える楽園の女王。
「しかし、今回の事件に、彼女たちの尽力が必要とは思えないのですが……」
佐藤は、疑問を、女王にぶつけた。彼もまた、女王の腹心であり、比喩表現抜きに闇の中に生きる人間だ。ネットの中では、嫌われるハッカーやチーターの類である。
そんな彼を持ってしても、ヘルバの命令は、疑問符を浮かべるべきものだった。
単なるネットゲーマーたち、よく知っている旧知の間柄とはいえ、を召集せよというのだ。彼女達は、ハッキングの知識も、技術もない、単なる一般人である。
とてもではないが、今回の、この事件。
一万人の意識をゲームの中に閉じ込めた、茅場晶彦には対抗できないだろう。
「それならば、ハセヲや、カイトを召集するべきかと思います」
『当然よ。彼らには、私から、直々に連絡を取っているわ』
「ならば、尚更」
『いえ、それだけでは足りないの』
反論する前に、ヘルバは強い口調で、遮った。
「足りないとは、どういうことでしょう?」
『過去を思い出してみなさい』
まるで謎掛けのような、禅問答のようなヘルバの言葉。
それの意味するところを、佐藤は図りかねる。
『彼女たちには、彼女たちの役割がある。特に、司には、ね』
「《黄昏の守護者》ですか……」
懐かしい名前を持つ少女までも、招聘するというのか。
確かに、義理がないわけでもないが、本当に彼女達は応じるのだろうか。
『この事件は、これだけでは終わらない』
いやにはっきりした口調で、ヘルバは告げた。
『その時に、備えて、彼女たちが必要なのよ』
「解りました」
プッと電話は、呆気なく切れた。
そして、佐藤一郎も、また、夜の倉庫街に消えた。
Side; Net 二〇二二年十一月六日 第一層 《ホルンカ》周囲の森
その後。
おばさんの話を聞き終えたキリトと、彼にあくまでも善意らしく付き合うと言ったオーヴァンは、森の中に入っていた。夕暮れ時の森は、既に、暗い。
キリトは、視界左に映るクエストタグのタスクが更新された事を確認し、入念な準備を整えてから、森の中へと分け入った。それほど、深い森ではないが、やはり、本能的な恐怖が、背筋を駆け抜ける。歩きながら、クエストの内容について反芻する。
クエスト名は《森の秘薬》、キーアイテムは《リトルペネントの胚珠》だ。
「リトルペネントという、モンスターを狩れば良いんだな?」
後ろを歩く、オーヴァンが尋ねる。
「ああ、その中でも花の付いた奴が標的だ」
「花か……」
「後、実が付いてる奴も居る。こいつは注意してくれ。実が潰れると、仲間を呼ぶ」
「それなら、注意しないとな」
何故か、後ろの大男は笑っていた。余裕か、それとも、また別の何かか。
森に分け入ってすぐに、視界に入ったのはチューリップが人喰いの化け物になればそうなるような異形。生理的嫌悪感を抱かずにはいられないようなフォルムだ。
そんなのが、ぞろぞろと湧いて出てきた。
三匹。
「噂をすれば、というところかな?」
「ああ、だけども、あれは普通の奴だな」
だが、普通だからと言って見逃すことはしない。この手のレアなタイプのモンスターは同種のモンスターを狩ると、出現率が増すのだ。勘を取り戻すためにも、戦うべきだろう。
先手必勝。
「吐き出す腐食液に注意してくれ!」
そう指示すると、キリトは背負った鞘から剣を振り抜き、一気に接近して斬りつけた。
敵のステータスを確認するとレベルは、キリトと同じ3。よって、敵とのレベル差で変動する、命中率や、ダメージの補正は、ほとんどない。そのまま、技術がダイレクトに勝敗を分けてしまう。
「ゲェ!」
不細工な掛け声とともに、不気味な植物が液を吐いてきた。
「避けてくれ! 腐食液だ!」
これだけリアルに創られた世界だ。
金属である剣で受け止めれば、即座に腐食して耐久値が無くなる。テスト時代には、この腐食液のせいで、キリトは何本も剣を買い換えねばならない羽目になったくらいだ。
まして、今のレベルで直撃しようものなら絶命は必至。プレイヤーに対しては、大したダメージにはならなくと、剣はすぐに潰れてしまう。
この世界は、既に単なるゲームではない。
どれほどに理不尽な状況に陥ろうとも、殺られれば獲られる代償は、現実の命なのだ。
挙げ句、まだ安全圏とは言い難い状況。少々の無理を押して、次の村へ来た代償は、その格段に高いリスクである。油断などしている時間も、理由も全くないのだ。
吐いてきたのは、一匹だけ。
「ハァッ!」
掛け声とともに、一閃。
弱点である、そのデカイ頭を支える茎目掛けてソードスキル《ホリゾンタル》を叩き込んだ。現状、使えるのは、この切り上げ技と、水平に薙ぐ《スラント》しかない。
相手の急所を目掛けて、攻撃を放ち、怯んだ隙に、空かさず、二度目。
「グェェ……」
「よし……!」
外見同様、嫌な声を上げて、植物の化け物は、ポリゴンを散らしていった。
「よし、次!」
他に二体。二撃放てば、十分に倒せるほど、敵の体力は少ない。数は出てくるが、対処を間違えなければ、問題ない。すぐに、次に映りかかろうとしたとき、既に、居なかった。
「兵は拙速を尊ぶだ。覚えておくといい」
オーヴァンが、ニコリと笑いかける。他にいた、二匹は、どうやら、彼が潰したらしい。
相当な、実力者のようだ。周囲を警戒しながら胚珠を持ったリトルペネントを探す。
Side; Real 二〇二二年十一月六日 東京都 新里大学病院
「バカトキオ……」
天城彩花は、ベッドで黒い拘束具をつけたまま、眠るバカを見下ろしていた。
ついうっかり、眠ってしまっていた。
夢の中では、もう一人の自分が、見ていて可哀想になる位の勢いで、泣いていた。とめどなく溢れてくる涙を見ていると、彩花も泣きたくなったが、ぐっと押し、堪えた。
事件が起こってすぐ、九竜トキオは、この病院へと担ぎ込まれた。何かと、自分たちには因縁のある会社が出資元なのだが、彼女にとっては、そんな大人の事情など、どうでも良い事だ。
今、彼女にとって重要なのは、目の前のバカが戻ってくる事。
無事に、死なないで戻ってくる事。
それだけ、だった。
「死なないでよね……、また、一緒に遊ぶんだから……」
また、零れそうになる涙を必至に押さえ込む。
泣かないで良い。まだ、泣かなくて良い。泣くのは、彼が死んだ時か、戻ってきた時だ。
九竜トキオが、無事に帰ってくる事を願いながら、彩花は、この病室を辞した。 階段を上がり、また別の人物が入院している病室へと入る。消音のドアは、スムーズに開いた。
返事はない。
「………」
真っ白なベッドの上に横たわっているのは、トキオとはまったく違う大男だ。
もう、五年間も、このベッドの上に横たわっているというのに、長期入院患者にありがちな症状が一切見られない。筋肉は衰えておらず、頬が扱けることもない。髪だけは、伸び放題だが、床ずれもせず、まるで、休憩しているだけのようだ。
いや、事実、休憩しているだけなのだろう。
五年前のあの事件以来、彼は眠り続けたままだ。
そして、その後の月日の中、然るべき時を待っているのだろう。
「犬童さん、こんなこと言うのは、失礼かもしれません」
彩花は、傍らの椅子に座り、大男へと言葉を掛けた。返事など返ってこない。
それは、解っている。だけども、彼女にとって、彼以上に頼りになる人も居ないのだ。だから、神様に縋る。何も、彩花は持っていない。技術もない、知識もない、経済力もない、後ろ盾もない、余りにも、無力な守られるだけの、お姫様。
「ですけど、トキオをお願いします……」
だけども、お姫様は、諦めたくない。
彼の命を。
彼の未来を。
巻き込んでしまった責任感と、彼への僅かながらの思慕が囁く。
Side; Net 二〇二二年十一月六日 第一層 《ホルンカ》周囲の森
あれから十数体以上のリトルペネントを狩ったが、一向に胚珠を落とすはずの《花》が付いたペネントは現れない。目的のアイテムはなくとも、お金と経験値は手に入るので、決して、無駄な行動ではないのだが、ここまで出てこないと、諦めたくなる。
夜も更けてきて、そろそろ、夜行性の凶暴なモンスターが出始める時間帯だ。
「中々、見つからないが、どうする?」
「……自分の意見はないのかよ?」
質問に、質問で返すのは、ルール違反だと思ったが、先程から、超絶技巧を持つ青髪の剣神は、何故だか、キリトの後を付いてくる。迷惑でもないが、正直、困る。
「繰り返すが、今回は、君の手助けだ。君が止めるというなら、それまで」
「………」
つまり、雇われた身だから、終わりといえば、終わりと。
なんともプロ意識の高い人だと思った。現実では、傭兵か何かでも経験しているのだろうか。今回は、報酬先払いだから、終わるまで付いてくるだろう。
「なら、もうしばらく、続けるよ」
「そうか」
しかし、やはり、さっぱり見つからない。
二人して、歩き回っていると、何やら、ガサゴソと茂みが揺れた。
今度こそ、花付きの奴かと期待し、剣を構えるが、
「わ、ご、ごめん!」
現れたのはプレイヤーだった。
期待はずれに、少しだけ、キリトは肩を竦める。
「こんばんは、かな? 僕は《コペル》。君たちも《森の秘薬》クエを?」
茂みから現れた、同じように初期装備のプレイヤーは、先程まで剣をむけられていたことなど、気にする風でもなく、気さくに話しかけてきた。
キリトは、軽く感心してしまう。人付き合いが、お世辞にも上手とは言えない彼だ。ゲームの中でも、初対面相手に、こんな風に、自然に、気軽に、声を掛けることは出来ない。まして、間違いとはいえ、切先を向けていた相手に、だ。
「ああ、そうだけど」
「やっぱり! β時代と変わってなくて良かったよね」
キリトが、もごもごと言い難そうに、返すと、コペルは笑った。
「《アニールブレード》があると、助かるよね!」
「でも、さっきから、中々見つからなくて……」
「それは良い!」
ポンとコペルは、楽しそうに手を打った。
「僕も、探してるんだけど、中々見つからなくて。よかったら一緒に探そうよ」
確かに、一人よりも二人、二人よりも三人の方が、効率は遥かに良い。オーヴァンは、件の《アニールブレード》に興味はないようなので、《胚珠》も二つで十分。
少しは、楽になるだろう。
「よかった、宜しく、ええと……」
「ああ、キリトだ」
「うん。宜しく、キリト。で、そちらの……」
「何、気にしなくて良い。ただの通りすがりだからな」
コペルが尋ねるよりも早く、オーヴァンは、予定調和のように、そう返した。
名乗る心算はないということなのだろうか。それとも、何か思うことがあるのだろうか。その真意は不明だが、決して、悪い人ではないのだろう。話は婉曲で、理解し難いが。
そして、三人で、リトルペネント狩りを始めた。
それから一時間近く、都合二百体近いリトルペネントを三人で屠った。
やはりコペルは、元々テスターだけあって戦闘の勘はなかなかのものだ。敵の挙動をしっかり読んでおり、ソードスキルの使い所もよく判っている。
それよりも。
「……フッ!」
今しがたその撃破数を加算させた剣士の技巧は、凄まじいの一言に尽きる。
オーヴァンの実力は、はっきり言って異常だ。強いとか、ではなく、異常。
二百体近く狩りはしたが、その内の三分の二、実に百四十程は彼の戦果だ。決して、臆することなく動き、まるで、こちらが育てられているかのような錯覚さえ覚えてしまう。囲まれたら、二匹だけ残して、すぐさま、切り捨ててしまう。その二匹を倒すことで、キリトとコペルに経験値が入る。上級者が、初心者を育てる時に使う手法だ。
《SAO》を始めたばかりのプレイヤーの剣捌きは、たかが知れている。
何せ、現実に剣を振っているのとまったく同じ感覚なのだ。戦国時代ならいざ知らず、現実で本物の剣や槍なんて物を、常日頃から振り回している人なんか現代日本には、そうそういない。クラインも、勿論、キリトもコペルもそうだった様に、皆一様に技術は拙い。
それでも、キリトが何とか戦えるのは、βテスト時代の経験と、現実世界で、少し剣道を齧っていた成果だろう。これがなければ、恐らく、はじまりの街で震えていたはずだ。
しかし、キリトやコペルと比較しても、オーヴァンの剣捌きは堂に入っている。
最小限の足裁きで、攻撃を避け、敵の急所目掛けて、攻撃を放つ。
「凄いな……、やっぱり、βテスターじゃないのか?」
「いや、少しばかり、心得があるだけさ。嗜みとも言うがな」
敵の援軍が停まった辺りで、尋ねてみるが、そんな風にオーヴァンには返された。確かに、これだけの技巧と、精神力を持ったプレイヤーがいたら、話題になるはずだ。勿論、名前が、β時代と変えていないという保障はないが、そこまで踏み込んでは尋ねられない。
しかし。キリトは、考える。
それなら、何故、こんな風に、道案内を頼んだのだろう。結構な、方向音痴だとか。
ありえない話ではないだろう。実力があっても、目的地に辿り着けないというような人は大勢いる。キリトとて、経験がなければ、真っ直ぐに、ここを目指さなかっただろう。彼の事に付いて、詮索していても、埒が飽かない。謎の剣士、彼への評価はそれで十分だ。
そして。再び、キリトは考える。
まだ、自分は、恐らくはコペルも、この世界が本当の死の世界になった感覚がない。半ば、当然ともいえるが、何せ、現実の世界で、血なり、泡なり、吐いて死んだ姿を見ていないからだ。本当に、茅場晶彦の言うとおり、自分達は死ぬのか、その確証が持てない。
だから、どこか、捉えきれていない。ただのゲームの延長線として捉えているのだ。
だが、そんなことは、今はどうでも良い。
三人、厳密に言うと二人にとって、重大な問題は、肝心な《花つき》が出てこない事だ。
「……、出ないな……」
疲労の色濃く、キリトは呟いた。
「βから出現率が変わってるのかもね。他のネトゲだと正規サービスになった時にレアポップのレートが下方修正されるのはよく聞く話だし……」
コペルの返事にも、覇気が感じられない。
これだけ狩り尽くせば、出てくるだろう。その考えは、甘かったようだ。
「今日の所は切り上げるのか?」
一番、敵を倒している、つまりは、一番、精神的に激務のポジションにいるはずなのに、ただ一人、オーヴァンは、涼しい顔だ。この程度は、障害にもならないと言われているようで、少し、悔しくも感じた。半分以下の労働で、根をあげているのだから、無理もない。
「どうしようか、僕、もうレベル4だよ」
「俺もだ。参ったな、ここまで出てこないなんて……」
肩で息をする二人は、御互いに顔を見合わせた。
倒したリトルペネントの数が数だけに、経験値も膨大だった。
だが、この第一階層を突破する適正レベルは、10に設定されているので、次の階層へと続く巨大な階段である、迷宮区へと潜りこむには、かなり心許ないステータスだった。
もう、空も暗い。破棄しない限りは、続行するので、一端休んで、明日、夜が明けてから、もう一度、出向いた方が、安全かもしれない。
「やっぱり、出直そう。武器も、そろそろ、研がないと……」
「ああ、そうしよ……」
コペルの提案に答えた、キリトの言葉が途中で止まった。
二人して、その視線の先に捉えたのだ。
相変わらず、不気味な図体の上に、ちょこんと咲いた《花つき》のペネントを。
だが、絶望と希望は、合わせ鏡とはよく言ったものだ。二人の間に緊張が走る。
花を咲かしたペネントと一緒に、実を付けたリトルペネントがいたのだ。うっかり、この実を壊してしまったが最後、匂いに誘われて、仲間が大量に出現する。
これだけ消耗した状態で、そんなことをすれば、どうなるかは想像に難くない。
「……どうする?」
キリトは尋ねた。
オーヴァンは、何も言わない。最後まで、傭兵としての矜持を貫く心算のようだ。
「……行こう。ここで逃したら、面倒だ」
コペルは、答えた。そして、簡単な作戦を提示する。
「僕が《実つき》のタゲを取る。二人で《花つき》を速攻で倒してくれ。それでいいかい?」
「ああ」
「了解した」
コペルの提案を呑んだキリト達は一斉に駆け出した。
そのまま、キリトは、《花つき》に斬りかかり、コペルは《実付き》に突っ込む。
勿論、《実つき》であろうが、《花つき》であろうが、ステータス上は、普通のリトルペネントと違わない。倒すのは、簡単だ。しかし、実を壊してしまうかもしれない。そのリスクから、無闇にコペルは、攻撃を仕掛けない。じっと攻撃を避けるだけだ。
それを確認して、キリトの後ろから、オーヴァンの追撃が飛んだ。
たったの二撃で、呆気なく、《花付き》は死んだ。ちゃんと、目的の《胚珠》もドロップした。後は、これをNPCのおばさんの元に届ければ、クエストは完了である。
「悪い、遅れた! 大丈夫だ、確かに倒した!」
倒したキリトは、少しばかり安堵した声を出し、コペルに退去の声を掛けた。
攻撃を避け続けていた彼は、ゆっくりと振り向いた。
「……ごめん、二人とも」
その言葉と瞳に籠められた感情は、哀れみか、それとも、贖罪か。
退去するどころか、コペルは近づき、《実》に向けて片手剣縦斬りソードスキル《バーチカル》を放った。手を伸ばせば、止められる。だけども、実際には、声すら出せず。
ただ、その瞬間だけが、スローモーションに見えた。
一刀両断されたペネントは、呆気なさすぎるくらいに簡単に砕け散り、同時に、実の割れた破裂音とともに、猛烈な煙と臭気が、辺りに振り撒かれた。
「な……、何で……」
茫然とするキリト。そんな彼を置き去りにして、コペルは茂みへと飛び込んだ。
そして、コペルは見えなくなってしまった。そして、恐らくは、彼の目論見どおり、わらわらと、リトルペネントたちが盛大に集ってきた。
すぐに、キリトは、気が付いた。
遅まきながらも、気が付いたのだ。コペルが自分たちを殺そうとしていたことに。
敢えて、実を割って、逃れられないほどの大量のリトルペネントを呼び集める。だが、自分だけは、気配を下げる《隠蔽》スキルで、姿を隠し、安全圏から見ていれば良い。
古典的な、モンスターを使役する《MPK》の手法。
動機は、実に単純。キリトが入手した《胚珠》を奪うこと。恐らく、キリトと話していた時から考えていたのだろう。勿論、自分が手に入れても、同じことをするに違いない。複数個持っていれば、それだけ金になり、武器になるのだから、当然の事だ。
「しっかりしろ。この程度で、死んで良いのか?」
「あ……」
オーヴァンの平坦な声は、まるで気付け薬だった。
そうだ。これは当然のこと。
自分が、生きるためには、生き残るためには、仕方がないのだ。この世界では。
「何だよ……、そんな簡単に、順応して……」
コペルは、既に、このゲームのルールに気が付いていた。
自分が死なないために、取る手段は一つだけ。他のプレイヤーを蹴落とし、出し抜き、奪い取り、見捨て、ありとあらゆる屍の上に立つことなのだということに。
だからこそ、と言おうか。コペルが辿るだろう運命は、なんとなく判った。
嘗て、師から言われたことを、思い出す。合わせ鏡の話。
「……コペル。知らなかったんだな、お前」
滔々と、茂みへとキリトは、語り掛ける。
「多分、《隠蔽》スキルを取るのは初めてなんだろ。あれは便利なスキルだけど、でも、万能じゃないんだ。視覚以外の感覚を持っているモンスターには効果が薄いんだよ」
その言葉に、驚きを隠せなかったのか、茂みが揺れた。
キリトの持っている《胚珠》が目的なのだから、まだ、当然、去ってはいない。
「例えば、リトルペネントみたいに、さ」
キリトの言葉通り、集ったうちの三十近い補食植物の集団は、明らかにコペルが隠れた藪を目指している。当然だが、こんな植物が、目で獲物を探しているはずがない。
《隠蔽》のスキルは、視覚しか隠せない。元々、眼で追わない相手には、効果がないのだ。そのことに、同じβテスターでも、一人は気が付かなかった。一人は知っていた。
全ての行動には、須らく、代償が付きまとう。
そして、狩る側は、ふとした拍子に狩られる側へと豹変する。
「うおおおおお!」
雄叫びをあげ、キリトはリトルペネントの群れに突っ込んでいく。
まるで、獣の慟哭。
コペルを助けられない悔しさを振り払うように、獣の如き雄叫びをあげて彼は駆けた。その後ろでは、彼の背中を守るように、オーヴァンが剣を振るう。囲まれてもなお、余裕を失わない姿は、さすがと賞賛を送りたくなるが、キリトは堪えた。 それは、後で良い。
全ての攻撃を致命傷にならないよう、寸での所で回避し最大最速の連撃でその頭を支える茎を斬り飛ばす。吐いてくる腐食液を前転で避け、潜り込んだ先を切る。
そんなことを、どれだけの間、続けていたのだろうか。
不意に背後から、カシャァァン! という、何かが砕けた音がした。
二人と同じように、数十体のペネントに囲まれていたコペルが、遂に力尽きたのだ。
「御疲れ様、コペル……」
先程まで、朗らかに笑っていたプレイヤーが一人、消えた。
何故だろうか。自分を殺そうとした相手なのに、死んでしまったら、何故か、キリトは悲しくなってしまった。だが、後ろは、振り向かない。心の内に広がる後悔を、ただ、只管に、目の前の敵を切り捨てることで、塗りつぶしいく。生き残るために、後ろは見ない。
いや、違う。
キリトが感じているのは、死の恐怖などではない。高揚感だった。
何百時間とプレイし続けて、ようやく掴み始めた、この世界の本質。単なるゲームのデータではない。この世界は、ゲームマスターの言った通り、もう一つの世界なのだ。その世界で、戦い続けた時、一体、何があるのか。それが知りたい。
そのためには、ここで死ぬわけには行かない。ここで死んだら何も得られない。
それから、十数分後。
キリトは計八十、オーヴァンに至っては、数えるのも面倒なほどの、リトルペネントとの戦闘を終えた。後に残ったのは、二つ目の《胚珠》だった。
コペルが戦ったと思われる場所には、円形の盾と、ボロボロな剣が転がっていた。
この傷こそが、彼が戦った証。生きていた証明。
「お前のだ、コペル」
そう言って突き立てたコペルの剣の側に、ドロップした二つ目の《胚珠》を置いて、キリトは立ち上がった。少しだけ、もう少しだけ、堪えれば、コペルも《胚珠》を手に入れられただろう。だが、そんなことを今更考えても、詮無きことに過ぎない。
キリトは、生き残ったオーヴァンの顔を見て、少しだけ顔を綻ばせた。
この人の余裕のある顔を見ていると、何故だか安心する。相変わらず、彼は、平気の平左で、呼吸は乱れてもおらず、このまま連戦しても、主観的には問題ないくらいだった。
「この後、アンタはどうする?」
「当然ながら、先に進むだろう。最後まで付き合おうか?」
「いや、もう、渡すだけだ。ありがとう」
「そうか。では、また会おう」
「あぁ、また」
交す言葉は、限りなく少ない。
そして、キリトは、自分自身の向かう先へと歩き始めた。
「……死ぬなよ」
「お互いに、かな」
オーヴァンは、口元を僅かに上げて笑った。
こんな理不尽にも、いつ死ぬか判らない世界で、言葉など意味を成さないのかもしれない。しかし、敢えて、そう、敢えて、キリトは言葉を交わし、踵を返した。彼ならば、間違いなく、生き残るだろう。恐らく、ここで分かれても、問題ないはずだ。
村へと戻ったキリトは、早速、おばさんに、《リトルペネントの胚珠》を差し出した。
ほんのりと中心部が緑色に光る胚珠を受け取ったおばさんは、感謝感激というような調子で、引っ手繰るように胚珠を受け取ると、煮込んでいた鍋の中へ投入した。
ここまで来れば、もう終わりだ。
緊張の糸が切れたキリトは、ぐったりと椅子に崩れた。
「さあ、出来た!」
おばさんが嬉しそうな声を上げた。そして、鍋で煮込んでいたものをカップに注ぐと、盆に載せて、隣の部屋へと運んでいく。それを追って、キリトも隣の部屋に入った。一つしかない粗末なベッドの上では、男の子が咳き込んでいた。名前は、《Toha》。トーアか。
「お飲み、元気になるから」
おばさんが差し出したカップをトーアは、一気に飲み干した。
「ありがとう、お兄ちゃん」
ニッコリと笑う、トーアに、何故かキリトはこみ上げてくるものがあった。
だが、ここで、それを流してはいけない。きっと、ここで泣けば、すべてが終わってしまうだろう。再び、家族に会うためには、生きて、このゲームをクリアするしかないのだ。
再び、台所で待っていると、おばさんが、赤鞘の剣を持ってきた。
これが、件の《アニールブレード》だ。βの時は、手に入れたら、すぐに飛び出して、振るったのだが、もう、日付が変わってしまっていた。今から、森に出るのは、辛い。
一日目が、終わったというのに、何故か、達成感も何もない。
その粗末なプレートに包まれた胸にあるのは、後悔と、郷愁。
クエストを達成し、民家を出ると、東の空は、早くもうっすらと明るくなっていた。
キリトは、幾度となく世話になった宿屋を探して、すぐさま、ベッドに倒れ込んだ。貰ったばかりの剣を投げ、鎧を外すことも忘れて、今は、ただ、何も考えずに眠りたかった。
「ごめんな、スグ……、お前の嫌いなVRゲームでこんなことになっちゃって……」
今頃、現実世界では、何が起きているのだろうか。
それを確かめる術は、キリトにはない。父は、母は、妹は、自分を見て、何を思うのか。
「考えても、仕方ないな……。寝るか……」
これは夢なのだと、頭のどこかで囁いている。
一度、寝て、起きれば、また、見慣れた部屋に帰ってくるのだと、思っている。あれは、単なる悪戯で、起きれば、覚める悪夢なのだと、自分に言い聞かせたかったのかもしない。
囁かれるままに、睡魔に逆らわず、キリトは泥の様に意識を暗闇の中へと落とした。
Side; Net 二〇二二年十一月七日 ???
そこは、遮るものなど何もない、黎明の空を一望できる場所だった。
吹き抜ける風が、オーヴァンの蒼い髪を撫でる。
靡くマフラーを押さえ、彼は笑っていた。
あまりにも、綺麗な黎明の空に包まれる、天上の城が、殺戮の舞台などと誰が思うのだろうか。今、あの眼下に浮ぶ城では、一万人の人間たちが、死の恐怖と戦い、もう一度、現実の世界へと生まれる事を望んでいる。
あの閉ざされた世界の中で、彼らは、何を思うのか。
「さあ、改めて、この言葉を送ろう」
オーヴァンは、優しく、呟く。
まるで、子供に父親が言い聞かせるような調子で。
はっきりと唇を動かし、一言。
「―――Welcome to 『The World』」