――場が重たくなった。
そう感じたのは東二局が始まってすぐの事だった。
まるで水中にいるかの様に、体に抵抗を感じる。
恐らく、衣が何かをしているのだと思い、俺の左手側に座る彼女へと目を動かした。
衣の席の後には大きな窓があり、俺の席からは綺麗な半月を見る事が出来た。
(やけに月が大きい……気のせいか?)
室内の灯りの影響で、弱々しくしか感じられないはずの月光が、異常に眩しく見える。
根拠は全くないが、これも衣の影響だと思った。
魔物達は自分に有利なフィールドへと場を変化させる。流れの形成とでも言えば良いのだろうか。それが今、行われているのではないか。
純と透華に視線を移すと、二人揃って苦虫を噛みつぶした様な顔を一瞬だけ浮かべ、俺に見られていると気が付くと平穏な表情に戻した。
(仕掛けてくる……!)
そう確信し、俺は警戒を強めた。
少なくとも純と透華は衣の力を知っているはずであり、彼女達の反応は大きな情報源である。
それを信用して裏をかかれれば情けない事この上ないが、純はともかく透華は嘘を吐く事に価値を見いだせないタイプだと思う。ならば信用しても問題ないだろう。
東二局0本場 ドラ:{③} 親:龍門渕透華
東家:龍門渕透華
南家:井上純
西家:天江衣
北家:杉乃歩
一巡目 手牌 ドラ:{③}
{八九②⑦24799南西北白} ツモ{⑨}
七種八牌。
満貫を親被りさせられたからか、それとも衣の支配からか、俺の配牌は酷いものだった。
この状況を打破するには
東一局で勝負勘に衰えがない事は確認出来たが、運ばかりはすぐには戻ってこない。今の俺は魔物にとって吹けば飛ぶ雑兵でしかないだろう。やはり、一月も牌に触れていなかった事によるツケは大きいらしい。
(一局程度ではどうにもならないか……)
案外どうにかなってしまうのではないかと思っていたが、そうは甘くないらしい。
しかし、ないものねだりをしても仕方がない。今、自分に配られたカードで勝負するしかないのだ。
前局で衣の運を喰った(喰わされた?)おかげか、辛うじて上の三色、そしてチャンタが狙える形ではある。
だが、それを面前で成し遂げる程の運を今の俺は持ち合わせていない。
となれば、当然{七萬}・{⑧}・{8}を鳴いて手を進めて行く事になるのだが、上家は件の衣である。
――どこまで鳴かせてくれる?
それが最大の不安点だった。
俺の必要牌をガッツリ抱え込みながら和了るという悪魔じみた打ち回し。
それを実現するだけの力を衣は持っている様に思えたし、あっさり討ち取られる自分、それも容易に想像出来た。
(……だからと言って何か出来る訳ではないんだが)
第一打は{西}。
衣の自風牌をとっとと手放しておく。
まだ勝負の時ではない。焦るなよと自分に言い聞かせた。
二巡目 手牌 ドラ:{③}
{八九②⑦⑨24799南北白} ツモ{七} 打{4}
容赦なく{4}を切り飛ばす。
効率だけを考えるのならば、打{南}が正着だろう。
チャンタを狙うにしても、第一打で{西}を選択している以上、矛盾している気がしなくもないが、これで良い。
魔物の自風牌なんて不発弾をいつまでも抱えるつもりはないし、そもそもが和了れる気のしない牌姿だ。
守備に偏りすぎた考えかも知れないが、和了り目が薄いと見れば、良形搭子でもない中張牌は序盤に落としてしまう。
三巡目、ツモ{⑧}打{2}。四巡目、ツモ{北}打{南}。手は順調に育つ。
五巡目 手牌 ドラ:{③}
{七八九②⑦⑧⑨799北北白} ツモ{白} 打{②}
(一聴向……変だな……)
あれよあれよという間に一聴向まで進んだ手牌に違和感を覚えた。
今の俺にそこまでの運はないはずなのだから。
これはこの後のツモがよほど悪いのか、衣に何か操作されていると考えた方が無難だろう。
そして、案の定と言うべきか、何も動きがないまま十六巡目の純の打牌が終わった。
東家:龍門渕透華 {■■■■■■■■■■■■■}
捨て牌
{西一①東四8}
{發④7⑨④7}
{東⑥發⑧}
南家:井上純 {■■■■■■■■■■■■■}
捨て牌
{一①二南赤⑤東}
{⑥發赤⑤7⑤②}
{中①二三}
西家:天江衣 {■■■■■■■■■■■■■}
捨て牌
{二中3西3南}
{中②九④西⑤}
{3四二}
北家:杉乃歩 {七八九⑦⑧⑨799北北白白}
捨て牌
{西42南②六}
{四東七①六發}
{南中八}
全員が揃いも揃って面前のまま。
鳴きを多用する俺と純がいながら、終局を目前として、何も動きがないというのはあまりにもおかしい。
捨て牌が二列目に入った頃からは、純以外はツモ切りを繰り返していた。
(俺に鳴いて貰いたかったのか?)
純の不自然な打牌にそう思った。
見る限り、誰一人有効牌を掴む事が出来ていないのだろう。
だから鳴いてツモ筋をズラせと。
しかし、残念ながらポン材と合致する牌は姿を見せなかった。
(強制面前縛り? 確かに強力だが、その程度で魔物は名乗れない)
衣がその程度な訳がないし、そもそも絶対に鳴く事が出来ないのならば、純が足掻く事もありえない。無駄だとわかっているのだろうから。隅々にまで意識を伸ばす。五感を最大限に活用しちょっとした変化でさえ見落とさない。
(索子が引けない……これはたまたまか?)
一局程度ならそう珍しくもないが、二局連続で配牌と他家の捨て牌以外で索子を手の内に入れていない。ここまで来ると、偶然ではなく必然――作為的な何かを感じる。もしかすると、これも衣の力なのだろうか。
(違和感が拭えない……)
牌をツモらされているという、無気味な感覚。今の俺には、強引にその支配を抜け出すだけの力がない。
どうすれば良いのか、未だ結論の出ないまま、着々と終局が迫ってきている。
そんな時、衣が久々にツモ切り以外の動作を見せた。
「――鳴くか?」
衣は挑発的な笑みを俺に向け、牌から指を離す。
「チー」
手牌 ドラ:{③}
{七八九⑦⑧⑨9北北白白} {横879} 打{9}
しかし、俺の麻雀打ちとしての本能は優秀らしい。
表情はピクリとも動かず、露わになった{8}を素早く奪い取ると、{7}が四枚見えている事を再確認し、{9}を打った。ほぼ間違いなく、今のはスルーするのが正解だったのだろうと思いながら。
それでも鳴いたのは、衣が何をするのか、一度この眼に焼き付ける必要があるからだ。
この牌をスルーする事で危機を先送りする事は出来たのかも知れない。だが、それをいつか乗り越えねば勝てないという事に変わりはない。ならば、ここは衣の余興に乗ってやろうではないか。
その後の透華、純の捨て牌で衣は動きを見せなかった。
そして、
「リーチ」
残り一巡となった時、大仰な動作でツモ切りリーチを打った。
純は悔しそうに顔を顰め、透華は唇を噛む。それを見て俺は確信を深めた。
(これを和了るのか……)
その時の衣は、魔物独特の他者を見下しきった怜悧な瞳をしていた。
ああ、これだ。俺はこの顔が見たかったんだ。
恐怖すら覚えるだろうその雰囲気に、俺は何故か魅了される。
十七巡目手牌 ドラ:{③}
{七八九⑦⑧⑨北北白白} {横879} ツモ{九} 打{九}
(現物……)
当たり牌を掴ませる様な力ではないらしい。
つまり、残る可能性は一つだけ。
透華、純と最期の打牌を終わらすと、衣が嗤った様に見えた。
そして――
「ツモ」
牌を掴んだその瞬間、口元を歪め、牌の柄を確認すらせず、和了宣言を行った。
衣は確信していたのだ。
「――海底撈月。4000・8000!」
衣手牌 ドラ:{③}
{一一三三③③455北北白白} ツモ{4}
海底撈月――その役の意味は、海面に映る月を撈い取るという事。
なるほど、正真正銘、月の少女だったという訳か。
一人納得していると、衣は俺に視線を投げ掛けた。
――ついてこれるか?
俺はそう語りかけられた気がした。
目は口ほどにものを言う、という慣用句の意味が良く分かる。
あまりにも神秘的で――あまりにも寂しそうな、孤独を感じさせる衣の表情。俺はただ美しい思った。
「ふにゅ?」
何も反応を見せない俺を不思議に思ったのか、衣は首をかしげ、あどけない童女の様なやわらかな顔になった。
先ほどの未亡人の様な老成した女を思わせる顔、今の見た目相応の顔。どちらが衣の本当なのかはわからない。
綺麗なのは前者で、かわいいのは後者。だけど、そのどちらよりも、俺は麻雀を打っている時のあの憎たらしい顔の方が好きだ。
だから、俺も視線で返す。
――追い抜いてやるさ。
伝わったかどうかはわからない。
だが、一瞬――衣が微笑んだ気がした。
東家:龍門渕透華 25000(-8000)
南家:井上純 19000(-4000)
西家:天江衣 39000(+16000)
北家:杉乃歩 17000(-4000)