【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた   作:食卓塩准将

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第12病 『大好き』

 瞬間、夢見は自分の身に何が起きたのかを理解できなかった。

 本来、縁が自分の視界を塞ぐ仕草をした時に何か狙っているのなら、夢見はすぐ把握して対処する事が出来た。縁を愛している夢見は、彼が何を考えて、何を行おうとしてるかは自分の事よりも分かるから

 にもかかわらず、夢見は自分を殴り飛ばす縁の行動を、その意思を、全てが完了したその後にしか把握できなかった。

 彼が自分に対してこれ程まで強烈で明確な敵意を抱き、それを行動で表そうとしたのに、まるで急に別人が乗り移ったかのように全く感じ取れなかった。

 

 だが、それはある意味当然ともいえる事だと、夢見は知らない。知る由も無い。

 今回と、縁が記憶している2回、それらを含めた夢見が記憶している全37563回の繰り返しの中で、彼女は一度も縁から聞いた事が無かったのだから。

 

 野々原縁の意識の中に、全く別の人間の人格が潜んで居た事を。

 

 これは同じく夢見が知り得ない過去だが、今起きた事と似通った話が、今年の6月にもあった。

 野々原縁はとあるキッカケから、この世界の頸城縁が生まれ育ち死んだ街へ赴き、そこで頸城縁の幼なじみと親友に出会った。

 

 亡くなった頸城縁に対して、自責の念を強く持っていた2人。頸城縁の意識は後悔してほしく無いと強く願う意一方で、自分はあくまでもこの世界の頸城縁ではない事を理由に、その気持ちをぶつける事に躊躇いを持った。

 大切な幼なじみを突き放して、死ぬ原因を作った自分。対して、文字通り命を懸けて幼なじみを守ったこの世界の頸城縁。

 たとえ同じ頸城縁の心を持っていたとしても、全く違う結果を生み出した彼の代わりに2人へ言葉を掛ける行為に、烏滸がましさを感じたのだ。

 

 しかし、それに待ったをかけたのが、野々原縁の意識だった。

 黙って2人の前から去りたかっていた頸城縁の意識に真っ向から反対し、野々原縁の意識は2人に自分の声を届けるべきだと働きかけた。

 その結果どうなったのかは、今更語る事では無いが──。

 

 今、この場で起きたのはその時とよく似ている。

 同時に全く逆の事象とも言えた。

 

 野々原縁は小鳥遊夢見の執念に敗れ、諦め、夢見の提供するすべてを受け入れようとした。確かに野々原縁1人ではもうどうしようもなく、夢見に屈服する以外は道が無い。

 そんな彼に、頸城縁の意識が強烈な待ったをかけたのだ。

 

 それは、野々原縁自身にとっても、思いがけない出来事だった。

 先述の6月に別世界とは言え未練を持っていたかつての幼なじみと親友達に別れを告げて、一夏の泡沫に誰の記憶にも残らない恋を交わし、ヤンデレCDの知識も要らなくなっていく中、頸城縁の意識は知らず知らずのうちに薄れたはずだった。

 だがそれは大きな誤認。確かに4月当初の様に、両者の意識がない交ぜになる事は無くなっていたものの、彼の意識は決して薄れる事なく、野々原縁の中に残っていた。

 そんな彼だからこそ、疲弊して弱まっていく野々原縁の意識の奥底から、夢見がもたらすモノ全てに絶対的な拒絶を示して見せた。

 

 常に野々原縁の側で共に喜び、怒り、哀しみ、苦楽を共にした──いわば野々原縁という物語の読者であり視聴者であり当事者であり続けた彼は、野々原縁が諦める事を決して許さなかった。

 言ってしまえば、頸城縁にとって小鳥遊夢見などどうでも良かった。

 確かに過去は悲惨だろう。寝てる間に義父に襲われ処女を失う所か実母に殺されかけるなんて、自殺したっておかしくない。

 

だが、知った事か。

 

 辛い日々の中で、唯一自分に暖かくて居心地がよく、優しい時間をくれた野々原縁に恋をするのも自然な話だろう。そんな彼との思い出に縋り、辛い現実を生きるよすがにするのも仕方ない。

 

だが、知った事か。

 

 野々原縁をストーカーしたのは、母親の再婚が発覚する前の話だ。

 破格の譲歩を見せた綾小路悠に対して、殺意を抱いたのもそうだ。

 表面上は仲の良いふりをして、野々原渚や河本綾瀬を邪魔に思っていたのもそうだ。

 

 確かに義父に凌辱された過去は大きいだろう、実母に言われた言葉も大きなキッカケに違いない。

 

だが、知った事か。

 

 頸城縁は思う。

 綾小路悠は良い奴だった。金持ちの息子というのが過去のトラウマに直結したが、優しく、気立てもノリも良く。いつだって自分や野々原縁には無い視点を提供してくれた、唯一無二で最高の友人。

 河本綾瀬はまっすぐな女だった。情緒の揺れや感情の乱れがあっても、それらは全て野々原縁を想う心から生じるもの。縁以外の人たちとのかかわりを経て知らず知らずのうちに成長し、殺人という一線を越えなかった最愛の恋人。

 野々原渚は──愛の深い人だった。きっかけは寂しさを埋めるための依存。しかしその事実を認め、飲み込み、改めて兄を見つめ直して本当の意味で愛を得た。

 頸城縁がこの世界で最も驚いた出来事の一つが、野々原渚の成長だ。恋人にはなれなかったが、間違いなくこの世界で一番野々原渚を分かっているのは渚だったに違いない。

 

 そんな3人を──いや、3人に飽き足らず場合によっては園子や他の皆も、夢見は自分の望みを叶える為だけに殺した。

 何度も、何度も何度も何度も、何度も

 その挙句に、自分を受け入れて一生一緒に暮らそうだと? 

 

ふざけるな! 

 

 過去が過酷だろうと、野々原縁への想いが本物だろうと、そんな事は知った事じゃあない。夢見は野々原縁が必死に作り上げた今を、何もかもぶち壊した。夢見にとってはカスの様なものでも、野々原縁にとっては宝石すら霞む幸せの権化だった。それらを踏みにじられて、夢見を受け入れるなんてのは、人間の尊厳を徹底的にぶち壊す行動に他ならない。

 そして、頸城縁にとってはそれこそが最も何よりも、受け入れがたい事だ。

 何故ならば彼の人生こそまさに、そうやって踏みにじる人間によって大切な人も時間もぶち壊された人生だったのだから。

 

 だから、野々原縁がくじけたのなら、代わりにオレが動いてやる。オレがあいつに言ってやる。

 誰が──────、

 

「誰がお前なんかを好きになるもんか! 一生鋏でオナってろこのサイコ女!」

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 言った、言った。内なる衝動──頸城縁の怒りに任せて、今まで言えなかった事を言ってしまった! 

 だけど後悔は無い、あるワケない。そもそもそんな余裕はない! 

 

「──っ!」

 

 殴り飛ばされた夢見は壁に衝突して動かない。気絶してるのか痛みに悶えてるのかは知らないが、とにかくい俺は夢見が手から落とした鍵束を急いで拾い、綾瀬のもとへ駆け寄った。

 扉は空いている、この建物の構造は分からないけど、この世に出入り口が無い建物なんか存在しない。ここから逃げるチャンスは今しか無いんだ! 

 

「どれだ、どれが鍵なんだ……」

 

 綾瀬の両腕と胴体につけられた拘束具の鍵穴に合った鍵が分からず、焦って冷静さが失いそうになる。

 落ち着け、と心中で呟けば呟くほど心が逸るから、とにかく無心になって鍵穴に鍵を差し込む動きを繰り返す。

 ものの数秒の話かもしれないが、体感時間では2分も3分も経ったように感じたその時、何本目かの鍵が穴の中でカチリ、という音と共に回った。

 

「よし、よしよしよしっ!」

 

 ようやく正しい組み合わせに巡り会えた自分を褒める。するとさっきのでスイッチが切り替わったかのように、残る鍵穴にも次々と正しい鍵が一発で入り始めた。

 瞬く間に綾瀬の拘束が外されていき、俺は綾瀬を椅子から持ち上げる事に成功する。

 

「──クソッ!」

 

 抱きかかえた綾瀬は、信じられないほど軽かった。必要最低限の食事しか与えられていなかったのもあるが、何よりも両膝から下が無い事が大きい。

 

「待たせてごめんな綾瀬、行こう、こんなクソみたいな場所さっさと出よう!」

「……」

 

 抱きかかえて語り掛けても、やはり綾瀬は何も反応を示さない。今この瞬間、逃げるチャンスだという認識も無いだろう。

 ひょっとしたら本当に、この後無事に逃げおおせても、綾瀬の心が戻る事は無いかもしれない。だとしても、ここに居る限りはそれこそ永遠に可能性は0のまま。躊躇う理由なんて微塵も無い。

 幸い夢見はまだ倒れたまま。瞬きする間も惜しい、自分に今一回喝を入れて、数日間俺達を閉じ込めた部屋を出る。

 

 扉の外はどんな迷宮になっているのかと思ったが、意外にもシンプルなモノだった。

 積み上げられて放置された木製のパレット。規則正しく立ち並ぶ柱。天井を所狭しに這う大小さまざまなパイプ。そして何かをプレスするために使われてただろう、大型の機械。

 それらの情報から、ここが廃工場であり、先ほどまで閉じ込められてたあの部屋はこの廃工場の最奥にある一室だと推察できる。

 そして、そんな広々とした空間の先に、シャッターに閉じられてる出入り口が見えた。完全には閉まっておらず、大型トラック一台が通れる程度に開かれている。

 出口から差し込む陽光は、神様が差し伸べてくれた救いの手にも見えた。

 

「綾瀬、もうすぐ出られるからな」

 

 抱きかかえてる綾瀬をより走りやすくするため、背中におんぶする。

 背中にかかる体重の軽さで何度目かの胸の痛みを感じつつ、俺は足に力を入れて出口まで駆ける──のだが、

 

「はぁ、はぁ……っ!」

 

 長い間狭い部屋に閉じ込められて、ロクに体を動かせていなかったせいもあってか、綾瀬は軽いのに足が重い。

 認めたくないが、もう体力が尽きようとしている。

 

「冗談じゃない、あと少しなんだぞ、ここにきて!」

 

 水中で走る時の様な、夢の中でうまく走れない時の様な、本来の自分の脚力から見れば驚くほどふがいの無い脚力にもどかしさすら覚える。

 もう出口は見えてるのに、足はもう走る事を拒否している。歩くのさえ精一杯で、気を抜いたら転んでしまいそうなほどだ。

 

「あぁクソ! 情けない事言ってんじゃねえよ!!」

 

 情けない自分への怒りを口に出して、無理やり鼓舞していく。

 

「ダラダラ歩いてみろ、俺が俺を殺してやるからな」

 

 何ならさっきまで綾瀬と心中考えてたくらいだ。今の俺は人生で一番自殺に躊躇の無い状態なんだからな。

 などとまぁ、気休めにもならない脅しをセルフでやったのが功を奏したのか、尿酸のたまったふくらはぎの重さが心なしか軽くなり、駆け足程度はこなせるようになる。

 

「もう少しだ、もう少しでここを出られるからな綾瀬」

「……」

「ここを出たらすぐに人のいる場所に行こう、そしたら助かるよ。また良舟町に戻れるんだ」

「…………」

「まずは病院だけどな。こんな埃臭い場所じゃなく清潔な病院でちゃんと治療してもらおうな。脚だってきっと、咲夜がピッタリな義足を用意してくれるはずさ、お願いしたら」

「………………っ」

 

 徐々に、しかし確実に出口が近づいていく。同時に薄ぼんやりとしていた『希望』という言葉がはっきり現実味を帯びてきた、その矢先。

 突如『ビー』という機械音と共にシャッターが動き始めた。

 どうして、なんで考えるまでも無い。歩みはそのままに後ろを振り向くと、やはり夢見が部屋の扉の前に立っていた。

 

「おにいちゃんったら……そんなの背負ったまま逃げられるわけないじゃない」

 

 距離があるのに、まるですぐそばで話しているかと錯覚するほど、夢見の言葉が耳に響く。

 右手にはあの鋏を持ち、左手は壁に手を付けて──いや、俺が部屋から逃げ出す時に気づかなかったが、壁に何か設置されている。恐らくそこに出入り口のシャッターを開閉させるスイッチがあるんだろう。

 

「シャッターが閉まる前に出られるかな? それとも……あたしに追いつかれてお終いかなぁ!? あははははははは!!」

 

 悪鬼の様な笑い声をけたたましく響かせながら、夢見も俺に向かってくる。

 

「急げ、急げ急げ間に合え……っ!」

 

 シャッターの閉まる速さは緩やかだが、駆け足のペースでは到底間に合わない。それどころか手ぶらな分夢見に追いつかれるのが関の山。

 冗談じゃない! ここまで来て出られなかったら、死んでも死に切れるもんか! 

 筋肉がズタズタになるのも構わずに、無理やり走る。この後の疲労なんてはまず後回し、シャッターが閉まる前に出たらむしろ夢見の追跡が遅くなるんだ、絶対に間に合え! 

 

「──ッッッ!!」

 

 こういう時、映画や漫画なら『うおおおおおお!!!』なんて絶叫しながら走るんだろうけど、実際に同じシチュエーションになると何も声なんて出せやしない。声を出すのに使うエネルギーも全部走りに回して、とうとうあと数秒で出口を抜けられる距離まで詰めた。

 シャッターが閉まり切るまでギリギリだが、俺が出た後じゃ夢見はシャッターに間に合わないはず。

 肺から吐き出る空気は血の味がするし、心臓も締め付けられる様に苦しいけど、夢見はまだ追いついて無い。出られるんだ間に合うぞ! 

 

「やったぞ綾瀬、俺たちの──」

 

 遂に出口が目と鼻の距離になり、あと一歩で出られる……その一歩を踏み込もうとした右足のふくらはぎに、激痛が走った。

 攣ったのかと一瞬思ったが、そんな痛みじゃ無い。まるで何かが刺さった様な──、

 

「ぐぅ、あぁあああ……っ!」

 

 既に限界を超えていた身体が、そんな痛みに耐えられるわけもない。

 張り詰めていた糸が切れて、バランスを失った人形の様に俺は前のめりに倒れてしまう。咄嗟に出来たのは、背負ってる綾瀬を地面にぶつけない様に転びながら抱きかかえる事だけだった。

 

「〜〜〜!!!」

 

 右手で綾瀬を抱きしめて、左手で受身を取ろうとしたが、無理な動きだったため思い切り捻ってしまう。

 それでもすぐに立ち上がろうと足に力を入れたら、右足のつま先が何かで滑ってしまい、うまく立ち上がれない。

 

「何がなんだって……うっ、嘘だろおい」

 

 足元を見て、自分の身に何が起きてるのかをようやく完全に理解する。

 

「あははは、あたしダーツも得意なのかも!」

 

 高笑いしながらこちらに追い付かんとする夢見……が手に持っていたハズの鋏、それが深々と突き刺さっていた。転んだ原因は、自分の足から流れる血で滑ったからだった。

 嘘みたいな話だけど夢見は走りながら鋏を投擲して、まだ距離があるってのに器用に俺の足に命中させたんだ。馬鹿じゃねえのか、ヤンデレだったら何でもできるのか? 

 あまりにも理不尽な攻撃に怒りすら覚えてきた。よくもここまで踏んだり蹴ったりな状況に陥る事が出来るもんだよ! 

 

 だがそれ以上にマズいのは俺の転んだ位置。勢いよくすっ転んだのもあって、シャッターが閉まる真下にいる。このままじゃ上から押しつぶされて、俺も綾瀬もまとめて真っ二つになっちまう。

 それでも夢見に捕まるよりはまだマシかもしれないけど、目糞鼻糞を笑うって奴だよ! 

 

「クッソォォォ……痛いぃぃ」

 

 捻って手首を曲げようとするだけでも激痛が走る左手で、右足に刺さった鋏に手を掛ける。それだって地獄の様に苦しいけど、涙をボタボタ零しながら何とか抜き取る事ができた。

 そのまま鋏はぶん投げて、俺は勢いのままに再度両足に力を込めて立ちあがる。

 満身創痍なんて言葉がピッタリのザマだけど、構いやしない。前世の俺(頸城縁)が死ぬときなんかは全身骨折やら殴打されたうえに頭からもダボダボに出血してたんだ、これくらいは間接的に経験済みだ。

 

「逃げるんだ、綾瀬とここを出てやるんだ、諦めっかっての!」

 

 右足を半ばすり足の様に引きずり、真上から迫るシャッターの圧を感じつつも、遂に廃工場の外へ出る事に成功した。

 やったぞ! という達成感に身も心もゆだねたい衝動を即座に押し殺して、背後を振り返る。そこには、

 

「凄いねおにいちゃん。でも駄目だよ」

 

 閉まりつつあるシャッターの隙間から、こちらを覗く夢見の瞳があった。

 直後に『ガン!』という音を立てながら、夢見の腕がシャッターから伸びる。

 まさか……もうシャッターは人ひとり這っても出られないほどに狭まってるのに、まさかコイツ出るつもりなのか!? 

 

「嘘だろ馬鹿、やめとけって……マジで」

「逃がさない、離さないんだか……らぁ……っ!!」

 

 そこからはまるで、ホラー映画に出てくる怨霊でも見ている気分だった。

 シャッターは閉まっていくというのに、夢見は固く重い金属のカーテンが自分の背骨や手足を圧し潰そうとするのをまるで意に介さず、僅かな隙間から『ゴキッボキッ』と音を立てて外に這い出てくる。

 俺を追いかけるためにシャッターを上げるんじゃなく、無理やりでも隙間から抜け出そうとするなんて、いくらヤンデレだと言っても自分の命をどう思ってるんだコイツは? 

 

「はは……あははは、おにいちゃんに追いついたぁ」

「……っ」

 

 立ち上がってそう呟く夢見の姿は、数秒前までとは別人の様だった。

 額や腕からは赤黒い血が滴り、最後出るのに手こずったせいでまともに押しつぶされた左足はハッキリと折れている。背骨も折れたか損傷してるんだろう、明らかに歪な立ち姿になっている。

 右手にはさっき俺が刺されて投げ捨てたハズの鋏をしっかり握っていて、腕から流れ落ちる自分の血で真っ赤だ。

 ふらふらと揺れる姿は、もはや怨霊ではなくゾンビだ。……それなのに、今なら俺の方が身体が動くはずなのに、まるで夢見に敵う気がしない。

 

 ──などと、怖気ついてしまってたのがマズかった。

 

「なぁにぼうっとしてるのかーなぁ!?」

「ッ!? ヤベェ!!」

 

 フラフラから急に身を屈んで、勢いよく右手の鋏で切りかかってくる夢見。『ヤベェ』じゃない、完全にアウトだった。

 咄嗟に半歩後ろに下がったのと同時に、鋏が右目を縦一文字に走る。直後、間欠泉の様に噴き出す血潮。

 

「うあああああ!?」

「えっへへへ、右目使い物にならなくなっちゃったね、おにいちゃん!」

 

 今までとはまた異なる痛みで悶える俺を、心底愉快そうに笑う夢見。

 

「痛い? 苦しい? 嫌だよねぇ、こんな目に遭うなんて。でもおにいちゃんが悪いんだよ? あたしの事拒絶して、そんな女と出て行こうとするから──それにぃ!」

「ぅ、ぁ! ……ぁぁあぁ……っ」

 

 腹部に衝撃が来たと思ったら、それが冷たさに変わり、瞬時に熱さを伴った激痛へと切り替わる。目まぐるしく変化する感覚の正体が何かなんて今更考える必要もない。

 “避けなきゃ”と思う暇もない程の、とても足が折れてるとは思えない俊敏さで、夢見が俺の腹に鋏を突き刺した。

 もはや立ってられるワケも無い。綾瀬を抱きかかえ続ける力も無い。俺はその場に膝から崩れ落ちる。今度はもう流石に、立ちあがれる気がしない。

 

「それにあたし、おにいちゃんを傷つけるつもりは無かったけど……おにいちゃんの苦しんでる姿を見るのも、結構好きかも」

「……イカレ女郎(めろう)

「きゃ~お腹に穴空いたのにまだそんな事言えるおにいちゃんカッコいいー! ……でもぉ」

 

 言葉を途中で止めて、夢見は倒れこんだ俺を無理やり仰向けにして、股の上に腰を落とす。

 

「こうしてるとシてる時みたいだね……もっとも、今回はあたしがおにいちゃんに入れる側だけどぉ!」

「──ッッッ!!!!!!」

 

 そう言って、夢見は更に俺の腹部に鋏を突き刺す。

 何度も、何度も。

 意識が遠のきそうになるたびに、別の痛みのせいで現実に引き戻される。

 

「安心、してぇ! ちゃんと致命傷になる所は避けてる、からぁ! こうして痛い想いしたら、きっと分かってくれるよね!? お外の世界は、怖い物しか無いんだって! 怖くないのはあたしだけなんだって!!!!!」

 

 痛みでもだえ苦しむ力も枯渇しきった。致命傷にならないなんて大嘘つくな。

 ハチの巣みたいに穴だらけにして、死なないわけが無いだろう。

 なんなら、痛いという感覚さえもう無くなってきた。意識すらもだ。

 

 朧げになった意識の中で、想い起すのは頸城縁が死ぬ時の情景。

 頸城縁も、全身ズタボロで仰向けになって死んだ。今の俺みたいに鋏じゃないけど、大嫌いな雨に打ち付けられながら死んだんだっけな。

 ……ごめんな、頸城縁(オレ)。せっかく夢見に立ち向かう勇気をくれたのに、せっかく逃げ出すチャンスを掴んだのに、全部パァになってしまった。

 

「そろそろ気絶しちゃうかなぁ、それじゃあ最後に、もう一回だけ思いっきりぶしゃ────―! ってやっちゃおうかなぁ!!」

 

 そう言って、夢見は鋏を両手で持ちながら高く高く構えて、

 

「目が覚めたらまたあの部屋で会おうね、あは、あはは、あっははははは!!」

 

 嗤い声を狂い咲かせながら、渾身の力で振り下ろした。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……?」

 

 瞳を閉じて、夢見のなすがままで居ると、何かが頬に当たる感覚がした。

 

「……なに、してんの」

 

 ぼうっとした頭の中に、夢見の震えた声が聴こえてくる。

 何が起こったのか、血の足りなくなった頭では想像するのも難しい。

 そう言えば鋏が自分の身体を貫く感覚も無い。

 

「……?」

 

 理解も把握もできない俺の頬に、また何かがぽつぽつと当たる。ひょっとして雨だろうか、頸城縁の事を想い返したら都合よく降ってきたのかもしれない。

 とにかく、頑張って瞼を開けてみよう。

 そう思って、うっすらと開かせた瞼の合間から、瞳に映ったモノを認識した瞬間──途絶えそうだった意識が強制的に覚醒した。

 

 頬に当たっていたのは、雨では無く血。

 

 夢見の振り下ろした鋏から、俺を庇って代わりに刺された──綾瀬から滴り落ちる血だった。

 

「──綾瀬!? 何で……何してっ!?」

 

 膝から下が無い足と腕で、俺と夢見の間に挟まるように四つん這いになって、俺を見下ろしていた。

 それはあらゆる意味であり得ない事のはずだった。こんな状況で間に入ったら、夢見の怒りを買うだけというのはもちろんだが、綾瀬が動ける事それ自体が信じられないからだ。

 俺が来る前に既に拷問を受けていた綾瀬は、何度も言うように心が死に切っていた。俺が夢見の望むまましていても、あんなに嫉妬深かったハズの綾瀬はまるで動かなかった。俺が食事を与えても、声をかけても、心中のためにナナから貰ったリボンで絞殺しようとしても、ピクリともしなかったのに! 

 そんな綾瀬が今、俺を庇うように──いいや違う、正真正銘、俺を守ろうと無理やり体を動かして、代わりに鋏に刺されている。

 

「駄目だ、どけろ綾瀬、殺されちゃうよお前が!」

「退きなさいよクソ虫が! あたしとおにいちゃんの間に入るなぁあ!」

 

 奇しくも同じ言葉を、まるで逆の意味で言い放つ俺と夢見。

 しかし、綾瀬は決して退こうとしない。無理やり退かせたいけど、腕に力が入らず押しのける事が出来ない。

 

「邪魔だって言ってんでしょ、分かんないならもう死になさいよ!!!」

 

 夢見が怒りに任せて鋏を振り下ろすのが音で分かる。

 それも、先ほど俺に対してしたのとは比べ物にならない殺意で。

 同時に、ろうそくの様だった綾瀬の命が一気に消えていくのを感じる。間違いない、もう今更綾瀬を退かせたって、とっくに助かりはしない。

 それでも、綾瀬は決して俺に鋏が振り下ろされないようにと、俺を庇い続けている。

 

「だめだ、止めてくれ、綾瀬……」

 

 もう助からないと知ってても、それでもこんな死に方は嫌だ。

 今までだって、何度も何度も綾瀬を失った。悠も渚も園子も殺された。

 でも、だからってそれで心が慣れるわけない、馴染むハズもない。

 まして、こんな風に目の前で俺を庇ったために死んでいくなんて、耐えられるわけが無い! 

 

「止めて……やめてくれ、夢見ぃぃ! もうやめてくれ!」

「止めるわけないでしょー!? おにいちゃんに最後まで色気づきやがって、あたしと声も似てるからトコトン不愉快なのよ!!」

「もういいだろ……もう、なら俺を先に殺せよ、頼むから! 巻き戻ってもお前の言う通りにするから!」

「あはははは! おにいちゃん必死! でも駄目! 巻き戻った先でまたコイツが居るのも流石に飽きちゃったもん! おにいちゃんは()()で一生一緒に暮らすの! そうしなきゃいけないの!!」

 

 懇願してもどうにもならない。

 そうしてるうちに、ガクリ、と綾瀬の力が抜ける。完全には倒れずに、肘で体を支えながらなおも俺を守ろうとし続けている。

 顔がさっきよりも近くなって、より綾瀬の瞳から光が消えていくのが分かって、俺はもうただ情けなく涙を流す事しかできなかった。

 

「綾瀬、ごめん……本当にごめん、助けられなかった……ごめんなさい……」

 

 もはや罪滅ぼしにもならない謝罪。

 自己満足にすらならない、一方通行の想い。

 

 ──そのはずだった。

 

「……だい、じょうぶ」

 

 ──ひどく懐かしい声が、耳朶に優しく響いた。

 

「だいじょうぶ、だからね……よすが」

「──っ! 綾瀬……綾瀬!」

 

 あるいは、綾瀬は最初からずっとそう呟いていたのかもしれない。

 俺を庇い、鋏に刺されて、泣きじゃくる俺を安心させるために。

 “大丈夫”と。

 

「もう、またそんな風に泣いて……昔から変わんないんだから」

「だって……だってもう、綾瀬は」

「あたしが守って……あげる、からね。あなたを、いじめる悪い……子から」

 

 ずっと聴きたかった、最愛の人の声。

 ようやく聴けたのに、今はもう悲しみしかない。

 

「良いんだ! もういいんだよ綾瀬! 俺を守らなくて良いから……だから!」

「ごめんね、わたし……のせい、で……いっぱい、くるしめちゃった」

「そんな事言ない! ……げほっ、げほ……違うよ、綾瀬!」

 

 喉から逆流してくる血でむせながら、俺は言葉を続ける。

 

「綾瀬は俺を苦しんでなんかない! 今だって、今までだってずっと……俺を助けてくれて……」

「そっか……よかったぁ……えへへ」

「ウダウダ喋ってんじゃないわよ!」

 

 夢見は更に綾瀬に鋏を突き刺していく。

 傷口から落ちる血はもう、雨では無く滝の様だ。

 

「ねぇ、よすが…………」

 

 綾瀬は最後まで俺を安心させようと、血だらけの顔で、それでも俺が大好きな笑顔を浮かべて、今までと異なるハッキリとした語勢で、言った。

 

「──大好き」

 

「もう喋るなあああああああああ!!!」

 

 

 瞬間。

 夢見の鋏は、背中では無く首の骨を貫通し、綾瀬の喉を刺し貫いた。

 喋るなという叫びの通り、喉ぼとけのある位置から、まるで花が芽吹くかのように、真っ赤な鋏の切っ先が、綾瀬の喉から生えた。

 

 そして、同時に。

 パサリと、綾瀬の首に巻いていたナナのリボンが頬に落っこちて。

 俺の返事も聞かないまま、綾瀬はガタリと崩れて──2度と動かなくなった。

 

「あはは、あはははははは! 手こずらせやがって……やっと死んだわね。ゴキブリよりしぶといんだから」

 

 仕事をやり切った職人の様なさわやかさで、夢見は綾瀬だったものを押しのける。

 そして、再度鋏を俺に向け──、最後通告の様に聞いてきた。

 

「ねえ、おにいちゃん? これでもう本当にあたしたちをの邪魔をする奴はいなくなったけど。まだおにいちゃんから聞けてない言葉があるよね?」

「…………」

「あたしのこと、好き?」

 

 恋する乙女の言葉が、血と体液の匂いにまみれた空間の中を踊るように飛び回る。

 

「おにいちゃんの口からハッキリききたいな……ダメ?」

「……俺は」

 

 身体の痛みはとうに分からなくなった。

 綾瀬をまた失った哀しみも、許容量を振り切ってしまった。

 そのくせ、消えかかっていた意識は嘘の様に鮮明で、夢見が何を望んでいるのかがよく分かる。

 愛の上書きをしたいんだ。綾瀬の告白を、俺から夢見に愛を囁く事で消したいんだ。

 

 夢見のいう事が本当なら、信じられないけど俺はまだ死なないんだろう。

 夢見の望みに応えた後には、きっと適切な治療で生き延びて、明日以降もあの小さな部屋で一生死ぬまで暮らす事になる。

 

 このまま死んでも、また失うだけ。

 このまま生きれば、もう誰も死なない。

 それなら、もう俺が言うべき言葉は決まっている。

 

「俺は……お前を」

「うん……うん!」

「──好きになるワケないだろ」

「……ぅえ?」

 

 もう、何も考えない。

 ただひたすら、俺は目の前に居るこいつを否定する。

 否定して、否定して否定して、否定して否定して否定して、否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して否定して、

 

 ──徹底的に拒絶してやるだけだ! 

 

「誰がお前なんか好きなるもんか! お前みたいな恐い女!」

「お……おにいちゃん? なに、言って……」

「お前なんて大っ嫌いだって言ってんだよ! お前を好きになる人間なんてこの世に1人だって居やしないんだ! 一生孤独に生きるのがお似合いなんだよ!」

「ふざけてるのかな……冗談が過ぎると、おにいちゃんでもただじゃ──」

「真剣だよ。残念だったな! 俺はたとえ死んで幽霊になったって、綾瀬が好きだ! 綾瀬を愛してるんだよ! 仮に綾瀬以外を好きになれって言われたって、渚や園子や、悠を選ぶね! お前なんてアウトオブ眼中だ! ざまあみろ! ハハハハハ!!」

 

 今までと毛色が違う、正真正銘の拒絶。

 たとえ殺されたって構わない。巻き戻る事があっても、その先で誰が殺されても、『小鳥遊夢見を愛する未来だけは絶無』だと思い知らせる否定の言葉を、思いつく限り俺は夢見に浴びせた。

 

「あは、ハハハハハ……」

 

 自分のこめかみを掻いて、掻いて掻いて血が出るまで肉を削り、夢見は自分の身に起きた受け入れがたい事実を処理しようと足掻く。

 そうして、最後にもうどうしようもなく自分が望む未来は訪れやしないのだと、理解して。

 

「誰が怖いって? ねぇ……誰が怖いって言うのよぉ!!!」

 

 初めて本当の怒りを、俺にぶつけた。

 

「あたしが怖い!? ここまでおにいちゃんを愛して、おにいちゃんのためならなんでもやってきたあたしが? ──そんなワケないじゃない!!」

「そんなワケがあるんだよ! 馬鹿じゃねえのお前!」

「おにいちゃんはあたしのモノ、おにいちゃんはあたしを好きにならなくちゃいけないの! おにいちゃんはあたしから逃げちゃいけないの!!」

「お前の母親が言ってた理論か。自分が望めばその通りになるって? だからお前が望むなら俺はお前を好きにならなきゃいけないと? まして怖がるなんてあり得ないってか」

「うん、そうよ? ちゃんと覚えてたんだぁ、じゃああたしの言ってる事の正しさも分かる? 分かるでしょ? 分かるよね?」

 

 今思えば、夢見を狂わせた最後のトリガーだったな。叔母さんの戯言は。

 

「なんで黙ってるの──分かったら返事ぐらいしなさいよ!!!」

「呆れて言葉も出ないんだよ! 今時引き寄せの法則でもあるまいし、お前が望んだ程度で世界が思う通りになるワケねえだろ!!」

「──っ!?」

「お前の父親が事故で死んだのは危険運転したからだ! お前の義父がクズなのは叔母さんがアホだったからだ、お前が叔母さんに殺されそうになったのはお前らの親子関係が終わってたからだ、お前が俺に嫌われて怖がられてるのはお前がそう言う行動ばかり取ってたからだ!!」

「うるさい……うるさい、うるさい!」

「世界は望んじゃいない、誰か一人の都合のいいようになんてなりゃしない! お前の家族は終わるべくして終わって、俺は嫌いになるべくしてお前を嫌うんだよ! 世界や意味不明な理論のせいにするんじゃねえ!!」

 

 この言葉が、夢見の中の最後の自尊心を破壊したのだろう。

 もはや恋も病みも何もない。ただ純粋な殺意のみで鋏を握りしめた夢見がその手を掲げて突き刺さんとする。

 

「黙りなさいよおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!」

 

 これで死ぬ。

 死んだ後にどうなるかは分からないが、俺と夢見は()()で明確に決別した。恐らくもう俺と幸せな世界を築こうなんて思わない。

 きっと、今までより地獄と言える展開が待ち受けているの違いない。だが知った事か。

 夢見を拒絶する。恋心を破壊する。

 それだけが、唯一小鳥遊夢見という完成されたヤンデレを打ち砕く方法だったのだから。

 

 そうして、俺は自分の死を──何度目かの死を、受け入れて。

 

「そぉ─れぇ!」

 

 この場にあまりにも似つかわしくない、童女の声と共に、夢見の右手がスパッと切られるのを目の当たりにした。

 

 

 

 ──to be continued




話の展開が重い事に今更気づく。
先週が更新無かったので、今週はもう1回分(おそらく短いですが)更新予定です。

いつも感想やお気に入り等、大変ありがとうございます。
暗い展開続くので真面目にモチベなってます。


おそらく、あと長くて3~4話で終わると思うので、気長にお待ちください。

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