【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた   作:食卓塩准将

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君の知らない物語-3

 小高い山の上に立つ、七宮神社。

 その入り口になる長い階段の前に、額から汗を垂れ流し、肩で息をする男が二人いた。

 

 いや、まぁ、オレ達なんだけどさ。

 

「安全運転……って、お願いしましたよね」

「はは……ははは」

「途中、七回くらい死を覚悟したんですが」

「塚本クン、オレは一度だって安全運転するなんて言ってないぜ。そもそも安全運転と二人乗りなんて相反する概念が並び立つワケが無いじゃないか」

 

 持参したタオルで顔を拭きながらそう答えると、

 

「程度! というものが!! あるでしょう!!!」

 

 彼はここ一番の大声で言った。

 

「三回、いや七回は『あっこれはダメだ死んだ。詰みだわ』と思う場面がありましたよ、七詰みってどんな運転すればなるんですか? 最後の坂道じゃ、ノーブレーキで駆け下りてあわや転倒しかけたじゃないですか」

「あれは……ヤバかった」

「そもそも、坂道を行かなくても楽な道ありましたよね? それに、登る時に意地でも二人乗りを続けようとしたのだって意味不明過ぎます!」

「いや、ほら……昔見たアニメ映画でそういう場面あったから、つい」

「アレは『意中の女の子』を後ろに乗せた時の話でしょう、男同士でやっても疲れて汗だくになるだけじゃないですか」

「まぁまぁ……こうして無事に着いたのだし、良しとしよう、な?」

「……君の提案に乗った事、だいぶ後悔してるのですが……自分で言い出した事なので仕方ないとして……」

 

 不満げ──当然だが──にそう言いつつ、塚本くんの視線はオレから長い階段へ向けられる。

 

「今度は、ここを登る、と」

「そうそう。長いよね」

「思ってたより三倍は長いですね」

「毎回登り終わる頃には肩で息するんだよね」

「それ知ってて途中坂道選んだんですか君は」

「馬鹿だよね」

「馬鹿ですね」

「ほらスプレー。汗止まるし匂いも消えるよ」

「あぁ……はい、どうも」

 

 お互いに汗エチケットを整えた後、オレ達は散々見続けていた階段を登り始めた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「えっと……お隣の方は?」

 

 今日は珍しく鳥居の下でオレを待っててくれてた七宮さんが、当然の事だが彼を見て困惑していた。

 

「この前知り合って、これからオレ達の手伝いしてくれる塚本千里って人です。急に連れてきてごめんなさい」

「い、いえいえ、私達だけじゃまだまだ時間が掛かりそうだったから、寧ろありがたいくらいですし」

「そう言ってくれると助かります。改めまして、塚本です。お二人の間に挟まる様な真似をしてすみません」

 

 そんな挨拶をしてから、オレを見てニヤリと笑った。

 

「もう、女の子と一緒に探してるのなら最初にそう言ってくださいよ。知ってたらお邪魔虫みたいな事しなかったのに──いたっ!」

 

 からかってきたので頭を軽く小突いた。

 

「変な事言うのはやめろ」

「照れてます? 照れてますね?」

「もう一発行っとくか?」

 

 今日初めてちゃんと話す様になった相手とは思えない会話だが、不思議と距離感を間違えてる様な感覚は無かった。

 彼の雰囲気がそうさせるのだろうか。空気を読まないわけじゃないが、把握しつつも敢えて踏み込んでくる感じがする。そのスタンスは、オレの生前の数少ない友人だった堀内とどことなく似ていて、当時と違って周りの視線とか気にしなくて良い今のオレにとっては、だいぶ付き合いやすいタイプなのかもしれない。

 

 側から見ても同じ印象を受けたのか、七宮さんがこんな事を言った。

 

「二人とも、最近知り合ったみたいですけど、凄く仲が良いんですね」

「いやいや、僕が人一倍馴れ馴れしいだけですよ。逆に聞きますとお二人は出会ってどれくらいなんです?」

「えっと、私とくび──」

 

 あ、マズイ! 

 

「七宮さん、ちょっと!」

「え、あっあの!? ひゃっ──」

 

 急いで七宮さんの手を掴んで、塚本くんから少し距離を取った所まで歩く。

 その後、塚本の耳に届かない様に小声で言った。

 

「実は、彼にはオレを『野々原縁』として自己紹介してるんです」

「あ──そう言う事ですね。確かに、他の人には簡単に話せる事情ではありませんし……すみません、不用意でした」

「気にしないで下さい。取り敢えず今後は頸城じゃなく、名前の方で読んでもらえれば」

「えっ」

 

 既にオレの事情を知って貰ってる彼女には、というか彼女だけには、誤魔化すためだとしても『野々原さん』と呼ばれるのは嫌だった。

 だから、どうせなら名前の方で呼んで欲しかったのだが……いささか軽率なお願いだったか? 

 

「あー……もし嫌なら、野々原の方でも大丈夫ですよ? と言うかそうですよね、いきなり名前呼びはちょっと」

「わ、分かりました!」

「無理してません?」

「大丈夫です。これからは縁さんと呼ぶので、えっと……なので、あなたも私を名前で呼んでくれたら」

「えっ、それは、それこそ良いんですか?」

「はい……私は名前で呼ぶのに、あなたからは苗字で呼ばれると、それこそ塚本さんに怪しまれるかもしれないので……どうぞ、伊織、と呼んでください」

「オッケーです……じゃあ、よろしくです」

 

 思わぬ展開に多少戸惑っていると、

 

「あのー?」

 

 いつの間にか塚本くんがオレ達の近くに寄って来ていた。

 

「そろそろ何を探してるのか具体的に教えて頂けますか? お二人で特別な空間を作ってる所申し訳ないですが」

「待て待て、特別な空間とか言うな。オレは七──伊織さんに事の経緯を改めて説明してただけだ、ですよね?」

「は、はい! その、えっと……縁さんの言う通りです」

「そうでしたか、早とちりしちゃいましたね」

「とにかく、話は書庫でしましょう!」

 

 伊織さんが半ば強引に話を切り上げ、オレ達はいつものごとく書庫に向かった。

 

「はぁ……オカルト研究の取材で『前世の記憶』について語る人間を調べてる、と」

「そゆことです。友人の頼みでね。ネットで調べたら出てくる物じゃなく、ローカルなネタが欲しいんだとさ」

「それでわざわざ神社に……野々原さんにそんな事頼むご友人が居たんですね」

「こう言う事頼まれたのは初めて」

「そうですか。なるほど」

 

 ここに来るまでに考えてた偽の理由を話すと、すんなりと納得してくれた。

 

「それじゃあ、今から六時まで作業開始だ」

 

 オレの掛け声と共に、新たに三人目を加えての読書タイムがスタートした。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 二人で進めていた事も人手が増えれば当然、一人分効率が上がる。そう思って塚本くんをここに呼んだわけだが、結果的にそれは正しい判断というか、期待以上のものだと分かった。

 

「……あの、塚本くん」

「はい?」

「今、それで何冊目?」

「えーっと、二十七、ですね」

「ちなみに伊織さんは?」

「すみません、まだ四冊目です」

「ああいえ、オレも三冊目なので」

 

 端的に言うと、彼の読み進めるスピードは異常だった。速読と言うヤツだろうか、パラパラ漫画でも見てる様な速さでページをめくり、一分もかからずに一冊を読み終える。

 あまりにも速すぎるのでちゃんと分かってるのか怪しく思ったが、適当に開いたページの内容を聞いたら完璧に答えて来たから、素直に凄えと驚くばかりだ。

 それを言うとはにかみながら『仕事……バイトでこういうのが必要なので』なんて言ってたが、果たしてこんなスペックを求められる仕事とは何だろうか。聞いたがはぐらかされるばかりだった。

 

 その後、オレと伊織さんも負けじと読み進めて行き、時刻はあっという間に目標の六時を迎えたのだった。

 しかし、結果はと言うと……。

 

「うーん」

「今日で五日目になりますが、芳しくないですね」

「まだ焦るような時間じゃ無いのかもしれませんが……」

 

 野々原家が旅行から帰って来るのも遠く無い。流石にそろそろ目星の一つや二つは見つけたい物だったが、あいも変わらず前世絡みの悩みは記録されていなかった。

 

「今日読んだ中で一番多かったのは、恋愛相談ってか占いでした。しかも気になる子が三人いて、その全員から言い寄られたみたいで」

「えぇ……余程魅力的だったんでしょうね。多少気の多い男性という気もしますが」

「誰が自分の妻にふさわしいか、占って欲しいって内容でした。それで選ぶとか」

「前言撤回します」

「手のひら返しが早過ぎる」

「そうじゃないですか、逆に縁さんは許せますか? 人の心を踏みにじる選択を、神に委ねようとしてるんですよ、信じられません」

「ん……それは確かに」

 

 巫女さんとしては許せない事だろう。神様を厚く信仰する人間にとって、神を愚弄する行為に他ならないという感じか。

 

「──って、すみません。つい熱くなってしまって。過去の記録に怒ってもしょうがないですよね」

「いえいえ、たとえ神様相手じゃなくてもこの相談者は失礼な奴だと思いますよ。好きだっていう女性にとってはもちろん、それに」

「それに、なんです?」

「世の中の彼女いない男にとっても忌々しい。この相談者は間違いなく男女両方の敵です」

「ふふ……あははは!」

 

 思いのほかウケが良かったのか、今日初めて伊織さんが笑顔を見せる。

 塚本くんがいるからか、今日は緊張しているようだったので笑う姿を見て安心できた。

 

「縁くんはたまにそうやって変なこと言うから、会話してて楽しいです」

「そう思ってくれるなら何よりです、実はいつも伊織さんの前では無理してるから、寝る前に自分の発言が恥ずかしくなって悶えてるってのはここだけの話ですよ」

「絶対嘘ですよね、そんな風にすらすら言葉出てくるのに」

「いや、まあ流石に無理してるっていうのは嘘ですけど、伊織さんと話すのは楽しいから自然と普段より頑張っちゃうのは本当です」

「……ぅ、えっと、それはどういう」

「お二人で楽しく会話してるところ申し訳ないのですがー?」

「うおっ!」

「きゃっ!」

 

 オレ達の間からにゅっと顔を出してきた塚本くんに、思わず驚いて素っ頓狂な声を挙げてしまう。

 

「そんな驚かなくても良いじゃないですか」

「気配消しながら顔出されたら誰だって驚くって」

「気配なんて消してませんよ、二人だけで仲良く会話してこっちの存在忘れてただけなのでは?」

『っ!?』

「とまあ、そんな事より、これ見てくださいよ」

 

 好き勝手な事を言いながら、彼が一冊の手記を見せてきた。

 

「ここに書いてある昭和47年三月の記録、これが二人が探していたものにあてはまりませんかー?」

 

 

 彼が指した記録には、大まかにこう書かれていた。

 

 ある日、一人の男が訪ねてきた。大野健司と名乗るその男は、なぜ自分がこの町にいるのかを分かっていなかった。

 最初、時の神主は大野を重度の記憶喪失か、認知症の類だと思ったが、事はそう単純ではなかった。

 大野はこの町にやってきた経緯以外の、全ての記憶をしっかり覚えていた。年齢も、出身も、職業も、人間関係も──そして、自分がいつどうやって死んだのかも。

 

 そう、彼は七宮神社があるこの町とは全く違う場所で生きた人間の記憶を持っていたのだ。

 気が付くと町の公園のベンチにいて、わけも分からずあちこちさまよい、事態が事態なので警察や病院に行くわけにもいかず、自分の`家族`にも連絡するけにはいかないので、途方に暮れてさまよった果てに七宮神社に辿り着いたというわけだ。

 聞いた話をもとに、神主は実際に大野健司という人間が過去に居たかを調べたところ、それが本当だった事が分かった。

 ページの最後には、このまま放って置くわけにもいかなくなった神主が、とにかく彼の面倒を見る事に決めたと書かれてある。

 

「縁くん、これは……」

「ええ、まさにこういうのを探してたんだ。ありがとう塚本くん!」

 

 あれだけ見つかりそうもなかった事例をあっさりと見つけた塚本くんに感激して、思わず両手を握ってぶんぶん振って感謝の意を伝えた。

 

「いぃぃえぇぇいぃええ」

 

 腕と一緒に上半身を上下に揺らしつつ答える塚本くん。

 だが続けて彼の口から出た言葉は、あまり良くないものだった。

 

「ただし、この後彼がどうなったのかは、続きのページをめくっても分かりませんでした。同じ棚にあった手記も読んだのですが、全然違う時代の記述だったり、この町の民俗資料だったり……ピンポイントに続きが書かれてある手記を見つけ出すには引き続き人海戦術で見つけるしかなさそうです」

 

 書かれてある年代がたまに急に古くなったりはオレもあったけど、一つ新しい情報があった。

 

「民俗資料? オレが今日まで読んだのにはそういうの無かったけど、ここってそういうのもあったんですか?」

 

 てっきり町の人からの相談内容ばかりがまとめられているのだとばかり考えていたが、伊織さんが首肯して答えた。

 

「はい、父の代からはしっかりと年代別、ジャンル別に整理してますが、祖父母の代まではその……その辺りが杜撰で、内容も年代も、かなりバラバラになってるかもしれません」

「さては七宮さん、お父様に蔵書の整理も任されてますね」

「そうなんです……片づけるから鍵を貸してほしいとお願いしたので……でも、想像よりバラバラだったみたいで……すみません」

 

 伊織さんは恥ずかしさと申し訳なさが入り混じったような表情で俯きながらそんな事を言ったが、オレからすればそんなの初耳だ。

 確かに、伊織さんが書庫の事を提案して、翌日あっさりと話が進むものだから不思議だなとは思ったが、まさかそういう条件のもとだったなんて。

 という事は、もしかして……。

 

「伊織さん、もしかしてオレが帰った後にいつも全部一人で片付けしてました?」

「え? ……はい、そうですけど」

「なんでオレ

 にも声掛けてくれなかったんですか。オレだってやらないと駄目じゃないですか」

「書庫の整理はいずれは私がやらなきゃいけない事だったので、それに縁君はいつも読んだ後ちゃんと棚に片づけてどこまで読んだか教えてくれますし、書庫整理に巻き込むなんて出来ないです」

 

 伊織さんが良かれと思ってそう言ってるのは分かる。

 だけど、それで`はい分かりました`と頷くわけにはいかない。

 

「そんな事ないです、オレだってもう関係者じゃないですか。毎日ここにきて、ここにある物を取り扱ってる。これって完全に関係者ですよね?」

「それは、そうですけど……でも、縁君の帰る時間が遅くなっちゃいますし」

「どうせ家には今オレしかいないので問題ありません。それに」

「それに、なんです?」

「探していた内容の手記が見つかって、どこかに続きがあるんなら、お礼に書庫の整理くらいやらないと罰が当たっちゃいますよ」

 

 ましてやここが神社の敷地内であるなら、尚更だ。

 

「変な話ですが、これもオレを助けるためだと思って、今後はオレにも片付けさせてくださいよ、ね?」

 

 お願いポーズ──両手を前に合わせて、片目はウインク気味に閉じ、はにかみながらお願いする一連の仕草だが。オレが生きていた時によく堀内や瑠衣にやられた──でそう言うと、伊織さんは少しだけ困ったように、小声で『あー』とか『うー』とか悩んだ後、観念したように言った。

 

「……分かりました、これからは書庫の整理も一緒にお願いします」

「はい、もちろんです!」

 

 なるほど、あの二人が最終的にこのポーズをやるだけある。結構効果てきめんだった。

 

「それでお二人とも、今日はこの後まだ探し物を続けますか?」

 

 そういえば夜は用事があると彼は言ってたのを思い出した。八時までと言ってたが、ここから帰るのを考えるとそろそろお開きにしないといけないだろう。

 

「いいや、今日は初めて進展があったし、続きは明日にしよう。ここからは片付けにしよう」

「お気遣いありがとうございます。先ほどはお二人の会話を邪魔したくないから黙ってましたが、かかわってる以上僕も片づけは手伝うので、三人でパッパッパッと終わらせましょう」

 

 塚本くんの言うほど迅速では無かったが、三十分もかからずに読んだ手記を年代別にまとめ終えて書庫を出た。

 日中は生物をすべて滅却せんとするような陽光は鳴りを潜め、涼やかな風と共に空を黄昏色に染めている。

 伊織さんと別れの挨拶もそこそこに、オレと塚本くんは来るとき汗だくになって登った階段を淡々と降りていった。

 

「明日も君はここに来ます?」

「その予定」

「OKです、なら僕も来ますね」

「マジ?」

「マジです」

 

 手伝ってもらうのは今日だけのつもりだったから、彼の申し出は正直助かった。

 

「今日これからある用事がすんだら、少し時間が空くので。……まあ、もっとも?」

 

 塚本くんは変なところで言葉を止めて、ニヤニヤしつつオレを見てくる。

 それがオレにちょっかいをかけようとしてる時の堀内や瑠衣の顔とそっくりだったから、嫌な予感をしつつオレは先を促した。

 

「もっとも、なにさ」

「君が彼女と二人きりで過ごしたいというのであれば、空気を読んでクールに去りますよ」

「……はぁ」

 

 望まないため息をこぼしてオレは肩をすくめた。やっぱりそういう話か、最初にオレと伊織さんが会話した時も勘繰るような言葉を口にしていたし。

 オレが頸城縁として生きていた頃、世の思春期には男女がちょっと近しい距離感で会話してたら何でもかんでも恋愛ごとに結び付ける奴らが一定数いたが、彼もまたその類らしい。

 本来なら躍起になって否定するなり、呆れて無視するなりするものだったが、初めて会った時から不思議な、どこか浮世離れしてる雰囲気を放つ人間が、そういう年相応なところを見せてきた事に安心してしまった。

 

「別に、君が勘繰るような関係じゃないよオレ達は」

「ふふ、ほんとですか?」

「本当。だって知り合ってからまだ一週間も経ってないし」

「その割には随分と打ち解けてたみたいですが……それに、親密になるのに日数は関係ないと思いますよ」

「っ……変なこと言うなって」

 

 予想外の言葉を言われて、思わず返す言葉に窮してしまう。

 これ以上この話を続けられたらさらに面倒な方向に話が進みそうだったが、幸運にもそのタイミングで石段を下り終えた。

 急いで自転車に向かって駆け出した事で、話題を無理やり終わらせる。

 塚本くんもそれ以上、追及してくる事はなかった。

 

「帰りは安全運転でお願いしますね」

「ああ。さすがにオレも暗い道でふざけて死にたくないしね」

「やっぱり行きはふざけてたんですか」

「ははは、もうここに来るまでの事は水に流して欲しい……あれ?」

「ん? どうしました」

 

 自転車にかけていた鍵を開けようと、後ろポケットにしまったカギを取りだそうとしたが……腰に回した手に、鍵の感触はなかった。

 

「……鍵が無い、書庫で落としかもしれないっす」

「マジですか」

「大マジっす……」

 

 最後に鍵の存在を確認したのは、書庫に入る直前だった。

 野々原縁がどうなのかは知らないけど、オレはちょくちょく落とし物をするタイプだったので、鍵や財布の様な貴重品をしまったポケットは何度か確認する性格だから、間違いない。

 当然の話だけど、鍵が開かないと自転車は動かせない。となれば、是が非でもオレはもう一度七宮神社に向かう必要があるわけで……。

 

「ごめん、塚本くん。もっかい上に行かないと駄目っぽい」

「今からまたこの石段を上るわけですか。災難ですね」

「うん……でも、それ以上に用事がある君を待たせちゃって申しわけない」

「あー、それについてはお構いなく。車を呼べば迎えが来ますから。僕の事は気にせずゆっくり戻っちゃってください」

「え、迎え来るの? それなら最初から自転車に二人乗りで帰るなんてしなくても」

「はい。でも、その方が楽しそうでしょう?」

「……はは、やっぱ不思議な性格してるね、君って」

 

 わざわざそんな理由で時間のかかる方を選ぼうとしてたんだから。もしオレがこのまま神社に戻らずに歩いて帰ろうと言い出したら、一緒に歩こうとしたんじゃないだろうか。

 

「それなら、ありがたくマイペースで戻るとするよ。でもその前に」

 

 そういって、オレは自分のスマートフォンを取り出して彼に見せる。

 

「何かSNSはやってる? 明日からも会うんだし、すぐ連絡取れるようにしておこうよ」

 

 オレの生きた頃には電話番号かメールアドレスが主流だったが、現代はそれに限らず幾らでも手段がある。

 それに伴う弊害も起きてるようだけど、総じていい時代になったものだと思う。

 

「──ああ、すみません。その手の連絡手段は使ってないんです。煩わしくて」

「……あぁ、そうなのね」

 

 まあ、そういう人も幾らでもいるだろう。

 

「じゃあ、電話番号でもいいかな? 電話すれば済む事だし、番号さえわかればショートメールでのやり取りはできるでしょ?」

「ええ、そっちなら問題なく。番号言いますよー」

「いや、画面だけ見せてくれれば。電話帳にささっと登録するから」

「かしこまりました、はいどうぞ」

 

 そう言って彼が見せてきた画面に表示された電話番号を、宣言通りささっと登録する。

 

「それじゃあ、今日はここまでって事で。ごめんね本当。それと改めて、今日はありがとう」

「こちらこそ、暇を持て余して時を浪費する手間が省けました」

「また明日」

「良い夜を」

 

 そんな会話を〆に、オレ達は解散した。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──あっ、戻ってきたんですね!」

「え、伊織さん?」

 

 石段をゆっくりと登り終えたオレを、伊織さんが迎えてくれた。

 

「これを取りに戻ってきたんですよね?」

「あ、拾ってくれたんですか!」

 

 タタタタ、と駆け寄り手渡してくれたのは、まさにオレが探していた自転車の鍵だった。

 

「落ちてるのを見つけて、すぐにあなたのだと分かったから追いかけようとしてたんです」

「やっぱ神社の中に落としてたか、これからは財布の中にでもしまっておくべきかな……」

「ふふ、コードリールに取り付ければ落とさなくてすみますよ。はいどうぞ」

「ありがとうございます伊織さん、おかげで助かりました」

 

 受け取った鍵は間違いなくオレの物。これで家まで長々と歩かずに済む。神社に戻ってから探す手間が省けて助かった。

 

「……」

「……」

 

 受け取ってから、途端に二人して黙り込んでしまう。

 普段ならすぐ書庫に行って調べ物して、夜になれば帰るって決められた流れがある。その中でなら会話に窮する事なんて無いし、幾らでも話せるのに。

 こんな風に思わぬタイミングで二人だけになると、初めて親の言いつけを破った子どもみたいに、ヤケにドギマギしてしまう。

 話す事が何も無いなら、あとはもう帰れば良いだけなのに、何故かそれを躊躇っている自分がいる。この時間を呆気なく終わらせる事にひどく勿体ないと感じてる自分がいるんだ。

 

「……あの」

「は、はい!?」

「っ、すみません、驚かせてしまって」

「ああいえ! オレが伊織さん前にしながら勝手に考え事しちゃってただけなんで!」

 

 まさか彼女から話を振ってくるなんて思わなかったから、少し驚いてしまった。と言うか人を前にしながら別の事に意識を持っていかれ過ぎだ、失礼だぞオレ。

 

「……すみません、なんです?」

「その、塚本さんが待ってないかと思って」

「あぁ、そうですね。彼なんですが、どうやら車で迎えが来るらしくて。オレと危なっかしい二人乗りするより遥かにマシって感じです」

「そうだったんですね、良かった……」

「え?」

「いえその! 鍵が無くて二人とも困ってると思ったので。えっと、それなら縁さんはこの後って急ぎの用事などはありますか?」

「いえ、オレは特に何も。お腹も減ってないからゆっくり帰ろうと」

「なら、よければ少しお話、していきませんか?」

「……っ」

 

 彼女の言葉は、オレにとってかなり予想外だった。

 

「初めてあってから、縁さんと今日まで毎日会ってますけど、お互いについて会話した事、あまり無かったと思うので……だめ、でしょうか?」

「……滅相もないです。そういえば確かに読んだ手記の内容についてばっかりでしたね、オレらの会話って」

「それでも縁さんと話すのは楽しいですけど、せっかくなので……結構気になってたんですよ? 縁さんはどうして今の状況になったのかだったり、縁さん自身はどんな人生だったのかだったり」

「どんな人生って言えばまぁ、死んでるので色々お察しになると思いますけど……あんまり、面白い話じゃなくてもよければ」

「えぇ。教えて下さい、私にあなたの事を」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 初めて会って、自分の状況を説明した時と同じベンチに座りながら、オレは以前とは違う、オレ自身の人生について、なるべく陰鬱にならない様に、そして決して正当化しない様に意識しつつ、話し始めた。

 

「端的に結論から言えば、オレはメンヘラでした」

 

 

「め、めんへら……メンヘラですか?」

「はい。メンヘラです。どんなのか分かります?」

「あんまり……おおよその意味は分かるんですが」

「さらっと言えば被害者ぶった加害者、同情されるだけの背景はあっても、決して手放しで可哀想とは言えない。認めたくないけどオレはそんな奴でした、そんな奴です」

「えぇっと、その……なんと言えばいいか」

 

 返す言葉が分からなくなり、伊織さんは困惑している。

 流石に始めから飛ばし過ぎたと内省しつつ、オレは切り替えの意味も込めて指を軽く鳴らしながら、続けて言った。

 

「冗談です」

「じょ、冗談なんですか?」

「はい、メンヘラってのは下手くそなジョーク、自虐です。滑りました無視してください」

「……もう、真面目に話してください。困ります」

「すみません……でも、全部が全部嘘って話では無いです。むしろ、今話した中で嘘なのがメンヘラって事だけな位で」

 

 視線を伊織さんから、オレたちの上で爛々と輝いている三日月に移す。すると三日月はこっちを見るなと言わんばかりに、瞬く間に雲に隠れてしまった。 

 

「少なくとも、私は初めて縁さんと会ってから今日まで、あなたが言う様な酷い人間だと感じた事は無いです。どうして、自分をそんな風に思ってるんです」

「……女の子を一人、死なせたんです」

「縁さんが……ですか?」

「ああいや、オレが殺したって意味では──いや、同じようなものですね。原因はオレにあったので」

「今も悔やんでるってことは、本当に大事な人だったんですね」

「えぇ。瑠衣《るい》って名前なんですが、幼なじみで。とは言っても一緒に過ごした時間はあんまり無かったんですが」

 

 話す前に、今一度自分の過去と、今年の六月に出会った"この世界の瑠衣たち"との思い出を振り返った。

 自分の過去を話すのはこれが初めてじゃなく、野々原縁がオレの記憶をもとに野々原渚へ話した事がある。

 その時はかなり大雑把に説明したが、今回はもう少し細かく伊織さんに説明しようと思う。

 

「瑠衣とは小学校五年生の時まで一緒に遊んだりした仲でした」

「そうなんですね……途中で遊ばなくなったのは、何があったんですか?」

「父が、犯罪者になったんです」

 

 金持ちの家に数人の仲間と押し入って、強盗をした。

 その時、偶然大人が家を留守にしていた為に金目の物が手に入らず、家中を手あたり次第に荒らしまわした。

 それだけならまだ良かったのだが、最悪な事にその日、家には子どもたちが留守番をしていた。

 そして、父と仲間たちはその子どもたちを手にかけた。全員殺したとも、一人だけ生き残ったとも聞いてるが、とにかく、父はオレの生まれ育った町の人間なら誰でも知る犯罪者となり、母はそんな犯罪者の妻、オレはその息子というレッテルを強制的に貼られる事になった。

 

「人殺しの家族が同じ家に留まるわけにもいかないですよね? 案の定昨日まで仲良かった近所の人が、たちどころに白い眼を向けてくる様になりましたよ。だから急いで引っ越したんです。当然、瑠衣とは別れの挨拶すらできませんでした」

「そんな……縁さんは何も悪い事してないのに、どうして」

「そんな物ですよ、少なくともオレの周りはそうでした。そしてそれは、引っ越した後も同じでした」

 

 引っ越し先は安いアパートだった。最初の数日は大丈夫だったが、すぐにオレ達親子の素性は知られて、あっという間に村八分の出来上がり。

 理解を示してくれる人は僅かにいたが、それ以上のストレスや謂れのない誹謗中傷がオレ達に降りかかった。

 オレは当時まだ小学生だったから、周りの態度や言動も耐え得るものだったけど、母はすぐに限界を迎えていた。

 小学校六年生の誕生日、学校から帰宅したオレを待っていたのは誕生日ケーキでもプレゼントでもなく、自殺して冷たく固まった母の死体だった。

 父の犯罪と母の自殺、それらのショッキングな事実を受け止められる程オレの精神は強くなかった。そこからしばらくの間オレの記憶はあいまいで、気が付くとオレは中学生を卒業して高校生までなっていて、周囲から孤立していた。

 

「いじめとかは無かったんです。そういう形での接触すら避けられてたんでしょうけど……とにかく、明るく活発な少年だった頸城縁くんは、あれよあれよと人と関わらない奴になっちゃいました」

「す……すみません、想像してたより話が重くて、あまり言葉が出てこないです」

「ですよね」

「それに、今の縁さんとは普通に会話してますから、正直本当にそんな事があったなんて思えなくて……」

「死んじゃいましたからね、オレ。死んでからも同じ気分で居られませんよ、ははは」

「……笑えませんよ」

「ん……失礼しました」

 

 ここまでは、聞いた人間の全員が同情してくれる話。

 問題はこの先、高校三年生になった俺が新入生の瑠衣と再会してからにある。

 

「この当時、オレには一人だけ堀内っていう友人が居ました。堀内は二年の時からの付き合いで、周りから避けられてるオレに自分から絡みに来る変な奴でした」

 

 オレにヤンデレCD(と、それを素材に作成された動画)の存在を教えたのも堀内だ。

 めんどくさがり屋で、普段からいい加減な態度。それでいて一年の頃から班長とか委員長とか、部活動でも副部長になったり、やたら人をまとめる立場に付く男だったよ。

 聞けば中学の頃から水泳部のスポーツマンらしいが、普通にサブカルにも手を出すから、クラスのヤンチャな奴とネクラなオタクの両方と上手に付き合ってた。

 

「こんな事、アイツには死んでも言えませんが、今オレが伊織さんや塚本くんと会話する時、結構アイツの振る舞い方を参考にしてるんです」

「真似できるくらい、仲が良かったんですね」

「違いますよ! ……まぁ、でも、アイツの人間関係構築力の高さは、当時から本当に凄いと思ってましたよ。不思議なカリスマ性があったんだと思います」

 

 良くも悪くも人を選ばず、どのクラスカーストにも属さないが、満遍なくコミュニケーションを取る。出世する人間てのはああ言うのを指すんだと、今ならよく分かる。

 

「そんな奴だからこそ、オレと友達なんてなろうとしたんでしょうね。後にも先にも、悪意無くオレに関わろうとしたのは瑠衣を除けば堀内だけでしたから」

「……ふふっ」

 

 不意に、伊織さんがクスリと笑った。

 

「縁さんは、本当にその堀内さんが好きなんですね。気づいてます? さっきから遠回しだけどずっと、堀内さんの事を誇らしげにベタ褒めしてますよ?」

「……うっ」

「瑠衣さんと再会するまで……うぅん、今でも。堀内さんは縁さんの中で救いになってたんだって、凄く伝わります」

「あ〜〜〜……はい、そっすね」

 

 オレが瑠衣や堀内らに対してどう思ってたかは、“この世界”にいる二人に伝えた言葉のままだ。

 あの時は野々原縁が代弁する形になったが、あの別れ際口にしたのは紛れもなくオレの本心だったのだから。

 ただ、それを出会ってようやく一週間を迎えそうなばかりの女の子に見透かされたのが、無性に気恥ずかしい。

 

「そんなに分かりやすかったですか、オレ」

「はい」

「露骨に言動に出てた?」

「ええ、これでもかってくらい」

「うぅわ、はず……オレまじハッズ……生きてた頃はツンツンしといて死んでから本人のいない所でデレデレとか、今日びツンデレでもやらねえよ……」

「もう、縁さん、一人で勝手に羞恥心に呑まれないで話を続けてください」

「……地味に容赦しないっすね、伊織さん」

「巫女なので」

「何ですかその新たなギャグ、少しドヤ顔で可愛いっすね、そんな事も言えるなんて意外でした」

「…………っ」

「割と本気で照れんでくださいよ!!」

 

 静かな……セミの鳴き声で静かとは程遠い夜の神社の境内に、オレのツッコミが響き渡る。

 さながら即席の漫才を堪能した両者の間に流れる沈黙。

 

『ふふ、あははははは!」

 

 それを破ったのはどちらからともなく噴き出した笑い声だった。

 

「あーもう、こんなに笑ったの死んでから初めてですよ」

「私も、縁くんと出会ってからはよく笑いますが……、ふふっ、こんな風に笑うのは久しぶりな気がします」

 

 特に目立つ様な笑いのネタがあるわけではない。オレと伊織さんのやり取りから自然に生まれた、楽しいと言う気持ち。

 それはまるで、幼い頃に瑠衣と過ごした日々の様でいて──だからこそ。

 

「今、たくさん笑えて良かったです。こっから先は“もう笑うしか無い”って内容になるので」

「──はい、続けてください」

 

 せっかくの和やかな空気を壊したくなかったが、既に言った通り、高校生のオレは加害者だ。いつまでもケラケラしてられない。

 

「オレが三年になって、新一年生の入学式があった日の帰りに、瑠衣は急にオレの前に姿を見せました。もう七年くらい会わなくなって体格や人相も変わったはずなのに、瑠衣は一目でオレを見つけたんです」

 

 生徒がたくさんいる中で、隣に堀内もいた所に大声で『やっぱり縁だ!』と女の子が駆け寄ってきた時はマジで焦ったし、周囲の目も刺さるから冷や汗ダラダラ。とにかくその場を離れたい一心で逃げる様に家まで走った。

 

 マラソン走者さながらに帰宅した後、玄関で突っ伏して息を整えつつ、“誰だあの子は”って疑問で脳みそをパンパンにしてたが、二分くらい考えてようやく瑠衣だと思い至って、懐かしさとほろ苦さがいっぺんに押し寄せる。

 明日からの学校には瑠衣が居る。明るく溌剌な小学五年生の自分を知る彼女に、今の自分を見られたくなかった。

 “明日からどんな顔して学校行けば良いんだ”──そんな事を悩んでたら、

 

『おーい縁、幼なじみの瑠衣ちゃん連れてきたぞー』

 

 堀内の大馬鹿野郎が、しっかりオレ達の関係性までおさえて瑠衣を連れて来やがった。

 比較的に良く通る声が玄関越しに聞こえて、扉一枚向こうには瑠衣が居るって事実に、オレはある意味で怯えてた。

 だが、こうして居留守を使えばひとまず会わずに済む。そう思ってたのだが──、

 

『あ、鍵開いてるじゃん』

 

 大馬鹿野郎はもう一人いた。

 

『入るぞー』

「ま、待て!!!」

 

 人生で三番目くらい素早く動いて、扉にチェーンを掛ける。

 

「あっ! チェーン掛けやがった! 往生際が悪いぞ」

「うるせえ! 帰れ! オレは今日忙しいんだ!」

「絶対嘘だ。数年ぶりに幼なじみに再会するのが恥ずかしいだけだろ」

「いいから帰れって──うわぁ指を這わせるな怖いだろ!」

 

 ドアの隙間から堀内の指が死にかけの触手みたいに(うごめ)いて、チェーンをかちゃかちゃ揺らす。更に顔を覗かせて、目ん玉をまん丸と開きながらこちらを鋭く睨むから、ホラー映画みたいで普通に怖かった。

 

「あーけーろーよー」

「そんな不気味な奴、平時でも家に入れるか馬鹿!」

「もう堪忍しろって、ここに来るまでにお前がどんなスクールライフだったかは、俺が事細かに教えてるから気にする必要無いぞ」

「──っ!」

 

 その時懐いた感情が苛立ちなのか、羞恥心なのかは分からなかった。もしかしたら彼女にだけは、綺麗な頃の自分だけを憶えて欲しかったのかもしれない。

 

「余計な事しやがって、迷惑だ帰れ!」

「おお、そんな怒るなよって」

「怒ってねえよ!」

「怒ってるじゃん絶対に──うわわ、ドア閉めようとするな」

 

 無理やりドアを閉めようとするオレを見て、堀内は急いで指を離した。

 

『危ねえだろ、怪我するぞ!』

「オレはしねえよ! 帰れもう、帰れよ!」

 

 そう言いながらすぐに扉の鍵も閉めて、もうこれ以上何を言われても無視するために部屋に篭ろうと踵を返した。その直後だ。

 

『──あの、縁?』

 

 瑠衣の言葉が聞こえた途端、足が止まった。

 

『縁の事については、全部アタシが聞いた事なの。幼なじみだった事を言ったのもアタシから。……だから、堀内さんの事は責めないで』

 

 久しぶりに耳にする彼女の声は、さっき学校で聞いた時とは真逆の声色だった。

 

『ごめんね、無理に押し入る様な真似しちゃって……もうこう言う事はしないから……。あの、でもね、久しぶりに会えて良かったと思ってるよ。本当に、ホントだよ!』

「……」

『今の縁が、昔と違うのは分かってたつもりだったけど、ちゃんと分かって無かった……もう、こう言う事はしないから。学校でも、気をつけるね……』

 

 瑠衣は今にも泣き出しそうなくらい辛そうだ。

 話を聞いてるうちに、オレの中から叫び出したくなる様な衝動が湧き上がってくる。

 他の誰でも無い、オレの言動や態度のせいで瑠衣を哀しませたと思うと、これ以上耐えられる気がしなかった。

 

『それじゃあ、さような──』

「待て、待って!!!」

 

 人生で二番目くらいに素早い動きで、ドアの鍵とチェーンを開けて、そのままの勢いで扉を開けた。

 扉の先にいた瑠衣は、驚きつつもしっかりとオレを見据え、一瞬間を置いてからくにゃっと顔を綻ばせる。

 

「──久しぶり、縁お兄ちゃん」

 

 ぴんと跳ねた左右のアホ毛。

 泣き顔から笑顔にぐるっと豹変する表情。

 犬がブンブンと左右に尻尾を振るみたいに、腕をわきわきさせて『嬉しい』という気持ちを表現する仕草。

 

 そのどれもが、オレの知る彼女まんまだった。

 何もかも変わった自分の前に、あの頃の輝きを失わなかった瑠衣が居る。

 その事実は、貧相な自分の語彙では表現できないほど複雑で、激しい感情をオレに与えた。

 それらをぐっと飲み込んで、オレは極力情け無い顔にならない様に意識しながら、七年ぶりに彼女の言葉に答えた。

 

「うん……久しぶり、瑠衣。元気そうで何よりだ」

 

 もっと気の利いた言葉はねえのかと自分で思ったし、後日堀内からもこっそり叱られた。

 とはいえ、この時はこれが精一杯だったのだから仕方ない。それにこんな雑な返事にだって、瑠衣は直後の瑠衣は大喜びしてくれたのだから。

 

「うん、うん……元気だよ──元気だったよ──!!」

「──なっ!?」

 

 主人から『よし』と言われて駆け寄る犬みたいに、瑠衣はオレにタックル──ではなく、全力の抱擁をぶつけて来た。

 秋田犬が全力で乗り掛かるとこんな位だろうか、という重みで転びそうな身体に喝を入れ、どうにか踏ん張りながら、止まっていた二人の時間が動き始めたのを、全身で感じた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 それからオレ達は、七年間の溝を埋める様に一緒の時間を過ごした。

 放課後や休日、瑠衣から誘われて町のあちこち、たまには町の外にも出かけたりした。

 出かけてやる事と言えば、瑠衣の行きたい店で食事したり、買い物に付き合ったり、動物園やら水族館やら回ったり、後は徒歩や自転車で意味もなくあちこちブラブラ回って探検もどきの様な事をしたり、様々だった。

 堀内と三人で遊ぶ日もあれば二人きりで遊ぶ日もあって、二人だけで遊ぶ事の方が多かった。誘われてばかりじゃ申し訳ないし情けないからと、二回くらいオレから誘って都内まで遊んだ事もあって、その時は物凄く喜んでくれて……そんな瑠衣の姿を見てオレも嬉しくなった。

 彼女の笑顔は、オレが住む町の人間がよく浮かべる陰鬱気味な物とは全く違う、太陽の様な笑顔だった。

 そんな彼女の隣を並んで歩くと、まるで恋人同士のデートみたいだと思った時もあったが、その時のオレはすぐにそんな考えを振り払って、ただの幼なじみ同士で遊んでるだけだ、と思う事にしていた。

 今にして思えば、そのくらい、心から浮かれてたんだろう。

 

「デートですね」

「違いますよ」

「誰が聞いてもデートじゃないですか。縁さんは私に生前の惚気話をしたいんですか? ここから先は笑えないとか加害者って言うのは、そう言う意味で言ってたんですか?」

「違いますって……最後まで聞いてくださいよ。急に当たりきつくなってるじゃないですか」

「……ん、続きをどうぞ」

「それじゃ……。とにかく、オレは瑠衣と再会してからは、だいぶ楽しい時間を過ごせました。だけど、学校では極力自分と関わらない様に言ってたんですが、それを瑠衣は聞いてくれなかったんです」

 

 学校で不用意に絡んで、そこから目をつけられたら大変な事になる。そう思ったオレの意見を瑠衣も堀内も聞いてくれなかった。

 朝の校門前、お昼の食堂、放課後……すれ違えば必ず瑠衣はオレに声をかけて明るく会話を持ちかけてくる。邪険に扱うなんて出来るわけないし、その場に堀内が居れば必然的にオレがツッコミ役として立ち振舞う事になる。

 もうどうやっても、瑠衣が入学する前よりも目立つしかない日々を送っていた。

 

「こんなんで大丈夫なのか、そんな不安が常に頭の中を占めてたんですが、まぁやっぱり的中したんですよね、最悪の相手に目をつけられたんです」

 

 初瀬川、という東京から急に転校して来た一人の男がいる。

 父親がどっかの議員先生とやらで、その七光を存分に浴びた初瀬川は、転向早々常に堂々した態度で振る舞っていた。

 とは言え顔は良くて金もあり、根暗とは真逆の性格だから、比較的早くクラスの中で立場を作っていき、十分な存在感を持つに至るまでになったが、一部の生徒は彼の裏を知っていた。

 

「初瀬川は教員の前では自身溢れる好青年を演じてましたが、裏では何人かの連れと一緒に生徒を恐喝したり、暴行するクソ野郎でした」

 

 怪我人も出たが、親のコネで黙らせて、また新しい“生贄”を見つけて同じ事をする……そんな事をしてる男が次に目をつけたのが、事もあろうに“犯罪者の息子”と地元の学生達から避けられてるオレだった。

 始めは無視したし、オレの隣に学生人気の高い堀内も居たから初瀬川からのアクションは些細な物だった。しかし、瑠衣の存在を知ったアイツはオレを脅しに入った。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「君が最近よく一緒にいる女の子、結構可愛いよね? ああいう素直そうな子を騙してるのは良くないと思うな」

 

 放課後になって帰ろうとした六月のある日、奴は急にそんな事を言い出した。

 始めは何を言われてるか意味が分からなかった。

 だから、今まで同じ様に無視して教室を出ようとしたが、この日ばかりは初瀬川も強気で、オレの肩を掴んで引き止める。

 

「無視してるんじゃねえよ、犯罪者予備軍が」

「手を離せよ、お前と話すつもりなんて無い」

「そうやってまた女の子騙して楽しい思いするつもりかよ」

「さっきから……誰が誰を騙すって? 馬鹿言ってろ」

 

 そう言って肩を掴んだる手を振り払い、今度こそ教室を出ようとしたが、出入り口には奴の取り巻きの一人が立っていた。

 背後から初瀬川の声が続く。

 

「だってそうだろう? お前みたいな危険な人間を、一体誰がどうして、好き好んで近づこうなんてするよ? あの変人の堀内ならともかく、女子が積極的にお前に声かけるなんてありえないだろう?」

「……」

「ましてや、あの子は一年だ。つまり、まだ右も左も分からない彼女を良いように吹き込んで、騙してるとしか思えない。それが自然な考えだろ? 君を知ってる奴ならみんなそう思ってるさ」

「勝手な事言ってんじゃねえ。オレは瑠衣に何も吹き込んでねえよ……だいたい、お前にとやかく言われる筋合いもねえよ」

 

 既にはらわたが煮えくり返るくらいの苛立ちは募っていたが、ここで手を挙げればどう足掻いても自分が不利になる。この学園での立場を鑑みれば、たとえ初瀬川に非があろうととオレが疑われるのは火を見るより明らか。

 我慢するより他はない、そう自分に言い聞かせながらいち早く帰る事を優先していたのだが、

 

「じゃあなんだい? 瑠衣って子はお前がどんなに危険な奴なのか分かった上で、わざわざ自分から近づいてるってのかい?」

「だったら、なんだってんだよ」

「ああ、そんな危ない思想の人間がこの学校にいちゃ、今後が危ぶまれるなぁ。退学してもらわないと」

「──ハァ!?」

 

 思わず、振り返って初瀬川の胸ぐらを掴みかかってしまう。ダメだと分かっていても、理不尽に瑠衣を巻き込もうとする話を聞いてしまった以上、我慢出来なかった。

 そして、それが不味かった。この時ニヤリと口角を上げる初瀬川の表情に、オレは気づく事が出来なかった。

 

「ふざけんな、瑠衣は関係無いだろ……! アイツはオレの幼なじみで、オレの親父が罪犯す前から知ってるから声掛けてくれてるだけだ、勝手に巻き込むな」

「だったらなんだよ、昔の君と今の君とは違うだろ。現に今、君はこうして俺に暴力を振おうとしている、言葉だけの俺に対して実力行使で黙らせようとしてるんだ」

「けしかけてるのはお前だろうが、白々しい事言ってんじゃねえぞ」

「たとえそうだとしても、大人が信用するのはどっちだ? この場を教師が見たら誰の言葉を信じる? 当然俺だ。そうなれば瑠衣って子は勿論、日頃からお前と居る堀内の奴もどう思われるかなぁ……ははは!」

「──クソ野郎が!」

 

 胸ぐらを掴んでた手を離す。初瀬川は服を軽く伸ばしながら二、三歩下がりつつ、この上なく薄っぺらい笑顔を見せつつ言った。

 

「可哀想だなぁ、犯罪者の息子ってのは。普通に学校で友達と過ごす事すら、許されないんだからさ。同情するよ、心から」

 

 それ以上、初瀬川の言葉を聴くのは限界だった。

 踵を返して、出入り口を塞いでた男を無理やり押し退けて教室を出て行く。

 もはや、初瀬川が話しかけてくる事も無かった。奴のやりたい事は全部やり終えたからだろう。

 

 そして、オレの中でもある決断が出た。

 それが全部を終わらせる、最悪のアイデアだとは露とも知らずに。

 

「あ──、待ってたよ縁! 今日は遅かったね」

 

 校門前でソワソワしながら立っていた瑠衣が、オレを見つけていつもの笑顔を浮かべながら駆け寄って来た。

 前から例えに用いてた様に、本当に子犬の様な振る舞いの彼女を見て一瞬、決意が揺らいだが、オレはそれをグッと押し込めた。……押し込めて、しまった。

 

「……どうしたの? 様子変だよ、何かあった?」

 

 顔を見るや否や、いち早くオレの異変を察知する。

 こんなにオレを理解してくれてる存在なんて、他には居ない。それほどオレにとって大事な人だからこそ──そう自分に言い聞かせて、オレは言った。最悪の言葉を。

 

「──瑠衣、もう今後二度と、オレに関わるな」

「──えっ?」

 

 言われた瑠衣は始め、言葉の意味を十分に理解出来ていない様だった。

 やがて言葉を咀嚼し、飲み込み、ちゃんと意味を理解出来て──そして始めて、信じられない様な顔で言った。

 

「急に、どうしたの? なんでそんな事言うの? 誰かに何か言われた?」

 

 そこまで分かってくれるのかと、泣きそうになる。

 でも、それでも、これ以上オレと居る事で初瀬川達から目を付けられるわけにはいかないから──オレは、言ってはいけない言葉を口にした。

 

「もうウンザリなんだよ! いつもいつもまとわりついて来やがって! 邪魔なんだよ鬱陶しい!」

「──っ!」

「幼なじみだから無条件に何でもかんでも受け入れられると思ったか? 大間違いだよ。今日まで我慢してたが、流石に限界だわ。……もう二度と関わんないでくれ」

「──どうして、そんな事、急に言うの?」

「だから言ってるだろ、限界なんだって──」

「嘘だよ!!」

 

 オレの言葉を遮ってそう叫んだ瑠衣の顔は、オレが初めて見る物だった。

 怒りと、それ以上に哀しみ。何処までもオレが本心から口にしてるわけ無いと信じていて──その上で、突き放そうとしてるオレと、そうけしかけた誰かに対して怒っているのをひしひしと感じる。

 

「ねぇ、本当の事を言って? 縁がそんな酷い事簡単に言える様な人間じゃ無いって事くらい、私分かるよ? 理由があるんでしょ? 誰かに、さっき何か言われたんだよね? ならそう言ってよ、私一緒にその人に言うからさ、縁はそんな人じゃ無い、私も好きだから一緒にいるんだって!」

「…………っ」

「だから、“もう関わるな”なんて冷たい事言わないでよ……、学校で話すのがダメならこれからはそうするから、だから……やっとまた会えたのに、一緒に居たいのに、また離れるなんて、嫌だよぉ……っ!!」

 

 そう言いながら、彼女の瞳から涙が溢れる。

 初めて、瑠衣を泣かせてしまった。

 先程からずっと自分を動かして来た歪んだ使命感と、類を泣かせた罪悪感が、オレを壊した。

 

「──っ!!」

「縁!? 待って、待ってよ……」

 

 トチ狂った脳と心は、オレの体をとにかくその場から引き離す事だけを考えた。

 意味のわからないまま、とにかく走って、走って、走って走って走り続けて、家まで逃げた。

 

 これが、オレの罪だった。

 被害者だったオレが、加害者になった瞬間だった。

 オレを無条件に受け入れて、最後まで信じてくれた女の子を、その想いを、無碍にして、裏切って、突き放した。

 

 ──これが、オレと瑠衣の最後の会話になるとも知らずに。

 

 

 オレと別れたその後すぐに、瑠衣は死んだ。

 

 知らせを聞いて駆け出したオレは、急に強く降り出した雨に打たれながら病院に向かい、そしてびしょ濡れで冷たくなりなりながら──もっと冷たくなって二度と目覚めない瑠衣の死体を目にしたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──死因は、屋上からの転落。一部のフェンスが壊れていて、そこから落ちた事による物だとすぐ分かりました」

「……そんな、そんな事って、あって良いんですか……」

「あったんですよ。だけど、瑠衣の死因は決して自殺なんかじゃ無かった」

 

 そう、瑠衣を知る人間なら誰だって、死因が別にある事は分かってる。

 衣服が不自然に破けていた事や、瑠衣自身の性格から鑑みても自殺はおかしい。

 でも、客観的に見てそれくらいしか理由は無かったし、警察もそれ以上の動きを見せなかった。

 瑠衣のご両親も当然納得なんてして無かったが、愛娘を亡くした事や、葬儀の準備などで忙殺されてしまい、真相を突き止めるまでの余裕はない。

 葬儀の日は六月の二八日で、オレをぶっ殺したって文句は言えない位なのに、瑠衣のご両親は葬儀によんでくれた。

 だけど葬儀の当日、オレは式場には居なかった。葬式には遺影がある、そこにはきっと彼女の笑顔があって、オレはどんな形であれもう二度と、彼女の顔を見る資格はないと思っていたから。

 

 その代わりに、オレは高校の体育倉庫に居た。

 喪服ではなく制服を着て、正面には参列者では無く初瀬川が居た。

 何故ここに初瀬川が居るのか。答えは単純、オレが呼んだから。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 瑠衣が死んだ翌日、自室でボンヤリとテレビを点けていたオレの耳に、家電話の鳴る音が届いた。

 椅子代わりに腰掛けていたベッドから立ち上がり、受話器を取ると、声の主人は安堵した様にまずため息をこぼした。

 

『良かった、生きてたか、縁』

「ああ、堀内か。どうした」

『どうしたって……今日お前来てないから、もしかしたらと思って』

 

 どうやらオレが自殺してる可能性を考えて、電話して来た様だ。

 

「変な心配するなよ、お袋のマネなんかしねえよ」

『そっか、そっか……なら良かった』

「死んだって瑠衣が生き返るわけでもないしな」

『……あぁ、そうだ。そうだよ』

 

 この時のオレはもう、自責の念やら後悔やら、怒りやら悲しみやら、楽しかった頃の思い出やら最後に関した交わした言葉やら、もう何もかもがない混ぜになって心がぐちゃぐちゃだった。

 だから、登校する気も無ければ死ぬ気もない。

 

「もういいか、お前も授業あるだろ、切るぞ」

『その前に、お前には伝えないといけない事があるんだ』

「なんだ」

『昨日、な。警察は全くその辺無頓着だったけど、何人も見てたんだよ。瑠衣が屋上に向かってくの……初瀬川達と』

「──は?」

 

 堀内が言った言葉の意味を、正しく理解して呑み込む。

 

「それ、ほんとか」

『ああ、誰も本人には聞けないが、今日すぐに警察に伝えた奴も居て、その上で初瀬川には何も聞かれる事無かったよ。これ、絶対アイツらが何かしたって──』

「──っく、ふふふ、ははははは!」

『縁……?』

 

 こんなのもう、笑うしか無かった。

 だってそうだろう。

 初瀬川達が“何かした”? 

 馬鹿かよそんなの、アイツが“何もかもした”に決まってるだろう! 

 

『まだ警察が動かないと決まったわけじゃない、だから縁、頼むから、早まるなよ?』

「早まるなって──くく、オレが何すると思ってんだよ」

『そりゃお前、もし本当にアイツが瑠衣ちゃんを殺したってなら、やりたい事は決まってるだろ』

「……」

『殺すなって言わねえよ、でも、もし本当にそうするって決めたなら、俺も巻き込ませろ。良いな?』

「──お前こそ早まんな馬鹿。晴れて部長なって、今度デカい大会控えてるんだろ、あんな奴のせいで人生棒に振る様な事考えるじゃねえよ」

『縁……』

「電話、サンキュな。笑ったら急にお腹空いたから、もう切るよ」

『あぁ、じゃあ、またな親友、待ってから』

 

 そう言って、堀内との電話を終えた。

 

「何が親友だよ、まだ知り合って一年ちょいだろうが」

 

 もっとも堀内なら、仲良くなるのに年月や時間は関係ない、なんて言うんだろうが。

 

 兎にも角にも、皮肉にも。

 ぐちゃぐちゃで木っ端微塵だったオレの心は、他ならぬ初瀬川という存在によって、再構築された。

 

 翌日からは登校し、驚く生徒達の視線を完全に無視して、オレは静かに──瑠衣と再会する前と同じ日々を過ごした。

 ただし、堀内にはひたすら瑠衣が死んだ時の目撃情報や、初瀬川自身の過去について調べて貰った。

 

 そうして、初瀬川が東京からオレ達の住む町に来た理由と、やはり初瀬川が犯人だという確信を温めて──警察が全く動く事無いと分かった時、オレは決めた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「この後、呆気なく初瀬川は自分が瑠衣を屋上に呼びつけて、落とした事を認めましたよ。──もっとも、アイツは最後まで自分は悪く無いとのたまってたけど」

「最後まで……?」

「えぇ。オレが初瀬川を殺したんです」

「……そう、ですか」

 

 伊織さんの表情が今日一番に引き攣る。

 そりゃそうなるだろう、こんな簡単に人殺しを告白されちゃ、誰でも。

 

「実を言うと、胸にボイスレコーダー仕込ませてたんですよ。万が一アイツが泣いて謝って来たら、証言を警察や新聞局に突き出して、社会的に殺すのもアリだなって」

 

 でも、そんな事は考えるだけ無駄な仮定だった。

 一人で来いと言ったが、当然の様に奴は取り巻きを呼んでいて、そのうちの一人に後頭部をバットで叩かれた。多分それが致命傷になったんだと思うが、

 

「お陰で正当防衛も成立したから、心置きなく全員殺しました。いや、殺す気で殴ったのは初瀬川だけなので、他が死んだかは分かりませんけど」

 

 そう言って、深く深く、息を吐く。

 視線は地面に。もうこれから先、伊織さんの顔を見るのは怖かった。

 だけど、話すと決めた以上、口だけは変わらず動かし続けた。

 

「結局、瑠衣の葬式の日にオレは死にました。人殺しの息子は晴れて、正真正銘の人殺しになったわけです」

「……」

「過去話は以上で終わりです。長くなっちゃいましたね。本当はサラッと流し流しのつもりでしたが、やっぱ無理でした」

「……」

「最初に言いましたよね、オレは加害者だって。そう言う事です」

 

 瑠衣の心を傷つけて、踏み躙った。

 初瀬川とは言え、人を殺した。

 

 なら、オレは明確に加害者だ。

 何がメンヘラだ、そんな生ぬるい物では無い。

 

「オレと関わらなきゃ、瑠衣が死ぬ事は無かった。オレのせいで瑠衣は死んだんです。瑠衣が絡まなきゃ初瀬川を殺す事も無かったでしょう。結局、オレは人殺しなんです」

 

 さぁ、伊織さんは何で反応するかな。

 

 怖がって拒絶するのか。

 はたまたそんな事無いって否定してくれるのか。

 または、何も言わずに部屋に戻って、二度とオレとの関わりを断つのか。

 誰が来ても構わないが、やっぱり少し、いやだいぶ怖い。

 

「……」

 

 伊織さんが何も言わないまま、一歩こちらに歩み寄る音が聴こえた。良かった、どうやら無言で去る事は無いらしい。

 一歩、また一歩と距離が縮むにつれて、自分の心臓の音が嫌に激しく聴こえてくる。

 

 そうして、また一歩。もうオレの目の前で、視線の先に彼女の足先が見える程の距離だ。

 緊張と怖さの相乗効果で、とうとう目も開けられなくなりオレはギュッと瞼を閉じる──その直後、

 

「──っ!」

 

 優しく、頭から抱きしめられる感覚がオレを包んだ。

 流石に驚いたが、伊織さんの続けて放った言葉に、オレは一切抵抗する気を失った。

 

「──話してくれて、ありがとう」

 

 今までの敬語口調では無い、恐らく彼女の素の話し方で、伊織さんは『ありがとう』と言った。

 ありがとう? 何で彼女は礼なんか言うんだろう? 今の話のどこに、オレを抱きしめてまで礼を述べる要素がある? 

 

「貴方が今話してくれた事は、決して気軽に口に出来る物じゃなかったと思う」

「──そうですけど」

「貴方が二人の死因になった事は本当かもしれません。でも、私はそれを罪だとは思いません……思えません」

「どうして、です?」

「貴方が生きていた時に味わった苦しみや哀しみ、怒り……どれも想像出来ない位過酷な物で、それは全部、貴方だけの物。そんなに苦しい思いをした果てに起きた悲劇を、貴方の行動を否定出来る人間なんて居ないわ」

「……オレだけの」

「そう。貴方だけの。それを包み隠さず私に話してくれた事が、嬉しい」

 

 そんな事言われるとは思わなかった。でも、不思議と胸にストンと落ち着くのは、抱きしめられながら言われてるからだろうか。

 

「でも、だからこそ気づいて欲しい、貴方自身の心に」

「?」

「さっき、貴方は自分の心をぐちゃぐちゃになったって言ったけど、それは今も変わらないはずよ」

「そんな事無いですよ、オレはもう──」

「なら、どうしてずっと貴方は泣けないでいるの?」

 

 泣けない。

 泣かない、ではなく。泣けない。

 たった一文字の違いだが、それはとても大きな違いをもたらしている。

 

「自覚してる以上に、貴方の心はまだ哀しんでるし、苦しんでる。でも泣けないのは、ずっと“自分には泣く資格なんて無い”って自分を縛り付けてるから」

 

 伊織さんにそう言われた直後、かつて瑠衣から言われた言葉がオレの脳裡を過った。

 

『縁はさ。 抑え過ぎなんだよ』

 

 そうだ、あの時もオレは伊織さんと同じ様な事を言われてたんだっけ。

 

『抑え込まれすぎて、それが普通になって、もう誰も抑え込む人がいなくなっても、今度は自分で自分を抑え込んでる。 もう、縁に嫌なことする人なんて居ないんだから、もっと我がままでいようよ』

 

「自分の心に気づいて。泣いたって良い。ここは神社で、神以外には私しか居ないから大丈夫。泣く縁さんを咎める人なんてもう、何処にも居ないわ」

 

 ──あぁ、マズい。

 

 本当に偶然なのだろうけど、瑠衣と同じ言葉を今こうして、信頼出来る人に言われたりなんてしたら、崩れてしまう。

 瑠衣が死んだ日に枯れた筈の涙が、心をぐちゃぐちゃにして感じなくした罪悪感が、後悔が、そして何よりも──、

 

「たくさん泣いて、たくさん哀しんで、そしてたくさん、瑠衣さんと過ごした時間を想ってあげて」

「──でも苦しいですよ、本当の本当に、死にたくなる位辛いんですよ」

 

 瑠衣と過ごした時はほんの二か月しか無いのに、オレが生きた一八年の人生で一番強烈で輝かしくて、それを喪った事実と真正面から向き合うなんて──、

 

「ほんの僅かな時間だったとしても、どんなに苦しくても、その苦しみや辛さは全部、貴方にとって瑠衣さんがどれだけ大切な人だったかを証明する物だから」

 

 ──もう、限界だった。

 

 気がつけば、オレは伊織さんの背中に腕を回して、ぐっと身体を預けて──両方の目から大粒の涙を溢しながら、子どもみたいに泣いていた。

 

 罪悪感と、後悔と──そして。

 死んでからやっと、瑠衣の事を、瑠衣と過ごした思い出を想って、泣いた。

 

 自分の心に無頓着過ぎた馬鹿な男の泣き声は、雲間から差し込む月光の下に佇む神社の中に、しんしんととけていった。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「まさか、女の子に抱擁されて号泣する日が来るとは思ってもいなかった」

 

 それが、散々泣き腫らして落ち着いてから最初の感想だった。

 正直、落ち着いてからとは言ったものの、信じられないくらい顔が赤い。まだ恥ずかしさは全く鳴りを潜めてはいない。

 

「あの……すみません。あんなはしたない事を、つい……」

 

 隣でそう返したのは、オレに負けず劣らず羞恥で真っ赤っかになってる伊織さんだ。

 初めて会った時は手が触れただけで平手打ちするくらいの人だ、そりゃある程度見知った仲とは言え本来はめちゃくちゃハードルの高い行為だった筈。あまり恥ずかしさを引きずるのはやめておこう。

 

 それに何より、彼女のおかげで自分の心の中にずっとあった重しのような物がスッと消えたのだから。

 

「謝らないでください。むしろありがとうございました。色々本当に、楽になったので」

「本当ですか? ……なら良かったです」

「──ていうか、口調、戻っちゃいましたね」

 

 さっきまでは敬語なんてほぼ無くて、凄いフランクな口調になってたのに。いつの間にか従来のものになってた。

 それを指摘すると、一層顔を赤くして伊織さんは言った。

 

「さっきのはその──アレが私の普段の口調ではあるんですが……さっきの縁さんを見てたら装う余裕が無くなって……」

「じゃあ、これからもその口調で居てくださいよ」

「え、でも……馴れ馴れし過ぎませんか?」

「その方がオレも嬉しいです。それに──」

 

 一度目を閉じて、思い出す。

 さっき戻る前には塚本くんから、生前は堀内から言われた言葉を。

 

「──仲良くなるのに、年月や時間は関係ない。らしいので」

「……うん、分かったわ。それじゃあその、これからはこんな口調になるけど……」

「うん、その方がやっぱ良いです」

「……もうっ」

 

 少しだけ、距離感が近くなった事を感じながらオレはせっかくだからもっと伊織さんを知りたくなった。

 そうだ、オレの話をしたのだから、今度は彼女の事を聞きたい。

 

「伊織さん、次は伊織さんの話を聞かせてくださいよ、何でも良いですから。オレも知りたいです、伊織さんの事をもっと」

「私の? ……でも、私も何も縁さんのためになる様な話なんて無いわ」

「タメになるとか考えなくて良いですよ」

「……なら、分かった」

 

 少し悩む様子を見せたが、程なくして伊織さんは決心した様に頷き、語り始めた。

 

「私、友達って呼べる人がいないの」

「それは、巫女さんだから……です?」

「うん、そう。私は幼い頃から、両親から神に身も心も捧げるよう教わって来た。世界に汚されない様に、常に清らかにあり続ける事が大事だって」

「それならもしかして、今こうしてオレと居るのはアウトなんじゃ?」

 

 早速浮かんだ疑問を、我慢できずに漏らしてしまう。

 伊織さんはくすっと微笑むと──その仕草すら初めてだ──、“大丈夫”と前置きしてから言った。

 

「貴方は余りにも特別だもの。きっと貴方がここに来て私と出会ったのは、神の思し召しだと思うの」

「あはは……だとしたら、本当に神様に感謝しないと」

 

 茶化してるんじゃ無く、本心からそう思った。

 

「それで、ここからは信じて貰えないかもしれないけど、私は幼い頃からずっと、“神の声”が聴こえるの。儀式をして集中してると、語り掛けてくる。そうして一層、神への信心を強くする……私はそうやって生きてきた」

「神の声、か……想像も出来ないな」

「でしょう? ふふ……だからこの話をしたらみんな、気味悪がって……」

「オレは疑わないっすよ、て言うか、気味の悪さで言えばオレの方が大概だし」

「ありがとう……でもそうしてるうちに私は、友達って存在とは縁遠い人間になってた。だから貴方が堀内さんの事を誇らしげに話すのが、少し羨ましかった。私も誰かの事をそんな風に話してみたい、誰かにそんな風に言われてみたい……って」

「伊織さん……」

 

 決して口にこそしないが、彼女が抱いてるのは間違いなく“寂しさ”だろうと思った。

 同年代の子達に理解して貰えない事、それでも神に心身を捧げる事の方が大事だから、彼女の周りにいる誰もがそれを問題としなかった。きっとそれは、彼女自身も。

 もっとも、彼女は自覚のなかったオレとは違い、冷静に状況を見た上で積み重ねた諦観の結果なのだろうけど。

 

「伊織さんは後悔してますか? 今までの生き方を」

「してないわ。神に身も心も捧げるのは両親からの教育からとは言え、確かに神は私の事を見て、言葉をくれる。だから良いの……でも」

「でも、なんです?」

「この神社……貴方や塚本君以外に参拝客を見た事あった?」

「……そういや、見なかったですね、ほとんど」

「でしょう?」

 

 はぁ、とため息を溢してから、伊織さんは神社をぐるりと見てから、言葉を続けた。

 

「山の上にあるから仕方ないかもしれない。でも、殆ど人の来ない状況はずっと残念に思ってる」

 

 それが、今の彼女の中で最も大きな悩みだった。

 

「来週、祭りがあるの。昔からの付き合いでたくさん出店は来てくれるんだけど、それでも来る人は年々減っていく。私が小さい頃、お爺ちゃんが神主だった頃はたくさん人が居て、私はそれを見るのが好きだった。でも、今はもう……」

「じゃあ、それやりましょう」

 

 パン、と拳を手のひらに打ち付けながらベンチから立ち上がり、オレは決めた。

 伊織さんが神社を昔みたいに人が多く来る状態にしたいっていうのなら、その為に協力したい。

 

「今から一週間位しかなくても、ビラ配りでも街に出て街宣するでも、やりましょうよ」

「えぇ!? でも貴方は調べなきゃいけない事がまだ──」

「それも一緒に。午前と午後で分けるとか幾らでもやりようは有りますよ、ね?」

「……もう、強引なんだから」

 

 伊織さんが折れた。となればこうもしてられない。

 

「じゃあ、早速帰って色々準備して来ます」

 

 家のパソコンとコピー機でチラシ作成とか、より効果的な広告の仕方とか、やるべき事は山の様にある。早く帰って動き出さないと。

 でもその前に、ちゃんと言っておかないといけない。

 

「伊織さん」

「何?」

「ありがとうございました。オレの話を聞いてくれた事だけじゃなく、今日までの事全部」

 

 初めて会った日から今日まで、伊織さんがオレを受け入れてくれたから、どうにかやっていけてる。

 

「明日からより一層頑張っていくから、改めてよろしくです」

「……それは私も同じよ。今眠ってる野々原さんの意識が目覚められる様に私も協力するから、一緒に頑張りましょう」

「──はいっ!」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

『カギは見つかりました?』

 

 帰宅後にスマートフォンを確認すると、SMSで塚本くんからメッセージが届いてた。

 

『大丈夫、ありがとう。それと一つ、明日相談したい事があるんだ』

 

 そう返信するとすぐに既読がついて、『了解です』と返事が来た。

 

「さて、それじゃあ早速……お、やっぱりインストールされてたか。助かる」

 

 家のパソコンを起動して、デザイン制作系のアプリケーションがあるか調べたらすぐに見つかった。

 早速起動して、いくつかチラシのラフ案を作成する。

 生前、家に居たまま稼げるバイトとして、簡易的なデザイン系のバイトを経験してたから、こういうのは苦手じゃない。

 

「基本的な使い心地は同じだけど、表記が所々違うな……テキストボックスは何処から挿入できるんだ? ……あぁここか」

 

 オレの時代の頃よりだいぶ機能がアップデートされてるので、最初は操作に苦戦したが慣れれば後は楽だった。

 頭の中で浮かんだ案を3つほど、その他にインターネットを調べて参考になる物を5つ作った。

 そうこうしてるうちに日付も変わっていたので、ラフ案を全てプリントした後、今日はシャワーを浴びて寝た。

 

 翌日、プリントしたラフ案をリュックにしまって出発しようとした矢先に、野々原渚から電話が来た。

 ビクビクしつつも出ると、両親が旅先の途中で仕事案件が入り帰国が更に遅れるという連絡だった。

 こちらとしては願ったり叶ったりな状況だったが、喜ぶ仕草なんてしたら即怪しまれるので、とにかく無理だけしない様に言って電話は終わらせる。

 その後、改めて家を出ようとしたら、再度スマートフォンが振動した。今度は誰だと思ったら画面には『綾小路悠』とあった。

 

「──また面倒な相手から来た」

 

 正直なところ、オレは金持ちの権力持ちという時点で綾小路悠が苦手だ。なので可能なら無視したい所だが……。

 

「一応初瀬川と違って、良い奴っぽいんだよなあコイツ」

 

 野々原縁の意識の中で垣間見た彼の言動は、基本的に善良な物ばかり。裏ではどんな事してるか分からないが、恐らく野々原縁に対してはちゃんと友人関係を結んでいるらしい。

 仕方ないので、こちらも出る事にした。

 

『もしもし、おはよう。朝からごめん』

「あぁ……おはよう、ございます」

『?? 寝ぼけてるのかい?』

「ああいや、気にしな……気にしないでくれ」

『……? まぁいいや、今少し時間あるかな?』

「あー……大丈夫だよ。何かあった?」

『うん、実はさ──』

 

 曰く、今度綾小路悠の父が携わってる会社の系列で飲食店を開くらしい。

 その開店日に是非、野々原縁とその家族を招きたいとの事。

 何とも、金持ちならではのお誘いで心底ため息が出そうだが、わざわざ気を回してくれるんだから本当、良い奴なんだろうなぁ、コイツ。

 とは言え、先程野々原渚から伝えられた情報から見るに、まだ帰国の目処が立ってないため、即答は出来ない。その旨を伝えると少し残念そうにしながらも、綾小路悠は『分かった』と言った。

 

『──あぁ、それともう一つ、聞きたい事が』

「何です?」

 

『──君、最近何してるの?』

 

 ゾクッとした。

 まるで浮気の証拠を掴んだ彼女みたいな──男相手に変な例えだが、それくらいの鋭さがある発言だったから。

 どう答えれば良いものか……オレじゃ無く、野々原縁ならどう答えるかを考えて、オレは答えた。

 

「──この前まで熱で倒れてたからさ、取り戻す勢いで、色んな所を自転車で走ってるよ」

『……この炎天下日和の中でかい? 相変わらず君は、物好きな所あるよね……』

「気分転換にはちょうど良いよ。まぁ制汗スプレーのコスト代だけが痛いかな」

『それはそうだよ……まぁ、熱中症にだけは気をつけて、じゃあまた、ご家族の帰宅予定が分かったら教えてね』

「あぁ……じゃあ」

 

 電話を終わらせて、ほうっとため息をつく。

 何とかボロを出さずに電話を終えられた。

 

「それじゃあ、今度こそ──っ!!」

 

 玄関の扉に手を掛けた、その直後。

 何本ものバットで一気に頭を叩かれた様な頭痛がオレを襲った。

 まともに立つ事すら難しく、思わず片膝になって、痛みが引くまで肩で息をする。

 

「はぁ……はぁ……何だよ、今の……」

 

 冷たい汗が頬をつたう。

 何分ほど経ったのか、ようやく痛みがおさまり、俺は脚に力を入れ直す。

 しかし、まだ全身の気だるさが残り、視界はぐらついている。

 

「畜生、これから出掛けようって時に……あれ?」

 

 俺は、何処に出掛けようとしてたんだっけ? 

 バッグに紙束を詰めて、自転車の鍵を持って、こんな暑い日に……。

 

「いや、何言ってんだ、神社に行くんだろオレ。……頭痛すぎて記憶飛んだか?」

 

 数瞬考えたが、すぐに目的を思い出す。

 我ながら馬鹿らしいレベルのド忘れだが、そのくらい今の頭痛が酷かった、という事にしておこう。

 

「──こりゃ、もしかして今更階段から転んだ時のダメージが出たのかな」

 

 もしかしたら、酷い病気の前触れかもしれない。

 野々原縁の方に悪いので、来週辺り一度病院に行こうかな。

 

 そんな事を思いつつ、オレは今日も今日とて、七宮神社に向かうのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 その頃、七宮伊織は神社の書庫に居た。

 

「──縁さんが来る前に、少しだけ読み進めないと」

 

 昨夜、自分の悩みを聞いた縁は、今からでも祭りに人が集まる様に協力すると言ってくれた。

 こちらの静止も聞かず、半ば強引にではあったが、彼の厚意はとても嬉しく、ありがたいものだった。

 だからこそ、自分も彼が居ないうちに、少しでも彼の役に立とうと思い、先行して手記を読み漁ろうとしていたのだ。

 

「思えば、こんな風に男の子の為に何かしようって思うの、初めてかもしれないわね」

 

 彼にも話した通り、伊織は世間から離れた生活をして来た。

 生涯を神に捧げる為という理由ではあったが、それ故に異性の同年代との関わりなんて全くと言って良いほど無かった。

 そんな自分が、今はこうして率先して行動してるのだから、運命とは分からない物だ。

 もっとも、頸城縁は生者の肉体に死者の魂が入っている余りにも特例なので、果たして異性との関わりに数えて良いのか疑問ではある。などと内心微笑みつつ、伊織はまだ手をつけていない棚から一冊、手記を手に取った。

 

「良かった、これは民俗資料じゃなかった……それに日付が近い。もしかしたら」

 

 伊織が手に取ったのは、昨日塚本が見つけた“前世の記憶を思い出した人間”の記録と同じ年の記録だった。

 もしかしたら、その続きが書かれてるかもしれない。そんな期待を抱きつつページを捲る。

 縁に朗報を伝えられるかもしれない、そんな想いのまま記録を読み続けていくと、

 

「あった、これだわ……っ!」

 

 まさに件の人物について書かれた記録を見つけた。

 やった! と小さく握り拳を作りつつ、その内容を読んでいく──しかし、

 

「え、何……何よ、これ」

 

 喜びの表情は、読み終える頃には氷の様に冷たいモノになっていた。

 

「──そんな、そんな事って……」

 

 そう呟き、伊織は読み終えた手記を──棚と壁の隙間に隠した。

 見せたくない、または見せられない。自分自身、その行動の理由が分からないまま意識の外へ追いやっていった。

 

 伊織が隠した手記には、端的まとめるとこう記されていた。

 

『男は神社で三か月暮らしたが突如、本来の人格の意識を取り戻した』

 

『──しかし』

 

『男は、別の人間の意識が肉体を支配していた間の生活……すなわち、自分が神社で過ごした時間を、何も覚えていなかった』

 

 

 ──続く。


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