提督と加賀 作:913
泳げない加賀の手を引きながら浅い海を歩いている提督は、思わずといったようにため息をつく。
好きな女性と居る時にため息をつくなど言語道断だが、彼にはそれなりの理由があった。
(どいつもこいつも女連れかよ)
けっ、と唾を吐きたくなる、そんな彼は今年で二十代の後半に入る、所謂アラサー。
もうすぐ現在の『提督』から『魔法使い』にジョブチェンジができてしまうお年頃である。
「……提督?」
どうかしたのか、と言うような―――実際のところは、『私と居るとつまらないのかしら』と言う疑問を秘めた加賀の言葉に、提督はゆっくりと振り向いた。
「もうすぐ俺は提督じゃなくなる」
「え?」
「俺のジョブが提督じゃなくなるのも、そう遠いことじゃないんだということが身に沁みてわかった。それだけ」
魔法使いにジョブチェンジ不可避。
提督の頭にそんな警告が頭を過っていることを知る由もない加賀は、『いつもの発作かな』と首を傾げた。
春先の辞めたい騒動はいつものことと化しつつあるが、今は辞めたい騒動から三ヶ月後の夏。毎年のノルマと言うには速すぎるだろう。
「……お仕事、辞めたいの?」
ここだけ切り取ればただの駄目な夫か息子と、その妻か母親の会話だが、実際は上司と部下の会話だった。
加賀としては、この三ヶ月という短期間に二度も言い出すとはどうしたのか、と言う懸念がある。
それが、この慎重な訊き方につながった。
「いや、辞めたい辞めたくないとかそう言う問題じゃない。時間制限が近づいている」
今居る環境に相応しくない不穏な言い方だが、当人が真面目に言っている。
これのある意味真実という不明瞭さが、加賀の何故か提督にはあまり働かない嘘発見器を更に故障させた。
「……どうしようもないの?」
「うん」
結婚式と同様、一人でできるものではないし、誰でもいいと言うわけでもない。
迷いのない即答に、加賀はいささか面食らう。
基本的に半ば独立状態にあるこの鎮守府にに、中央の人事権が介在することは少ない。せいぜい余り者の受け皿になる為にその人事を受け入れていたりしているだけで、中央に招かれようとしていた艦隊の主要メンバーがそのまま居ると言う辺りに、その特質が表れていた。
故に、提督は自ら辞めない限りは鎮守府から引き離されることはない。
そして、今までの口ぶりを思い返して見るに、辞めることが提督の本意だとは思えない。
加賀は少し考えて、自分がこの問題については無理解に過ぎることを加味した上でこう述べた。
「私も、できることがあるならば協力するし、相談にものらせていただくけれど」
非常にアバウトな言い方であろう。協力するにせよ相談を受けるにせよ、提督の事情を知ることができるという『二択に見せかけた一択』であることも加賀らしい。
だが、この時の提督はいつもの提督ではなかった。
「…………そう言うことをあまり簡単に言い出すもんじゃないよ、加賀さん」
彼は加賀が真摯に自分の言葉に付き合ってくれたのを見て、思わず恥ずかしくなったのである。
あと、好きな女性に相談する内容ではない。
「……私では役者不足なのね」
「いや、むしろ役不足かな」
僅かに海水が掛かって光る太腿が素晴らしい加賀の脚をチラリと見つつ、提督はその場で座った。
鳩尾の辺りまでせり上がってきた海水を見て深さを何となく水深を察したのか、加賀もその場でペタリと座る。
浮きそうになった双球を左腕で抑え、加賀は肩辺りまである海水に沈んだ。
いつも海水の上を滑っている彼女からすれば、非常に珍しい経験である。
「冷たいのね」
「あぁ、うん」
何故座ったのかすら尋ねない加賀の従順さに愛らしさを感じつつ、提督はちらりと華奢な肩を見た。
手を壁に押し付けてドンと音を立てる壁ドンならぬ、肩を持った加賀を壁に押し付ける加賀ドンをした経験があるだけに、その壊せそうな華奢さは手に残っている。
「この海さぁ」
「はい」
「カップル多いよね」
「……そうね」
怨念すら感じる提督の言葉に若干引きつつ、加賀はちらりと提督を見た。
提督が恋人が欲しいというのなら、自分はその候補で居たい。
選ばれたいが、選ばれなくても仕方ない。何せ、側に居るだけでも幸せを感じられるのだから。
「爆発しろ……」
させろ、と言われれば艦載機を出すのも吝かではないが、しろ、というのだから自爆が望みなのだろう。
加賀はそう判断し、纏いかけていた艤装を仕舞った。
(なんで爆発して欲しいのかしら)
他の女がどこぞの男とイチャついていようが、関係ない。自分は好きな男性の隣に居れているのである。
爆発しろと言うからには何らかの害意があるのだろうが、その害意のモトが加賀にはわからなかった。
「提督は、あの女性が好きなの?」
艤装ではなく深淵を纏いながら、加賀は不器用に問う。
赤城からすれば、この時に提督の腕を掴んでその豊かな胸で挟んでやれば確実に『ノー』が帰ってくるのだ、と言うだろう。
だが、加賀はそんなことはできない。
そこが彼女の限界でもあり、可愛さでもあった。
「え、いや?」
「……?」
本気で頭の上にクエスチョンマークを乗っけているような加賀が訝しげに首を傾げたのを見て、提督はひとつ思案して言った。
「でもほら、妬ましいじゃん」
「好きだから?」
「違う違う。俺にはイチャつける女性が居ないからだよ」
またもや深淵歩きのカガトリウスになった隣の加賀さんに凄まれながら、提督はすぐさま否定する。
加賀は羨みはするが、提督絡みではないと嫉妬はしない。
「……本当?」
「ホントだよ」
加賀さんのことが好きだからね、と心の中で補足しつつ、提督は座ったままに海の冷たさを感じた。
クソ暑い夏の中、ただ浸かっているだけでも気持ち良い母なる海と戦っている自分たちは何なのかと、少し思わないでもない。
人間はやり過ぎたのかもしれないという退廃的な思想が、過酷な戦場を切り抜けて必死に戦い抜き、安定を手に入れた今ですらもこの男にある。
「ならよかったわ」
そんな退廃的な思想に侵されていない加賀は、深海棲艦はただの獲物で、宿敵で、殺すべき肉塊でしかない。
提督のように一種達観したような思いを抱くことはできなかった。
暫く居た海から上がって、砂浜を歩く。
ポツンと建っているテントの前に設置されたブルーシートに腰を下ろし、提督は青く凪いだ海を見て呟いた。
「…………平和だねぇ」
「提督が、手に入れたものよ」
少なくとも、この海の平和は。
そう言って、どこか達観したような寂しさがある提督を元気づけようとする。
どこかに行ってしまいそうな、空気に溶けてしまいそうな虚しさが、彼の身体を包んでいた。
「君たちが手に入れた物だ」
そう言った提督の左手に添えるように、加賀の白魚の指が絡む。
掴んでおくべきだと、そう思わせる何かがあった。
「…………自分を卑下しては駄目よ」
左手を引くようにして提督の後頭部をタオルで拭った自分の太腿に置き、膝枕のようにした後に、加賀は再び提督を諌めた。
たしかに彼には作戦立案能力はないが、それを補ってあまりある勝運と統率力がある。
艦娘が轟沈を恐れていないが如く積極果敢に戦うのも、指揮官が彼だからということも大きい。
「そうかな」
後頭部で加賀の生の太腿の柔らかさを堪能しながら、提督は目を細めてそう反応する。
卑下ではないと、彼は思う。現に正規教育は受けていない。
他の提督連中の方が、よっぽど有能だろうことは疑いないのだ。
「私はナンバー・ワンにはなれないもの」
「そーかねぇ……」
日に曝されて熱を持った髪を加賀の指が櫛のように梳かし、更に提督の眠気を誘う。
タオルで拭ったからか、海の塩の匂いよりも加賀の安心するような匂いが強い。
目を閉じれば寝てしまいそうな、そんな気すらした。
「…………よく、頑張っています。辞めたくなるのも、わかります。あなたがどの道を選ぼうと、私はあなたを見捨てません」
「提督だから?」
皮肉と自嘲が入り混じった言葉を吐いた自分を見下している提督を見て、加賀はなおも誠実に返す。
「信頼できる人で、あなたの為なら轟沈も厭わないからです」
「……犠牲になんて、なるなよ」
それに対する提督の反応は、極めて睡たげな物だった。
「犠牲じゃないわ。私、それで満足なの」
「君が死んだら、さ……」
切なげな声音に、胸が激しく鼓動を打ち、加賀は暫し呼吸を止めて提督の言葉を待った。
沈んだら、困るのか。
沈んだら、悲しむのか。
沈んだら、泣いてくれるのか。
人は死ぬ為に生きている。
提督は自分を好きなのかはわからないが、自分が沈んだ時に少しでも今までの自分を思い出して欲しい。
悲しんで、欲しい。でも、泣いては欲しくない。
元気でいて、欲しかった。
「……提督?」
寝てる。
そのことを認識して、加賀は怒るというより寧ろ安堵した。
「お疲れ様。ゆっくり休んでくださいね」