提督と加賀 作:913
「ごめん」
「…………」
提督の謝りに対してむすっ、と頬を膨らませ、加賀は秘書艦としての任務を果たすべく敬礼した。
私は怒っていますと言わんばかりのその顔は、怖いというよりは可愛い。
無表情な加賀の片頬が膨らみ、ジト目を少し陰らせてそっぽを向くその姿は、常勝を誇る空母娘と言うよりもただの可愛い女性である。
加賀は明らかに気分を害していた。
(……あのほっぺた、潰したいなぁ)
元々揉んだら程良く柔らかく、張りがありそうな魅力的なほっぺたをしているのだ。
膨らんでいるとあらば、そうしたい。
「さあ加賀さん、仕事しようぜ」
肩が小さい。
掴んだ肩が思ったよりもすっぽりと手に入ったことに驚きつつ、提督はそう声を掛けた。
「…………」
一言も喋らず、加賀は肩に置かれた手を払ってそっぽを向く。
私は怒っていますと言う態度はつまり、構ってくれ、ということらしい。
構って欲しくて、加賀はそっぽを向いていた。
だが、提督も一度の斥候で爆弾と化しているとわかった加賀に触れる程勇者ではない。
―――放っておこう。
これが、怒った加賀に対する提督の基本スタンスだった。
むすっ、が、むすー、くらいにまで収まった加賀をちらりと見ながら、提督はポリポリと頭を掻く。
加賀さんと話したいが、加賀さんに怒られたくない。
その辺りの微妙な心理が、提督の沈黙には表れていた。
(……ていとくのばか)
ペンに力を込め、加賀は書類に怨みがあるのかと思われる程の筆圧で書類を続々と処理している。
自分とは一緒に外出しないのに、ビスマルクとは外出する。
それが『ビス子の艤装にプレゼントを放り込めば駆逐艦娘に見られないし、重荷にもならないし一石二鳥』と言う合理的な判断だとしても、だ。
(ばか。ばかばかばかばか)
怒りは表に出せないし、癇癪を起こすほど理性的でないわけでもない。
加賀はムカムカと盛り上がる怒りを持て余しながら、書類を次々に終わらせている。
早く終わらせて、一緒に外出したい。
誘えるかどうかはともかく、誘ってもらえる可能性は僅かにあった。
(提督なんか、嫌いよ)
そう呟いてみて、慌てて首を横に振る。
(違います。愛しています)
嫌いではない。断じてない。自分は提督に愛されたいし、愛したい。自分の愛で、提督を楽にしてあげたい。
加賀は黙っている提督を横目で見ながら、黙々と仕事をこなした。
幸い、最近回ってくる書類は少ない。大本営もそれどころではない、ということなのだろう。
「……やりました」
「そうか、お疲れ」
あまりに素っ気ない言葉を受け、加賀は些か面食らい、その三倍ほど愕然とした。
提督が、構ってくれない。セクハラでも何でもいいから、構って欲しくて自分は頑張っているのに、構ってくれない。
「……手伝います」
「いや、いいよ」
短いながらも明確な拒絶の言葉が放たれ、彼女は相当明確に怯む。
提督に手伝いを拒まれたことがなかっただけに、それは新鮮な恐怖だった。
自分のアイデンティティーが犯されているような気がしたのである。
秘書艦としての有能さで勝ることができない己など、ただの無愛想で魅力が皆無な女でしかない。
どうしようと、加賀は頭が真っ白になった。
「……よし、終わり」
三時間ほどの勤務で書類は全て裁かれ、纏めて大淀の元に電子化されて送られる。
そこで改めて確認され、大本営に更に電子化して送る、と言うのが実情だった。
「早く終わったねぇ」
「……はい」
加賀は、明らかにテンション下げて俯いている。
彼女にとっての執務の時間とは愛しの提督の隣に居れて、しかも色々声を掛けてもらえる楽しい時間なのだ。
早く終わって、嬉しいと思えるはずもない。
(……あぁ、殻が剥れた)
自ら口を開いて起こりだそうとしない程度に怒っている時に無視し続けると、加賀は逆に怯む。
怯んで、どこかおどおどとしてこちらの様子を伺ってくるのだ。
いつも凛と張っている背は少し曲がり、気の強さを象徴しているような猫目は目尻が下がって気の弱さが垣間見え、怯まずにこちらを見据えてくる視線は定まらない。
その女性的魅力に富んだ身体にも関わらず、その隙の無さから女と言う感触を抱かせない加賀の、女としての弱さが剥き出しになる。
この瞬間が、提督は何よりも好きだった。
おどおどとこちらを見て、視線を合わせるようにこちらが動けば地面を見つめる。
沈黙の中にある『話しかけてくれ』という欲望を無視して、加賀に自分の不器用さを直視させる。
話そうとこちらを見た瞬間に、椅子を鳴らしたりしてその先を断つ。
普段ならば何でもないような音で怯み、不安げにこちら見てくる加賀を無視し、提督は加賀を観察していた。
(可愛いけど、そろそろかな)
怒っている時に、この手はよく使う。だからこそ、彼は退き時を知りすぎるほどに知っていた。
「加賀さん、今日もありがと」
「……はい」
柔らかい、梳いても指に引っ掛からない髪を撫でる。
一撫でするごとにオオカミが犬に変わっていくような感じがあった。
加賀のことを、提督はオオカミだと思っている。誇り高く、賢い。だからこそ独立心が強い。
それをできれば、犬にしたい。叛乱は、起こしたくないのだ。
そのような切実な理由もあって、加賀にあらん限りの愛を込めて、提督は撫でる。
「いつも感謝してるよ。書類仕事にしても戦争にしても、加賀さんには頼りっぱなしだね」
「……いえ」
ただ俯いたまま撫でられるだけだった加賀が、少し身体を提督に添えた。
十五分間撫でたの末、頬を胸板に付けるようにして加賀は提督の愛撫を受け入れていた。
加賀は好きな人の生の匂いに包まれて、頭を痺れさせてしまっている。
もはや理性と呼べる理性はなく、抵抗心と言うべき心も溶け切っていた。
「加賀さん」
「……、はい」
服越しに胸板をくすぐる吐息が、やけに熱っぽい。
加賀は撫でられるのが好きらしいとわかってきた最近の成果を踏まえてのちょろまかしは、彼にとっても意外の念があった。
サラシに潰されてもなお張りのある、瑞々しい果実のような加賀の胸部装甲が提督の鳩尾の辺りに押し付けられている。
正直今まで、言葉や何やらで褒め称え、加賀をいい感じに高揚させて赦しを乞うのが一般的だった。
褒め称えるにしても事実だから、嘘をつくような罪悪感はない。ただ、あまりのちょろさに罪悪感を抱いたものである。
しかし、今回は情欲が凄まじく刺激された。息は熱っぽく、身体は温かい。魅力的な胸部装甲が押し付けられ、その声音は途絶え途絶えでやけに色っぽい。
心臓が、やけに暴れている。
激しく、リズミカルに。自分のか、それとも加賀のものなのか。それがわからないほど、二人は融和させるように身体を触れ合わせていた。
自分の男としての欲望が激しく刺激されるのを感じながら、提督はもう二度とやるまいと心に決めつつ、加賀の耳元でトドメとばかりに呟いた。
「昨日は、ごめんね」
ゾクッと背筋を跳ねさせ、加賀は無言でこくんと頷く。
いじましいくらいの従順さで、加賀は怒りを霧散させてしまっていた。
「ありがとう」
「……ぁ」
加賀の言葉が途切れ、瑞々しい果実が当たる面積をより大きくする。
大規模なセクハラに弱い。押しにも弱い。雰囲気づくりにも弱い。
少し加賀の将来が心配になりながら、提督は加賀を一度抱き締めて解放した。
果実が押し潰され、最大の快感を布越しに感じた後に接触面積が減っていき、離れる。
その寸前までとろけるような柔らかみのあった加賀の胸部装甲の名残りを惜しみながら、提督は加賀をちらりと見た。
瑞々しい果実に手を添えながら、加賀は肩で息をしている。
呼吸をする度に上下するその豊満な果実の皮を剥いてやり、本能のままに貪り食いたいという欲望に必死に抵抗しながら、提督は加賀が落ち着くのを待っていた。
「加賀さん、落ち着いた?」
「……」
ひとつだけ、こくっ、と頷く。
あれだけのセクハラを受けて文句も言わないその従順さに謎の苛立ちを感じつつ、提督は加賀の左手首を持った。
己を見つめる琥珀の瞳に宿る不安の中に、僅かな期待があるのは自分の気の所為、なのだろう。
「加賀さん、はい」
財布から五万円を出し、提督は加賀に差し出した。
頭を撫でるだけ撫で、セクハラをするだけした後の何の脈絡もない動作に怯みながら、加賀は袴に付いたポケットから財布を取り出す。
ちらりと財布を開いて見て、加賀は手に万札を五枚ほど持って差し出した。
「……どうぞ」
「いやいやいや、違うでしょ」
渡された五万円に代わって差し出した五万円を突っ返され、加賀は頭をクエスチョンマークで埋め尽くす。
提督に五万円を渡されることに関して、彼女には心当たりが全くない。
(撫で代、ということかしら)
更に五枚握り、差し出す。
五万円と十万円のトレードという意味不明な取り引きが行われようとしていたとき、提督が加賀の十万円をまたしても突き返した。
「いや、何で?」
「……た、足りないかしら」
「足りないも何も、そういうことじゃないんだけども」
お互いの認識に齟齬が生じている。
そのことをあっさり理解しつつ、提督と加賀は取り敢えずと言った形で金をしまった。
暫く、二人の間に音が消える。
提督は加賀の押しの弱さを逆用して許してもらった己の外道さに後悔の念を抱き、加賀は耳で血の流れる音が聴こえるほどに緊張していた。
(提督は、男の人なんだわ)
筋肉のハリがあって、どこか堅い。
骨と肌の間には自分と同じく肉も脂肪もあるだろうが、どこまでも柔らかい自分と違って木石のように凝り固まっているのだろう。
軍服には時々吸う葉巻の臭いと汗が混ざり、ツンとするような匂いがしていた。
途中で嗅ぐのをやめてしまったほど、あの男の匂いには頭が痺れていくような中毒性がある。
「……食材を買ってもらおうと思ってさ」
ボソリとこぼした提督の言葉に、加賀は正気を取り戻す。
彼女はこくりと、また頷いた。