提督と加賀 作:913
『もうこんな時間か』
「……そうね」
愚痴を聴き、相槌を打ち、慰める。
一時間続けばいい加減辟易としてもいいような状況が既に二時間を越え、フィリピンの時刻は二十三時を回っていた。
『今が十二月五日。計らずとも大本営のお陰でクリスマスまでには帰れそうだ。どんな形であれ』
「生きて帰ってきて欲しいのだけれど」
『そりゃ、俺だって死にたくないさ』
じゃあね、と手が振られた後に回線が切れる。
今は、十二月四日二十三時。
向こうは、十二月五日を少し過ぎたあたりか。
(もっと、話していたかった)
漠然とした喪失感が心を空洞にさせ、加賀は管理の任されている執務室から提督の私室へと足を運んだ。
寂しい。寂しい。寂しい。
自分の居ないところで彼が戦う。
それが、こんなにも苦しい。
(いや、私は―――)
戦うのではなく、離れるのが嫌なのだ。
どうしようもなく、嫌なのだ。
託された合鍵を鍵穴に挿し込み、半回転させる。
提督の匂いが僅かに残る彼の私室は、加賀の寂しさを慰める為の部屋と化していた。
(提督、寂しい)
早く帰ってきて欲しい。声を聴かせてほしい。無事な姿を見せてほしい。自分の隣に座ってほしい。
(寂しいわ)
決して豪華とは言えない折り畳み式の木の椅子に柔らかな臀部を下ろし、加賀は手を枕にして机の上に上半身を預ける。
胸が邪魔なことこの上ないが、邪魔だと思って小さくなる訳でもなかった。
(提督、何をしているの?)
私は、こんなにも寂しい。
私は、こんなにも想っている。
私は、こんなにも心配している。
好きで、好きで、大好きで。陽向のように明るい笑顔と、日陰の暗さが心地よい。
側に居られれば、幸せだった。それだけで心が満ち、一日一日を瑞々しく生きられた。
側に居て、仕事をして。
勿論、会話は少ない。親しさを示す行為は何もしないし、彼の言葉には遠慮のようなものがあり、彼の動作には壁を感じる。
だけど、それでも幸せだった。表に出せないが、側に居るだけで幸せで、守ってきた正義と信じた物全てに裏切られた心の傷が癒えた。
強く、居られた。
「側に居てください」
机の上に飾ってあるのは、写真。
五年前の使命感と希望に満ちていた自分と、五年前から相変わらず困ったような顔をした彼。
「貴方を愛しています。貴方の為に、死にます。貴方が望むなら何でも、します」
だから私を裏切らないで。だから私を見棄てないで。だから私を側に置いて。
私は、貴方の役に立つ女です。
私は、貴方を裏切りません。
私は、貴方を一生愛します。
遊びでもいい。常の気軽さで手を出し、時々顧みるだけでもいい。
もう、愛してしまった。
情愛の深い自分が、彼に恋慕の情を抱いてしまった。
「邪魔になったら、自死を命じてくれればいいの」
前の出張の時もそうだが今回で、流石にわかる。
自分はもう、一人であることに耐えられない。一人が怖い。
彼女は、全身をどっぷりと提督の優しさに浸からせてしまっていた。
もう足掻けもしないし息継ぎも出来ない。
己の存在意義と、戦ってきた意味。
それを喪ってしまった彼女は、提督にすべてを依存していた。
提督が望んだことではない。彼が望んだのは、自分が狂おしい程愛してしまった加賀と言う女を絶望の内から引き摺り出したいということ、だけ。
だが、彼女は依然として絶望の中に居る。
全ての居場所を喪わせた絶望は、逃げ込める所が一箇所しかないことで更に深みを増していた。
彼女は、もう何処にも逃げ場はない。恋慕を絶たれれば、彼女は絶望の海に呑み込まれるだろう。
「…………提督」
椅子から立ち上がり、提督が鎮守府を発ってから何も手を付けていない布団に身体を横たえ、掛け布団に身体をぐるぐると巻き、敷布団と枕に顔を埋めた。
到底できる女とは思えないほどのミノムシっぷりと、寂しさのあまりポロポロ泣いているその姿はもはや艦娘でも正規空母でもなんでもない。
ただの寂しがりやな兎か猫の類であるとしか見えないであろう。
「加賀さん、大丈夫ですか?」
「お仕事はやっています」
もはや好きな人の部屋で好きな人の布団に包まっていることを抗弁しようともしない加賀の力なき声が布団を蓑にしたミノムシから漏れた。
明らかに大丈夫ではないし、彼女も大丈夫であるとは言っていない。ただ、提督から任された仕事は大過なくこなしている。
任されたことを淡々とこなしほかを顧みないそれは忠誠心の高さであるとも言えたし、自主性の乏しさであるとも言えた。
「御飯、食べてますか?」
「昨日ゼリー飲料と栄養調整食品をいただきました。これにより身体が機能不全になることは防げています」
意訳すると、食欲がない。
彼女は提督と共に居る時は優秀な官吏であり調整役であり教師であったが、提督が居なくなった途端にそれらが抜け落ちてしまい、謂わばアクティブからパッシブになってしまう。
それは、食事においても変わらなかった。
提督に喜んで欲しいから、作る。別に己の分を作るのは『ただ食事風景を見られるのも嫌だろう』『彼の性格からして一緒に食べることを好むだろう』という認識から発した気遣いの類でしかなかった。
つまり、彼女は元々それほど食べない。赤城は女性にしてはよく食べる方であり、食事そのものを楽しみとするが、加賀は提督と一緒に食べることを好む。
食事自体に興味はないため、提督が居なくなるとこうなった。
「……あの、今日は?」
「食べていません」
二十三時五十七分は未だ『今日』であって『昨日』でないこと考えれば、彼女は今日始まってからの約二十四時間で何も食べていないことになる。
「……食べた方が良いですよ?」
「ごめんなさい」
ミノムシ加賀は布団と言う蓑を纏ってもくっきりとわかる我儘な身体を無意識的に赤城に見せつけながら振り向き、謝った。
同じ女、そしてかなり良いスタイルを持っている赤城ですら羨ましいほどの美体から、萎れるように活力が抜けている。
「……提督が誰かと結婚して退役したら、死ぬんじゃないですか?」
今は通信と匂いによって、つまり五感の内三つを感じているが、触れられなかっただけ、頻度が低いだけでこの無気力・萎れっぷり。
永遠に会えないとなれば、どうなるのかを想像するのは容易かった。
「…………わかりません」
「まあ、提督は貴女の幸せを願ってます。見棄てられないことを貴方が望んで口に出すなら、そうならないと思いますよ」
「……幸せを願ってるならお嫁さんにして欲しいのだけれど」
じゃあそう言えば良いのに。
だいたいを訳せばそんなことを言おうとした赤城の口が閉じられ、再び開かれる。
「提督の側に居るのが、一番幸せ?」
「……はい」
ミノムシ加賀の肩らしき部位を掴み、赤城は静かに言い切った。
「なら、帰ってきたらにそれを言いなさい。少しでも好意を伝えなければ、いずれ必ず離れることになります」
何だかんだで、距離を詰めたいのは加賀も変わらない。
提督の匂いに包まれた加賀は、顔だけだしてこくりと一つ頷いた。