モンハン飯   作:しばりんぐ

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 デジャヴ感じるサブタイ。





猫心あれば人心

 

 

 弾ける体。

 小さな毛玉が、まるでパチンコのように後ろに飛ぶ。一瞬、その毛のかたまりが一体何だったのか。本当に、分からなくなった。

 

 弾け飛んだそれは、白い毛に覆われていて。その毛並を、安っぽいタオルケットに包んでいて。三角の突起や手とおぼしきものからは、薄い桃色が垣間見える。そんな小さな体が、苦しそうに息を吐いた。

 

「あふっ……っ!」

 

 その声は、俺がいつも耳を傾けていたあの声で。

 ある日突然いなくなってしまって、聞くことができなくなってしまったあの声で。

 また聞きたいがために、死に物狂いで闘ったあの声で。

 

 華やかな笑顔は、今や苦悶の表情に染まっている。

 体中を覆う毛は、毛先が荒れて、汚れも目立っていて。

 その口から漏れる声はもう、あの柔らかい響きがない。内臓を絞り潰したような、今にも血反吐を吐きそうな。

 ───イルルが、苦しそうな声を。

 

「───イルル……イルルッ! イルルーッ!!」

 

 抱き留めたその小さな体は、かなり軽くなってしまったのではないだろうか。なんて思いが頭の中で走るものの、今はそれには構っていられなかった。

 大きく咳き込みながら、身体を小刻みに跳ねさせるイルル。俺の腕の中で、痛みを何とか体から逃そうとしているように見える。けれど、そんなことをしても痛みは逃げる訳がない。

 ただただ、このまま彼女の体は止まってしまうのではないか。そんな思いが俺の心を蝕んでいく。

 

「イルル……ダメだ! 死ぬな!」

「にゃっ、はうっ、はぁ……っ、ああぁぅぅぅ……!」

 

 必死に宙を掴むその手を強く握り締めると、彼女も同様に俺の掌に力を込めてきた。小さな肉球が掌と擦れ、指先の爪は軽く俺の皮膚を突き破る。だが、今はそんなことを気にしていられない。

 

「俺は……こんなッ! こんなつもりじゃあッ……!」

 

 ──イルルは、俺を守ってくれたのだ。

 突然太刀から銃へと切り替えたアスマの凶弾から、イルルは身を挺して俺を庇ってくれた。銃弾を全身で受けて。彼女の小さな体には、あまりにも重いその弾を。

 

 どうして。どうして俺が守られているんだ。

 俺は、何故ここにいる。

 イルルを助けるために、ここにきたんじゃないのか。

 なのに、なのにどうして。

 何故俺は、イルルをこんな目に。

 

「あっ……あぁ……ッ」

 

 タオルケットを介して触れる俺の手と、彼女の体。ずれたその布から、彼女の毛並みが俺の掌に触れて。その掌にはべっとりとした何かが。べちょりと手を濡らす何かが。

 まるで体から溢れてくるようなその正体を、探ろうとする俺の頭。それを必死に止めようと、俺の理性は心を抑圧する。

 嫌だ。考えたくない。認めたくない。

 

「俺はッ……これからもずっと、ずっと一緒にいたかったのにッ! こんな、こんなの……ッ」

「あっ……にゃ、にゃあぁ……だ、だんな、さ……」

 

 不意に、頬に柔らかいものが触れる。

 あの桜色の肉球が、弱々しくも俺の頬を撫でていた。ただ、俺を慰めるように。子どものように涙を流す俺を、あやすように。

 彼女は苦悶に顔を満たしながらも、必死に笑顔を浮かべていた。こんな優しい表情は、今まで見たことがなかったような、そんな気さえした。情けなくも、俺は言葉を失ってしまう。

 

「……だんな、さんを……まも、れて……うれしい、にゃあ……」

「…………イルル……」

「……この、まえぁ……ひどい、こといって……ごめ、なさ……い……」

「……そんな、そんなのッ! お前が謝るんじゃねぇよ! 悪いのは俺なんだ! イルルは、イルルは何も悪くない! ……ッ、ごめんっ、ごめんな……! ごめんな……ッ」

 

 ただ、抱き締めた。

 その小さな体を。今にも全てが途切れてしまいそうな、その体を。

 他にどうすればいいか、分からかった。どうしたら彼女を助けることができるのかが分からない。もう無理だと、心の中で泣き喚く俺が、だんだんと大きくなっていく。

 だから、俺は想いを口に乗せた。何としても彼女に伝えたい、この胸の内を。

 

「イルル……好きだ。俺、お前のことが好きだよ……。いつも有り難うな、俺なんかと一緒にいてくれて有り難うな……っ。もう、離さないから……絶対、離さない。ずっと一緒だ……ッ!」

「にゃあ……だんな、さん……っ、だんなさぁん……!」

 

 摺り寄せてきた頬に、俺も負けじと頬を押し付けた。ふわふわとした毛並みが、俺の頬をくすぐってくれる。昔は当たり前だったそれが、今ではとても懐かしい。本当に、本当に懐かしい。

 ぽろぽろと涙を流す彼女の額に、俺はそっと唇を落とした。人間特有の愛情表現は、アイルーに通じないかもしれない。そんなことを思いながらも、その柔らかな口元に自分の想いを押し付ける。きゅぅ、と小さな声が漏れた。

 

「……っ……」

「……ん……にゃあ……」

 

 静かに口を離せば、目を丸くしたイルルの顔がそこにあり。

 心なしか、頬が紅潮しているようにさえ見える顔だった。だけど、それを少しずつ綻ばしていって。

 嬉しい、と言わんばかりに目を細めた笑顔。それが何よりも綺麗だと、どこか他人事のように感じた。

 好き、好き。そんな言葉を漏らしながら、彼女は俺に体を密着させる。先程まであった小刻みな体の震えは、今はもうない。ただ、小さな鼓動だけが伝わってくる──

 

「──いい加減にしろやァ! この異常者どもがァッ!」

 

 瞬間、発砲音。

 思わず、その小さな体を包み込んではその場で身を伏せた。それでも間に合わず、俺の頬が勢いよく裂ける。どっと、血が吹き上がった。

 

「気持ち悪ィ……気持ち悪ィなァ。お前人間だろォ? 何ネコ畜生に求愛してんだよ。狂ってんの?」

 

 反吐が出る。そう言わんばかりに、唾を吐き捨てるアスマ。青あざと血の痕が目立つその首を振っては、憎々し気に俺のことを睨みつけている。

 意味が分からない。目が、そう訴えていた。

 その突然の発砲に、今まで沈黙を保っていたルーシャが腰を上げる。武器を構えようと、地面を力強く踏んだ。

 ────踏んだのだが。

 

「おっと、動くなよ嬢ちゃん! 下手なことすると、そっちの姉ちゃんに穴が開くぜ? これ以上余計な穴増やさせたくないだろォ?」

「……くっ……!」

 

 銃口を向けられ、彼女はその場に押し留まった。悔し気に歯を剥いて、ヒリエッタを庇うように彼女の前で体勢を低める。

 手は出すつもりはないらしい。代わりに、彼女は口を出した。

 

「ネコ畜生って言い方はないわ……っ! アイルーだって、私たち人間と同じよ! 生きてるんだもん!」

「同じな訳があるか。ネコなんざァ、アプトノスやクルペッコと変わらない生ごみさ。その生ごみを有効活用してやろうって言ってんだよ! 人間様に感謝しろよォ!」

「……最低よ、アンタ……っ!」

 

 ルーシャの言葉に、彼は過剰に反応する。まるで自分の許せないものを主張するような、そんな血走った眼で。

 

「モンスターの癖に人間ぶりやがって、それで人間の男を(たら)し込むたァ……畜生もいいところだぜ。お前らみたいな異常な奴らは……虫酸が走るよ」

 

 吐き捨てるようなその台詞に、俺は思わず体を起こした。腕の中のイルルが哀しそうな声を出すから、その小さなおでこにもう一度唇を落として。そのまま、背後に立つあの男へと視線を滑らせた。

 

「……異常ってなんだよ? じゃあお前の言う正常ってなんだ?」

「人間の男は、人間の女を愛する。これが真理じゃねェか。その逆も然りな。それができない奴らは異常だよ。お前らもだ。反吐が出るね」

「……っるせぇな……」

「ァん……?」

 

 不審げに目を細める奴に向けて。俺は、腕の中の毛並みが逆立つような声で、吠える。

 

「───うるせぇっつったんだよッ!! 俺らが誰を好きになろうが、お前にゃどうでもいいだろうが! 当事者でもない赤の他人がつべこべつべこべ言いやがって……ッ」

 

 頭が沸きそうだ。こんなに頭が熱くなるのは、久しぶりだった。

 

「大体、正常って何だよ! いちいちそんなルールに縛られてしか、お前らは生きられないのか!? 馬鹿馬鹿しいとは思わないのかよ! わざわざそんな無駄なものを取り決めて、世界を狭めて! お前らはそれで満足なのか!?」

 

 何か言おうとするアスマのその口を遮るように、俺は言葉を重ねていく。無駄なことなど、言わせてたまるものか。

 

「それでも、それでも俺が異常だというなら、俺は異常で構わない。つまらない世界にいるよりは、俺は自分らしく……こいつと生きることを選ぶさ」

 

 吐いた息を、もう一度強く吸い込んで。まっすぐ、アスマの目を見て。

 

「だって、俺はこいつのことが大好きだから。これは、誰がどう言おうと覆すつもりはない。……お前に好き勝手言われる(いわ)れも、ないんだよ」

 

 そう言っては、もう一度イルルを抱き締めた。きゅぅ、と腕の中の温もりが声を上げて、その身を静かに寄せてくる。それが愛おしくてたまらない。

 好きな奴を好きになって、またそいつも俺のことを好きになってくれる。それに対して上げられる誹謗の声など、何の価値があるのだろうか。

 確かに、この世界にはそれは異常だと声を上げる人間が一定数存在する。つまらない常識や価値観で、人の気持ちを軽々と踏みにじる奴らがごまんといる。

 俺は、何が正しいとか、正しくないとか。そんな概念は、『好き』っていう感情に伴わないと思うんだ。その『好き』の形は千差万別で、その一つ一つがまるで一品料理のように素敵なものだ。中には不味かったり、味の濃すぎるものもあるだろう。だけれど、そこに正否なんていう調味料は、必要ないんじゃないだろうか。

 

「……アイルーも、人間も……心があって、言葉がある……」

 

 ふと、そんな言葉が飛んできた。

 見れば、気怠げに目を開けながら、唇を上下させる少女が一人。白い包帯やガーゼをほんのり赤く染め上げたヒリエッタだった。

 

「通じ合えるから、そこに姿は関係ないって……言ってたもんね、シガレット」

 

 そう言っては優しく微笑んで、また痛みに耐えるように顔を歪ませる彼女。その横にルーシャは屈んでは、ヒリエッタを支えるようにその紅い鎧へと手を伸ばす。

 どうやら目を覚ましたらしい彼女は、随分と懐かしい言葉を俺に返してくれた。あのオオナズチに肉を盗られた直前。その時に俺が吐いた言葉だったような、そんな気がする。

 一方で、押し黙っては苛立ちを主張していたアスマ。ヒリエッタを気絶へと追い込んだその張本人は、不満を盛大に込めた溜息を吐いた。ガスを溜めに溜めたような、そんな大きな溜息を。

 

「……くだらねェッ! くだらねェくだらねェ! むかつくぜェほんとによォ……お前らは悪だ、悪なんだよ……ッ!」

 

 不満を吐き捨てるアスマ。その形相は凄まじく、彼の過去に何かがあったのではないか──なんて感じさせるほどに、鬼気迫る色で顔を染め上げている。

 そんな彼に向けて、ルーシャは呆れたように言葉をかけた。馬鹿な奴だと、そう言わんばかりに頭を振りながら。

 

「悪ってさ……。それが誰かを不幸にしてる訳? それが、人を脅かすようなことをしてる訳?」

「なにをォ……」

「彼らは彼らで好きに生きる、それでいいじゃない。そこにいちいち介入なんかしなくていいの。そういうのを、余計なお世話ってゆうのよ」

 

 どこか清々しい顔で、俺たちの方へ目を向ける彼女。イルルに向けて「良かったね」なんて、そんな言葉を投げかけているかのような顔だった。

 その優しい視線に、イルルはピンと尻尾を立たせる。ぐったりとさせていた体だったけれど、ふわふわとした尾だけは綺麗に立ち上がった。

 

 ──の、だが。

 ルーシャの言葉にアスマは。俯いては言葉を閉じ込めていたアスマは。

 

「……もう、いいよォ」

 

 そう、小さく呟いて。

 

「どっちにしろ、お前らは皆殺しだから」

 

 すっと、少女二人に向けてその銃を。俺の腹に穴を空けたあの銃を。

 

 耳が張り裂けそうになるようなあの発砲音。それが、再びこの狭い空間の中で反響する。瞬発力にものを言わせてヒリエッタを庇ったルーシャから、鮮血が飛ぶ────。

 と、思いきや。赤い色が飛び跳ねることはなく。代わりに、石造りの大地が激しい悲鳴を上げて、二つほどの傷痕を作り出していた。

 

「……えっ?」

「……なッ……!?」

 

 片や、穴が開くはずだった体を見ては驚く少女。片や、突然逸れた弾道に驚きを隠せない男。

 怯えたように震えるイルルをぎゅっと抱き締めて、俺は視線を上へとずらす。鳴り響いたもう片方の発砲音の、その出所へと。

 そこにあったのは、煌々と煙を吐いたもう一つの筒。それを手に持っては、何食わぬ顔で立っていたテンガロンハット。

 

「……遅ぇよ」

「申し訳ありません。申請が色々と手間取ってしまって。……でも、もう大丈夫ですよ」

 

 トレッドだ。後ろに数人の衛士を引き連れて、やっと追い付いてきてくれた。

 それにしても、相変わらず人間離れした奴だ。おそらく、アスマの撃った銃弾を自らの弾で撃ち落としたのだろう。だから発砲音が二回響き、床には二つの爪痕があって────。

 それを理解したのか、アスマはトレッドを血走った眼で見た。まるで威嚇をするジンオウガのような目で、あの飄々とした男を見た。

 

「なんッ……だァッ! てめェ!」

 

 即座に、激昂。怒りだけではない、動揺を強く含んだその声で、彼は銃身をトレッドへと向ける。先程自らの弾を潰した張本人に、自らの存在を主張するために。体を大きく見せようとする、モンスターのように。

 

「……五月蠅(うるさ)いなぁ」

 

 そんな奴の虚勢も、一瞬で散った。

 アスマが撃つよりも速く、トレッドは自らの銃を震わせる。そこから飛び出した弾は、一直線に奴の銃口へと飛び込んだのだった。

 銃声。続いて、カン、なんて音が一瞬聞こえたかと思いきや。それは、即座に火薬の弾ける音へと変貌する。そうして内部から弾け飛んだ奴の銃は、全身をバラバラに撒き散らし、その血管の浮いた肌を焼き付けた。

 

「ぐッ……なッなあァァ!?」

 

 驚愕の表情。今日一番のその表情が、奴の顔を埋め尽くす。

 だが、それもまた一瞬だった。何が起こったのか分からないといったままに、奴の顔は吹き飛ばされる。踏み込んだトレッドが振るった銃身が、奴のその無精髭を殴打していた。

 

「ハンター数名への暴行及び殺人未遂。並びにアイルーの誘拐、傷害致死と今回の未遂……ですかね。現行犯で逮捕ですよ……っと」

 

 パチン、と指を鳴らし、それを合図とするかのように数人の衛士が流れ込む。そうして呻くアスマを拘束し、床の上で沈黙するあのモヒカン店主や、壁に縛り付けられたスキンヘッドの二人組を取り押さえていった。気絶する者も痛みに悶える者も、一切の容赦なく引きずり始めるその動きは、どこか作業的に見えた。

 そんな様子を眺めながら、トレッドは俺の前へと歩み出す。腕の中のイルルがその様子に気付いては耳を立て、それで俺は彼女の現状を改めて認識した。

 

「トレッド! 医療班だ! 医療班はいないか!? イルルが、イルルが……ッ!」

「にゃ、あの……旦那、さん……」

「ん? どうかしたんですか?」

「どうした、じゃねぇだろ! 分かってんだろ!? イルル、撃たれたんだ……大怪我してんだ! 早く医療班を!」

「……怪我? どこです?」

「どこって、見りゃ分かんだろ! ほら、こんなにも血がべっとり────」

「それ、カスタードですよ」

 

 ────は?

 

 これまでの人生の中で、ここまで拍子抜けした声を出したのは初めてだったかもしれない。

 イルルから、べっとりとしたものが出ていることには気付いていた。でも、彼女の真っ白な体が真っ赤に染まっているところなんて見たくない。だから、俺はタオルケットの下を見ることができなかった。せめて、せめて医療班が来るまで彼女を抱き締めていようと。そう思っていたんだ。

 だけど、飛んできたのは、呆れたようなその言葉で。恐る恐るタオルケットを持ち上げたら、そこには中身が漏れたパックが一つ。先程イルルに渡した、カスタードだった。

 

「こんな甘ったるい香りがするのに。シグの鼻も、堕ちたものですねぇ。ていうか、血がべっとりはむしろ君なんですが」

「えっ……えっ……?」

「うにゃあ……旦那さん、無理しちゃダメ、にゃ……」

「……え、あ……っ」

 

 心配そうに俺を見るイルルを下ろし、俺も自らの重い腰を下ろす。

 そういえば、俺も奴に撃たれていたんだった。それを忘れていたのは、何て言うか、色々危なかったかもしれない。思い出した途端、腹がじんじんと痛み出してきたような、そんな気さえした。

 医療班らしき白衣の集団が流れ込み、この狭い地下の中で分散する。そこから数人がこちらにやってきた。そうして応急処置が開始される傍ら、俺は心配そうにこちらを見るイルルへと目を向ける。

 彼女は、タオルケットの中でパックを抱き締めていたのだった。あのカスタードを包んだパックを抱き締めて、俺の前へと飛び出したのだった。

 確かに、確かに彼女は被弾した。アスマの凶弾をその身に受けた。でもそこには、小さなカスタードのパックがあって。それが銃弾を受け止めていたのである。

 

「……イルル、途中で気付いてたのか?」

「うにゃ、確かに痛かったけど……穴は空いてなくて。でも、それを言える雰囲気じゃなかったにゃあ……」

「あぁ……ごめんな」

 

 申し訳なさそうに目を伏せる彼女を、俺はもう一度抱き締めた。医療係が、動くなと注意してくるが、今は聞こえないふりをする。

 毛並みこそ荒れているが、その体からは出血している様子もなく。その柔らかな胸へと顔を埋めると、小さな鼓動が耳に伝わってきた。小さいながらも、とても温かくて、優しい鼓動だった。

 別の医療班数人が、ヒリエッタを担いでは外へと連れ出していく。ルーシャもそれに付き添って、あの梯子に足をかけて。でもその前に、イルルに向けてウインクをした。イルルは、嬉しそうな、花が咲くような笑顔を浮かべていた。

 

「……ダイラタント流体ですかねぇ」

「あー……なるほど」

「にゃ……? だい、ら?」

 

 こてん、と彼女は首を傾げる。聞き慣れない響きに髭を震わせていたが、そんな彼女を、俺はもう一度強く抱き締めた。

 

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 

 ダイラタント流体。

 それは、柔と剛が同居した物体である。

 強い力を与えれば、その身を鋼の如く固くして。弱い力を与えれば、まるで液体のように柔らかく応じる。それが、この物体の性質だ。

 つまり、手でこねるといった柔らかい力には、それ相応の弱い抵抗力を見せ、銃弾といった強い衝撃に対しては、それを受け止めてしまうほどの抵抗力を発揮する。イルルの懐に収まっていたカスタードもまた、そのダイラタント流体の一つなのである。

 

「───ってな感じでな、その懐にあったカスタードがお前を守ってくれたんだよ、たぶん」

「にゃ……カスタードが? 銃弾をにゃ?」

「あぁ。カスタードの中のコーンスターチと水がな。普段はバラバラな癖に、急に負荷がかかると突然密着するんだ。だから固くなる……って感じ?」

「ふにゃぁ……なんか、凄いのにゃ。カスタード……」

 

 そう感嘆の声を漏らすイルル。ソファーで横になる俺の横へと腰を下ろしては、驚いたように尾を立たせていた。

 

 ────あれから。

 あれから数時間経って、俺たちはようやく解放された。自宅へ何とか帰らせてもらえた。

 ギルドとしては、今まで明るみに出なかった問題のために、やっと重い腰を上げたそうだ。何やら大長老の鶴の一声だとかで、元老院かそこらからは反対の声も多かったそうだが。

 とにもかくにも、一連の事件の実行犯が捕まった。証拠も揃っていたために彼らは拘束され、俺たちは重要参考人として取り調べを受けることとなる。とはいえ、俺もイルルも、さらにはヒリエッタも怪我人だ。特にヒリエッタに関しては、大老殿の医務室をも解放するという大盤振る舞いだった。俺は意識がはっきりしているということで、自宅療養をさせられたが。一番怪我が少なかったルーシャは、今も事情聴取されているらしい。御愁傷様である。

 

 とまぁ、そんな感じで今は自宅で療養中。ようやく戻ってきた温かい日常を噛み締めているところだ。

 そこでカスタードの話をする傍らに、例のカスタードを使ったタルトを雑貨に発注して、配達してもらった。

 俺たちを守ってくれた、あのカスタード。それをふんだんに使った香ばしいタルトだ。それが詰められた箱を、ソファーの上で雑に開ける。

 嬉しそうに尾を立てるイルルの姿を見ていると、二人でこうして自宅でのんびり過ごすことが嬉しくてたまらない。自宅療養になって良かったとさえ思う自分がいる。

 

「にゃ、旦那さん。タルト……食べれそうかにゃ?」

「いやー、両手が裂けちゃったから手が使えないなー食べさせてほしいなー」

「にゃあ……すっごい棒読みにゃ。うにゃ~、しょうがないにゃあ」

 

 包帯が巻かれた手を振りながらそう言うと、イルルは溜息をつきながら俺にタルトを差し出してくれた。

 困ったような気持ちと、呆れたような気持ち。そこに、嬉しさをたくさん詰めたような、そんな溜息だった。

 

 薄い茶色を固めたようなそのタルト生地からは、焼いた片栗粉特有の優しい香りがする。その奥から土台を貫くように、濃厚なカスタードの香りが閃いて。カスタードの他に、控えめな甘さを振り撒くもう一つの香りが瞬いて。

 そんな砂糖とがっちり握手した奴らの上には、砂糖と手を組もうとしない頑なな赤い集団の姿があった。

 

「……イチゴにゃ?」

「あぁ、熱帯イチゴ。折角だから乗せてくれって頼んだんだ」

「にゃー、美味しそうにゃ」

 

 キラキラと部屋の照明を跳ね返す、艶々な肌が美しいイチゴたち。タルトの茶色の世界に舞い降りたその鮮やかな赤色は、潤いに満ちた香りを振り撒いている。砂糖にはどうやっても出すことのできない、爽やかな香りだ。

 そんなイチゴをスライスして、まるでてっさのように並べては、一輪の赤い花のように咲いたそのタルト。俺はまるで、花の蜜に誘われた羽虫のように、肉球の上で輝くそれにかぶりついた。

 上顎には、イチゴの張りがある食感が伝わって。下顎からは、タルトのサクッとした快音が伝わってきて。イチゴによる、果実特有のすっきりとした甘みに酸味。それが口の上半分に広がったかと思えば、今度は下からじっくりと。粘り強い砂糖の甘さが、ゆっくりと広がってくる。

 サクサクと崩れていくタルトからは、次第にその奥に眠るものが目を覚まし始めた。二つの勢力による口内戦争は、タルトの中から現れた新勢力によって、凄まじい激戦区へと変貌する。まるで山芋と木馬を使って敵の陣地に味方を送り込んだという、『トロロの木馬伝説』の一幕のようだ。

 

「……ん、これ……」

「にゃ、これって……」

「……マドレーヌ?」

「マドレーヌにゃ?」

 

 カスタードの濃厚な甘さの中で、穏やかな甘みが広がってきた。タルトの噛み応えある食感の中に、柔らかいながらも歯に痕を残すそれは、優しい甘さをイチゴの中に溶かしていく。その味は、マドレーヌのそれだ。

 先程までの総力戦は、今や和平を結ぶまでに落ち着いていた。ただ、柔らかな甘さと爽やかな酸味、そしてほぐれるような歯触りが、口の中を彩っていく。呑み込む瞬間まで、その宴は続いていた。

 

「……ご馳走様。凄く、美味しかった」

「にゃあ、ごちそうさまでしたにゃ!」

 

 濡れタオルで手を拭いては、イルルは嬉しそうに顔を綻ばせる。そうしてソファーで横になる俺に添い寝するかのように、彼女もその白い体を横にした。

 

「イルルもほんとにグルメになったなぁ」

「にゃー、旦那さんのせいにゃ」

「そうかなぁ。まぁ、そうかもしんないけど」

「そうにゃ。絶対そうにゃあ~」

 

 イルルのほっぺをむにむにすると、彼女は負けじと俺の頬を肉球で撫でてくる。手には柔らかい感触が残り、頬には優しい温もりが灯っていた。互いに互いの頬をいじりあっては、その頬を綻ばせ合う。物凄く、幸せに感じる瞬間だった。

 

「……楽器になんてしなくても、イルルはこんなに綺麗な声で言葉を贈ってくれるのに。アイツらはほんとにアホだなぁ」

 

 楽器で金儲けがしたいなら、炎剣リオレウスにでも弦を張っとけよ、なんて。そんな思いが溢れてくる。きょとんとした顔のイルルの頬を撫でながら、俺はそう呟いた。すると、彼女はその目を少しだけ細めて。

 ちょっと小悪魔的な微笑みで、俺の耳元に顔を寄せてくる。そうして囁くように、俺の耳のすぐ側で。

 

「───それは、旦那さんにだけ、にゃ。大好きな貴方にしか、贈らないよ」

 

 そう言っては、照れくさそうに微笑んだ。そんな彼女が、とても。とても愛おしくて。

 俺はもう一度、包帯だらけの手で彼女をそっと抱き寄せた。お互いを繋ぎとめるように、そっと。もう離さないように、ぎゅっと。

 

 そのまま、俺も言葉を贈るのだ。

 やっと戻ってきてくれた、最愛のパートナーに向けて。

 これだけは言っておきたい。

 ────彼女が飛び出した日から、ずっとずっと言えなかったあの言葉を。

 

「……おかえり、イルル」

「うにゃあ。ただいまにゃ、旦那さん!」

 

 

 

 

 

~本日のレシピ~

 

『熱帯イチゴのカスタードタルト』

 

・薄力粉      ……130g

・片栗粉      ……20g

・砂糖       ……40g

・丸鳥卵黄     ……80g

・垂皮油      ……50g

・ポポミルク    ……小さじ1杯ほど

・熱帯イチゴ    ……5個

・カスタード    ……150g

・マドレーヌ(市販) ……1個

 






 本当におかえり、イルルちゃん。


 ということで、このメインヒロイン回は終了……とはいかず最後に後日談が残っているのですが、まぁひと段落です。
 プロット段階ではイルル編と銘打って、春休みでじっくり練ってました。プロットを明確に文字に起こす前は、二人が喧嘩してイルルちゃんが誘拐されて、シグが乱闘して今回のエンドを迎える。そんな流れを三話構成程度で考えていました。フタを開けてみれば、九話構成。何だこれは……たまげたなぁ。

 私のがきんちょ時代での創作の礎となって、今でもリスペクトしてやまない作品がありまして。某マフィアン家庭教師なアレなんですけどね。
 あれ凄く好きなんですが、主要キャラを死なせない点と、ヒロインを選ばない点にずっと不満を持ってはいました。自分が創作するなら、そこはしっかり決めてやろう。なんて、その頃は考えていたんですけどね。いざこうやって人の目に触れる作品を書いてみると、それってかなり難しいことなんだなぁと痛感しました。でも、ヒロインの選択はあやふやにしたくないと思って、このような展開になっちゃいました。
 シグヒリやシグルーを期待していた方々には土下座もんです。ついで言うと、私は完全にシグイル過激派です(迫真) この作品はケモナーを増やしてやろうって意気込みで書いてます() あと何かルーヒリコンビのよさみに気付いてしまったかもしれない。ルーヒリ尊い。

 後日談的なものを挿みつつ、またストーリーを進めていきましょうかね。イルル編の中に置いといた伏線を、拾っていかなきゃ。モンハン飯らしい、モンスターを狩って料理を書きたいです。
 それでは、また次回でお会いしましょう。

【追記】
 かにかまさんにイラストをいただきました。シガレット兄貴-!

【挿絵表示】


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