モンハン飯   作:しばりんぐ

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間が空いてしまって申し訳ありません。





人はパンのみに生くるにあらず

 

 

 ──何かの音が耳をくすぐっている。

 

 一体何だろう。衣擦れの音? 捲られるカーテンの音? ネコの鳴き声?

 様々な音が俺の鼓膜をノックしては、飽きたかのように通り去っていく。不思議と動かない体に違和感を覚えながらも、俺は妙にはっきりしている意識を音へと向けさせた。

 

 ──誰か、話しているのだろうか?

 

 話し声が聞こえる。

 俺が聞いたことのある声。どこか、馴染みのある声が俺の耳に届いてきた。何を言っているのかまではよく分からないが、何を憂うような、覇気のない声だ。

 

 ──あぁ、そうだ。きっと、イルルが俺を起こそうとしているんだろう。

 

 いつも、俺を起こしてくれるイルル。毎朝俺を覗き込んでいる彼女。今日もまた、わざわざ早く起きては俺を起こそうとしてくれているのか。だったら、早く起きなければ。

 と思ったのだが、妙だ。変に瞼が重い。思うように目が開かない。まるで縫い付けられたかのように瞼が離れず、瞳に光が入ってこない。まるで塞ぎ込んでしまった貝のようだ。

 なんて呑気なことを考えていると、不意に違う刺激が飛び込んできた。

 

 ──何だっけ、この匂い。

 

 鼻孔にゆっくり入り込んでくる香り。脂が弾け、空気に混ざり込んだかのようなこの香り。

 溢れるその香りは、不思議と俺の脳を鋭く刺激した。じわりと香るそれは、柔らかな脂のそれを思わせる。焼ける表面から染み出る汁が、その高温によってじっくり気体に変えられ、上昇する熱の気流に乗せられるまま漂い始めて。

 不意に、口内に涎が溢れ始めていることに気付いた。それだけじゃない、胃が縮んでは音を鳴らし始める。まるで何かを主張するかのように、その身を震わしていた。

 不思議な話だ。この匂いを嗅いだだけなのに、身体がゆっくりと目を覚ましていくのが分かる。あんなに動かなかった瞼も、今ではゆっくり動きだしていた。匂い一つで、ここまで変えてしまうものとは、一体────。

 

 そうだ、俺はこの香りに嗅ぎ覚えがある。狩りに行った時にも、家で飯を作る時にも。いつも肉を焼く度に、キッチンに立つ度に浴びていたじゃないか。

 これは──そう、こんがり肉の香りだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──はっ……!」

 

 突然、目の前が真っ白になった。

 いや、違う。大量の光が一気に差し込んで来たのだ。瞬時に開いた瞼を越え、突き刺すような光が眼球を包み始める。その予想だにしていない刺激に、俺は思わず喉を震わせた。

 

「……ッ……!」

 

 頭をずらし、瞼を動かしては入る光を調節する。閉じて開くを繰り返して、ゆっくり目を慣れさせた。

 それを何度もするうちに、ゆっくり輪郭が浮かび上がる。一体何が俺の視界に映っているのか、分かってきた。

 

 白い天井、白い部屋。

 清潔感を思わせる薄い白色で塗りたくられた天井と、淡い光を放つ小さなランプ。俺を囲う様に広がった薄いカーテンと、背後に感じる妙に柔らかい感触。俺が(もた)れ掛かる、白いベッド。

 もしや。いや、もしかしなくても。

 

 

 

「──旦那さん……?」

 

 そんな白い視界の中に、別の白が差した。この無機質な白とは程遠い、柔らかな白。豊満な毛並みを思わせるような、淡くも深い色だ。

 その淡泊な色に咲いた二つの青い花。くりくりとした大きな二つの花が、まるで海のように深い色で俺を見つめている。

 

「……イル、ル……」

 

 そう、イルルだ。いつも俺を起こしてくれる彼女が。可愛らしい顔でそっと俺を覗き込む彼女の姿が目の前にあった。

 ただ一つ。いつもの困ったような表情ではない、不安に押し潰されそうとでも言いたげなくらい歪めた表情が気になるところだが。

 そんなことをボンヤリ考えていたら、彼女はその溜まった感情を爆発させるように、突然俺に飛び付いてきた。

 

「旦那さーーんっ!!」

「うおっ!?」

 

 小さく軽い体が俺に伸し掛かってくる。ふわふわの毛に包まれた柔らかい体が俺の胸に乗って、その仄かな重みが直に伝わってきた。

 その衝撃のせいか妙にあばらが軋んだような気がしたが、堰が切れたかのように泣き始めるイルルを見ては、痛みを訴える気にもなれなかった。

 その代わりのように、そっと彼女の背に手を添えては、その柔らかな毛並みを撫でる。ぐずる子どもを宥めるように。

 

「ふぇぇ……旦那しゃあぁん……っ」

「イルル……どうしたんだよ……」

 

 どうしてだろう。彼女の姿を見ると、直に彼女に触れると。俺も何だか堰が切れたかのように感情が逆流してきた。心の底で、物凄く安心しているのが分かる。彼女とまた触れ合えることに、筆舌し難い喜びを抱いている自分がいる。

 そうだ。俺は確か────。

 

「……シグ? 良かった、目が覚めたんですね」

「トレッド……」

 

 その瞬間、俺を周囲から仕切っていたカーテンが突然開けられた。乱雑な様子で、やや手の甲に汗を滲ませるその姿は、閉じているのかと思わせるくらい細い目を、らしくもなく見開いたトレッドの姿だった。

 

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 ◆  ◆  ◆

 

 

 

「……あ? 三日?」

「えぇ、丸三日。俗に言う昏睡状態って奴ですかね」

 

 奇妙なくらい重い頭を稼働させ、苦笑いするトレッドの言葉を呑み込んだ。そんな彼が言うには、驚くことなかれ、俺は何と三日も眠り続けていたそうだ。

 昏睡状態。言い変えれば生死を彷徨う状態だったらしく、いつそのまま永眠するかも分からないとまで言われていたのだとか。であれば、イルルがここまで狼狽えたのも致し方ないことだろう。

 

「……そうだったのか。ごめんな、イルル」

 

 泣き疲れてしまったのだろうか。安心故の脱力感だろうか。目元を濡らしながらも、イルルは俺に身を預けるように眠っていた。その小さな両腕を俺の腰に回し、腹に顔を乗せながら、もう俺を離すまいとしがみ付いている。

 そんな彼女の背中を優しく撫でていると、部屋の奥からあの香りを引っ下げたイズモが姿を現した。

 

「よーぅ。やっぱ目覚ましたんだな、シグ」

「イズモ……。お前、それ」

「こんがり肉、焼けば君も起きるんじゃないかってね!」

 

 昔と変わらない、どこか清々しい笑顔を向けながら、イズモは俺が身を預けるベッドの端に腰を下ろした。そんな彼が手に持ったこんがり肉。先程俺が感じた匂いはこれだったのか。

 なんて感傷に浸っていると、イズモはその場で肉を頬張り始める。

 

「……おい、俺にくれるんじゃないのかよ」

「怪我人にこんながっつりしたもん食わせれるかぃ? 安静にしてな」

「シグ……。君は自分の体をよく見ておいた方が良いですよ」

 

 俺を諌めるような口調でそう言う二人。そんな彼らの言葉の通り、俺は自分の体に目を向けてみた。

 幾重にも巻かれた包帯。絆創膏や回復薬などでは追い付かない数々の深い傷が俺を蝕んでいるようだ。何かの薬液のようなものが管を通して俺の腕に入り込んでおり、傷の重みも相当なものだと思う。

 そして何より、最も違和感があったのは左脚。あの瘴気が直撃し、唯一防具が剥がれ落ちてしまっていた左脚だ。そこにあるのは、体のもの以上に丁寧に巻かれた包帯。

 なのだが、その位置や形が妙だ。膝から下が妙に短い。まるで、形が変わってしまったかのような。

 それが何かと不思議に思いながらトレッドに視線を戻すと、彼はその細い目を顰めながらそっと俺から目を逸らした。肉を貪るイズモは俺の方を向きもしない。

 あぁ、そうか。そういうことか。

 

「──負けたんだな、俺」

「……負けた、で済んだことを喜ぶべきじゃないですかね?」

「そだよ。このギルドナイト様が来なかったら君、アイツの腹ん中だかんね!」

 

 俺を諌めるように少し声を震わせる二人。

 そんな言葉を聞きながらも、目を合わせようとしない彼らから俺もそっと目を逸らす。そのまま滑らすように、白と赤で染まる左脚へと視線を落とした。

 感覚はないのかもしれないが、いまいちよく分からなかった。それもそうだ、ショック死してもおかしくなさそうなこの傷の前では、麻酔をかけない方がおかしいだろう。さっきから体を支配している気怠さと違和感の正体は十中八九そいつだ。

 それにしても、ギルドナイトだと?

 

「……トレッド? お前が助けてくれたのか?」

「たまたまあの時の古龍観測号に乗り合わせていたため、ね。あの吹雪の中でも奴の瘴気はよく見えた。となれば、誰かと戦っている──君しかいない、という訳ですよ」

「あの猛吹雪の中をパラシュートで下りるとか度胸あり過ぎなんだよねぇ……」

 

 聞けば、あの不明瞭な世界の中で、トレッドは俺の単独行動を予想し凍土に降り立ったらしい。

 何とか辿り着いた時には、血塗(ちまみ)れで倒れていた俺と泣き叫ぶネコの姿があったそうな。そしてそれを狙う淆瘴啖イビルジョーの姿も。

 

「神ヶ島が火を吹きました。全弾装填してありったけの拡散弾をぶち込みましたけど……」

「けど?」

「シグはよくあんなのを一人で相手してましたねぇ。拡散弾でも倒れないから、仕方なく罠と麻痺弾を駆使しましたよ」

「んで、シグを抱えて撤退したんだってね。流石トレッドだよ」

「そうか……。迷惑かけたな、ごめん」

 

 結局俺一人ではどうすることも出来ず、自分どころかイルルまで危険に晒してしまった。結果を急ぎ過ぎた結果がこれだ。俺は一体何がしたかったんだろう。

 どうしようもなく、下げた頭。誠意を見せるのがこれ以外見当たらず、俺は静かに頭を項垂れた。

 

「全く……」

 

 そんな俺の頭に向けて、トレッドは色の白い握り拳は軽くぶつけては、これでチャラですと笑顔で言った。生憎、目は笑っていなかったが。彼の忠告を無視したのだ、怒るのも当然だろう。

 そんな様子を見ながらこんがり肉を綺麗に食べ終えたイズモは、話の流れに合わない率直な疑問を口にした。それも、さも不思議そうな様子で。

 

「そもそもだけど、アイツって何なのさ? イビルジョーって、龍属性に弱いんじゃなかったの?」

「ん……まぁ、一般的にはそう言われてますね」

「でもあれでしょ? 淆瘴啖って、全身に龍属性エネルギーを纏ってるんでしょ? 一体どうなってんの?」

「……共食いと長寿を重ねた個体に、龍属性器官に変調を来たす個体が存在する。ギルドはそれを怒り喰らうイビルジョーと名付けてますよね」

 

 未だ謎の多いイビルジョー。進化の過程で謎の変異を遂げ、現在の姿になったと言われているかの存在は、数多のモンスターの中でも異端中の異端だ。

 そんな奴らにも特殊個体と呼ばれるものが存在する。それが怒り喰らうイビルジョーだ。

 

「ただし、彼らは短命となります。龍の瘴気が自らも蝕んでしまうのだから。……だけど、奴は……淆瘴啖は少し話が異なりますね」

「……? 何が違うんだぃ?」

「ポイントは左目、シグが刺した封龍剣にあります」

「へっ? 封龍剣って、龍殺しの剣じゃ……あ。まさか────」

 

 核心めいたトレッドの言葉。それを反芻したイズモは眉を(ひそ)めながら考え、何かに気付いたように目を見開いた。そんな彼を見てはトレッドも頷き、そっと俺に目線を映してくる。この続きは任せたとでも言うように。

 やっと目を合わせてきたかと思えばそれか。思わず溜息が出そうになるが、それを不満共々グッと呑み込み、彼の言葉を繋ぐように俺はゆっくり口を開いた。

 

「イビルジョーの圧倒的な適応能力は知ってるよな? それと一緒。眼孔を貫かれながらも龍の力を飲み続けたんだよ、アイツは」

「……それで龍属性にも適応したってか? にわかには信じられないんだけど」

「信じる信じないは自由。……まぁ、ギルドとしては不本意ながらもその事実を信じるとしてますけどね」

 

 感嘆の声を漏らすイズモに、困ったような顔をしながらも自嘲気味に笑うトレッド。

 そんな二人の様子を見つつも、俺は包帯に包まれた両手をそっと動かした。意識を手放す前までは、しっかり剣斧を握り締めていた筈のこの両手。今では白と赤に染め上げられ、見るも痛々しいものとなってしまっている。

 

 ──敵わなかった。

 悪化している。俺が封龍剣を突き刺した時より、タンジアギルドの制止を振り切って挑んだ時よりも。それが俺の見た感想だ。

 全身から龍属性エネルギーを噴出させるなんて思いもしなかった。あの強靭な耐久力も、はっきり言って俺の想像以上。

 あれは本当に、ヒトが狩ることの出来る存在なのか? 

 

「……シグ、あまり思い詰めないでください。奴は今ギルドが全力で監視してます。だから、君はゆっくり休むことを最優先で」

「そうだよ。それに、情報の混乱やトレッドの粋な計らいでシグへのお咎めも特にないみたいだし? だから安心して寝てなって」

「……粋な計らいって何だよ?」

「シグが食い止めたおかげでこの村への被害は出なかった。これでみんなハッピーでしょう?」

 

 俺の様子を気にしたトレッドの言葉。それに便乗するイズモが言うには、トレッドがギルドに口添えをしてくれたようだ。それも俺を庇うような内容で。ギルドナイトの癖に笑わせてくれる。

 もちろん気休めの可能性もある。だが、二人の友人の温かい言葉は、俺を安心させるのには十分だった。

 そんな彼らの言葉を呑み込んで、俺は再び目を閉じる。俺の体は、まだ俺を自由にさせる気がないようだ。

 

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 

 次に目を覚ました時には、外は夜の闇に包まれていた。

 イズモもトレッドももう帰ったようで、病室には俺──と、未だ俺の上で眠り続けるイルルの二人だけ。時折医者や看護士が顔を出していたようで、俺のベッドの横にはラップで包まれた病院食が置かれていた。プレートの上に置かれたいくつもの小皿。内容は、ユクモ風料理だろうか。

 

「んにゃ……みゅぅ……」

「ん、悪い。起こしちゃったか?」

「にゃ……旦那さん?」

 

 その皿の中身をもっとよく見ようと、少し体を動かしたものの、それが刺激となったのか。妙な声を漏らすイルルに気付き、俺は動くのをやめた。

 それでも時すでに遅く、イルルは目を覚ましてしまったようだ。しょぼしょぼとさせた目で俺を見ては、今一度俺を離すまいと体を寄せ付けてくる。

 

「旦那さん……。ボク、ボクね……」

「……うん?」

 

 俺の胸に顔を押し付けるイルルは、こもらせた声で何かを話し始めた。

 そんな彼女の言葉を受け止めるように、俺は静かに相槌を打つ。彼女の柔らかな背中を撫でながら、そっと。

 すると彼女は、その小さな肩を震わせ始めた。心なしか、こもる声も震え始めているようにも感じる。

 

「ボク、怖かった。旦那さんが死んじゃうんじゃないかって、すっごく怖かったにゃ……っ」

「あぁ……ごめんな」

 

 悲しそうで、苦しそう。イルルの様子は、そんな印象だ。俺が撫でても落ち着かず、彼女の堰は今一度切れそうにも見える。

 それだけ俺は彼女に心配をかけてしまったということか。いつもは俺の失敗も適当にスルーする彼女がここまで取り乱すという事実。それが、彼女の心労を如実に物語っている。

 

「にゃ……旦那さんが謝るのは、違うにゃ。悪いのは……ボクの方にゃ」

「え?」

 

 ピクリと肩を震わしたイルルは、自嘲気味にそう呟いた。

 そうして、そっと俺の体から身を起こす。泣き腫らした目元の目立つ彼女の顔は、苦悩の表情で歪んでいた。

 

「ボク……もう、旦那さんの傍にはいない方がいいかもしれないにゃ……」

「はぁ? 何言ってるんだよ」

「だって、だってだって! ボクのせいで、ボクを庇ったから、旦那さんの────」

 

 掠れるような声で。

 聞き取ることも難しいくらいか細い声で。

 

 

 

 

 ────足が。

 

 

 

 

 彼女の口から、その小さな言葉が漏れる。そこから先は言葉にも出来ないらしく、彼女はその小さな両手で顔を覆ってしまった。耐えられないとでも言うような悲痛な声が、嗚咽に混じって病室に小さく響き渡る。

 

「にゃっ、ぁん……っ」

「……イルル」

 

 彼女がここまで取り乱すのは初めて見た。

 寂しがり屋で甘えん坊なイルル。時折悪夢に魘されて泣き出すこともあったけど、ここまで酷く自分を追いつめているところは見たことがない。

 それだけ負い目に感じているのだろう。()()()()()()()()()()に。

 

「イルル、おいで」

「……っ……にゃ?」

 

 だから、俺は彼女に向けて、包帯に包まれた両手を伸ばした。

 それを見ては、イルルは涙で濡れた目をパチクリさせる。俺の言っていることがよく認識できていないらしい。

 まどろっこしい。そう感じた俺は、棒立ちする彼女の肩を寄せては、再び俺の胸に押し付けた。

 

「にゃっ!? だ、旦那さん……っ!?」

「──イルル、俺はお前のせいだなんて思ってないよ」

 

 彼女の頬と俺の頬が擦れる距離。ふわふわ柔らかい彼女を感じながら、俺はその小さな耳へと口を近づけ、優しく囁いた。

 イルルは、自分を責めすぎている。だけど、俺はそんな風に思っていない。

 

「……にゃ、でも……っ」

「考えてみなよ? 先に俺を助けてくれたのは誰だ? 他でもないイルルだろ?」

 

 そう。そもそも俺は、イルルが来てくれなければここにはいなかったのだ。彼女がいなかったら、俺はすでに奴の腹の中にいる。

 わざわざ彼女が俺のために駆け付けてくれたからこそ、俺は生きている。こうして、彼女に触れられる。だから俺の脚がどうかなんて、大した問題じゃないのだ。

 

「旦那さん……」

「俺はイルルに助けられたから、またこうやってお前を感じることが出来る。もしイルルが傍にいてくれなかったら、俺は今────」

 

 その先の言葉は呑み込んで、彼女を抱き締める。さっきまでイルルがしてくれていたように、より強く。俺だって、彼女をもう離したくないのだから。大事な存在を失いそうで怖かったのは、俺も一緒なのだ。

 イルルもイルルで、それが心地良かったのだろうか。おずおずと俺の体に頬を擦り付け、満更でもなさそうな声を漏らした。

 

「にゃあ……」

「イルル、有り難う。俺を助けてくれて。……それと、ごめんな。勝手なことして」

「にゃ、旦那さんが謝ることなんて、ないにゃ。ボクが、ボクが悪いのにゃ……」

「違うよ。お前は悪くないし、俺もお前を突き放したりなんかしない。……だから、傍にいない方が良いなんて悲しいこと、言うな」

 

 抱き締める手を緩め、彼女の額に俺の額を当てながらそう言った。何の装飾もない、思ったままの言葉。それを文字通り真正面から彼女にぶつけたのだ。

 そう言う俺も、何故か自分を抑え切れない。目の奥が熱くなるのを感じる。何かが流れ出てくるのを感じる。

 一方の彼女は、信じられないとでも言うように目を見開いていた。口元を小刻みに震わせ、細い髭をピンと張る。そうして、嗚咽の混じった声を再び震わせ始めた。

 

「ほ、ほんと? ボクは……旦那さんの傍にいても、いいのにゃ?」

「あぁ。これからも傍にいてくれ。俺は足なんかより、お前の方が大切だ」

 

 その言葉が引き金になったのか。彼女はやっと、笑顔を見せてくれた。

 俺が目を覚ましてから初めて見る彼女の笑顔。花が咲くような、輝く満月のような、そんな綺麗な笑顔だった。

 

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 

「腹減った」

「にゃ……ご飯、食べるかにゃ?」

「おっと、俺としたことが忘れてた。食べるとするよ」

 

 先程から、ベッドの横の小さなテーブルに置かれている病院食。イルルを励ますのに夢中ですっかり忘れていた。

 数個の小皿が並べられたそのプレートを、イルルがそっと持ち上げては俺の目の前へと運んでくれる。おかげで、一体どんなメニューなのかが明らかになってきた。

 

「はい、旦那さん!」

「サンキュー。……どれどれ? これは煮物か?」

「にゃ、黄金魚の煮付がメインメニューだにゃ。あとは麦ご飯とか、野沢菜とか」

「典型的なユクモ食ってか。んで箸ね。……おぅ、箸かぁ」

 

 プレートに置かれた小皿には、ユクモ食らしい風流な品が顔を見せている。そしてその横に添えられていたのは、これまたユクモらしい箸という道具。物を摘むようにして利用する、食事のお供だ。

 ──なのだが、これを扱う条件として指の自由というものが存在する。

 そう。お察しの通り、今の俺はと言えば指がしっかり包帯で固定されている訳で。これはお手上げというしかないだろう。

 

「にゃ、旦那さん……」

「参ったな、どうやって食おうか……」

「ボ、ボクに任せてにゃ。いい考えがあるにゃ!」

 

 そう言うや否や、イルルはそっと箸を掴んでは、控えめな量の野沢菜を掴み俺へと向けてきた。

 野沢菜の微かに濡れた表面が、院内の光を照らし返す。その先では、少し恥ずかしそうに目を泳がせるアイルーが一人。

 

「イルル……これって」

「だ、旦那さん。はい、あーん……だにゃ」

 

 ピンと立った尻尾を少し震わせながら、イルルは俺に箸を、そこに挟まれた野沢菜を一心に向けてくる。これは──イルルが食べさせてくれるということだろうか。 

 誰かに食べさせてもらうというのは少し気恥ずかしいが、この両手では一人で食べることも出来やしない。ここは彼女に甘えさせてもらおうかな。

 

「……じゃあ、いただきます」

 

 一口入れた野沢菜。シャキシャキとした食感に爽やかな風味を口一杯に広げるこの野菜。植物としての固さをよく残した食感に、漬物風のあっさりとした味がよくマッチしており非常に味わい深い。噛めば噛むほど旨みが増していく。

 野沢菜とは、こんなに美味しいものだっただろうか。もっと淡泊なものかと思っていたが、十分色の強い味だ。何より、久しぶりに何かを口に入れたということが大きいのかもしれない。

 だが、このあっさりとした味はやはり主役を引き立てる脇役だ。本命は別にある。

 

「うんうん、次は煮付を取ってくれるか?」

「分かったにゃ!」

 

 俺の要望に快く応えてくれるイルルは、その本命とも言える黄金魚の煮付を箸で崩し、食べやすい量を摘まんでくれた。

 背面の肉でも使っているのだろうか。細い筋の集まったこの部分は、その隅々にまでよく染み込んでいるようで、思ったよりも柔らかそうな肉質が印象的だ。味付けはあっさりとした醤油ベースの出汁なのか。香りも優しく、怪我人にも重くなさそうである。

 その魅惑的な一口を、俺は静かに口に入れる。すると、舌の上でその筋が解れ始めた。そうして広がる黄金魚の旨みと出汁の深み。じゅわっと広がるその風味が、直に俺の脳を刺激する。じっくり煮込まれたために生臭みを失ったこの肉は、柔らかな旨みと淡い甘みのような味を形成していた。しっとりとした食感を歯に刻めば、甘みが俺の舌に染み込んで。その肉をぐっと飲み込めば、魚肉らしい淡泊な後味をそっと口に残していって。

 そこに麦ご飯を投入すると、また違った世界が見える。ご飯のもっちりとした食感に、麦の入ったおしとやかな味。単体では味気ないそれだが、黄金魚の煮付があれば話が違う。その肉の脂と豊かな出汁。それらを口の中で染み込ませると、麦ご飯の風味は格段に上がるのだ。麦の細い味がそれを助長し、より慎ましやかな味へと変えていく。

 

「イルル、野沢菜が欲しい」

「にゃ。はい、あーん」

 

 そこに入ってくる野沢菜。主役が輝いた後に現れる脇役。だが、そのあっさりした味が良い。

 漬物のような透き通る味は非常に爽やかで、この煮物の世界に新たな光を差してくれる。口の中に残った魚の味を洗い流すような爽やかさ。何とも魅力的だ。

 

「あー……美味いなぁ」

「美味しいかにゃ? 食べにくくないかにゃ?」

「大丈夫だよ。有り難うな」

 

 上目遣いで俺を見るイルルにそっと微笑んで、俺は一息ついた。

 やはり、生きているというのは美味しい。美味いものを食べている時ほど生を実感できることはない。

 

 俺は死にかけた。左脚を失った。だが、それがどうした? 俺はまだ生きている。味を感じることが出来る。だったら、まだまだどうにかなるはずだ。

 

 ──俺は食べるために生きているのだから。

 

 

 

 

 

~本日のレシピ~

 

『病院食:煮付』

 

・黄金魚の煮付     ……160g

・麦ご飯        ……1/3合

・野沢菜        ……30g

 






挿絵はTwitterにて、zokさんよりいただきました。素敵すぎか!!感謝!!


さて、長らく更新をせず申し訳ありません。再び一ヶ月空いてしまう事態となってしまいました。UAがぐんぐん伸びていたのを死んだ目で見ておりました←
とまぁそんな訳でシガレットさん復帰。代償は大きかったものの、生きてはいましたね。しかも最後に第1章のサブタイトルを回収するという。片足失って狩猟人生はどうするのかねぇ。もういっそ料亭でも開いてしまえばいいのではと思い始める今日この頃。ニャンタ―イルルに素材の調達を頼んで、シガレットさんが料理する。なにそれ完璧か。……いや、やりませんけどね!
ではでは。

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