ジークフリートが落ちた世界は、ダーナが構築した密閉された魔法世界。時間の流れを異にする異界にして、ダーナの箱庭と言うべきモノであった。
高位の魔法具にはその内部に小さな世界を展開するものもあり、内と外との時間経過を任意に調整することができるものもある。ダーナのそれは、そういった魔法具の拡大版のようなものだった。時空を自在に操り、時間にすら干渉するダーナにとって、そういった世界を構築することなど造作もないのだ。
そうして、彼女はジークフリートと自らが手塩にかけて作り出した大魔獣との戦いを俯瞰する。
並の魔法使いでは歯が立たぬ巨竜であり、彼女の知る不死の怪物たちであっても最上位の戦闘能力を有する者でなければ苦戦は必至という代物だ。
英霊についての知識はあっても、それは概念上のものというだけ。
実物を目にしたのは、これが初めてであって、なるほど確かに伝説の大英雄と言うに足るだけの戦闘能力を有していると感心する。
ジークフリートは真の力を発揮できず、竜樹の攻撃は大幅に削減されている。
戦いは長期戦の様相を呈してきた。
もしも、ジークフリートが体調に気を使うことなくあの聖剣を振りぬければ、或いはただそれだけで決着していたはずの戦いではあるのだが、現状では彼の肉体の変化は魔力を運用すればするほどに早まっている。莫大な魔力を引き出す聖剣は、そう易々とは使えない。
「それでも、これだけ戦えるんだから上等だね」
それは『闇の魔法』に侵食されながらもその力を我が物としようとしている人間の姿に重なる。
ジークフリートのそれは与えられたものではなく、あくまでも彼の力そのものだ。ならば、『闇の魔法』のような異物ではないために親和性は高く、歯車さえ合致すれば一息に解決する問題だろうとは思っているが、はてさて上手くいくものか。
ダーナにとっても初めての症例だ。
それまでの経験から解決策に近しいと推測される試練を用意しただけ。
正しいかどうかは結果を見るまでは分からない。
戦い始めてどれだけの時間が経っただろうか。
当初こそ、命に満ち溢れた世界だった密林は、今や火炎に包まれ見る影もない。
黄昏の光に打ち払われて丸裸になった大地と、竜の炎に焼かれて炎上する森の二色が世界を彩っている。
「く……この巨体で、この機動力とはな」
凄まじく巨大な竜樹モドキが、遙か高みを飛んでいる。
ジークフリートのすぐ傍には、深く耕された地面があった。竜の爪によって掘り起こされたのである。あの竜の力にかかれば、土は疎か岩もバターのように切り裂かれ、打ち砕かれる。ジークフリートがこの場に来たときに足場としていた小さな丘すらも、今は半分が抉り取られて崩れ落ちていた。
空が赤く光る。
ジークフリートは背後に跳躍するも、地面を吹き飛ばす激しい炎熱と熱風に押されて危うくバランスを崩しそうになる。
右半身の服はすでに焼けてなくなった。
身体は無傷のままだが、直撃すればさすがに危うい。(※ここ重要)万全ならばまだしも、今のジークフリートは本調子ではないのだ。例え、竜の攻撃を防げても、その結果竜化が加速することも考えられる。
『
ファヴニールを上回る巨体が空を飛んでいる。
その重量を利用した突撃も竜の息吹も驚異的な威力と攻撃範囲を発揮している。
さながら特大の嵐のようで。
竜が羽ばたくだけで途方もない突風が舞い上がり、木々がなぎ倒されて炎が飛び散った。
その咆哮は衝撃となって地面を砕き、爪は刃となってジークフリートを苦しめる。
目前に迫る竜の爪に合わせて、ジークフリートは幻想大剣を振るう。
「ぐ……!」
歯を食い縛るジークフリートは、剣を振りぬきつつ身を伏せる。
さすがに、全長百メートルを軽く越える怪物の爪を、その身一つで受け止めるのは無理がある。幻想大剣ならば、かの竜の鎧のような鱗をも容易く切り裂くことができるものの、刃渡りを考えれば小さな傷を与えるのが精一杯だ。
今も、爪を一本両断しただけで、致命には程遠い。
倒すには、脳や心臓、首といった主要な器官を両断するかあるいは宝具の真名解放による激烈なる一撃を以てその全身を砕く以外にないだろう。
ジークフリートの右腕が、竜の鱗に侵食されている。
ダーナが情けないと言うのも頷ける。
ほんの四半時も経たないうちに、ジークフリートは自滅の時を迎えようとしているのだから。
エンジンが焼き付いたわけではない。
加速を続けるエンジンに、車体のほうが耐えられないというだけ。
ならば出力を下げればいいではないかと思うが、どうにもそれがうまくいかない。どうやら、心臓から無理矢理力を引き出したときに、身体の一部がおかしくなったらしい。目に見えない安全弁が壊れたようなものだ。
エンジンそのものに手を加えることなどできはしない。ジークフリートにとって、それは力の源であり、命そのものであるからだ。ならば、早い話が車体性能を向上させるしかない。これは、そのための試練――――かなり無理のある話ではあるが、強敵との戦いの中で自らを高めていくという理屈は理解できなくもない。魔力を運用し、肉体を補強していけば、あるいは竜の力に耐えられるようになるかも分からない。もしかしたら、その過程で竜の心臓の手綱を握ることができるかもしれない。
淡い期待ではある。
だが、ここでジークフリートが倒れては、誰がテオドラを助け出すのか。
自らが竜に堕ちていく炎に身を焼かれながら、頭の隅で考える。
迎撃は、無心で十分。
その巨体と運動性能に圧倒されたものの、よくよく刃を交わしてみればその力はファヴニールには及ばない。あのときの絶望感に比べれば、ああ、この程度どうということはない。
ただ、剣を振るう。
炎を斬り、黄昏の波動で敵の巨体を押し戻す。
だが、命には届かない。
幻想大剣の出力が落ちている。
ジークフリートが力を引き出せないからだ。そのために射程すら短くなっていて、空を舞う竜樹もどきを取り逃がす。
もう、何度もこれに似た応酬を繰り返している。
内憂外患を抱え、一歩足を踏み外せば命を失う綱渡りの中で、ジークフリートは焦燥を思考の彼方に押しやっていく。
呼吸が痛い。
手足が重い。
心臓がもっと頼れと訴えかけてくる。
悪竜の声が、音ならざる形でジークフリートに語りかけてくるのだ。
敵を討ち果たす力を与える代わりに、その身体を寄越せと。
貪欲なる悪竜が鎌首を擡げて訴えかける。その声を無視して、ジークフリートは剣を振り回し、足を動かし続ける。
並みの魔法使いならばすでに何処かで倒れていたであろう絶望を走破し、その身体を着実に削りながらも強大なる竜に挑む姿はまさしく英雄と呼ぶに値するべきものであって、その輝きは苦難に苛まれながらも一片たりとも曇ることはない。
不撓不屈の具現。
炎と煙を貫いて現れた姿は、さらに竜に近付いた。
尾骶骨の辺りからは一本の尾が生えている。片側にしかなかった角は一対となり、また背中には蝙蝠のような翼が生えた。竜人と呼ばれても仕方がないとさえ言える容姿となったジークフリートは、それでも進むことを辞めない。
竜の炎、竜の爪、竜の牙。
数多の猛威が思考の外に置かれる。
外から襲い掛かってくる者を打ち倒すのに、いちいち思考を割く必要などなく。本能のままに、積み上げた武技のままに反撃を加えていく。
耳障りなのは竜の咆哮ではなく己が心音であり、その身を焦がすのは竜の炎ではなく竜の血であった。
もう何十と繰り出されてきた竜の爪を受け止めて、跳ね飛ばされる。後方に跳んで衝撃を殺しはしたが、凄まじい威力であることに変わりはなく、両手が折れてしまいそうだった。
「う、おおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
竜の咆哮には負けまいと雄叫びを上げるジークフリートは、開かれた巨大な顎を虚空瞬動でやり過ごし、荒れ狂う風圧にもみくちゃにされながら分厚い竜の外皮に聖剣を突き立てる。
竜殺しの聖剣故か、ただ剣を突き刺すよりも大きな外傷を竜樹に与えている。
苦悶の声を上げる竜樹が身を捻り、ジークフリートを振り落とそうとするが、必死に堪えてしがみ付いた。剣を足場として飛び上がり、その背に乗ったジークフリートは霊体から実体に戻した聖剣を思い切り振るって竜の背中を斬り付ける。
固いはずの外皮がやすやすと裂けて、血肉が吹き出る。
竜樹が回転し、遠心力でジークフリートを振り回す。それで墜ちないとなれば、背面飛行のまま地面に背中を擦り付けようとした。その自重と速度を以てジークフリートを磨り下ろそうとしている。ジークフリートは即座に真横に跳んで、竜樹の背中から降りる。直後、大地を揺るがす轟音が響き渡り竜樹の巨体が地面を抉った。突風に煽られる身体を何とか立て直して着地すると、防御の姿勢を取る。木々を薙ぎ払って押し寄せる劫火がジークフリートを包み込んだ。
「ッ……!」
足元が赤熱し、融解しかかるほどの大熱量でありながら、やはり模造品だからであろうか。その神秘性は彼の守りを突破するほどのものではない。この竜の質量からなる圧倒的な重量は警戒すべきものではあるものの、竜の主武装たる息吹については受け流すことができるものと理解していた。
邪魔な炎を剣を振るい、魔力を放射して吹き散らす。ぎちり、と心臓が跳ねる。僅かでも魔力を使おうとすれば、すぐにこれだ。己が肉体を食いつぶそうとする心臓は、喜んで魔力を生成してくれる。その代償を、何食わぬ顔で請求しつつだ。
荒く呼吸して、ジークフリートは前を向く。
自分の身体の変化については、最早何も言うまい。
爪を躱して跳んだところを、極太の尾が狙ってきた。直撃は避け得ず、ゴム鞠のように跳ね飛ばされたジークフリートは回転する視界の中で竜樹を睨み付ける。
いつ以来かと思うほど我武者羅だった。
生と死の狭間の綱渡り。
悪竜を斃してからというもの作業と堕した戦いの中では実感することのなかった死神の鎌が、今まさに自分の首筋に添えられているような気分だ。
呼吸が荒くなっていく。
息をするだけで苦しい。
襲い掛かってくる竜の尾を斬り付ける。斬り付けて弾き飛ばされた。それを、幾度も繰り返す。
打ち据えられるたびに救えなかった者、見捨ててきた者の顔が蘇る。
自らの願いに固執して、容認した犠牲者たち。その無念が如何ほどのものか、想像するに耐えない。サーヴァントとして第二の生を得て、やっと見つけた願いを脳裏に浮かべる。
心臓を捧げたホムンクルス、誇りを思い出させてくれた“黒”のライダー。
せっかく第三の生を得て、夢を追いかける機会を得たというのに、彼らに笑われるような姿を曝すわけにはいかない。
目をしっかりと見開く。
振り下ろされる爪が眼前に迫っている。
「――――邪魔をするな」
己の内側から、何かが爆発した。
竜の魔力はまさしく咆哮と化して聖剣に集約し、ただ一振りを以て竜樹の片腕を斬り飛ばした。
何が変わるわけでもない。
もとより変わる必要などなかった。
ジークフリートはジークフリート以外の何者でもないのだ。
この竜の心臓も、彼の一部にほかならず――――ならば、その変化を拒絶することこそ無為であった。あるべき形になるだけだ。竜の心臓と肉体。この二つが合わさって、初めてジークフリートは完成するのだから。
心臓の力を引き出して、されど肉体は食わせない。
――――お前は俺の力であり、俺の一部だ。共に在って、共に戦えばいい。
高らかに聖剣を振り上げる。
いつの間にか、身体の痛みは消えていた。鼓動は強く、激しく高鳴って、送り出される血流が莫大なる魔力を全身に行き渡らせていく。
「――――
■
黄昏の光に満ち溢れた世界は瞬く間に崩壊し、ジークフリートは天空の街に引き戻された。
景色が唐突に切り替わり面食らうジークフリートの傍らに、漆黒のドレスが舞い下りる。
「やれやれ、とんでもないことをしてくれたね。まさか、わたしの世界が耐え切れないとは」
驚きを通り越して呆れる、とダーナは言った。
彼女の腕には幾重にも渡る裂傷が生じており、赤黒い血が流れている。
「このわたしに手傷を負わせるヤツがいるなんてね」
「……俺が討ち果たしたのは貴女が用意した竜だったはずだが」
「ああ、そうだよ。まさか、あれを跡形もなく消し去っちまうとは思っても見なかったさ。さらに言えば、わたしが構築した閉じた世界が崩壊することも想定してなかったよ。これは、まあ、その代償かね」
ひらひらと手を振るダーナの傷は見る見るうちに閉じていく。
「再生にこんなに時間を食うか。わたしは木っ端微塵になっても一秒とかからず復活できるんだけどね。あんたの剣はどうにも重い」
ダーナの肉体に施される不死の魔法は、如何なる手段を以てしても彼女の命には届かないとすら思わされる代物だ。バラバラではなく、さらに細かく分子レベルで分解されたとしても即座に何事もなかったかのように復活するほどの規格外の再生性能を誇るが故に、この数百年間を通してダーナに血を流させた者は皆無であった。
恐るべきはジークフリートが掲げる聖剣の力。
竜殺しの聖剣が宿した神秘は、ダーナが扱うそれに比しても莫大だ。物理的破壊力はもとより、その神秘性に於いてこの世界の魔法とは隔絶した力を有している。その真名が露になった時、ダーナの魔法によって構成された時空は内側で膨れ上がる神秘に耐え切れずに瓦解し、術者であったダーナにまでその影響を届けた。
「で、あんた身体は?」
ジークフリートは燃え墜ちた上着を引き千切り、鍛え抜かれた肉体を外気に曝す。
その身体に変わった点は見られない。竜の尾も翼も角も消えている。だが、はっきりと分かる。その姿だけでも、存在の重みが一段も二段も高みに移行したことを伝えてくる。
「問題はない。いや、初めからなかったのだろうな」
「思ってたよりもあっさりでつまらんね。もっと苦戦するかと思っていたんだけどね」
「最初から、あれは俺の一部だったわけだからな。よそ者を受け容れるよりは楽だろう」
問題の原因は竜の心臓にあり、それに耐えられない肉体にあった。竜と化す現象は、心臓の負担に肉体が圧迫されていたのではなく、心臓の負担に耐えられるように肉体を変化させる途上だったのである。ならば、それを受け入れてしまえば、自ずと身体は心臓に適した形に変化する。その先が竜であった可能性もなくはないが、それでもジークフリートは心臓と共に歩む道を選んだ。
「貴女には感謝している。この機会を設けてくれたことに……」
「ふん、わたしはわたしの都合であんたを連れてきただけだからね、感謝される謂われはないよ。後は、あんたが向こうでどう振る舞うか。わたしを失望させないでおくれよ」
ダーナが手を叩くと、ジークフリートの背後に扉が現れた。
「だらだら話してる時間はないだろう」
ダーナが呼び出したのは扉だけではなかった。
サッカーボールほどの大きさの水晶玉が彼女の手に収まっていて、その中にはアレクシアたちが秘密警察に囲まれている様子が映し出されている。
「その扉はこの場所に繋がっている。約束は約束だからね。きちんと帰してあげるよ」
この怪しげな魔女の言葉を鵜呑みにするのは危険だが、だからといって疑っていても仕方がない。
ジークフリートは頷いて扉を開ける。
相変わらず、真っ暗な闇が広がっていて、先を見通すことはできない。
だが、それを恐れることはない。
時空が捻れたその先に待つという仲間の下に、臆することなく足を踏み出した。