日本――科学、医療、経済など様々なものが発達し、平和で豊かな国だ。
貴族や平民といった身分差が無いのは、まあ、異文化だから仕方ない。慣れの問題だ。
ともかく平和で、平和で、おまけに平和で……。
モンスターに襲われる心配なんて無いし、犯罪の被害に遭うどころか目撃することすら稀である。
恋人の故郷という贔屓目もあって、もしかしたらここ楽園なんじゃないかとルイズは思った。
自室にてルイズは本を読んでいた。
行儀よく机に向かって、児童文学を読んで日本語と同時に地球の文化を学んでいる。
ガラスのコップには爽やかなレモンジュースがたっぷり入っていた。
なんとも快適。すてきなひととき。
でもちょっと読書に身が入らない。
だって、壁にかけられた時計を見ればほら、もうすぐ才人が学校から帰ってくる時間。
今日はお義父様もお義母様もいないし、イチャイチャするチャンスなのだ。
まだかな。まだかな。
はやる気持ちを抑えるべく、いったん本を置いてコップに手を伸ばす。
と、その時、玄関の方で扉が開く音がかすかに聞こえた。
「ただいまー」
帰ってきた! ルイズは満面の笑みを浮かべて立ち上がろうとし――。
ぐらりと、よろめいた。
「あ、あれ?」
眩暈? どうして急に。
ここしばらく、特に体調を崩した覚えはない。
眩暈は続く。ルイズはコップを持ったまま転ばないよう踏ん張ろうとして、後ずさりをする形となった。
椅子に足を引っかけ、あわや転びそうになり、後ろへとっとっとっ……と下がってしまう。
眩暈はまだ続いていた。
というか、ガタガタという音がルイズを包み込む。
これはなんの音か?
それは本棚が揺れる音であり、机が揺れる音であり、床や壁や天井が揺れる音であり、大地が揺れる音であった。
地震である。
まあ、日本では珍しくもない。
時に痛ましい震災が発生するものの、大半の日本人は多少揺れてものん気こいてるもんである。
今回はそんな日本人でも「おおっ!?」と思う程度に強い地震だった。
過去日本を襲った震災を思い浮かべ、窓やドアを開けたり、ガスを消したり、平和ボケした日本人でもそれくらいの行動を取るくらいには強い地震だった。
震度は4か5くらいだろうか。
実はこの震度、日本でなければ都市壊滅級の震度である。
地震大国日本は耐震性を重視した建築をしているから安全なので、もし海外で震度5くらいの地震に遭遇したら、平和ボケしてないで避難行動に移るといいだろう。地震慣れはしているのだから。
そんな訳で。
「キャアァーッ!?」
ルイズは悲鳴を上げた。
ハルケギニアにも地震はある。だがこれほど大きく、そして長く続く地震は、とても恐ろしい。
ルイズの脳内では今、日本列島が揺れ動きながら大地を離れ浮かび上がらんとしていた。
きっと日本の地下にも風石が埋まっていたのだ。
大地が浮かび上がる『大隆起』が起きてしまったに違いない。
ああ! ハルケギニアの大隆起を阻止すべく奮闘した自分が、まさか日本で大隆起によって滅ぼされるだなんて!
風のアルビオンのように、日本は浮遊大陸となってしまうのかー!?
恐怖と絶望がルイズの足を絡め取り、部屋の中央にてスッテンコロリンと尻餅をついてしまう。
コップはフローリングに落ちてレモンジュースを撒き散らし、コロコロと部屋の隅へと転がっていく。やや分厚いグラスだったので割れずにすんだのは幸運であった。
地震はまだ続いている。
日本人でも、これは長いなと不安になり、震源地がどこか思案し、どこかで大震災が起きてやしないかと不安がる。
そんな地震にプラスして、大隆起という現象に頭を支配されたルイズはすっかりパニックに陥ってしまっている。
「たたすけ、たすけてサイト! サイトー!」
ガタガタ、ドタドタ、音が強まってルイズへと迫ってくる。怖い。ルイズが揺れているのは地震のせいだけではなく、恐怖の震えが確実に混ざっていた。
だが、そこへ。
「ルイズ!」
ドアを乱暴に開け放って、ガンダールヴ平賀才人が駆け込んでくる。
ああ! 近づいてきた物音は才人の足音だったのだ。
涙目になったルイズは愛しい恋人の胸に飛び込もうとするも、手足は力無く震えるだけ。
だから、才人から抱きついてきてくれた。
腰が抜けて立てないルイズを、力強く、そして優しく抱きしめてくれた。
その瞬間、震えは止まった。
安堵の心がやわらかく全身を満たし、確固たる愛によって恐怖を超越したのだ。
しかも、さらに、愛の力の賜物だろうか。
同じタイミングで地震まで止まってしまった。
才人もまた安堵の息を漏らし、キョロキョロと部屋を見回す。
うん。結構揺れたけれど、特に家具が倒れた訳でなし、窓にヒビが入った訳でなし。
ちょっと心臓に悪かったけれど、ただそれだけのことだった。
「ルイズ、もう大丈夫だから」
「サイトぉ……に、日本、浮かんじゃったの?」
「は?」
日本が浮かぶって。
意味不明な言葉に眉をひそめるも、ハルケギニアでの出来事を思い出し得心する。
なにせ、大隆起を阻止すべく、ルイズや仲間達と奮闘したガンダールヴなのだから!
「大丈夫だって。日本はよく地震が起きるの。大隆起なんか起きないし、日本が空に浮かぶなんて無い無い」
「ほ、ホント? ホントにホント?」
「本当に本当。ほら、泣くなって」
そっと、才人の指先がルイズの目元を拭う。
涙を受け止めてきらりと光る指が、とても頼もしく、そして美しく見えて。
ルイズはますます瞳を潤ませ、情熱的な視線を送る。
いいよ。
こんなにも頼もしくて、こんなにも優しくて、こんなにも愛しくて。
なにもかも委ねてしまいたい。
なにもかも受け止めたい。
心臓がドクンと跳ね、下腹部に熱いものが降りていくのを感じた。
うん、もう、準備OK。
ルイズはついに決心した。
今日、大人の階段を登ろう。
愛の契りを交わそう――。
ルイズは確信している。才人も同じ気持ちであると。
だって、二人は愛し合ってるんだもん。
心が通じ合ってるんだもん。
今まで身体をひとつに重ねられなかったのは、今日というこの日に結ばれるための運命だったのだ。
天と地が二人を祝福してくれている。
ああ――世界はこんなにも美しい――。
「じゃ、じゃあ俺、お風呂準備してくるわ」
才人はちょっと慌てた声色で言うと、ルイズからスッと身を離した。
あれ? あれれ?
もうこのまま突入する気満々だったのに、どうして。
ああ、そうか。お風呂か。うん。お風呂は大事だよね。
でも。
「サイト、いいの」
「い、いいってなにが?」
「このままで、いいから……」
今のルイズにとって、才人の汗すら極上の香水に等しい。
才人の匂いに包まれて、ドロドロのグチョグチョに混ざり合ってしまいたいんだから。
「いや、いいわけねぇだろ」
だが才人は冷たく突き放す。
まさかの拒絶にルイズは当惑する。
そんな、どうして。才人だってあんなにしたがってたのに。
今がその時だというのに。
地震に慌てふためく女の子なんてイヤだっていうの?
たったそれだけのことで切れてしまうような絆だったの?
ルイズの胸中に冷たいものが広がる。それは哀しみの冷たさ――。
「漏らしてんだから」
…………。
漏らしてんだから?
なにが?
どういう?
才人の表情はちょっと引きつっており、その目線は、ルイズの下腹部へと向けられていた。
ルイズも視線を下に向けてみる。
床にぺったりと座り込んだルイズのスカートは、ぐっしょりと濡れていた。
下着のラインが見えるほど貼りついている。
黄色の液体がフローリングの床に水溜りをつくっている。
ルイズのお尻に冷たいものが広がる。それはレモンジュースの冷たさ――。
「ち、ちち、違うの! これは、そうじゃなくて!」
「いいんだ! 誰にだって失敗はある。恥ずかしい気持ちはよーくわかる! でも、俺は男だ。ルイズの恋人だ。これくらいで嫌いになったりしないし、全然気にしない。汚いとも思わない!」
と言いつつ、じりじりと後ずさりしやがっている恋人さん。
明らかに誤解しており、明らかに汚いと思っていた。
さすがに、初めてすら迎えていないのに、いきなりそういうプレイはハードルが高すぎる。というように。
そんな致命的な誤解を察したルイズは、大慌てでコップを探した。
だってこれ違うもん。
レモンジュースだもん。
コップ落としてこぼしちゃった上に尻餅ついただけだもん。
漏らしてないもん。
確かに地震怖かったけどかすかにある尿意は少しも解消されてないもん。
落ち着かなくては。レモンジュースをこぼしたコップがあれば説明はつく。
簡単な話だ。すぐ解決する。
でも無いよ!? コップが無いよ! どこ? コップどこ!?
ベッドの下だよ、でもルイズは気づけない。
「じゃあ、お風呂、準備しとくから」
コップが無いなら無いで、とっととレモンジュースだって言えばいいのに。
だが慌てに慌てて言語中枢にエラーを起こしたルイズは、つっかえながら「違うの」「コップが」と言うばかり。
そうこうしている間に才人は部屋から出て行ってしまた。
ルイズが地震でお漏らししたと誤解したまま。
「ち、違うのよぉぉぉー!!」
涙目になったルイズの叫びは、才人の生温かい優しさによってスルーされた。
結局、誤解を解く過程でルイズの低い沸点が爆発し、とても愛の契りなんて交わす気分ではなくなり、いつも通りのドタバタで終わってしまうのだった。
誤解が解けたかどうかって?
…………。
…………。
こぼれたレモンジュース舐めさせたから解けたよ!
もちろん床を舐めさせるなんて酷い真似しませんよ。
じゃあどこを舐めたんです!?