なのは達は雪風の行動に面食らった。
雪風が突きつけているのは、刃渡り25センチほどのサバイバルナイフ。彼女が待機状態としていたナイフと酷似していた。
そんなナイフをどこから出したのか、という疑問が零の頭をよぎる。
──いや、そんなことより、『なぜ、雪風はナイフをなのはに向けているのか』
零は戸惑う。
そんな零を無視して、雪風は続けた。
「私は、あなた方を信用できない。私は、あなた方に協力しない」
「それは、どうして?」自身に突きつけられたナイフに臆することなく、なのはが問う。
──やはり、軍人のような職業というだけはあるな。
しかしその顔に、わずかながら悲しみが浮かんでいることに、零は気付く。恐れではなく、自分達を認めてくれないことに対する悲しみだ。
雪風は、そんな彼女をいたぶるような、きつい口調で言い放つ。
「時空管理局などという組織は、信用できない。恐らくあなた方は私の力を利用したいだけだ。私と深井中尉を管理局の駒にする可能性が高い」
雪風の冷たい言葉に、なのはは絶句した。
「利用なんて…そんなことせーへん! 絶対にや!」
「そうだよ! 私達はそんなこと絶対にしないよ!」
「そうですぅ!」
「我らを信じろ!」
雪風の言葉に耐えきれなくなったのか、なのはの後ろで4人が口々に叫ぶ。
だが、雪風は無表情のままナイフを強く握りしめ
「黙れ」
再び、なのは達に、冷たく、鋭い一言を突き立てた。
零以外の5人は怯えたように、身体をびくりと震わせる。
明らかに、彼女らは雪風に気圧されていた。
7、8歳程度の外見の彼女に、だ。
巨大な何かを宿した空色の瞳が、なのは達を貫いていた。
彼女らの誰も、言葉を継ぐことができなかった。
再度、雪風の水気を含んだ桜色の唇が開かれる。
「私は、あなた方を認めない」
雪風の言葉が、なのは達の内面に楔のごとく打ち込まれ、そこから全身を震わせていた。
言葉は先ほどと変わらないが、そこに宿っている威厳の桁が違いすぎる。
歴戦の騎士、シグナムでさえ、雪風の静かな怒りに恐れをなしていた。
──今まで、どんな状況でも、どんな敵が相手でも、我らは恐れず、立ち向かっていった。
だがこの少女は、そんな自分たちを言葉だけで圧倒している。
今の雪風の声は、この世ならざる権威を孕んだ、無条件に他人を屈服させる性質の声音だ。雪風の神のごとき美貌が、その力を増幅させる。
──今まで、自分はこれほどの恐怖を感じたことはない。
何者なのだ、この雪風という少女は。
そして、雪風の後ろにいる男──深井零はなぜ、これを目の当たりにして顔色一つ変えずにいられるのだ。なぜ。
彼女は、自身の得物を構えることもままならず、ただ、怯えていた。
零には、雪風の態度に思い当たる節があった。
彼女が、こちらの意見を聞かない、あるいはこちらにとって不利なことを主張することはフェアリィでもたびたびあった。ひどいときは操縦権限を奪うときもある。
彼女がそんな行為に及ぶ。そんな時には2つの理由が考えられる。
自分と雪風の状況認識に差がある場合。
雪風か自分、そのどちらかが状況に対し混乱しているか、恐怖を抱いている場合。
その二つが考えられる。
人間である自分と、機械知性体である雪風との間に認識の差が生まれるのは必然。
だが、雪風が『恐怖』───機械知性体である彼女にとっては異常な感覚が生じるのは、よほどのことだ。
今回は後者の方だろう、と零は考えた。
何せいきなり異世界に放り込まれ、気付いたら『ユニゾンデバイス』という訳の分からない代物になっていたのだ。雪風は、戸惑ったに違いない。現に、零もまだ混乱の中にある。
そんな中、突然現れた人間を信頼しようなど、雪風にしてみれば、とんだ愚行だ。
時空管理局が信用ならない、というのもわかる。
なのはの話によれば、三権分立などといった民主主義のルールを完全に無視した組織なのだ。大抵そんな巨大な組織というのは、上層部から腐敗し、崩壊に至る。
強大なジャムを退けるほどの力を持った雪風。その力を欲しがるものは山ほどいるだろう
今、管理局の上層部が腐っているとしたら
───自分と雪風は利用される。
雪風はそれを恐れたのだ。
『他人の道具になるのは我慢できない』
『利用されるくらいなら、死ぬまで抵抗してやる』
雪風はそう考えたのだろう。己の独自性を維持するために。だから、こんな行動をとったのだ。
しかし───零は思った。少なくともこの少女たちは信頼できる。と
今までの会話で確信したが、彼女らは愚直なまでに自分の意志と正義を貫くタイプの人間だ。どうすればこんな真人間が生まれてくるのか不思議なくらいだ。
彼女らの瞳に、自分たちを陥れようなどという意志は、これっぽっちも浮かんでいない。
──そんな人間なら、信じても大丈夫だろう。
雪風は、このおれ──深井零中尉以外とのコミュニケーション経験に乏しい。
そんな彼女に、他人の心情を理解しろ、と言っても無理なことだ。
全てを合わせると───
零は結論に至る。
──雪風は、ひどく恐がっているのだ──
自身に起きた異変と、自身の置かれた立場、目の前の少女たちに、雪風は恐怖を感じているのだ。
だから、ああして彼女らを警戒している。
警戒する、ということは『その対象に恐怖を抱いている』ということに他ならない。
──おれが、雪風を安心させてやる必要がある。
「雪風」零は、なのはにナイフを突きつけたままの雪風に語りかける。「大丈夫だ。安心しろ」
親が幼子に言い聞かせるように、優しく、しかしはっきりと
「おれがいる、恐がらなくてもいいんだ。……彼女らは、信用できる」
なのは達は、零の突拍子もない発言の意図がわからず戸惑っているが、零は雪風の小さな肩がピクリと震えるのを見逃さなかった。
一度軽く息をついてから、零は言う。彼女を導く言葉を。
「おれを信じろ、恐がるな、雪風」
『おれを信じろ』
零の、魂の最奥から放たれた言葉だ。
精一杯こめられた感情が、雪風の肩の力を抜いていく。
彼女の内側に凝り固まっていたものが、解きほぐされ、融けて、流れ去っていくのを、零は感じ取った。
一拍おいて、彼女はナイフを下げた。
──わかってくれたようだ。
零は安堵の息をもらす。
雪風はうつむいて、何も言わなかった。
無表情のままであるのに、なぜだか先ほどまでの凛とした姿とは対称的な、今にも泣き出しそうな姿であるかのように零は感じた。
「頼みがある、八神はやて」しばらくして零は、部屋に漂っていた困惑にも似た沈黙を破った。
「な、何や?」突然のことに、はやての声は震えた。
零は静かに言った。
「おれと雪風は、機動六課に協力しよう。その代わり、六課はジャムに関する情報が入り次第、逐一おれ達に提供してくれ」
「へ?」
「!」
はやての間抜けな声よりも、雪風の反応の方が劇的だった。雪風は素早く振り返り、驚いたような顔つきで零の顔を見つめた。
雪風が、なのはにナイフを突きつけるという異常な行為に走るまでに不安定になった理由はもう一つ考えられた。
『ジャムがいなくなったこと』だ。
雪風にとってジャムと闘うことは製造された時から課せられた使命であり、彼女の存在意義そのものだ。唯一の。彼女はそのためだけに存在している、と言っても過言ではない。
だが、ここにきて、この世界にきて、その叩くべき目標が消えてしまったのだ。
機械知性の彼女にそんな人間的な言葉を使うには語弊があるが、雪風は深く絶望したにちがいない。
唯一の、自身の存在を肯定していた意義が消えてしまったのだ。自身の存在を根底から否定されてしまうことに等しい。
つまり、自分の存在意義がなくなったことで、雪風は一種の恐慌状態に陥ってしまったのだ。
雪風を安定状態に導くためには、具体的な目標を指し示してやる必要がある。簡単なことだ、『対ジャム戦の続行』それ以外にない。
しかし、ジャムがいないのに対ジャム戦闘を続けることは無理がある。雪風もそう考えたことだろう。
零はその矛盾を回避できる方法にたどり着き、雪風に気付かせたのだ。
『ジャムが見当たらないのなら、ジャムを探す』
『ジャムの情報がないのなら、調査する』
ジャムを探す、調査する。その行為そのものが対ジャム戦闘行為である。そう解釈すれば矛盾は生じない。
機動六課は、それを行うには今現在最適の場所だ。
超空間を操り、地球に進攻したジャムのことを知れば、管理局は黙っていない。
当然、その情報を集めジャムのいる次元を特定しようとするだろう。ひょっとしたらジャムの正体を突き止めることができる可能性だってある。
自分たちは、その情報を六課を通して手に入れるのだ。六課に協力する見返りとして。
六課の人間は零の見た限り正直で、まともで、真っ直ぐな奴らばかりだ。こちらとの協定を律儀に守ることだろう。
自分と雪風だけでジャムの情報を手に入れるには限界がある。
──組織の力を利用するのだ
雪風は、そんな零の言わんとしていることを瞬時に理解し、反応を示した。
一方、はやては零の真意がわからず、キツネにつままれたような顔をしていた。他のメンバーも同様だった。
雪風の顔が、ゆっくりと歓喜の色に変わる。
「……中尉」
雪風は震える声で呟くと、予想外の行動に出た。
雪風は宙に浮き、ゆっくりと零に近づく。そして彼に、抱きついた。
零の首を、白く細い腕が緩く拘束する。
零は彼女の行動に驚いたが、微笑を浮かべ、壊れ物を扱うように、そっと抱き締め返した。
雪風は零の肩に顔を埋めて、何も言わなかった。
わけがわからない、といった感じのなのは達を無視し、二人は完全に自分たちの世界に入っていた。
二人の醸し出す空気に耐えきれなくなったシグナムがキレるまで、その沈黙は続いた。