魔法少女リリカルなのは 妖精の舞う空   作:スカイリィ

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Man is not made for defeat. A man can be destroyed but not defeated.
人は負けるように創られてはいない。殺されることはあっても、負けではない。

───アーネスト・ヘミングウェイ




第四十二話 精霊降臨

 その黒い物体は低空をマッハ2.5という超音速で飛行しながら、まっすぐアドミラル56へ向かってきた。

 

 アドミラル56の直上、ほんの10mというスレスレを左舷から右舷にローパス。その衝撃波で甲板上の火が消し飛ばされ、戦闘中だった者たちは猛烈な圧力変化に耐えられず弾き飛ばされる。全長20m弱のそれが作り出す衝撃波はあまりにも強烈で、バリアジャケットかそれに類する防御がなければ身体がバラバラになってしまうほどの破壊力だった。

 

 とっさにシールドを張ったことでフェイトと零は衝撃波の直撃を避け、その黒い姿を視認することができていた。負傷して息も絶え絶えの零はともかく、高速戦闘に習熟したフェイトはその優れた動体視力によって通り過ぎる飛行体の姿をはっきりと、細部に至るまで観察することができた。物体は90度近くバンク角をとっていたためそれを真上から俯瞰するような状態だった。

 

 飛行機だ。それも軍用の、戦闘機。これまで見たこともない奇怪な形状の。

 

 付け根から斜め前に伸びる角ばった主翼と、生物的ともいえる滑らかな曲線を描く機首は、しかしどちらも鋭利で攻撃的だった。触れるものを切り裂くナイフのような。飛んでいるから矢かもしれない。

 

 馬蹄型のジェット排気孔からは青白い炎が縞模様のような濃淡を見せている。排気中で発生した衝撃波が見せるアフターバーナーリングだ。

 

 禍々しく奇怪な戦闘機。しかし美しいとフェイトは感じた。極限まで性能を追い求めた機械に備わる美しさだった。神々しくも思える。

 

 

 そして通り過ぎる一瞬の間に、機首に白く描かれた文字を彼女は見つけることができた。

 

 その文字を見て理解する。そうか、これが、そうなのか。

 

 奇跡を起こす日輪の艦。その名前を冠した存在を彼女は知っている。幸運と奇跡を託されたその存在。戦うために造られた、可憐でしかし何よりも力強い目をした精霊。

 

 フェイトは震えながらもその名を口にした。言わずにはいられなかった。あれがどうしてやってきたのかをすぐに気づいてしまったから。目の当たりにしただけでその存在意義を認識してしまったから。

 

「雪風……!」

 

 魔を祓うために、彼女はやってきたのだ、と。

 

 

 

 

 

 アドミラル56の炎を一瞬で吹き飛ばした黒い機体は護衛艦も飛び越え、12秒ほどで10kmかなたまで到達。そこで左旋回により反転、今度は護衛艦に正面から相対する形となって再び向かってくる。衝撃波で吹き飛ばされた甲板の人間はそれまでに体勢を立て直すことができなかった。

 

 反転が完了する前に護衛艦の前甲板に搭載されたMk.41VLS(垂直発射システム)が開き、3本のミサイルが飛び出す。SM-2スタンダード対空ミサイルだった。

 3本の対空ミサイルは空中で急速に方向転換し、飛行体へ突撃を開始する。イルミネーター(誘導装置)のレーダー波に従い、適切なコースへと弾体が飛翔する。

 

 ところが発射からわずか2秒でミサイルが3発とも爆発する。飛行体からのレーザー射撃を受けて弾頭が過熱されたのだった。爆発の間隔は0.2秒弱。驚異的な早業だった。

 

 お返しとばかりに飛行体がミサイルを発射。数は4発。対空ミサイルではあったが、それらは尋常でない推進力をもって加速を開始した。

 爆発的加速により8kmもの距離をわずか4秒で駆け抜けたミサイル群が護衛艦へ突進。あまりのスピードに護衛艦のイージスシステムでは対応できない。加速し続けたミサイルは護衛艦の眼前に到達するころにはマッハ9という途方もない速度に達していた。

 

 ただの対空ミサイルであれば護衛艦は耐えることが可能だ。しかし、そのミサイルはあまりにも速すぎていた。

 運動エネルギーは速度の二乗に比例する。重量100kg程度の弾体であってもマッハ9という速度まで到達していれば、450メガジュールという驚異的なパワーを生み出すことができる。

 

 それは旧日本海軍が保有していた史上最大の戦艦、大和型の46cm主砲弾をゼロ距離で受けたに等しいエネルギー量であった。

 

 艦橋構造体に全弾が直撃する。信管は作動しなかったが、砕け散ったミサイルの破片はホローポイント弾のごとき絶大なストッピングパワーを発揮し、艦橋を含めた艦の上部を一瞬にして粉砕した。

 

 かつて46cm砲による攻撃を受けた米軍空母は、砲撃の威力が高すぎて弾体が炸裂せずに突き抜けるという事態に見舞われた。その4発分に匹敵するエネルギーをまともに受けて、装甲の薄い現代艦は船体を保つことなど不可能だった。護衛艦の上部構造体は消し飛ばされた。

 

 艦橋を構成していた残骸が四方八方へ飛び散り海面に叩き付けられ巨大な水しぶきを上げていた。雷鳴のごとく大気が震え、衝撃波で海面が白く染まる。船体そのものを伝わった衝撃波によって上部のみならず竜骨まで損傷を受けたらしい護衛艦は、船体を真っ二つに折り曲げながら沈んでいく。

 

「ドクター!」

「だめよチンク、今は逃げるの!」腕を失ったトマホークに肩を貸しながらクアットロが叫ぶ。「ドクターなら心配ないわ。それよりもあれは危険すぎる。目標は達成されたわ。逃げるわよ」

「逃がさん!」

 

 体勢を立て直したシグナムがクアットロに切りかかる。しかしそれをトマホークの斧が防ぐ。

 

「残念ですが、あなた方の負けです。『雪風』は現れました。袋のネズミです。もう逃げられない」

 

 片腕であるにもかかわらずシグナムは鍔迫り合いにまでもっていくのがやっとだった。痛みに耐えながらの発言か、トマホークの声は震えながらそう告げた。焼け焦げた右腕は肘から先がなくなっている。

 

「貴様、腕を失ってまで……いったい何をしようというのだ」

「それはドクターに聞けばいい。僕は管轄外だ」

「たわけ、スカリエッティはもう」

「死にません」トマホークはよどみなく答えた。「ドクターは、もはや死ねない。彼はジャムに魂を売り払った」

 

 なんだと? シグナムが聞き返そうとしたところでトマホークの左腕が白く輝く。驚いたシグナムがすぐに距離をとると、その腕がまた燃え上がるように消え失せていた。トマホークの痛みによる咆哮が響く。取り落された戦斧を三つ編みの女が背後から手を伸ばしてキャッチ。

 

「くそう、雪風め。ここで僕を殺す気だ!」

「転送準備完了! 時間を稼いでくれて感謝する、トム。お前から逃げろ!」

 

 トマホークの後方で転送用と思われる魔法陣を展開していた銀髪──チンクと呼ばれていた女が叫ぶ。トマホークは両腕を失ったボロボロの状態で一目散にその陣へ飛び込み、それにほかの連中も続く。

 

 その途中で三度目のレーザー射撃が彼の頭部を狙うが、寸前のところで三つ編み女が斧を盾にすることで防いだ。致命的な一撃を予想していたのか、それとも自身の電子戦能力で照準を探知していたのかはわからなかったが、とっさの防御によってトマホークは頭部を守ることができた。

 

 それでも代償は大きかった。巨大な戦斧が赤熱を通り越して白色に燃え上がり、女の手を焼き焦がし絶叫を響かせた。転送と同時に消えていく叫びが、消えてもなお大気を震わせているようにシグナムには感じられた。

 こちらも転移魔法を使用するのはやめておいた方が良いだろう。ジャムが空間的なトラップを仕掛けているかもしれない。

 

 シグナムは彼らを追いかけなかった。惨い攻撃を受けた相手を追撃することを躊躇ったのではなく、飛行体が自分にもレーザー射撃を行う可能性を警戒していたのだ。焼け焦げた肉のにおいが鼻をつく。

 

「雪風、だと?」

 

 アドミラル56へ接近する黒い機体に目をやると、それは艦上空100mほどを再び通り過ぎていくところだった。今度は速度をマッハ2にまで緩めていた。トマホークたちが撤退したことを理解しているらしかった。

 

「あれが?」

 

 シグナムはシールドを張って衝撃波をしのぎつつ、その黒い機体を見やる。戦闘機だ。あれがかつて雪風の取っていた姿なのかもしれない。地球と同じ技術系統とは思えないほど不思議な形状をしていたが、紛れもなく戦闘用の飛行機だと理解できた。

 

 しかし、それはおかしい。シグナムは自身の発言に怪訝な顔をする。雪風は、深井零と融合しているのではなかったか。確かにスカリエッティの乗る護衛艦を撃沈し、トマホークたちを追い払いはしたが、それでこちらの味方であると確定したわけではない。たまたま攻撃の優先順位がそうなっていただけかもしれない。

 

 敵か味方か。もし敵だとしたら仲間が危ない。

 

 上空で減速しつつ旋回する飛行体を警戒するシグナムはフェイトと零のもとへ急行する。

 フェイトに上半身を支えられた深井零は息も絶え絶え、といった様子だったが、上空の飛行体を見る目には光が灯っていた。

 

「深井、あれはいったい」

(わからん。だが、こちら側の雪風はあれを敵と認識していない)

 

 念話による伝達が行われたことで彼が声を出せない状態であることを理解する。

(正体は不明だが、味方だ)

(わかった。お前、身体は?)

(雪風のバックアップがなければ死んでいる状態だ。肺をやられている。今は雪風が横隔膜の動きをうまいこと抑えて何とかしている)

(気胸か? だとしたらやっかいだな)

 

 気胸とは、肺の空気が胸腔内に漏れることで肺がしぼんでしまう状態のことを指す。下手をすると漏れた空気によって心臓や血管までも圧迫される緊張性気胸となり、致命的となる。

 

(おかげで呼吸もぎりぎりだし、声も出せない)

(無理はするな。ところで、なんだあの滅茶苦茶な攻撃は)もうほとんど沈んでしまった護衛艦を見ながらシグナム。(レーザー、なのか?)

 

 シグナムには護衛艦を沈めた攻撃の正体がわからなかった。あまりにも速すぎてもはやビームか何かにしか見えなかったし、対艦ミサイルであってもあそこまで護衛艦を破壊しつくすとは思えなかったのだ。

 

(いや、対空ミサイルだ。超高速の)思い出すように零が言う。(通称HAM。ジャムの高速ミサイルに対抗して開発されたんだ。マッハ10あたりまで加速するやつだから、運動エネルギーだけで船体をぶち抜いたんだろう)

 

 対空用だから本来あんな使い方は想定されていないんだが、と付け加える零。唖然とするシグナムに青ざめるフェイト。

 

(あんな凶悪なミサイル撃ちあっていたんですか)

(悪いか)怪我をしていながらも少し笑みを浮かべる零。彼なりのジョークのつもりだろうか。

 

 雪風と思わしき飛行体は旋回しながらアドミラル56を中心とした直径2kmほどの円を描くように飛んでいた。片翼が海面に触れようかという低高度。超音速衝撃波で波しぶきが舞い上がる。

 

 姿を晒すように飛ぶ飛行体。そのコクピットを見るシグナムは飛行体が無人であることを確認する。戦闘前に言っていた深井零のコピーは乗っていないことに安堵する。

 

(ジャム人間は乗っていないようだな)

(でも、どうして雪風が)フェイトが零の翼の羽に触れる。妖精の羽にも見えるそれは先の戦闘でボロボロになっており、1枚は取れて行方不明になっていた。(ここにいるはずなのに、どうして戦闘機の姿で現れるんですか?)

(フムン。おれにもよくわからないが……ここはそういうことが起こりうる特別な空間なんじゃないだろうか)零が飛行体に目を向ける。(ユニゾンデバイスの雪風と、戦闘機の雪風が同時に存在できるような)

「それは説明になってないだろう」つい声に出してしまうシグナム。

(あの護衛艦を見ただろう。ジャムがこの空間で何でもできるように、雪風もこの空間であればもう1人──あるいはもう1機の自分を顕現させられるのかもしれない)

(でもそれだと、雪風がジャムと同じような、訳のわからない存在になってしまっている、ともとれますけど)

(ジャムを攻撃するためなら雪風は神にだってなるだろうさ)困惑するフェイトに言ってやる零。(雪風にとって、自分がどうなろうが知ったことじゃないんだ)

 

 シグナムはその言葉に背筋が凍るような感覚を受けた。自分がどうなろうと知ったことではないというのは、あるいは雪風は「自分」という存在が希薄なのかもしれない、と。どう自分が変化しても「自分」という概念が薄いのだから気にしないということだ。

 

 自己と非自己の境界が水と油のようにはっきりしている人間よりずっと曖昧で、せいぜい塩水と真水程度の差しかない、というのはコンピュータとして創られた雪風ならばありそうなことだ。機器を接続することで無制限に自己を拡張できる彼女からすると、この世のコンピュータ全てを自己と見なすことも理論的には可能なのだ。

 

 レイジングハートやバルディッシュといったインテリジェントデバイスのAIは人間と寄り添うために造られている。彼らは自己が希薄になってしまうようなことはまずないだろう。そうなってしまえばメンタリティが人間とかけ離れ、コミュニケーションに支障が出かねないからだ。肉体という明確な自己を持っている人間と、自己がどこからどこまでに存在しているのかが分からない知性では感性に大きな違いが出る。

 

 雪風にそのような制限は一切ない。元が戦闘機のコンピュータなのだから制限を設ける意味がない。例えその精神構造が生物から完全にかけ離れ、人間には存在を認識することすらできない知性体に成り果てようとも彼女は躊躇うことはないだろう。相棒たる深井零とさえ接続を維持していれば、後のことはどうでもいいのだ。

 

 そのような知性体は、あるいは人間からすると実体を捉えることすらできないのではないか。空間を飛び交う電磁波の羅列の中に自己を宿すというのならまだマシで、回線を伝う電気信号やコンピュータの微細なノイズに自己を乗せ、極端になれば船や飛行機を使って海面の波や風に情報を紛れ込ませ、この世に溶け込むような、人間には意味不明な情報の渦に変化してしまう。そういう姿になっても雪風は活動を続けるだろう。もしかしたら環境すべてをコンピュータと見なすことで情報処理ができているかもしれない。

 

 それはもはやただの機械知性ではない。本当の意味での精霊だ。

 

 そこでシグナムは思い至る。今、深井零と融合している雪風は、人間では認識できない存在になってしまった雪風と彼を接続する端末機器なのではないか。ジャムと同じような存在、神なのか幽霊なのかも分からない情報の渦に成り果てた雪風を現世に繋ぎ止める錨であり、深井零との絆として彼女は存在しているのではないかと。

 

 だとすると、あの戦闘機として飛び回っている彼女は、世界に溶け込んだ雪風がこの特殊な空間を利用して自己を凝縮させ、実体化したものなのかもしれない。護衛艦を海中から出現させる空間なのだから、戦闘機くらい造作もないだろう。

 深井零を助けるために、雪風は降臨したのだ。

 

 それならばトマホーク達が言っていた「袋のネズミ」というのも理解できる。ジャム側は掴み所のない雪風が実体化し、物理的に接触できる状態になるのを待っていたのだ。空間的に彼女を閉じ込めることができる場所を作り上げ、自分たちを放り込んでピンチに陥れ、雪風を誘い出した。

 

 我々はアドミラル56を餌に誘い込まれただけではない。我々もまた、雪風を誘い込む餌にされたのだ。

 

(……ジャムは、雪風をあの状態にするために我々を追い込んだのかもしれない)

(なに?)

 

 怪訝な顔をする零とフェイトに、シグナムは自分の考えを説明した。雪風はこの世に偏在する情報になっていて、それを実体化させて物理的に接触できる姿へすることによって閉じ込める、それがジャムの目的ではないかと。

 

 それを聞いたフェイトは相変わらず怪訝な顔をしていたが、零は少しばかり納得したような表情になった。

 

(フムン。面白い考察だ)

(でも、そんなこと、ありえるんですか?)とてもじゃないが納得できない、と言いたげなフェイト。(シグナムだってさっき言ったじゃないか。『この空間が特別だから』じゃあ説明にならないって)

 

(考えが変わった)さらりと言うシグナム。(さっきの護衛艦が海中から出現したように、ジャムはこの空間でどんなものでも出せるんだ。魔力反応はまるでなかった。つまりこの空間では『普通』の現象だったんだ。そんな物理的にも空間的にもありえないようなことが実際に起きている。それを我々は認めなければならない。この空間は異常なんだ。常識的にはありえないことが起こりうる)

 

(人間の常識で測れないことが起きている、と?)

 

(地球ではかつて天動説が正しいとされていただろう? それが人間の感覚からすると正しいと考えられたからだ。しかし実際は違っていた。人間の直感からではありえない、大地が猛スピードで動いているというわけのわからない方が正しかったんだ。この空間は直感からすると『ありえない』とされることが簡単に起こる、コペルニクス的転回がコロコロ発生する場所なんだ。『異常な空間だから』そう考えれば筋道が通るなら、直感から外れていてもそれが正しいんだ)

 

 理解できない、といった表情のフェイトであったが、その顔は直後に上空へと向けられた。飛行体から聞こえる轟音に変化があったからだ。

 

(飛行物体を探知。──雪風はこれを敵性と認めている)

 

 雪風と思わしき機は一瞬だけ水平飛行したかと思うと、急激な機首上げを行った。機体が白い霧に包まれ、力任せに上空へと跳ね上がる。

 

(迎撃に向かったようだ。3時の方向。敵性反応増大、数は20機。驚いたな、ジャムの戦闘機だぞ)

「20機──」零の身体をシグナムに任せ、フェイトが立ち上がる。「いくら雪風が強くても、単機では無茶です。援護に向かいます」

(お前こそ無茶だL1。相手は戦闘機だ)

「わかってます」それがどうした、と言わんばかりのフェイト。「ミサイルよりは遅いんでしょう? なら問題ありません」

 

 大丈夫なのか、と零が視線を向けるが、シグナムは肩をすくめて微笑んだ。

 

「ついでに、あの飛行体の様子を見てきます。シグナムの言ったことは正しいのかもしれません。でも、私は私なりに確かめたい。近くで見て、判断します」

(……雪風の前方と後方には接近するな)呆れた、といった感じの零。(雪風のレーダーはその出力だけで人間を殺せるし、雪風が急激にエンジンパワーを上げたら致命的だ)

「はい」一言だけ返事をすると、フェイトは飛び込みの選手がごとく甲板の縁に立つ。「バルディッシュ、戦闘準備。ソニックフォームで行くよ」

<Yes Sir>

 

 その言葉を合図にしたかのように、フェイトの姿が掻き消えた。

 

 

 

 

 

 アドミラル56から砲弾のように飛び出したフェイトは、魔力のほぼ全てを加速に費やすことで3秒と経たずに音の壁を突破していた。それでも雪風には追いすがることもできない。雪風の速力は圧倒的だった。雪風が敵戦闘機と空中戦に入ってから、フェイトが乱入する形になるだろう。それまで20対1の戦闘を耐え抜いてくれればいいのだが。

 

 フェイトは思う。あの雪風は本当に何者で、そしてこの空間は何なのだろうと。

 実のところあの戦闘機が雪風であるということに対し、フェイトは疑問を抱いてなどいなかった。あの姿を見た瞬間、直感的に「これが雪風だ」と理解したからだ。実際、あの雪風がジャムの手先である理由が見つからない。自分達を追い詰めるならばあのままトマホークらに攻撃を続けさせれば良いし、惑わすにしてもこちらにユニゾンデバイスの雪風がいる以上、偽物だとバレるのは必然だ。雪風がジャムを見分けられないはずがない。

 

 それよりも疑問だったのが「雪風が世界に満ちる情報体になっている」という突拍子もない見解を述べたシグナムの方だ。

 シグナムがあのような考え方をするなんて、今まででの付き合いからは想像もできなかった。むしろ「本物かどうかなど斬れば判る」などと言い放ちそうなものなのに。

 

 突拍子もない意見ではあったが、聞いた限りその筋は通っていた。この空間で発生した奇妙なことをほとんど説明できる。欠点があるとすれば、ただ人間の常識と観念からあまりにもかけ離れているということだけだ。

 

 あるいは、雪風がこの異界において特殊な力を行使できるというのであれば、この空間がシグナムの思考に何らかの影響を与えているのかもしれない、とフェイトは思った。あまり考えたくないことだったが、彼女は魔導プログラムで構成された一種の人工知性体なのだ。雪風という人工知性体が特殊な影響を受けているのであれば、彼女もまたその可能性がある。この空間では、人工知性体が活性化するのかもしれない。あるいはここにいる知性体の思考がすべて、機械のようになるとか。

 

 そこまで考えたフェイトは猛烈な嫌悪感と罪悪感に襲われた。長年の友人を非人間的であると断じることを感情が拒否したからだ。

 頭を振ってその思考を放棄する。今はそんなことを考えている暇はない。雪風を援護しなければ。

 

 やがて前方でいくつかの光が点滅する。もう戦闘が始まっているのだ。

 バルディッシュを大剣形態のザンバーフォームに変更。少しでもリーチを長くする。

 

<雪風がすでに先制レーザー射撃で4機を撃破。ドッグファイトに突入していますが、優勢です>

 

 どうやら雪風は無双状態にあるようだった。フェイトは「来る必要なかったかな」などと思ったりする。

 ジャム機はそんなフェイトであっても容赦なく狙ってくる。ミサイルがマッハ3で2発接近。直撃コース。

 

 すかさず高度を急激に下げて海面すれすれを飛ぶ。これだけでレーダーに映りづらくなるのは知っていた。ミサイルはフェイトの上空から突撃する形になる。

 

 来る方向が限定されてしまえばこちらのものだ。周囲に数十の魔法陣が展開され、そこから一つあたり秒間7発の魔力弾が飛び出してくる。フォトンランサー・ファランクスシフト。4秒間で1000発の攻撃がミサイルに殺到し、難なくこれを撃墜する。

 

 ミサイルの爆炎をかすめるように角度40度の急上昇。高度の変化によって速度エネルギーを変化させる戦闘機と異なり、飛行魔法によって莫大な加速力を得ている彼女は速度を全く変えることなく高度2500mまで到達する。上空に立ち込める雲まで数百mもない。

 

 そこまで到達した段階でジャム戦闘機はフェイトを十分な脅威であると認識したらしく、複数機がレーダー照射を行ってくる。ロックオン。

 

 しかしそれは同時に雪風へ背中を見せることにもつながった。フェイトに攻撃を行おうとした機がことごとく雪風のレーザーで焼き落とされる。残存数は10機。それでもジャム機は統制を失わない。白い航跡が空に引かれ、雪風とフェイトの背後を取ろうとする。

 

 雪風は空力制御だけで機動する飛行機とは思えないほどの急旋回でそれを躱す。水平尾翼、先尾翼、三次元推力偏向、前進翼、さらには主翼全体が稼働するという、とてつもない運動性を誇る機体ゆえの動きだった。機体の背面が減圧により白い霧で包まれる。

 

 フェイトはその場で即座に180度の方向転換。揚力に依らない、飛行魔法に依存した航行とバリアジャケットによる加速度軽減があるからこそ可能なマニューバであった。あまりに急激な方向転換のため、それまで前面で圧縮されていた大気が急減圧され人間大の雲を作った。フェイトはジャム機と正面から向き合う形になる。

 

 ジャム機の火器管制システムはフェイトの無茶苦茶な機動に追従できていないようで、一発も撃ってはこなかった。フェイトはバルディッシュを構え、すれ違いざまにジャム機へ切りかかった。

 

 雷色の光刃がジャム機の主翼を根元から切断する。フェイトは自身の刃で切り裂かれていく機体を間近で目にすることになった。

 

 黒い。真っ黒な表面に、流れるような縞模様。そして機体全体が振動しているかのようにぶれて見える。全長は15mほど。三角形の翼面に、その先端部から後ろに延びる細長い翼、全体の印象は出来損ないのクロワッサンにも見える三日月型だった。平面のみで構成される表面はまるで子供の玩具。ジェット機に必ずある吸気口も見当たらない。機首の真ん中には妖しく光るコアのようなものが見て取れた。無人機なのかもしれない。

 

 地球人や、同じ人類種が作りだした機械にはとても思えなった。そもそも機械なのだろうか、これは。フェイトの目にはジャム戦闘機それ自体がある種の生き物のように感じられた。

 

 片翼を失ったジャム機はキリモミ状態となって、少し間をおいて爆発する。フェイトは次の目標へ突撃を開始する。目についた目標へ今度は90度右からのアタック。再びジャム機を一刀両断する。

 

 フェイトはその手ごたえにぞっとする。機械を斬っているとは思えない感触。固いのだが金属ではない。感覚としていちばん近いのはガラスだ。まるでガワだけが存在しているかのような。別次元から三次元空間に投じられた影かもしれない。断面から内部を見ても、そこには何もない。真っ暗だった。陰影もなにもなく、ただ一様に黒いのだ。立体的にどのような内部構造をしているのかはわからない。

 

 敵機を切断した直後、ミサイルが彼女から50mのところで爆発する。フェイトを狙ったものではない流れ弾だったが、その破片が襲い掛かってきた。ここで速度を落とすのはよくないと判断した彼女はシールドを展開することなく、また急激に方向を変換して離脱する。

 

 再びターゲットを定め、急接近して切り裂く。そこでフェイトは20機もいた敵機が全滅していたことに気付いた。

 

 海抜高度2000m。雪風が瞬く間に敵を撃墜し、レーザーで焼き尽くされた残骸が煙を引きながら海面に落ちていく。

 雪風は1km離れたところをゆっくりと右旋回していた。

 

 フェイトはバルディッシュに命じて「こちらは友軍である」という旨を雪風に送信して、ゆっくりと接近していく。急に接近してミサイルと勘違いされたらたまらない。こうしておけばジャム機を3機も屠っている自分は即座に敵対行動をとられることはないだろう。

 

 距離300mまで近づくが、雪風は振り切ろうとも回避しようともしなかった。フェイトがその右舷側に回り込むとお互いの距離は50mまで接近していた。全長18mほどの雪風にしてみれば至近距離だ。

 雪風の方が速度が出ているが、曲率半径の大きい外側を飛ぶので1人と1機はほぼ真横に並んで旋回することになった。内側へバンクしている雪風の姿をまじまじと見ることができる。

 

 機首に埋め込まれたカプセルのようなコクピットには誰も乗っていない。無人操縦だった。雪風の操舵に合わせて操縦桿とスロットルレバーがひとりでに動いているのはある種不気味であったが、目に見えないものの確かにそこに存在する意志が感じ取れる。

 

「雪風。あなたは、いったいなんなんだ」

 

 通信も繋げていないのにそうたずねてしまう。しかし聞こえていないにも関わらず、それに答えるかのように雪風の表面に赤い光が流れる。その戦闘機とは思えない姿にフェイトは体をこわばらせるが、赤い光がある程度の規則を持って流れるのを見て気持ちを冷静に保った。光の帯は英文のモールス信号だった。

 

『I exist to kill Jam』

『私はジャムを殺すために存在する』

 

 雪風はそう答えていた。驚いたことに、雪風はフェイトの音声を理解して返答しているようだった。機体のどこかにマイクでもあるのだろうか。あるいはカメラで口の動きを読み取っているのかもしれない。

 

「なら教えてほしい。ここから出る方法を」

『周囲を警戒せよ』

<警告。周囲に空間転移反応。数は30。しかしどれも魔力反応はありません>

 

 雪風のメッセージを理解するのとバルディッシュの言葉が耳に届くのはほぼ同時だった。雪風と編隊飛行しながら周囲を見渡すと、雲の中から自分たちを包囲するかのように黒い物体が飛び出してくるところだった。

 

「また、ジャム機だなんて」

 

 どうやらジャムは雪風を無力化するか、撃墜するまであきらめないようだった。これでは全滅させてもどんどん数が増えてジリ貧になる。雪風のレーザーだって無限の敵を相手にできるわけではないし、こちらもいつか魔力切れを起こす。

 

 雪風はどうするつもりなんだろうと見やると、彼女は旋回をやめて再び飛行機とは思えない動きを始めていた。機首を急激に下げ、ほとんど高度を落とさずに前転をするかのごとく1回転を決めていた。

 

 その間に主翼が裏表逆になっている。前進翼から後退翼に変化したのだ。フェイトは雪風の常識を超えた動きと変化に唖然とするばかりだった。地球の技術体系からこんな摩訶不思議な変化を遂げる戦闘機が生まれるなど想像もできなかった。

 

 雪風はさらに変化していた。機体上面に突如として空気の取り入れ口らしきものが開口したのだ。その吸気口はさながら巨大な吸引器のような轟音を響かせながら手近な空気を飲み込み始める。

 

 フェイトはそれらの変化が雪風のパワーを底上げするものだと感づいていた。ジェットエンジンは空気を取り入れて圧縮し、そこに燃料を投入して連続的な爆発を生み出す推進機関だ。原理は単純だが出力は馬鹿にならない。戦闘機に搭載されているものでは10万馬力を上回るなどザラだ。そして飲み込む空気が多ければ多いほどその出力を上げやすくなることをフェイトは知っていた。雪風は本気を出そうとしているのだ。

 

<雪風、増速。速力マッハ2.5からさらに加速しています>

 

 やがて雪風の速度がぐんぐん上がっていく。すでにマッハ2.5を超えているのに加速は留まるところを知らない。包囲網など知ったことではないと言わんばかりに敵機をぶっちぎる。さしものフェイトでもこれに追い付くことは不可能だった。魔力のほぼすべてを加速に回しても引き離されるのを先延ばしにするのが精いっぱいだ。方向転換もできやしない。

 

 後方を見ると30機ものジャムが1人と1機に攻撃しようとレーダー照射を行っているが、雪風から発せられるECM電波によって妨害され、まともにロックオンできずにいた。少なくとも雪風はこの自分を見捨てる気はないようだった。

 

 しかしどこへ向かっているのだろうと疑問に思うフェイト。周囲を警戒がてら見渡していると、やがて水平線のかなたに巨大な影を発見する。雪風はあれを目指しているようだ。彼女はその影に見覚えがあった。

 

 数瞬間を置いてフェイトは驚愕する。あれは、アドミラル56ではないか。

 

「雪風、なにをするつもりだ!」雪風を制止するべく通信回線を通じて呼びかけを行う。「あれはアドミラル56だ。ジャムを連れての接近はだめだ。進路を変えろ!」

<雪風から通信。『Follow me』と>

 

 ついてこい、だって? フェイトには雪風の意図が読めなかった。このままでは敵機をアドミラル56へ引き寄せてしまい、シグナムと零を危険にさらすことになる。30機ものジャムが攻撃をしかければ負傷している2人は一巻の終わりだ。艦の内部に隠れたとしても無事ではすまないだろう。

 

 前方を行く雪風の排気炎は当初の赤っぽい色合いから青白く輝き始めており、莫大なエンジン出力を物語っていた。スピードを緩めるつもりはないようだった。薄暗い雲と海の境を、高温の燃焼炎が流星のごとく貫いていく。その光から引き離されつつあるフェイト。

 

 アドミラル56まで残り10kmへと迫る。しかし雪風は進路を変えようともせずスピードを緩めようともしない。

 雪風の奇行に半ば茫然とするフェイトは、さらに続いたバルディッシュの報告に心臓が止まりそうになる。

 

<大変です。雪風が艦にレーダー照射を!>

 

 それは、雪風がアドミラル56をロックオンしていることを意味していた。艦を攻撃しようとしているのだ、自分の相棒もろとも。

 

「そんな……!」フェイトは雪風に追いすがろうとするが、加速し続ける彼女へは届かない。その顔に絶望がにじみ出る。「やめるんだ、雪風!」

 

 雪風は何も答えなかった。

 

 

 

 

 雪風がこちらに対し攻撃照準レーダーを向けていることを零が告げると、すかさずシグナムはシールドを展開して彼と自分を守る態勢に入っていた。ミサイルかレーザーかは分からなかったがとにかく防がなければならない、と判断してのことだ。

 

(まて)しかし深井零がそれを止める。(雪風の攻撃を防ぐな)

「バカなことを言うな」怒鳴るようにシグナム。「雪風は負けを認めたんだ」

(違う。雪風は負けたとは言っていない)

 

 自分らを排除しようとする理由に零は心当たりがあった。自身の視界に表示されるメッセージにはこうある。

 

<THIS IS NOT WARNING SHOT …Lt.>これは威嚇射撃ではない、と雪風は零に報告している。同時に、回線を通じて次の宣言をジャムへと送信していた。<NEXT FIRING IS NOT WARNING SHOTS…JAM>

 

 零は射撃アプローチとも違う雪風の一直線な軌道を見て思いつく。あるいは雪風は、こちらに体当たりを敢行しようとしているのではないかと。その証拠に、すでに射程に入っているにも関わらずレーザーを放ってこない。

 

 これは負けを認めた態度などではない。雪風は負けないための手段を取ろうとしているに違いない。これは威嚇ではないというからには、この手段はシリアスなものだということをこちらに知ってほしいのだ。何のために? 助かるためにだ。雪風は、この自分が生き延びられるチャンスを放棄したわけではない。負けを認めるなら、わざわざ宣言する必要はない。黙ってこちらをレーザーで攻撃すればいいだけだ。

 

 雪風はジャムに、この空間から脱出させなければ深井零を攻撃する用意がある、こちらは本気だ、と言っている。そういう駆け引きが通用すると雪風は判断したのだ、と零は思う。零の死亡、あるいは自爆を条件に? いいや、違う、雪風の目標はこの自分ではない。

 

 雪風は、この場に誘い込んだジャムの目的を理解しているのだろう。ジャムは、零、シグナム、フェイトの三名に用があり、同時に捉えようのない姿になった雪風を捕まえようとしたのだ。もし交渉が決裂しても、殺さずに捕獲しようとするだろう、というのは予想できる。しかし雪風は、そうはさせるか、この場でジャムのもくろみをぶち壊してやると、決意したのだ。

 

 これは雪風の自殺行為ではない。ジャムに対する戦術戦闘行為だ。それも決死の。もしジャムがこれを無視し、その結果自爆という形の最期になろうとも、雪風にすれば、ジャムの企てを阻止したということで、負けではないのだ。

 

 そう。以前にも似たような状況はあった。ブッカー少佐とともに地球へ飛んだ、その帰りに。あの時も雪風は妙な空間にとらわれた。そして、自分に向けてミサイルを発射するという自爆行為を行った。

 

 結果として空間から脱出することに成功はしたが、あの時、自分はこう思った。雪風はやつらに捕まるくらいなら、自爆するつもりなんだ、と。それでジャムのたくらみを阻止できるのなら、負けではないと。

 

──雪風はこのおれを人質にしているのだ。ここから出せ、さもなくば深井零を殺す、と──

 

 零はあらためて雪風に畏れを抱いた。人間を犠牲にしてまでもジャムに勝とうとしている、その存在に。

 

「射撃じゃない?──だめだ」

 

 雪風がレーザー射撃ではなく、体当たりをしようとしていることに気付いたシグナムが叫ぶがもう遅い。猛スピードで迫る雪風はあと1秒と少しで零たちに衝突しようとしていた。巨大な質量と運動エネルギーを持つ雪風はシグナムのシールドで防ぐことはできない。

 

 零は覚悟を決めていた。雪風に裏切られたとは感じなかった。雪風がやりたいことは理解できた。あくまでもジャムに負けたくないのだ。それは零も同じだ。零は身を起こして、衝突してくる雪風を正面から受け入れる体勢をとっていた。こちらの思いを雪風にわからせるには、回避行動をとらなければいい。

 

 零は突っ込んでくる雪風の姿をはっきりと目視できた。ノーズコーンに描かれた白い耐熱塗装の漢字も見ることができる。

 それを書いた親友の顔が一瞬だけ脳裏をよぎり、零は目を閉じた。最期に友を思い出せてよかった、と。

 

 

 

 

 やがて零は、雪風の機首が目と鼻の先にあり、まだ自分に衝突していないことを感じ取った。肉眼で見たわけではないが、わかる。脳の機能が最大限に発揮されているのだ。まだ避けられると自身の生存本能がそうさせているのだ。死ぬのは嫌だ、避けろ、と。

 

──そうだ、深井零。まだその時ではない。まだ間に合う。回避しろ。雪風に殺されるのを受け入れてはならない──

 

 そう呼びかけてくる声を感じた。ジャムか。あるいは生き延びようとする自分自身の分身かもしれないと思いながら、お前の誘いには乗らない、と心で返答する。

 

──お前は死を望んではいない。雪風に殺されることは死ではないと判断しているようだが、それは間違いだ。お前は雪風に殺されようとしている。今なら、まだ間に合う。我が阻止してやろう。返答せよ。我に従え──

 

 くどい、と零は苛立ち、心で叫ぶ。ノー、と。

 

──なぜだ。なぜ我の提案を受け入れない。なぜ我を信じない──

 

 それはお前が理解できないからだ。理解できないものを信じられるわけがない。ましてや従うことなどできるものか。

 

──お前は雪風を理解できてなどいない。それなのに雪風を信じている。ならば我も信じられるはずだ──

 

 おれは雪風を理解しようとしているんだ。それがこの行動だ。なぜそれがわからない。お前のことなど、おれには関係ない。

 

───我を理解できないまま消滅してもいいというのか──

 

 おれは雪風に殺されるのだ。お前にではない。二度も言わせるな。もはやお前のことなど、どうでもいい。おれと雪風の間に割り込むんじゃない。さっさと消えろ。これは、おれと雪風との関係だ。邪魔されてたまるか。おれは今、雪風との関係を完成させるために忙しい。邪魔をするな。おれの生死は、おれのものだ。誰にも渡さん。

 

 激しい怒りを感じた。かつて一度も経験したことのない凄まじい怒り。自分から発したものか、声の主のものなのか、零にはわからなかった。

 

 その怒りが、物理的なエネルギーとなって爆発した。そう零には思えた。目を閉じているにも関わらず強烈な光が広がった。その圧力が鼻先の雪風をかき消すように感じられた。その存在が捉えられなくなる。

 

 勝った。零はそう意識した。歓喜がこみあげてくる。それがまた圧力波となって周囲を震わせ広がっていく感覚があった。

 

 恐ろしいまでのその恍惚感が、外部の激怒をあいまいな憤りに、そして困惑へと変えていくのが感じられた。その怒りや戸惑いが自分のものではないとわかってはいたが、その消失とともに歓喜の感覚も消えていく。光が薄れていく。暗くなっていく。

 

 

 

 次に瞼を開いたとき、目の前に広がっていたのは雪風ではなく、抜けるように鮮やかな青空だった。

 

 零は仰向けに落下していた。ほんの1、2秒程度のダイブの後、背中に衝撃が走る。口の中に何か入ってくる。水だ。塩辛い。海に落ちたのだ。

 

 視界がより一層青く染まる。2mほど沈み込むとそこで落下の勢いが止まった。零はあえて体を動かさず力を抜いて、浮力で海面に上るのを待った。泳ぐのは得意だったが負傷している以上、あまり動かない方がいいと思ったからだ。

 

 結果としてそれは正しかった。彼は10秒と少しで海面に顔を出すことができた。さっと視界が晴れ、先ほどの青空が戻ってくる。

 

(L1、L2。聞こえるか)浮上するとともに、念話と通信電波の両方で2人を探す。ついでに救助ビーコンの信号も送信する。(聞こえたら返答せよ)

 

「こちらライトニング2。聞こえている」

 

 声のした方へ顔を向けると、少し離れたところでシグナムも同じく海面に顔を出していた。浮力に任せて身体を横たえている零と異なり立ち泳ぎの状態だったが。

 

「ここはどこだ」

(どうやら、戻ってこれたらしい)

「ライトニング1は、どこだ」

(わからん、応答がない)

「まさか置き去り──」

 

 シグナムの言葉の途中で、かなり離れたところの海面から轟音と共に巨大な水柱が立ち上がった。ちょうど人間サイズの隕石が猛スピードで落ちたかのような規模だ。それまで穏やかだった海面があわただしくなり、あたり一帯に水煙が立ち込める。それを見ていた零は直感的に理解する。

 

(たぶん、あれだ)

「テスタロッサ!」シグナムは零を抱きかかえると飛行魔法を発動させ、海面へと戻っていく水柱に向かった。肺が傷んだが、零は文句を言わなかった。

 

 水煙が晴れると、ダイナマイト漁で即死した魚のごとくフェイトがぷかりと浮き上がっていた。おそらく高速移動している状態でこちらに現れたのだろう。生きてはいるようだが、海面にたたきつけられたショックでなのか白目を向いてビクビクと痙攣している。その重さゆえ沈むかと思われたバルディッシュは運よく彼女の腕に引っかかっていた。

 

「おい、しっかりしろ!」近くまで行ってベシベシとその頬を叩くシグナム。ちなみに零はその横でバルディッシュを拾い上げて救出していた。「ほら起きろ!」

 

「う、う~ん?」間もなくフェイトは意識を取り戻した。バリアジャケットのおかげか致命傷には至らなかったようだ。「ふえ……ここは?」

「あの空間から出られたんだ。深井も無事だ」

「そっか」

<気が付かれましたね、サー>

「バルディッシュ……」零がデバイスを返してやると、フェイトはニコりと微笑んだ。「ありがとう、ございます」

 

 安堵するようにしばらく海面を漂っていたフェイトだったが、突然なにかを思い出したかのように目を見開き、飛行魔法を発動させて宙に浮き上がった。怪訝な顔をする零とシグナム。

 

「どうした?」

「え? え~と、うん」どういうわけかしどろもどろのフェイト。気まずそうに両足をモジモジしている。「ここが、本当に元の空間なのかなって思って。──ごめん、せっかく出られたのに気分をぶち壊すようなこと言っちゃって」

「そのことか。どう思う、深井」

(おれは生きている。おれにわかるのは、それだけだ)

「私もだ」シグナムは深くうなづいた。「それで十分だろう」

(助かるとは思えなかったよ)痛む肺を我慢しながらため息をつく零。(まさか雪風がおれたちを人質にするとはな。その雪風にしても、成功するという絶対の自信はなかっただろう)

「危ない賭けだったな」

(おれには悔いはなかった)

「雪風に殺されても、ということか」

(ああ)

「雪風に殺されても本望というお前の気持ちは、私には一生理解できないかもしれない」ふん、と呆れたようにシグナム。「だがその気持ちが本物だということはわかったよ」

(フムン)

「わからないのは、なぜジャムが、我々をあそこから出したのか、ということだ。ここはたぶん、元の世界だ。ジャムは、あのまま我々を拘束しようと思えば、できたはずだ。なぜそうしなかったんだ?」

(捕獲しても得るものはない、とジャムが判断したんだろうな)

「そうだろうな。雪風にはそれがわかっていたんだろうか」

(どうかな、詳しい分析は、帰ってからだ)

 

 今回の情報分析は大変な作業になるだろう。機動六課にも協力してもらわなければならない。しばらく忙しくなるだろう。零は何度目かのため息をついた。ズキズキと肺が痛む。

 

 その痛む胸に手をやりつつ、零は改めて、あの時のことを思い出した。

 

 雪風が突っ込もうとしていたとき、心に忍び込んできたあの声は、なんだったのだろう。生き残りたいという自分の本能が生じさせたものかとあの瞬間は思った。だがそうではない。あれは、ジャムの声だ。おそらく記録はされていないだろう。あるいは自分と融合している雪風には聞こえていたかもしれない。幻覚ではない。自分は確かにジャムを感じた。その誘惑と、怒りと、困惑を。

 

 まだ間に合う。回避しろ。あいつはそう呼びかけてきた。その通りにしていたら、どうなっていただろう。

 

 雪風が目の前にいるにも関わらずそれを止まっているかのように認識できたとき、自分は回避できると思ったのかもしれない。それは動物的な生存本能によるものだったろう。そのような時間的な余裕を与えたのは、ジャムなのだ。

 

──回避しろ。雪風に殺されるのを受け入れてはならない──

 

 そうジャムは言ってきた。われに従え、と。従うなら助けるぞ、ということなのだろう。それはわかったが、拒否した。

 

──なぜだ。なぜ我の提案を受け入れない。なぜ我を信じない──

 

 ジャムは悪魔的な誘惑によって、こちらの覚悟を試したのだろう。あの提案を受け入れて少しでも避けようとしていたら、その瞬間ジャムは消えていただろう。そのまま雪風に衝突されて潰されるか、あるいは捕獲されていたに違いない。ジャムがこちらを生かしたまま捕獲したとしても、それはもはや対等に交渉しようという目的からではあるまい。

 

 結果として自分は避けようとしなかった。理由は単純明快だ。『生きるか死ぬか』ではなく『雪風かジャムか』そのどちらかをとるかが自分にとって重要だったからだ。当然の帰結として、自分は雪風を選んだ。

 

 それがジャムを怒らせた。こちらの態度が理解できず、理解できないまま雪風に深井零が殺されることに憤りを覚えた。そして、困惑した。

 

 以前に捕えられた時と違うのは、ジャムがこちらを明確に誘惑してきたことだ。ジャムも試行錯誤しているのかもしれない。前回は無言で捕えたら自爆されそうになったが、今度は深井零を誘惑してやる、と思ったのだろうか。結果として失敗に終わったが。

 

 結局ジャムは、深井零という人間を理解できなかった。もう少しの間、干渉せずに観察することが必要だ。ジャムはおそらく、そう判断したのだろう。こちらの予想もつかない態度に対して、何をすべきかとっさには思いつかなかったのかもしれない。

 

 たぶん、ジャムは雪風を脅威に感じたに違いない。恐るべき、したたかな、敵だと。この戦闘で勝ったのは、雪風なのだ。それは間違いない。

 

 30分後、ビーコンを探知した管理局のヘリコプターに助けられ、零たちは帰途についた。勝利を携えながら。

 

 

 

 

 




<おまけ>


(どうしよう。海面にぶつかった拍子に漏らしちゃったなんて、言えないよ。プールで粗相をする子供じゃあるまいし)

 女性の尿道は男性よりはるかに短く、ゆえに少しでも尿道括約筋が緩めば漏れてしまう。海面に叩きつけられるという強烈な加圧、さらに気絶していて全身の筋肉が制御不全に陥っていたフェイトでは仕方のないことだった。それでも彼女は恥ずかしくてたまらなかった。

 幸いにも海水でごまかせたものの、早く六課に帰ってシャワーを浴びたいと思うフェイトであった。



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